デジタル大辞泉 「紀ノ川」の意味・読み・例文・類語
き‐の‐かわ〔‐かは〕【紀ノ川】
有吉佐和子の長編小説。昭和34年(1959)発表。紀州和歌山を舞台に、3世代にわたる女性の生き方を描く。昭和41年(1966)、中村登監督により映画化。出演、司葉子、岩下志麻ほか。
奈良県
川名は紀伊国第一の川の意と思われ「万葉集」巻七に
とみえる。その後も歌に詠まれた。
空海が自ら記したという御手印縁起に高野山領の四至の北限として「日本河」「吉野川」とあり、同縁起の絵図にも「日本河亦為吉野川」の注記がみえる。「宇治関白高野山御参詣記」永承三年(一〇四八)一〇月一三日条には「木御川」、「為房卿記」永保元年(一〇八一)九月二六日条に「今朝浴紀伊御川解除」とある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
和歌山県北端の市。2005年11月打田(うちた),貴志川(きしがわ),粉河(こかわ),那賀(なが),桃山(ももやま)の5町が合体して成立した。人口6万5840(2010)。
紀の川市北西部の旧町。旧那賀郡所属。人口1万5194(2000)。北は大阪府に接する。紀ノ川中流域に位置し,町域の北部には和泉山脈,その南麓に複合扇状地が発達する。紀ノ川に沿って国道24号線,JR和歌山線が走る。古くから開けた穀倉地帯で,米作を中心にミカン,イチゴ,タマネギの栽培や養鶏が盛ん。下井阪駅北側に紀伊国分寺跡(史)がある。
紀の川市南西端の旧町。旧那賀郡所属。人口2万1079(2000)。西は和歌山市に接する。紀ノ川と支流貴志川の合流点の南西部に位置し,貴志川沿いの沖積低地と河岸段丘,丘陵地からなる。和歌山市と南海電鉄貴志川線(2006年,和歌山電鐵貴志川線となる)で結ばれ,近年は同市のベッドタウン化が進み,人口増加が著しい。農業を基幹産業とし,沖積低地での米作,野菜栽培,丘陵地での果樹栽培を中心に都市近郊農業が営まれる。御手洗(みたらい)淵は貴志川ラインと呼ばれる景勝地で,大池貴志川県立自然公園に指定されている。貴志川沿いの段丘には,丸山古墳をはじめ多くの遺跡が散在する。南東端を流れる貴志川支流の山田川には山田ダムがある。
紀の川市中東部の旧町。旧那賀郡所属。人口1万6918(2000)。北は大阪府に接する。紀ノ川中流域に位置し,北部は和泉山脈,南部は紀伊山地北端の山地,中央部は複合扇状地からなる。中心集落の粉河は奈良時代創建の粉河寺の門前町として発展し,中世には紀ノ川水運の中継港として栄え,市も開かれていた。大和街道と淡島街道の分岐点で,紀ノ川に沿って国道24号線,JR和歌山線が通る。和歌山平野は県下有数の農業地帯で,ミカン,ハッサクなどの果樹栽培が盛ん。かつて武器・仏具製造の鋳物工業の地場産業が存在したが,衰退した。文化財や史跡・名勝が多く,鞆淵(ともぶち)八幡神社の本殿,大日堂は重要文化財,沃懸地螺鈿(いかけじらでん)金銅装神輿は国宝,粉河寺の庭園は名勝,《粉河寺縁起》は国宝,王子神社の名付帳・黒箱一式は重要民俗資料に指定されている。
紀の川市北東端の旧町。旧那賀郡所属。人口8835(2000)。紀ノ川中流域に位置し,北は大阪府に接する。北部は和泉山脈,南部は紀伊山地北縁の山地で,中央部に紀ノ川が西流し,複合扇状地の和歌山平野が形成されている。紀ノ川北岸にある中心集落の名手市場は大和街道沿いに開けた宿場町,市場町で,旧名手本陣妹背家住宅(重要文化財)が残る。南岸の麻生津(おうづ)はかつて紀ノ川水運の舟着場であった。ミカン,富有ガキなどの栽培を中心とした農業が基幹産業で,南北の丘陵地帯は果樹園でおおわれている。1968年まで飯盛山の中腹には古河鉱業(現,古河機械金属)の飯盛銅山があった。西野山は江戸時代の医師華岡青洲の生誕地である。JR和歌山線が通る。
