アレクサンドリア(英語表記)Alexandria

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精選版 日本国語大辞典 「アレクサンドリア」の意味・読み・例文・類語

アレクサンドリア

(Alexandria)
[一] アレクサンドロスが自分の名を冠して各地に建設した都市。エジプト、エスカテ、イッソスなど数多くあった。ギリシア語名はアレクサンドレイア(Aleksandreia)。
[二] エジプト‐アラブ共和国北部の都市。地中海に面する貿易港。紀元前三三二年アレクサンドロスが建設。プトレマイオス朝の首都、のち、千余年にわたりエジプトの首都。中世には、東西交易、ヘレニズム文化の中心となった。

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改訂新版 世界大百科事典 「アレクサンドリア」の意味・わかりやすい解説

アレクサンドリア
Alexandria

エジプト北部,地中海にのぞむ港湾都市。同国のアレクサンドリア州の州都。アラビア語ではイスカンダリーヤal-Iskandarīya。人口365万3098(2003)。首都カイロに次ぐ同国第2の近代都市。北の地中海と南のマレオティス湖に挟まれるが,鉄道,道路,航空路はエジプト各地と結ばれている。またスエズ運河と地中海の接点であるポート・サイドと並ぶ大貿易港として注目されている。港は東港と西港に分かれており,その中間には古代の七不思議として有名なファロスの灯台跡やラース・アッティーン宮殿のある半島が地中海に突き出すような形をしている。東港は漁船や内航船が使用しており,地中海諸国を結んだり,遠くアメリカやアジアと結ぶ外国船は税関や出入国事務所のある西港を利用している。現在西港の対岸にコンテナー船専用の新港を建設中。アレクサンドリアはナイル河谷やデルタ地方の町々と異なり,ヨーロッパ風の町並みがエジプト人の間でも好まれ,夏季のリゾートとしてカイロを中心に各地から人が訪れる。また工業都市としての役割も重要で,製油所,自動車組立工場,機械部品製造工場,造船所,セメント工場等が周辺に建ち並んでエジプト経済を支えている。
執筆者:

アレクサンドロス大王がペルシア征討の途次エジプトに進駐した際,前331年初頭この地を卜して港市を造らせたのが嚆矢。それまではラコティと呼ぶ漁村にすぎなかった。彼は短時日でエジプトを去り,再び戻らず,実際にはこの町を知らないのであるが,死後遺骸がバビロンから運ばれてゆかりの当市に改葬された(前280ころ)。彼は遠征の途上各地--特にイラン東部,中央アジア,インダス川流域方面--に自分の名を冠するアレクサンドリア市を多数建設したが,ほとんど消滅し,エジプトのアレクサンドリアだけがその後の繁栄をほしいままにする。すなわちプトレマイオス朝の諸王はここを首都として国富を傾けて造営に努力し,学園ムセイオンアレクサンドリア図書館,大灯台等,他に類を見ない数々の建造物によって当市を古代世界の学術・文化・経済の中心たらしめた。アレクサンドリアが歴史上最も意義をもったのは,このヘレニズム時代である。

