サンフランシスコ講和条約(読み)サンフランシスコこうわじょうやく

精選版 日本国語大辞典 の解説

サンフランシスコ‐こうわじょうやく ‥カウワデウヤク【サンフランシスコ講和条約】

日本国との平和条約」の通称。日本と連合国との間で第二次世界大戦を終結させるため結ばれた条約。一九五一年(昭和二六)九月、サンフランシスコで五二か国が参加し、ソ連ポーランドチェコスロバキアを除く連合国四八か国と日本とによって調印朝鮮独立台湾千島・南樺太を含む海外領土の放棄、沖縄・小笠原のアメリカによる信託統治、海外資産の放棄などを規定する。対日講話条約。対日平和条約

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デジタル大辞泉 の解説

サンフランシスコ‐こうわじょうやく〔‐カウワデウヤク〕【サンフランシスコ講和条約】

第二次大戦を終結させるため、日本と連合国との間で結ばれた条約。昭和26年(1951)9月サンフランシスコで、ソ連・ポーランド・チェコスロバキアの3か国を除く連合国48か国と日本とにより調印。米国による信託統治、海外領土の放棄などを規定。サンフランシスコ平和条約対日講和条約たいにちこうわじょうやく

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百科事典マイペディア の解説

サンフランシスコ講和条約【サンフランシスコこうわじょうやく】

対日平和条約が正称。日本と連合国48との間に結ばれた第2次大戦終結のための平和条約。1951年9月8日サンフランシスコで調印。1952年4月28日発効。日本代表は吉田茂前文のほか27ヵ条よりなり日本の主権・平等を承認したが,外国軍隊の日本駐留継続を認めた。また朝鮮の独立,台湾・澎湖諸島,千島・南樺太の放棄を規定したが,帰属先は不明確のままで紛争の種を残した。沖縄・小笠原は米国を唯一の施政権者とする国際連合の信託統治下に入ることが予定され,それまでは米国の支配下に置かれることになった。中国・インドビルマユーゴ・ソ連・ポーランド・チェコとは締結しない片面講和条約であり,同時に締結の日米安全保障条約とともに日本を対米従属下においた。翌1953年中華民国(国民政府)と日華平和条約を結び,インドなど6ヵ国とも1957年までに国交を回復。
→関連項目極東委員会公職追放講和在日朝鮮人残存主権サンフランシスコGHQ清水幾太郎戦後補償第2次世界大戦対日理事会ダレス千島列島東京裁判南原繁日印平和条約日本日本降伏文書日本社会党ポツダム緊急勅令ポツダム政令北方領土問題メーデー事件吉田茂吉田茂内閣ラスク領土問題

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山川 世界史小辞典 改訂新版 の解説

サンフランシスコ講和条約(サンフランシスコこうわじょうやく)

1951年9月サンフランシスコで調印され,翌年発効した条約。第二次世界大戦に関する48の連合国と日本との間の講和会議によって結ばれた平和条約。しかし,旧連合国の足並みはそろわず,最も長い間日本に抗戦した中国をはじめ,ソ連,ポーランド,チェコスロヴァキアなどの共産圏諸国およびインド,ビルマ,ユーゴスラヴィアなどは含まれず,またインドネシアは批准しなかった。前文のほか平和,領域,安全など7章27カ条からなり,琉球(りゅうきゅう),小笠原諸島はアメリカの信託統治地域に予定され,樺太(からふと)(サハリン),千島(ちしま)(クリル),台湾,竹島などの帰属は未決定,不明確なまま残された。なお,この条約と同時に日米安全保障条約が結ばれ,日本はアメリカの冷戦体制のなかに組み込まれることになった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 の解説

サンフランシスコ講和条約
サンフランシスコこうわじょうやく

対日平和条約とも。1951年(昭和26)9月8日,サンフランシスコで連合国48カ国と日本の間で署名,翌年4月28日発効。平和・領域・安全・請求権など前文と7章27条からなる。とくに千島列島に対する主権の放棄(第2条),沖縄・小笠原の地位決定(第3条)など領土規定が論議をよんだ。中国・ソ連との戦争終結,朝鮮半島の分断国家との関係,東南アジア諸国との賠償など残された問題が多かったが,以後の日米関係の基礎となった。日米安全保障条約とともに国会に提出され,平和条約については衆議院は賛成多数(307票)で可決。社会党左派や共産党など47の反対票のほか,棄権86票があった。この条約作成にはダレス米国国務省顧問が大きな役割をはたした。

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世界大百科事典 第2版 の解説

サンフランシスコこうわじょうやく【サンフランシスコ講和条約】

正式名称は,対日平和条約Treaty of Peace with Japan。1951年9月8日,サンフランシスコ市内のオペラハウスで調印され,52年4月28日発効した。
[講和への過程]
 対日講和は第2次大戦終結直後には提起されなかった。それは第1に,連合国がポツダム宣言に従って日本を改造し軍国主義の基盤を除く必要があったからであり,第2に,主要関係国がこの問題をヨーロッパの戦後処理と深くかかわるものと見ており,対日講和を先議する意思を持たなかったためである。

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日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

サンフランシスコ講和条約
さんふらんしすここうわじょうやく

対日講和条約

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

サンフランシスコ講和条約
サンフランシスコこうわじょうやく

対日講和条約」のページをご覧ください。

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世界大百科事典内のサンフランシスコ講和条約の言及

【対日占領政策】より

…ドッジ・ラインで沈滞していた景気は一転して好況を迎え,鉱工業の生産指数は初めて戦前の水準を超えた。 朝鮮戦争で苦戦を強いられたアメリカは,日本をアメリカ陣営の中の同盟国として再建強化する政策をとり,サンフランシスコ講和条約の締結を急いだ。これに対し日本国内では,日米軍事同盟体制の固定化に反対し,ソ連,中国を含む全交戦国との講和を望む全面講和論と,対米講和を急ぐ単独講和論が対立した。…

【ロシア】より

…南サハリンと千島列島はソ連軍によって占領された。51年のサンフランシスコ講和条約の中で,日本は千島列島と南サハリンを放棄した。56年の日ソ共同宣言によって正式に国交は回復したが,その後いわゆる〈北方四島〉(歯舞(はぼまい),色丹(しこたん),国後(くなしり),択捉(えとろふ))の帰属について日本側は未解決を主張し,これを解決済みとするソ連(現ロシア連邦)側と対立して現在に至っている(〈千島列島〉の[北方領土問題]の項参照)。…

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