今在家村(読み)いまざいけむら

日本歴史地名大系 「今在家村」の解説

今在家村
いまざいけむら

[現在地名]八日市市今崎町いまさきちよう東今崎町ひがしいまさきちよう聖和町せいわちよう

中野なかの村の南にあり、南は蛇砂へびすな川を境に今堀いまぼり村。御代参ごだいさん街道に沿う街村集落。今在家の名から蒲生がもう野・おき野の開発に伴って形成されたとみられる。建武二年(一三三五)一一月一〇日の今堀神田注文(今堀日吉神社文書)に今在家とみえる。保内商人の一角を構成し、永正一五年(一五一八)一一月一日の山越年貢銭算用状(同文書)では一四〇文が、弘治三年(一五五七)三月二二日の御服年貢注文案(同文書)では一人五〇文、同年一二月二二日の同注文案(同文書)では出衆二人から御服年貢三五〇文と柿一連の代五〇文が保内惣分に納められたことがみえる。天正六年(一五七八)一〇月今在家惣中は従来取次いできた小田苅こたかり(現愛知郡湖東町)の足子商人が足子年貢をまったく納めないため、以後小田苅足子の取次をしないことを保内惣庄へ申送っており(「今在家惣書状案」蛇溝町共有文書)、小田苅足子が今在家商人に属していたこと、天正初年にはこのような足子と保内商人の関係が崩れてしまっていたことがわかる。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]姫路市飾磨区今在家しかまくいまざいけ・飾磨区今在家二―七丁目・飾磨区入船町しかまくいりふねちよう飾磨区粕谷新町しかまくかすやしんまち飾磨区中浜町しかまくなかはまちよう一―三丁目・飾磨区構しかまくかまえ一―五丁目・飾磨区蓼野町しかまくたてのちよう

飾西しきさい郡に所属。夢前ゆめさき川の支流水尾みずお川の流域に位置する。村の全域がほぼ平坦な沖積平野にあり、東は構村。英賀あが地先の河口に位置したことから、中世には英賀の今在家とも称された(赤松記)。兵庫北関入船納帳によると、文安二年(一四四五)「今在家」の船がたびたび米・赤米・小鰯などを積んで兵庫北関に入港しており、当時英賀浦と並んで瀬戸内海水運の有数の良港であったと思われる。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]高石市羽衣はごろも一―五丁目・羽衣公園はごろもこうえん丁・東羽衣ひがしはごろも一―五丁目・同七丁目

紀州街道が南北に村内を縦貫し、芦田あしだ川が西流して村南方で高石浦に注ぐ。海辺は古歌に名高い高師たかしの浜で、現在浜寺はまでら公園の一部をなす。東は北王子きたおうじ(現堺市)にい村、西は海、北はしも(現同上)に接する。延宝七年(一六七九)の検地帳(浅野家文書)によると、古検高は五八〇石余、延宝検地による新検高は六四八石余と浜寺新開高二二石余である。年未詳の村明細帳および免状(田中家文書)によれば、元和三年(一六一七)以降幕府領であったが、元禄二年(一六八九)柳沢吉保の領分に転じ、同七年再び幕府領に帰した。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]池田市豊島南とよしまみなみ一―二丁目・空港くうこう二丁目・住吉すみよし二丁目・豊島北とよしまきた一丁目・ダイハツ町

神田こうだ村の南東にあり、東は轟木とどろき村。西は川辺かわべ下河原しもがわら(現兵庫県伊丹市)。村のほぼ中央を西国街道(山崎通)が東西に通り、村の西部で南西流から南流に方向を変えた箕面みのお川と交差する。一九世紀初頭の山崎通分間延絵図に、この辺りの箕面川に「平日水ナシ」と記され、橋も架けられていない。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳によると村高六五一石余で、うち三九二石余が麻田藩領、二五九石余が旗本船越三郎四郎永景領。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]国東町鶴川つるかわ 今在家

田深たぶか村の南、田深川河口右岸に位置し、国東道が通る。天文一八年(一五四九)一月一二日の国東郷等大工職源董次覚書(今富文書)に今在家とあるが、同史料は検討の余地がある。小倉藩元和人畜改帳に御蔵納分(浦手)として村名がみえ、高四八石余で、家数三九のうち本百姓・小百姓九、隠居・名子・庭屋・牛屋三〇、男三七(うち名子二)・女二五、牛二。正保郷帳では来崎くのさき郷に属し、田高二五石余・畑高一三石余で、半分日損所と注記される。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]大山町今在家