 古代の遺跡は,後述の2件を除き全然残っていない。当時の盛観は古典記述からうかがい知れるだけである。街区は当初のデイノクラテスの案により,東西に走る幅約28mのカノポス大路を挟んで整然と碁盤目に仕切られ,家並みの間隔規制すらあったという。市街地の広さは東西約8.4km,南北約1.2kmで,5区に区制されていた(2区はローマ時代の増設ともいう)。王宮,官衙,学園は西半のブルケイオン地区に集中し,東域にはユダヤ人が多く住みついて第4区をつくっていた。正面沖合のファロスPharos島を約1.3kmの大突堤(ヘプタスタディオン)でつないで両側に人工的海湾を得,東側に〈大港〉,西側にエウノストス港(その中に艦隊施設キボトス泊地もあった)をもつ複式港だが,2港の主・副は今日逆転している。ファロス島東端には石造り高さ約110mの大灯台(前279年ころ竣工,ソストラトスSōstratosの作)が聳立して古代の七不思議の一つに数えられたが,1326年に倒壊し,今は15世紀のカーイト・バイ城砦が立っている。フランス語では今でも灯台をファールphareという。頂楼の大炬火は凸面鏡で遠く投射された。埠頭には船渠,倉庫,取引所等が櫛比(しつぴ)し,その脇のカエサル廟の前面にはアウグストゥス帝がヘリオポリスから移設したオベリスクが2本立っていたが,19世紀にロンドンとニューヨークに転置された。今日に残る古代の景観は,往古のセラピス神殿(セラペイオン)隣の〈ポンペイウスの柱〉(実は後297年建立のディオクレティアヌス帝顕彰柱。高さ26.85m)1本しかない。なお発掘は,現在の街が重なっていてほとんど不可能なのだが,最近目抜きのコム・アルディッカ地区から劇場跡が発掘された。 古代の市民生活については,ハレ大学(ドイツ)所蔵のパピルス《ディカイオマタ》その他から市政のようすがかいま見られる。当市がローマ行政下では〈エジプトに接するアレクサンドリアAlexandria ad Aegyptum〉と呼ばれてエジプトそのものとは区別して取り扱われたように,プトレマイオス朝治下でも〈地方(コーラ)〉すなわち他の国土とは異なる扱いを受けた。ここだけはギリシア都市そのものとされ,アテナイの市民組織さながらに,ギリシア人中の一部市民はデーモス(原籍区)やその上のフュレー(部族),さらにはフラトリア(胞族,兄弟団)に分属し,これらへの帰属をもたないギリシア系・非ギリシア系住民に対して市政の中核を担った。ブーレー(評議会)をもち自らの票決(立法)をも行う自治政体だったが,もちろんプトレマイオス朝専制支配の枠内においてであり,自らの市吏のほかに王の役人がいて統轄した。フュレー名やデーモス名にしても王家一統の名前が多用されるありさまで,形骸は似ていてもポリス本来の精神は失われていた。自治はローマ帝政治下ではさらに後退し,ブーレーも失われた。住民は雑多で,ギリシア人,エジプト人のほか,ペルシア人,シリア人,黒人も見られ,帝政初期の最盛期に総人口約100万,うち市民団を構成するギリシア人約30万を算した。ガラス製造のような産業も栄え,東地中海・南海貿易の殷賑(いんしん)とともに〈アレクサンドリアにない物は雪ばかり〉とまでうたわれた。

 しかし白眉は当市が生み出した学問にある。その柱は文献学と自然科学で,前者にはゼノドトス,カリマコス,ビザンティンのアリストファネス,サモトラケのアリスタルコスらが出てホメロス叙事詩その他の古典作品の校合・集注を行った。今日伝存のギリシア古典作品はことごとくここに淵源する。後者では《ストイケイア》のユークリッドエウクレイデス),円錐曲線定理のペルゲのアポロニオス,子午線計測のエラトステネス,解剖学のヘロフィロス,帝政期の天文学者プトレマイオス,数学と気体物理のヘロンらが光彩を放っている。有名な物理学者アルキメデスも当地に学んだ。反面,文学は《アルゴナウティカ》のロドスのアポロニオス,詩人テオクリトスぐらいにとどまり,哲学・政治学・美術作品等には見るべきものが少なかった。なお帝政期に発生する〈アレクサンダー・ロマンス〉は当地が源になっている。

