正式名称は,対日平和条約Treaty of Peace with Japan。1951年9月8日,サンフランシスコ市内のオペラハウスで調印され,52年4月28日発効した。
対日講和は第2次大戦終結直後には提起されなかった。それは第1に,連合国がポツダム宣言に従って日本を改造し軍国主義の基盤を除く必要があったからであり,第2に,主要関係国がこの問題をヨーロッパの戦後処理と深くかかわるものと見ており,対日講和を先議する意思を持たなかったためである。1946年6月,アメリカ政府は,対伊平和条約を結ぶためのパリ平和会議の準備のなかで〈日本国の武装解除および非軍事化に関する四国条約案〉を発表し,日本の非軍事化を厳しく実施するために占領終了後25年にわたり4ヵ国による監察制度を設けることを提唱したが,ソ連の反対にあって取り下げた。
1947年7月,アメリカはふたたび極東委員会構成11ヵ国に対し平和予備会議を提唱し,3分の2の多数で議決するという多数講和方式を示したが,対日平和条約は四国外相理事会が起草すべきであるとするソ連と,議決方式に異議を持つ中華民国政府の反対にあい,48年1月この交渉を中止した。この年になるとアメリカは対日政策を冷戦外交の一環として重視するようになり,3月,国務省政策企画局長G.ケナン,陸軍次官W.ドレーパーを東京に派遣し,GHQ司令官マッカーサーと会談させた。三者は,沖縄を戦略的基地として長期に利用できるよう国際的承認をとりつけること,講和後も横須賀を軍事的・商業的拠点とすること,日本の警察力を増強しかつ民主的改革よりも経済復興を急ぐこと,これらが実現できる国際情勢があらわれるまで講和を延期することで合意した。この諸点はその後アメリカ政府の見解の基本となり,〈事実上の講和〉政策が推進される。ドレーパーらは対日賠償を46年に発表されたポーレー報告書の24億4000万円(1939年価格)から,6億6000万円に削減するよう求め,国務省は12月,〈経済復興九原則〉をGHQに通達し,翌49年,経済顧問J.ドッジを派遣して日本の財政改革,デフレ政策への転換を強行させ,GHQの管轄事項をしだいに日本政府に移管させた。
1948年11月,極東国際軍事法廷(東京裁判)が刑の宣告を行い,12月,A級戦犯7名を処刑するに及んで,対日早期講和の世論は国内外で高まり,ソ連は48年11月に続き49年5~6月,パリでの四国外相会議で対日講和の促進を要求し,またイギリス連邦諸国とくにオーストラリア,ニュージーランドは日本軍国主義の復活を恐れ,イギリスもアジア貿易における日本の競争力強化を懸念し,厳しい制限条項をもつ講和の早期実現を望んだ。49年半ばまでにアメリカは中国革命の進展をくい止めることができないと判断し,これに代わって対アジア政策における日本の役割を一段と重視するようになり,9月,国務長官アチソンはイギリス外相ベビンとの会談でイギリスの対日強硬方針を撤回させ,両国政府が対日講和の早期実現,ソ連の参加がなくても条約を締結するという単独講和方式をとること,講和後の日本に米軍基地を設けること,対日監視や過酷な賠償を課さないことで協力するという合意をとりつけ,共同歩調をとるようになった。50年2月,中ソは中ソ友好同盟相互援助条約を結び,日本軍国主義の復活に共同で対処する決意とともに対日講和の早期実現を強調した。アメリカは4月,J.ダレスを国務省顧問に任命し,対日講和の推進に当たらせた。
6月,朝鮮戦争が開始され,アメリカ軍が日本を根拠地として出撃するようになると,アメリカは日本の軍事基地としての重要性を認め,日本国内に反米的世論が強まるのを防ぐため講和の促進を図るようになり,11月,対日講和七原則を発表し,極東委員会構成国との個別協議を開始した。この七原則には領域問題が明記されたほか,アメリカによる安全保障方式,対日請求権の放棄などが盛り込まれた。ソ連は同月,覚書で7項目の質問を発し,中華人民共和国は12月中国が参加しない対日講和の〈準備および起草は不法〉と声明した。ダレスは51年1月,関係諸国政府との直接折衝を開始し,この間に日本再軍備を危惧(きぐ)するオーストラリア,ニュージーランド,アメリカの間でANZUS(アンザス)条約を,フィリピンとの間で米比相互援助条約を結んだ。6月,アメリカ,イギリス両国の草案をもとに合同草案が作成され,7月20日,サンフランシスコ講和会議への招請状がアメリカにより発送された。日米間の交渉で未帰還邦人に関する条項が加えられ,8月16日,条約草案が各国に送付された。安全保障条約草案は日米両政府の協議の結果8月20日に確定された。