紀の川市南部の旧町。旧那賀郡所属。人口8041(2000)。西流する紀ノ川の南岸に位置し,西端を貴志川が北流して紀ノ川に注ぐ。町域の東から南は紀伊山地北縁の山地で,中央平地部を柘榴(ざくろ)川が流れる。平安後期,この地を中心に鳥羽院領荒川(安楽川)荘が設置された。同荘は鳥羽院の妃美福門院から高野山に寄進され,以後,江戸時代も一帯は高野山領であった。町内には美福門院にかかわる伝承地が多く,その墓と伝える五輪塔,その開基と伝える修禅尼寺などがある。農林業を中心とし果樹栽培が盛んであるが,なかでも桃は〈安楽川の桃〉として知られ,町名もこれに由来する。ミカン,ネーブルも栽培され,ジュース工場も立地。神田(こうだ)の三船山西麓に鎮座する三船神社は,かつての荒川荘の鎮守社で,本殿と摂社の丹生(にゆう)明神社,高野明神社の社殿は桃山時代の様式を残す国の重要文化財。
執筆者:上田 雅子
奈良県の大台ヶ原山に源を発し,奈良県の南部と和歌山県の北部を西流して,和歌山市で紀伊水道に注ぐ川。幹川流路延長136km,全流域面積1660km2。西南日本を地質的に外帯と内帯に分ける中央構造線に沿って廊下状の狭い谷を流れる。上流の奈良県内では吉野川と呼ばれ,和歌山県に入って橋本市より下流が紀ノ川と呼ばれる。水源にあたる大台ヶ原山(1695m)一帯は日本有数の多雨地帯で,樹林の生長がよく,吉野川流域は林業が発達している。紀ノ川河谷の北側は,中生代の和泉砂岩からなる和泉山脈が東西に延び,中央構造線がその南麓を走るため,急傾斜の断層崖が続き,山地からの支流の規模は小さい。これに対し河谷の南側は古生層の結晶片岩からなる山地が広がって,丹生(にゆう)川(奈良),丹生川(和歌山),貴志川など比較的大きな支流が流れる。奈良県五条市より下流の北岸には,標高200mより低い所に,最高位,高位,中位,低位の4段の河岸段丘が発達しているが,低位段丘面を除くと和泉山脈から流れる数多くの小さな支流に浸食されて複合扇状地を作るなど,不規則な地形を示している。紀ノ川の南岸では,段丘の幅が狭く発達が悪いが,紀の川市の旧粉河(こかわ)町より上流では高位と中位の段丘面の連続性がよく,下流では低位段丘の発達がよい。岩出市から下流にはくさび形にはんらん原が広がり,和歌山市街地では三角州の特色を示し,海岸部には数条の砂丘列が認められる。
紀ノ川河谷は和歌山平野と呼ばれ,平野に乏しい和歌山県内では全平野面積の1/2を占め,農業をはじめ工業,交通の面でも重要な地域である。交通では上流の吉野地方の杉材の積出しが,昭和10年代にトラックに代わるまでいかだ流しによって行われ,河口の和歌山市へ運ばれていた。トラック輸送に代わってから吉野材は五条から桜井へ出荷され始め,現在では和歌山市は外材の輸入港へと性格が変わった。一方,明治末に紀和鉄道(現,JR和歌山線)が川沿いに開通するまで,紀ノ川では川上船と呼ばれる30石船が,橋本~和歌山の間で物資の輸送を行ってきた。紀ノ川では明治までほとんど架橋されなかったため上流から橋本渡(橋本市),九度山渡(九度山町),麻生津(おうづ)渡(現紀の川市,旧那賀町),田井ノ瀬渡(和歌山市)などの渡場が発達し,その多くは上下船の船津を兼ねていた。鉄道が開通してから交通の流れは,下市(奈良県)より上流は近鉄吉野線,南大阪線によって,奈良,大阪へ,五条~橋本間は和歌山線および南海高野線によって奈良,大阪へと変化した。その結果,紀ノ川の上流と下流の交通の結びつきは減少したといえる。
水利用では,明治以前に宮井,四ヶ井,六ヶ井,藤崎井,荒見井(安良見井),小田井などの用水が,紀ノ川の下流から順次引かれ,はんらん原から低位段丘面の灌漑が行われてきたが,さらに高位の段丘面は,小河川,溜池の水に頼る乏水地域であった。第2次大戦後,紀ノ川・十津川総合開発の一環として,吉野川の上流に津風呂ダム(1962),大迫ダム(1973)を築いて貯水し,奈良盆地へ灌漑用水を送り始めた。また,十津川の上流に築いた猿谷ダム(1957)によって十津川の水を丹生川(奈良)へ引き,吉野川から紀ノ川の高位段丘面へと灌漑用水を送り始めている。農業では,下流は水田率が高く,中流は柿,ミカン,桃などの樹園率が70%と高い。工業では,橋本市の旧高野口町のシール織工業を除くと,河口の和歌山市に繊維,木材,皮革や鉄鋼,化学工業が集中している。流域の開発では将来,下流の海岸部に阪和高速道路を海南市から有田市方面へ延ばし,阪神工業地帯の南縁としての性格を高めようとしている。一方,上流の橋本市では,南海高野線によって大阪の通勤圏に入ってきたため,最高位段丘の宅地開発が進められている。このように上流と下流の開発が別個に行われ,流域全体のまとまりは薄れている。
