1848年2月,パリに発生した革命で,七月王政が倒れ第二共和政が成立した。政治家たちは共和派といえども,共和政の樹立など予想もしていなかったのだが,議会改革を目ざす穏健な動きが,2月のパリで急激に民衆運動に転換し,革命となった点に特徴がある。
七月王政末期の下院議員選挙資格は,年200フラン以上の納税者に制限されたが,それは人口3000万のうち有権者24万にすぎず,社会階層的にいえば,大土地所有者を中心とする名望家層と金融資本家などの上層ブルジョアに限定されていた。ギゾーを中心とする政府は,利権の配分などにより代議士を操作し政権の強化を図った。これに不満なのがオディロン・バロの王朝的左翼とティエールの中央左翼の政治家であった。彼らは七月王政を支持しながらも,選挙権の拡大,議員の公職兼任制限などを主張し,イギリス流の立憲王政を目ざして自由主義的な改革を推進しようとした。
1847年の春,彼ら政府反対派は各地で改革宴会と称する集会を実施し,選挙法改革の宣伝に乗り出す。この運動には新聞《ナシヨナル》を中心とする穏健な共和派や,さらに新聞《レフォルム》に拠るルドリュ・ロランらの急進共和派も独自に加わってくる。しかしこのことは事態が民衆運動の展開や革命や共和政の樹立に向かう危険をはらむものではまったくなかった。最左翼のルドリュ・ロランですら,普通選挙を主張しながらも,これこそが民衆による革命を防ぐことができるものとの立場に立ち,共和政の実現などは予想していなかった。だがこの政治家たちの世界から少しずれたところで,状況は流動化する。
この政治家たちの動きに最も触発され,まず行動したのは国民軍の士官や下士官であった。彼らは日常生活に密接した民兵を指揮するが,自分の住む界隈(かいわい)の人びとから成る中隊のなかから選挙で選ばれ,それによって界隈の人びとから認められるものであった。ところが議会の選挙では,小ブルジョアである彼らには選挙権がないのである。腐敗したギゾーの政府が議会改革を認めず政権の独占を計るのはやりきれぬ,という気分が彼らを支配した。だが彼らの任務は界隈の治安の維持であり,国民軍から除外されている労働者層の動向の監視であって,政治にかかわることは厳禁されていた。
しかしパリの国民軍の士官たちは議会改革の動きに同調して,政治的とみなされる行動をときおり引き起こした。48年2月になると,パリ第12区の軍団の士官や下士官のグループが,改革宴会を第12区で主催して開くという決定を行うにいたる。第12区は民衆居住街区をもつことで知られ,民衆運動のときに中心の一つになるところであった。その区で2月20日,民衆の集まりやすい日曜日を選んで集会を決行するというのである。この決定はこれまで改革宴会を主導してきた政府反対派の政治家たちにも危険を感じさせるものであった。運動があらぬ方向に転回するのを防ぎ,また運動の主導権を確保するため,政治家たちは急きょ,第12区の集会を,民衆居住街区から遠いシャンゼリゼのベルサイユ街道沿いの地点で行うことに切り替えた。開催の日取りも2月22日の火曜日とされた。ところがこの集会にも国民軍の参加が呼びかけられ,危険を感じた政府はこの集会を禁止した。ここで事態は政治の世界を乗り越え,集会の自由という,パリ民衆にとっての権利と行動にかかわるものになっていった。
22日より学生,とくに労働者のデモ隊が街頭に登場し,急速にパリの主要地点にあふれ出る。彼らにとって,国民軍が政治に向かって動き出したということは,日常生活における監視の体制が,横にずれたことを意味していた。この間隙をつくようにして彼らは街頭の行動に出る契機をつかむことができた。23日,ギゾーは辞任を強いられる。この夜,外務省前の群衆に向けて発砲があり,抗議のデモが拡大する。このデモの形式はカーニバルのおりの山車の引回しによったものといわれ,民衆は死者の遺体を車にのせてデモを行ったのである。この状況は民衆蜂起の発生を告げるものといえる。
政治家たちはこの事態に対処するため共和派を政権につけざるをえなくなる。24日の共和派臨時政府の樹立は,共和派すら予期せぬものとして実現した。
25日,労働者の〈労働の権利〉〈労働の組織化〉という要求が前面に出現し,生まれたばかりの臨時政府を脅かす。こうして第二共和政は社会革命に向かって進み出た民衆の運動と対決することを強いられ,ついに安定した政治体制を実現することができなくなる。
→48年革命
執筆者:喜安 朗