講和会議は9月4日から8日まで開かれたがこれは〈案文を基礎とする日本国との平和条約の締結および署名のための会議〉で,審議のための会議ではなく,参加各国は態度表明の機会を与えられたのみである。52ヵ国が参加し,うちソ連,ポーランド,チェコスロバキアは署名を拒否した。中国,朝鮮は招待されず,インド,ビルマ(現,ミャンマー)は参加を拒否した。条約は前文と本文7章27条から成り,議定書一つ,宣言二つが付属している。領域問題では朝鮮の独立,台湾,澎湖諸島,南樺太,千島列島に対する日本の権利,権限,請求権を放棄することが決められ,その後の帰属は未解決のままとなり,北緯29度線以南の小笠原諸島,琉球列島はアメリカが国連に信託統治を提議するまでの間,その統治下に置かれるとされた。
これに対し同年1月,共産党,労農党などにより〈全面講和愛国運動協議会〉が結成され,480万の署名を集め,社会党は1月の党大会で,〈中立堅持,軍事基地提供反対,全面講和実現〉の平和三原則を採択し,3月の総評大会でもこれを支持する態度を決め,安倍能成,南原繁らの〈平和問題懇談会〉は全面講和論を展開して大きな影響力を持った。なお,日米安全保障条約は9月8日午後調印された。
講和条約に署名または批准しなかった国との関係は次のようにして回復された。中華民国との平和条約(1952.4.28),インドとの平和条約(1952.6.9),ビルマ連邦との平和条約(1954.11.5),ソ連との日ソ国交回復に関する共同宣言(1956.10.19),ポーランド人民共和国との国交回復に関する協定(1957.2.8),チェコとの国交回復に関する議定書(1957.2.13),インドネシア共和国との平和条約(1958.1.20),日韓基本条約(1965.6.22),日中共同声明(1972.9.29)。
執筆者:佐々木 隆爾
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1951年9月サンフランシスコで調印され,翌年発効した条約。第二次世界大戦に関する48の連合国と日本との間の講和会議によって結ばれた平和条約。しかし,旧連合国の足並みはそろわず,最も長い間日本に抗戦した中国をはじめ,ソ連,ポーランド,チェコスロヴァキアなどの共産圏諸国およびインド,ビルマ,ユーゴスラヴィアなどは含まれず,またインドネシアは批准しなかった。前文のほか平和,領域,安全など7章27カ条からなり,琉球(りゅうきゅう),小笠原諸島はアメリカの信託統治地域に予定され,樺太(からふと)(サハリン),千島(ちしま)(クリル),台湾,竹島などの帰属は未決定,不明確なまま残された。なお,この条約と同時に日米安全保障条約が結ばれ,日本はアメリカの冷戦体制のなかに組み込まれることになった。
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対日平和条約とも。1951年(昭和26)9月8日,サンフランシスコで連合国48カ国と日本の間で署名,翌年4月28日発効。平和・領域・安全・請求権など前文と7章27条からなる。とくに千島列島に対する主権の放棄(第2条),沖縄・小笠原の地位決定(第3条)など領土規定が論議をよんだ。中国・ソ連との戦争終結,朝鮮半島の分断国家との関係,東南アジア諸国との賠償など残された問題が多かったが,以後の日米関係の基礎となった。日米安全保障条約とともに国会に提出され,平和条約については衆議院は賛成多数(307票)で可決。社会党左派や共産党など47の反対票のほか,棄権86票があった。この条約作成にはダレス米国国務省顧問が大きな役割をはたした。
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…ドッジ・ラインで沈滞していた景気は一転して好況を迎え,鉱工業の生産指数は初めて戦前の水準を超えた。 朝鮮戦争で苦戦を強いられたアメリカは,日本をアメリカ陣営の中の同盟国として再建強化する政策をとり,サンフランシスコ講和条約の締結を急いだ。これに対し日本国内では,日米軍事同盟体制の固定化に反対し,ソ連,中国を含む全交戦国との講和を望む全面講和論と,対米講和を急ぐ単独講和論が対立した。…
…南サハリンと千島列島はソ連軍によって占領された。51年のサンフランシスコ講和条約の中で,日本は千島列島と南サハリンを放棄した。56年の日ソ共同宣言によって正式に国交は回復したが,その後いわゆる〈北方四島〉(歯舞(はぼまい),色丹(しこたん),国後(くなしり),択捉(えとろふ))の帰属について日本側は未解決を主張し,これを解決済みとするソ連(現ロシア連邦)側と対立して現在に至っている(〈千島列島〉の[北方領土問題]の項参照)。…
※「サンフランシスコ講和条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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