執筆者:水田 義一
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和歌山県北部にある市。2005年(平成17)那賀(なが)郡の打田(うちた)、粉河(こかわ)、那賀、桃山(ももやま)、貴志川(きしがわ)の5町が合併、紀の川市として市制施行。北の和泉(いずみ)山脈と南の紀伊山地に挟まれ、中央部を東から西に紀の川が流れ、市の西部で貴志川が合流する。紀の川の北岸に沿ってJR和歌山線、国道24号が通じ、24号からは424号、480号が分岐する。古くから開けた地域で、古墳や条里遺構が残り、また名手市場(なていちば)などは大和(やまと)街道の宿場町として栄えた。果樹栽培を中心とした都市近郊農業が盛んで、ミカンなどの柑橘(かんきつ)類、カキ、モモ、キウイフルーツなどの生産が多い。また、工業団地もつくられ、住宅地が進み、和歌山市への通勤者が増えている。1993年(平成5)には近畿大学生物理工学部が開学した。粉河寺は奈良時代創建の古刹(こさつ)で、『紙本著色粉河寺縁起』は国宝、庭園は国指定名勝となっている。そのほか、鞆淵(ともぶち)八幡神社の沃懸地螺鈿金銅装神輿(いかけじらでんこんどうそうしんよ)が国宝、同神社の本殿、三船神社の本殿、旧名手本陣妹背(いもせ)家住宅などが国指定重要文化財、紀伊国分寺跡、旧名手宿本陣が国指定史跡となっている。また市内には龍門山(りゅうもんざん)県立自然公園があり、一部は金剛生駒紀泉国定公園に含まれる。面積228.21平方キロメートル、人口5万8816(2020)。
[編集部]
和歌山県北部、和泉(いずみ)山脈南麓(なんろく)の中央構造線に沿って、ほぼ直線状に西流して和歌山市で紀伊水道に入る川。紀伊国第一の川なので紀ノ川という。一級河川。上流は奈良県の大台ヶ原山(1695メートル)に発する吉野川で、和歌山県に入ってから紀ノ川とよぶが、河川法では全体を紀ノ川とする。延長136キロメートル(和歌山県内55キロメートル)、流域面積1750平方キロメートル。なお猿谷(さるたに)ダムによる十津川(とつかわ)上流の流域変更分を加えれば2113平方キロメートルとなる。流域の大部分は山地であるが、河口の和歌山平野は県内最大で、県内の流域人口は県人口の55%に及ぶ。上流吉野川は峡谷の様相を示すが、中流粉河(こかわ)までの北岸には洪積段丘が、下流には複合扇状地がみられ、河口三角州の発達は顕著ではないが、流路変遷を思わせる和歌川、土入(どにゅう)川、水軒(すいけん)川などの旧河道が浜堤の内側に残る。流量変化が著しく、大迫(おおさこ)、大滝(おおたき)のダムが上流につくられている。吉野材の流送、高野山(こうやさん)への貢米輸送、橋本塩市への三葛(みかづら)塩の運送など水運の歴史は古く、河口の男之水門(雄湊)(おのみなと)や鎌垣(かまがき)船の記録もあり、近世には川上船が往来して船戸、粉河、麻生津(おおづ)、九度山(くどやま)、橋本、五條(ごじょう)などの河港や城下町若山湊(みなと)が発展した。明治まで架橋が許されなかったため、高野、熊野、上方(かみがた)の各街道の渡津もにぎわった。水運は和歌山線の開通とともに衰え、河港は鉄道駅の在町に変わった。水運だけでなく農業用水の利用も多い。江戸初期の篤農大畑才蔵(『地方(じかた)の聞書(ききがき)』の著者)による藤崎(ふじさき)、小田(おだ)の井堰(いせき)築造など多くの井堰によって流域の開田が進んだ。現在では奈良盆地へも分水している。上水や工業用水の利用も広がっている。
[小池洋一]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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