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1848年2月22日から24日にかけて、パリを中心とする民衆運動と、議会内の反対派の運動によって、ルイ・フィリップの王政が倒れ、共和政が成立した革命をさす。この革命は単にフランスのみならず、オーストリア、プロイセン、イタリアなど西ヨーロッパの諸民族にも大きな影響を与え、さまざまの政治的変動を生み出したものとして記憶される。
[河野健二]
革命を勃発(ぼっぱつ)させた根本的な原因は、イギリスに端を発する産業革命の波がフランスにも及んで鉄道建設や紡績業が導入され、旧来の手工業と農業中心の社会が変質を始めたことのなかにある。市場向けの生産、取引や交換の活発化、貧乏と失業の増加などが社会に不安と動揺を持ち込んだ。18世紀の末、60万人であったパリの人口は、このころには100万人を超え、下町は貧しい人々であふれた。工業化と都市化が生み出した矛盾は解決を求めており、そのことは社会主義や過激思想のなかにも表現されている。
二月革命の直接の原因は、1845年から46年にかけての農作物の不作であった。凶作による食料品の値上り、それによる労働者の窮乏、さらに農村の購買力の減少による工業製品の売れ行き不振は、倒産や失業者の増加となって現れた。深刻な経済危機は、やがて政治的危機にまで発展した。
他方、ルイ・フィリップ治下の議会では、200フラン以上の納税者でなければ有権者になれない選挙制度に対する不満がくすぶっていた。王党派のなかにも、選挙法の改革を主張する者が少なくなかった。野党議員たちは、公然たる反政府運動が抑えられていたので、「宴会」に名を借りて市民を結集し、改革運動の盛り上げを図った。パリのみならず、地方都市にもこれが波及した。
[河野健二]
1848年2月22日、パリのある地区で「宴会」が開かれるという新聞記事に誘われて、学生や労働者を含む群衆が市の中心部に集まった。集会は禁止されていたが、群衆は議会に押しかけ、警備隊と衝突した。23日も雨のなかをデモが続行され、国王は首相のギゾーを解任して事を収めようとした。しかし、事態はいっそう深刻になり、労働者はバリケードを築いて、政府の軍隊に抵抗するまでになった。同月24日、群衆は市庁舎を占拠し、さらにチュイルリー宮殿に向かって進撃した。宮殿にいたルイ・フィリップは孫で9歳のパリ伯に王位を譲って逃げ出した。宮殿に侵入した民衆は、王の玉座を運び出して燃やした。他方、議会では、王の逃亡後の政体をどうするかが討議された。大ぜいの傍聴人で身動きもできないなかで、パリ伯を擁する摂政(せっしょう)政治に移るという案は否決された。臨時政府の事実上の首班になるラマルチーヌは、労働者や学生たちの希望する共和政の側についた。
[河野健二]
革命に賛成する主要な議員たちが市庁舎に移って、臨時政府の成立が宣言された。首相はデュポン・ド・ルール、外相はラマルチーヌであり、社会主義者のルイ・ブラン、労働者のアルベールも内閣に加わった。臨時政府は労働者の生存を保障することを約束したが、国旗を赤旗にせよという労働者の要求は断った。政府は失業救済のために「国立工場」を設置し、またルイ・ブランを委員長とする「リュクサンブール委員会」をつくって、労資紛争の解決と労働者の組織化に着手した。
臨時政府は普通選挙制の採用に踏み切り、従来25万人であった有権者を一挙に900万人に拡大し、同年4月23日に選挙を実施した。革命派や労働者の延期要求を抑えて実施されたこの選挙は、多数の保守派やブルジョア派を当選させることとなった。選挙の結果できあがった政府すなわち「執行委員会」では、ラマルチーヌは少数派の側に回ることとなった。政局の右傾化はデモ対策のうえにも現れ、5月15日、ポーランド解放を名目として行われたデモと議会侵入を理由として、大量の民衆運動のリーダーが逮捕され、追及された。6月には「国立工場」の解散が決定され、それに抵抗してバリケードに拠(よ)った数万の労働者に向かって砲弾が撃ち込まれた。死者3000人、逮捕者2万人といわれる、この「6月のテロ」(六月事件)は2月の革命への報復であった。
[河野健二]
六月事件ののち、議会は共和国憲法の制定を急ぎ、同年11月12日になって第二共和政の憲法が承認された。二月革命のスローガンであった「労働権」は認められず、市民の基本的権利は「公共の安全」を害しない限りという条件づきのものとなった。国民の直接選挙で選ばれる任期4年の大統領と、任期3年の一院制議会とが相互に独立し、牽制(けんせい)しあう、動きのとれない統治制度がつくられた。この憲法のもとでルイ・ナポレオンを大統領に選んで、第二共和政は3年間のおぼつかない歩みを始めたが、やがてルイ・ナポレオンは権力の強化を求めてクーデターを試み、第二帝政の時代を開くこととなる。