 当市は初期キリスト教との関係でも重要だった。ユダヤ人が多く住んだことが一つの原因である。前3世紀に《七十人訳聖書》が当地で成ったが,後1世紀にはユダヤ人哲学者フィロンが出て旧約聖書をプラトン哲学で解釈する道を開いた。彼は愛国的なアレクサンドリア市民としてローマに使いし,ユダヤ教の立場から皇帝崇拝免除を直訴したこともある。ギリシア哲学がキリスト教と結びついたクレメンスやオリゲネスの教義神学や,それにさらにオリエント的神秘思想が加わったグノーシス主義神学も当地が生んだ(2世紀)。哲学が宗教化したと言われる3世紀の新プラトン主義哲学も当地のプロティノスにより大成された。古代末期からコプト時代にかけては五大司教座の一つとしてローマ,コンスタンティノープル等に次ぐ重要性をキリスト教界に占めた。
アレクサンドリア学派
執筆者: 641年アラビア半島からやってきたアムル・ブン・アルアース将軍の率いるイスラム軍は,バビロン城(後のフスタート)に続きアレクサンドリアを攻略,同年11月に降伏条約が結ばれ,翌年9月ビザンティン軍は撤退した。新都フスタート(現,カイロ郊外)が建設され,エジプトの首都になったものの,アレクサンドリアはエジプト第2の町として存在を続け,ギリシア科学の翻訳など学芸・文化のうえで重要な位置をしめた。10~15世紀のファーティマ朝やマムルーク朝時代には地中海沿岸諸国を結ぶ重要な地として栄えた。それまで東西貿易の中心であったバグダード周辺地域の混乱により,そのルートが,インド洋~紅海~ナイル川経由のルートに移るとその重要性はより増し,13~15世紀にはイタリア商人やマグリブのムスリム商人らが往来した。15世紀末の新大陸の発見,喜望峰航路の発見によりヨーロッパとの東西交易路が移るにつれてアレクサンドリアの繁栄も衰えた。しかし1869年のスエズ運河の開通はアレクサンドリアを再び繁栄させることとなり現在に至っている。現在の町は1882年イギリスがそれまでの町を破壊し新しく建設したものである。そのため残されている古代遺跡は少なく,コム・アルシャカハのカタコンベ跡,コム・アルディッカの円形劇場,〈ポンペイウスの柱〉が残るだけである。
執筆者:


アレクサンドリア
Alexandria

アメリカ合衆国バージニア州北部の住宅都市。人口13万5337(2005)。ポトマック川を挟んで首都ワシントンに接し,ワシントンの住宅都市となっている。連邦政府の諸機関や科学・工業関係の研究施設が多く,肥料,化学製品,農業機械の工場もある。1730年代に定住が始まり,79年に町制,1852年に市制施行。歴史的建物が多く,郊外のマウント・バーノンMount Vernonには初代大統領ワシントンの家がある。
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百科事典マイペディア 「アレクサンドリア」の意味・わかりやすい解説

アレクサンドリア

地中海にのぞむエジプトの港湾都市。アラビア語でイスカンダリーヤ。同国最大の貿易港で,主要輸出品は綿花。セメント,自動車,機械工業が行われる。アレクサンドリア大学(1942年創立)がある。前331年アレクサンドロス大王が建設。プトレマイオス朝の首都として栄え,ヘレニズム時代にはムセイオン,大図書館,研究所,世界七不思議の一つファロス灯台などを備え,文化の一大中心となる。2世紀末にはアレクサンドリア教校を備え,初期キリスト教史上にも重要な役割を果たした(アレクサンドリア学派)。7世紀ウマイヤ朝に征服された。402万8000人(2006)。
→関連項目アキレウス・タティオスアレクサンドリア(古代)エジプト(地域)プトレマイオス[1世]プトレマイオス王国

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旺文社世界史事典 三訂版 「アレクサンドリア」の解説

アレクサンドリア
Alexandria

アレクサンドロス大王が建てたギリシア風の都市の名。数十あった中でエジプトの都市が後世まで重要
前331年ナイル川の河口に建設され,プトレマイオス朝の首都としてヘレニズム時代の貿易・文化の中心となり,多くの著名な科学者を輩出した。碁盤状の通りをもった市部と,約1200mの突堤 (とつてい) で結ばれた前面のファロス島からなり,市部には王宮・セラピス神殿・ムセイオンとその付属図書館,島の東端には高さ160mの大灯台があった。ローマ時代には哲学者・神学者が現れ,いぜん活気があったが,7世紀半ばアラビア人に占領されてから衰えた。19世紀初めにムハンマド=アリーが現れてから再び繁栄し,イギリスの植民地化に反抗して,1881〜82年ここでアラービー=パシャの蜂起が起こった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アレクサンドリア」の解説

アレクサンドリア
Alexandria

アレクサンドロス大王がエジプト征服後,前331年に整然たる計画のもとにナイル川デルタ西端に建設を始めた植民市。プトレマイオス2世(在位前283~前246)のときにほぼ完成。プトレマイオス朝の首都,ローマ時代のエジプト総督の駐在地,また商工業と学問の中心として繁栄をきわめた。最盛時の人口はギリシア人,エジプト人,ユダヤ人など約50万で,ローマ市と並ぶ最大の巨大都市であったが,641年アラブ人に占領されたのち衰えた。なお,大王がその帝国内の拠点に建設した同名の植民市の数は約70に及ぶといわれる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アレクサンドリア」の意味・わかりやすい解説