鈑戸たたらど村の北、孝霊こうれい山麓東部にある。東を阿弥陀あみだ川、南を鈑戸川が流れ、西は坊領ぼうりよう川を隔てて佐摩さま村。大山領で汗入組に属した。享保四年(一七一九)の徳川氏朱印状では高一二五石余(鳥取県史)。延享三年(一七四六)の御巡見様手鑑(吉川家文書)によれば高のうち年々水流荒一二石余・畑高一三石余で新開高は九石余。家数二〇・人数一四八(男八三・女六五)、牛一七・馬三。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]住之江区粉浜こはま一―三丁目・粉浜西こはまにし一―三丁目、住吉区東粉浜ひがしこはま一―三丁目など

集落は中在家なかざいけ村の集落の南側に位置するが、両村の村域は錯綜する。これは両村が古くは一村であったことによると思われる。近世初期までの変遷、江戸時代の領主は中在家村に同じ。村高は、慶長一四年(一六〇九)の検地帳では一八八石余、延宝五年(一六七七)の検地帳では二六一石余(粉浜村誌)。宝永元年(一七〇四)大和川付替工事によって当村のうち一町余(分米四石余)が新川の潰地となった(宝永二年「大和川川違旧記」大阪市史編纂所蔵)


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]安曇川町四津川よつがわ

琵琶湖の西岸に位置し、まつ内湖の東にある。古くは西隣の藤江ふじえ村と合せて四津川村と称した。永享五年(一四三三)四月六日の道春金竹房売券(竹生島文書)によれば、今在家の船木三郎左衛門入道道春が「竹生嶋金竹房」を五〇貫文で売渡している。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に「藤江今在家」とあり、高六一三石。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]斐川町今在家

斐伊川の南にある水田地帯で、東は中原なかはら村、西は鳥屋とや村。北は斐伊川を挟んで楯縫たてぬい美談みだみ(現平田市)。中世後期は村内の一部が千牧ちまき村とよばれた。文政七年(一八二四)の有高輪切帳写(県立図書館蔵)に記載された輪は川田かわだ輪・鍛冶屋かじや輪・国長くにうさ輪・松浦田まつらだ輪・薦郷こもごう輪・千巻ちまき輪。正保四年(一六四七)の出東郡之内今在家村御検地帳では田方四三町二反余・分米五四四石余、畑方一二町一反余・分米六〇石余、屋敷数二九(うち役目屋敷二五)とある。正保国絵図に村名がみえる。元禄十年出雲国郷帳では高九七一石余、寛文四年(一六六四)の本田高八〇八石余・新田高三九石余。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]米子市今在家

美濃みの村の南にあり、東を佐陀さだ川が北流する。日野川東岸の古代条里の遺構がたどれる地域の一画を占め、上坪うわつぼ四反畑したんばた八反田はつたんだなどの字名が残る。村名から中世以降再開発された集落と推定され、日野川の氾濫によって荒廃していた地が、他地域からの開拓集団によって再び耕地化したのであろうか。拝領高は五六一石余、本免四ツ九分。倉吉荒尾氏の給地であった(給人所付帳)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高六一七石余、竈数五二。「伯耆志」の家数五六・人数二三〇、社倉が置かれていた。産物として木綿・鰌をあげる。藪役銀一三匁四分を課されていた(藩史)


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]鳥取市西今在家にしいまざいけ

きた村の南、有富ありどめ川左岸に位置する。「因幡志」は南西のなか村まで一五町と記す。天文一四年(一五四五)二月吉日の広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)社家肥塚家の檀那村付帳に「いまさいけ一ゑん」とみえ、当地にあたるとみられる。藩政期の拝領高は三〇九石余、本免五ツ六分。藪役銀六匁・山役銀三匁五分が課されていた(藩史)。落合氏・多田氏・福田氏・渋谷氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」では家数二四。天保一四年(一八四三)の村々人数増減書上帳(加藤家文書)によると男五〇・女四五。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]河原町今在家

北流する千代川と西流する支流八東はつとう川の合流点付近に位置し、西は徳吉とくよし村。支村として一軒家いつけんやがある(因幡志)。拝領高二四五石余、本免五ツ六分。乾氏・池田氏の給地があった(給人所付帳)。宝暦一一年(一七六一)の巡見使案内懐中鑑(西郷小学校蔵)による家数二八。「因幡志」では家数四五、産物は階田紙・鼻紙。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高三六一石余、竈数三八。藪役三匁五分余・川役二石を課されていた(藩史)。村内に御立藪があった(文政一〇年「八上郡御立山絵図面帳」県立博物館蔵)


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]東予市今在家

周桑しゆうそう平野の中山なかやま川の左岸河口に位置する新田集落。周桑郡小松こまつ町境にあり、広江ひろえ川の南の低地で標高二メートル。広江村の東南に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の周布郡の項に「今在家村」とみえ、石高は五三七石九斗五升五合とある。