[河野健二]
『河野健二著『フランス現代史』(1977・山川出版社)』▽『河野健二著『現代史の幕あけ』(岩波新書)』
ロシア暦の1917年2月に帝政を崩壊させた革命。西暦では3月にあたり、三月革命ともいう。
[編集部]
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①〔フランス〕Révolution de Février 1848年2月,パリのブルジョワ共和派と小市民,労働者よりなる民衆が七月王政を倒し共和政府を樹立した革命。47年,パリと地方で,制限選挙制にもとづく上層ブルジョワの政治独占を打破しようとする選挙法改革運動が,「改革宴会」の形式で展開されたが,おりからの経済危機に動揺しはじめた小市民,労働者の反政府運動がこれに合流する結果となり,48年2月ギゾー政府のパリの「改革宴会」禁止令がパリ民衆を立ち上がらせる契機となった。市街戦ののち,ルイ・フィリップの退位,共和派による臨時政府の樹立が宣言された。この革命は労働者層の積極的参加がみられ,社会主義的要望が新政府に出された点に一つの特徴があるが,これは逆に小所有者層への恐怖をかきたて,保守派の増大をもたらす結果になった。
②〔ロシア〕ロシア革命
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
… 第3段階(1843‐48年秋) 前半は沈滞期で,不振となった《ノーザン・スター》も44年に発行所をリーズからロンドンに移したが,45年以後,土地計画運動,アイルランド解放運動,インターナショナリズムが刺激となって運動は復活した。二月革命の興奮も加わった48年4月には,197万人の署名をもつ(最高指導者オコーナーは560万人と豪語したが,点検の結果この数が確認された)第3次請願を行った。ロンドンの請願集会の日には民間人による特別警察15万人が警備に動員され,デモは不発に終わり,にせの署名が目だつ請願も撤回を余儀なくされた。…
…フランス革命ではそれらの廃止は実現しなかったが,西インド諸島のフランス植民地の中心サン・ドマングでは,F.D.トゥサン・ルベルチュールとその後継者J.J.デサランの活躍によって,1804年,奴隷と混血者(ムラート)による反乱が最終的に成功してハイチ共和国の独立が宣言され,事実上奴隷貿易の意味はなくなり,14年に結ばれたイギリスとの協定に19年以降の奴隷貿易廃止が明文化された。その後七月王政時代の36年,本国に足を踏み入れた奴隷の解放が実現し,最終的に全フランス領の奴隷制廃止がイギリスと同様に有償で決定したのは48年二月革命のときで,これは奴隷制廃止が全共和派の目標の一つとなったからである。 このようなイギリス,フランスにおける奴隷貿易および奴隷制の廃止にいたる過程では,経済的要因が大きく作用している。…
…フランスの二月革命,ドイツの三月革命を含み1848‐49年にヨーロッパ全体に同時多発的に起こった革命を総称して48年革命あるいは1848年革命と呼ぶ。個別の諸革命もそれぞれ48年革命と呼ぶこともあるが,48年革命と呼ぶときにはとくに革命の全ヨーロッパ的性格が強調されている。…
…政治の面では,秩序と力を尊重していたが,民衆の正義と自由への渇望を理解し,ギゾーの政府に反対した。叙事詩的な息吹きで生き生きとしている《ジロンド党史》(1847)を書いて民衆に呼びかけ,二月革命への道を切り開いた。48年2月24日には,パリ市庁舎で共和国を宣言,数週間の間にすぎなかったが,臨時政府の首班となった。…
…マルクス主義者をユーラシア大陸に広がる大国の権力の座につけ,社会主義の名のもとに新しい社会体制をつくり出す一方,反資本主義,反帝国主義の革命運動を全世界に拡大する火元を生み,世界史に革新的な作用を及ぼした。 革命は大きく分けて,1905年の革命(第1次革命)と17年の革命から成り,後者はさらに〈二月革命〉と〈十月革命〉に区分される。この〈十月革命〉は,ロシア革命の全過程の中で最も重要な局面を構成し,マルクス主義にもとづく社会主義社会の実現を目ざす政権を,人類史上初めて誕生させたことで知られる。…
※「二月革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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