アレクサンドリア
Alexandria

現地名でイスカンダリーヤ Al-Iskandarīyah。エジプト第2の都市。最大の貿易港で,地中海に面して細長く横に延びる。アラブの避暑地として有名。綿花,野菜類,果実の積出港。化学,繊維,食品,造船などの工業があり,世界最初の綿花先物取引市場が成立した商業の中心地でもある。国際空港がある。アレクサンドロス大王のエジプト征服後,前 332年に建設されたこの町は,ヘレニズム文化の中心地であった (→アレクサンドリア〈古代〉) 。人口 317万 (1990推計) 。

アレクサンドリア
Alexandria

アメリカ合衆国,バージニア州北東部,ワシントン D.C.の南,ポトマック川の西岸に位置する都市。 1695年入植。コムギ,タバコなどの貿易港として栄えた。 1791~1847年までワシントン D.C.の一部であったが,南北戦争以後分離した。ワシントン D.C.やボルティモアの成長に伴って郊外住宅地の役割をになうようになった。現在,バージニア州北部の商業の中心地で,鉄道工業が盛ん。市内には,G.ワシントン,R.リーらの旧邸や記念堂をはじめ 18世紀の建物などがみられる。人口 13万9966(2010)。

アレクサンドリア
Alexandria

アメリカ合衆国,ルイジアナ州の都市。ミシシッピ川の支流レッド川の南岸に位置する。 19世紀初頭以来河港として栄えた。南北戦争の際には戦火のために町は廃虚と化したが,その後,鉄道の開通によって復興した。周辺は広大な農業地帯で,農産物や木材,畜産物などの集散地であり,綿織物,食品加工などの軽工業も行われる。近くには温泉保養地やレクリエーション地域がある。人口4万 9188 (1990) 。

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デジタル大辞泉プラス 「アレクサンドリア」の解説

アレクサンドリア

2009年公開のスペイン映画。原題《Ágora》。ローマ帝国末期のエジプト・アレクサンドリアを舞台に、実在した女性天文学者ヒュパティアの半生を描く。監督:アレハンドロ・アメナーバル、出演:レイチェル・ワイズ、マックス・ミンゲラ、オスカー・アイザックほか。

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世界大百科事典(旧版)内のアレクサンドリアの言及

【エジプト】より

… 北アフリカの砂漠地帯を貫いて北流するナイル川がエジプトの生命線である。デルタ北西端のアレクサンドリアの年間降雨量204mm,カイロ30mm,ミニヤー以南の上エジプトはほとんど0に近いという,オリエントでは砂漠につぐ乾燥地帯にあり,ナイル川の浸食作用により形成された河谷および河口に,川が上流より運んできた肥沃な沖積土が堆積してつくりあげた土地(ナイル河谷約2万2000km2,デルタ約1万3000km2)だけが,人間の生存と農耕に不可欠な水を得て,人間生活の舞台となった。この状況は,灌漑地域の拡大による近年の生活空間の広がりにもかかわらず,基本的には変わっていない。…

【ガラス工芸】より

…しかし異民族の侵入で新王国が滅ぼされ,前9世紀から約200年ほどガラス工芸は空白の時代を過ごした後に,前6世紀初めより再興して前1世紀まで古来の伝統を温存した。とりわけ前3世紀ころよりミルフィオリ・グラス(千の花のガラスの意)と呼ばれる華麗な総花柄文様のモザイク・ガラス器や細密な人物・動物・植物・幾何学文様を断面に作りだしたモザイク装飾板などがアレクサンドリアを中心に生産され,ガラス工芸最大の中心地となっていった。
[ローマ・ガラス]
 その後ローマ帝国が出現して,アフリカ北岸地帯から地中海東岸地帯はその属領に入り,アレクサンドリアからシリア海岸一帯がガラス工芸の中心地となった。…

【デイノクラテス】より

…ラテン語名はディノクラテスDinocrates。アレクサンドロス大王の遠征に随行し,エジプトで新都市アレクサンドリアの造営に参画した。ウィトルウィウスは,彼がヘラクレスの扮装で大王に近づき,アトス山を男身像に造り,左手に大都市を,右手にダムをのせる提案をして大王の好遇を得た,と述べる。…

※「アレクサンドリア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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