二月革命(フランス)(読み)にがつかくめい

百科事典マイペディアの解説

二月革命(フランス)【にがつかくめい】

1848年2月パリに起きた革命。ブルジョア共和派と社会主義者・小市民・労働者が連合し,上層ブルジョア中心の七月王政を倒した。ギゾー政府の改革宴会禁止令が蜂起(ほうき)の契機。市街戦の結果,国王ルイ・フィリップが退位し,共和派による臨時政府が樹立された。ブランら社会主義者が初めて入閣,各種の改革が試みられたが六月蜂起以後,保守派が台頭,ルイ・ナポレオン(ナポレオン3世)の登場を招いた。この革命の影響はヨーロッパ諸国に及びウィーン体制を崩壊させたが,やがて各地に反動政治が出現した。→三月革命
→関連項目アトリエ・ナシヨノーアラゴーカベニャックカルノー1848年革命第二共和政トックビル奴隷廃止運動ブランキフランスボードレール

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

二月革命(フランス)
にがつかくめい
Rvolution de Fvrierフランス語

1848年2月22日から24日にかけて、パリを中心とする民衆運動と、議会内の反対派の運動によって、ルイ・フィリップの王政が倒れ、共和政が成立した革命をさす。この革命は単にフランスのみならず、オーストリア、プロイセン、イタリアなど西ヨーロッパの諸民族にも大きな影響を与え、さまざまの政治的変動を生み出したものとして記憶される。[河野健二]

原因

革命を勃発(ぼっぱつ)させた根本的な原因は、イギリスに端を発する産業革命の波がフランスにも及んで鉄道建設や紡績業が導入され、旧来の手工業と農業中心の社会が変質を始めたことのなかにある。市場向けの生産、取引や交換の活発化、貧乏と失業の増加などが社会に不安と動揺を持ち込んだ。18世紀の末、60万人であったパリの人口は、このころには100万人を超え、下町は貧しい人々であふれた。工業化と都市化が生み出した矛盾は解決を求めており、そのことは社会主義や過激思想のなかにも表現されている。
 二月革命の直接の原因は、1845年から46年にかけての農作物の不作であった。凶作による食料品の値上り、それによる労働者の窮乏、さらに農村の購買力の減少による工業製品の売れ行き不振は、倒産や失業者の増加となって現れた。深刻な経済危機は、やがて政治的危機にまで発展した。
 他方、ルイ・フィリップ治下の議会では、200フラン以上の納税者でなければ有権者になれない選挙制度に対する不満がくすぶっていた。王党派のなかにも、選挙法の改革を主張する者が少なくなかった。野党議員たちは、公然たる反政府運動が抑えられていたので、「宴会」に名を借りて市民を結集し、改革運動の盛り上げを図った。パリのみならず、地方都市にもこれが波及した。[河野健二]

革命の進展

1848年2月22日、パリのある地区で「宴会」が開かれるという新聞記事に誘われて、学生や労働者を含む群衆が市の中心部に集まった。集会は禁止されていたが、群衆は議会に押しかけ、警備隊と衝突した。23日も雨のなかをデモが続行され、国王は首相のギゾーを解任して事を収めようとした。しかし、事態はいっそう深刻になり、労働者はバリケードを築いて、政府の軍隊に抵抗するまでになった。同月24日、群衆は市庁舎を占拠し、さらにチュイルリー宮殿に向かって進撃した。宮殿にいたルイ・フィリップは孫で9歳のパリ伯に王位を譲って逃げ出した。宮殿に侵入した民衆は、王の玉座を運び出して燃やした。他方、議会では、王の逃亡後の政体をどうするかが討議された。大ぜいの傍聴人で身動きもできないなかで、パリ伯を擁する摂政(せっしょう)政治に移るという案は否決された。臨時政府の事実上の首班になるラマルチーヌは、労働者や学生たちの希望する共和政の側についた。[河野健二]

臨時政府

革命に賛成する主要な議員たちが市庁舎に移って、臨時政府の成立が宣言された。首相はデュポン・ド・ルール、外相はラマルチーヌであり、社会主義者のルイ・ブラン、労働者のアルベールも内閣に加わった。臨時政府は労働者の生存を保障することを約束したが、国旗を赤旗にせよという労働者の要求は断った。政府は失業救済のために「国立工場」を設置し、またルイ・ブランを委員長とする「リュクサンブール委員会」をつくって、労資紛争の解決と労働者の組織化に着手した。
 臨時政府は普通選挙制の採用に踏み切り、従来25万人であった有権者を一挙に900万人に拡大し、同年4月23日に選挙を実施した。革命派や労働者の延期要求を抑えて実施されたこの選挙は、多数の保守派やブルジョア派を当選させることとなった。選挙の結果できあがった政府すなわち「執行委員会」では、ラマルチーヌは少数派の側に回ることとなった。政局の右傾化はデモ対策のうえにも現れ、5月15日、ポーランド解放を名目として行われたデモと議会侵入を理由として、大量の民衆運動のリーダーが逮捕され、追及された。6月には「国立工場」の解散が決定され、それに抵抗してバリケードに拠(よ)った数万の労働者に向かって砲弾が撃ち込まれた。死者3000人、逮捕者2万人といわれる、この「6月のテロ」(六月事件)は2月の革命への報復であった。[河野健二]

第二共和政へ

六月事件ののち、議会は共和国憲法の制定を急ぎ、同年11月12日になって第二共和政の憲法が承認された。二月革命のスローガンであった「労働権」は認められず、市民の基本的権利は「公共の安全」を害しない限りという条件づきのものとなった。国民の直接選挙で選ばれる任期4年の大統領と、任期3年の一院制議会とが相互に独立し、牽制(けんせい)しあう、動きのとれない統治制度がつくられた。この憲法のもとでルイ・ナポレオンを大統領に選んで、第二共和政は3年間のおぼつかない歩みを始めたが、やがてルイ・ナポレオンは権力の強化を求めてクーデターを試み、第二帝政の時代を開くこととなる。[河野健二]
『河野健二著『フランス現代史』(1977・山川出版社) ▽河野健二著『現代史の幕あけ』(岩波新書)』

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