精選版 日本国語大辞典 「カロリング朝」の意味・読み・例文・類語
カロリング‐ちょう ‥テウ【カロリング朝】
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メロビング朝にかわって、フランク王国の後半を支配した王朝。この名称は家門中もっとも傑出した人物、カール大帝にちなんだものであるが、王家の系譜がメッツ司教アルヌルフおよびアウストラシア地域の大豪族大ピピンにさかのぼるため、アルヌルフ家またはピピン家ともよばれる。アルヌルフの息子アンセギゼルと大ピピンの娘ベッガとの間に生まれたのが中ピピンで、アウストラシアの宮宰となり、カロリング家興隆の基礎を置いた。中ピピンは687年テルトリーの戦いでノイストリアを破り、全フランク王国の宮宰となり、その庶子カール・マルテルは732年トゥール・ポアチエの戦いでスペインから侵入したイスラム教徒を敗走させ、カロリング家の権威を確立した。その子小ピピンはこの力を背景に、751年メロビング家の名目的国王を廃して自ら王位につき、カロリング朝を開いた。ピピンの王位は教皇ザカリアスの承認によって正当性を与えられ、ここからカロリング王権と教皇権との提携が始まった。カロリング王国は小ピピンの子カール大帝(シャルルマーニュ)のとき最盛期を迎え、西はピレネー山脈から東はエルベ川に、北は北海から南は中部イタリアに至る西ヨーロッパの大部分の政治的統一が達成され、800年、カールは教皇レオ3世の手でローマ皇帝として戴冠(たいかん)された。カールはまた古典文化の復興にも力を注ぎ、アルクインをはじめ多くの学者たちの努力により、後世カロリング朝ルネサンスとよばれる成果が実現された。
カール大帝の子ルートウィヒ1世(ルイ1世、敬虔(けいけん)帝)の死後、帝国は3人の息子に分割された(ベルダン条約)。長子ロタールはロートリンゲン、ブルグンド、イタリアと皇帝位を、次子ルートウィヒは東フランクを、末子カール(シャルル1世)は西フランクを相続。さらにロタールの血統の断絶により、ロートリンゲンも東西フランク王国によって分割され(メルセン条約)、東フランクのカロリング家は911年のルートウィヒ幼児王の死により、西フランクのカロリング家は987年のルイ5世の死により断絶した。その結果、東フランク王国では、コンラート1世を経てザクセン朝のドイツ王国が、西フランク王国では、カペー朝のフランス王国が成立した。
[平城照介]
751~911,987
代々メロヴィング朝アウストラシア分王国の宮宰(きゅうさい)職を務めてきたピピン家が,751年のピピン3世(小ピピン)のときに王権を掌握し,のちのフランスとドイツの領土的輪郭を決定したヴェルダン条約(843年)とメルセン条約(870年)による分割をへて,フランスでは987年まで,ドイツでは911年まで続いた王朝。ピピン2世の庶子であったカール・マルテルが直接の始祖であるところから「カールの子孫」の意味で,「カロリング」と呼ばれた。国王即位に塗油の儀礼が導入された理由は,メロヴィング朝の廃絶を強行しての権力掌握を,正統性の面から強化する狙いがあったものとみられる。この王朝の最盛期は,ピピン3世の息子カール大帝の治世であった。今日の「ヨーロッパ」の概念はこの時代に誕生した。大帝の時代に東はエルベ川,西は大西洋,北はバルト海,南はピレネー山脈まで帝国の領土を広げた。774年ランゴバルド王国を征服して領土とし,800年クリスマスには「西ローマ皇帝」として教皇レオ3世の手で戴冠された。内政では騎馬兵制の充実,巡察使制度の創設,カロリング・ルネサンスと呼ばれる古典文化の復興を実現し,また対外的には遠くアッバース朝カリフとの交流も進めた。だが帝国は大帝の息子ルイ1世(敬虔王)と孫たちの時代に,親子間,ついで兄弟間の争いが頻発して,西フランク王国,東フランク王国,中王国に三分された。いずれも10世紀には消滅して,この王朝の支配は終焉を迎えた。
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…その点で,個人的,神秘的心情から生まれた中世の〈アンダハツビルトAndachtsbild〉(祈禱像)も,はなはだドイツ的な創造物であったといわなければならない。
【中世】
[カロリング朝――カール大帝と古代文化復興]
今日のドイツの起源は8世紀のカール大帝(シャルルマーニュ)の時期にまでさかのぼる。しかし彼の時代にはまだ本来のドイツという国は存在せず,ドイツ固有の文化や美術について論ずることができるのは,10世紀のオットー朝(ザクセン朝)に始まるロマネスク時代になってからである。…
※「カロリング朝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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