明治一四年(一八八一)の「周布郡広江村地誌」によると、区域は東西一四町二六間、南北七町三五間とあり、もと玉之江村と一村であったため両村の飛地が多く、錯綜している。玉之江村には田地三町四反八畝一六歩、畑地三反九畝九歩の飛地があった。明治一四年七月改の「伊予国周布郡玉之江村誌」によると

<資料は省略されています>

とある。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]豊中市今在家町・上津島こうづしま一丁目・南今在家みなみいまざいけ

猪名いな川沿いに上津島村の南にある。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図に「今在家」とみえるが、高は上津島村など九村として一括されている。元和初年の摂津一国高御改帳では「椋橋之庄十ケ村之内」三千四五一石余(旗本大島茂兵衛領)に含まれる。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳に「今在家村椋橋庄」とみえ、高一七三石余、幕府領。以後幕末まで幕府領であったと推定され、文化七年(一八一〇)高槻藩預地となる(「大坂・高槻触状留帳」池上家文書)。村高は享保二〇年(一七三五)摂河泉石高調では一六六石余。安永四年(一七七五)の差出明細帳(浅井家文書)によると、田反別九町八反余、うち八町歩余が稲と麦の二毛作、一町余が稲の単作。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]倉吉市今在家

上福田かみふくだ村の北方、久米くめはら台地上に位置する。八橋やばせ往来が通る。拝領高は一二五石余、本免四ツ八分。村上氏の給地があった(給人所付帳)。寛政年間(一七八九―一八〇一)の久米郡御通筋厘付帳(県立博物館蔵)では本田高一三七石余(うち畑高二〇石余)・新開高一四石余(請免二ツ二分)を加え、今高一五二石余、物成六一石余。家数二一、男六七・女三八、牛一〇。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]東住吉区今川いまがわ一―八丁目・杭全くまた五丁目など

住吉郡に属し、平野郷ひらのごう町散郷四ヵ村の一(平野区の→平野郷町新在家しんざいけ村の南にあり、西は富田とんだ新田。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には狭山さやま(現南河内郡狭山町)西井路筋に村名がみえる。同一九年大坂冬の陣の折、徳川・豊臣双方の間で当地の陣取り争いが行われて焼亡、陣後復興され、そのときの建家五軒(「雑記」土橋家文書)


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]松山市今在家町いまざいけまち

松山平野の南平坦部に位置する農村。東は南久米みなみくめ村・窪田くぼた村、西は土居どい(久米郡)越智おち村・星岡ほしのおか村、南は土居村(久米郡)、北は北久米村・南久米村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の久米郡の項に「今在家村」とある。

古代には、久米郡石井いしい(和名抄)に属したと考えられる。中世には、河野氏の支配下にあり、鎌倉末期に土居氏の勢力が台頭した時には、その統治をうけたと推察される。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]水口町今郷いまごう

小里こざと村の東にあり、南を野洲やす川が西流、北は布引ぬのびき山の丘陵に続く。集落は東海道に沿って街村をなす。領主の変遷は小里村と同じ。寛永石高帳では高二一七石余、慶安二年書上では田一二四石余・畑屋敷二三石余・永荒川成山崩新道引六九石余。坂下宿水口宿間道法并村明細帳(土山町有文書)によれば、享保年間(一七一六―三六)には田一三町六反余・畑八町一反余・毛付高一四六石余、家数二八・人数一四三。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]鳥取市東今在家ひがしいまざいけ面影おもかげ一丁目

桜谷さくらだに村の北東、面影山東麓に位置する。文政年間(一八一八―三〇)の法美郡全図(県立図書館蔵)によれば同村境は直線的に区切られており、条里の区画に準じたものと考えられる。拝領高は二八五石余、本免は六ツ四分。藪役銀二匁六分余・宇倍野山役米四斗余を課されており(藩史)、高橋氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によれば高三二〇石、竈数二〇。文政六年の勘定目録(田中家文書)では朱高三二九石余、物成一六三石余。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]湖東町今在家

平柳ひらやなぎ村の西、平松ひらまつ村の北に位置する。天正三年(一五七五)八月二〇日の加藤次左衛門尉沙汰状写(中野共有文書)に村名がみえる。同六年一〇月日の今在家惣書状案(蛇溝町共有文書)によれば、「小田苅山越商買」を往古より今在家で取次いでいる。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名がみえ高二三九石余。元禄八年大洞弁天寄進状によれば男八三・女九二。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]岡山市今在家

新屋敷しんやしき村の北西にあり、東は国府市場こくふいちば村、西端を旭川が南流し、渡場があった。東部国府市場村境に国長こくちようという地名があり、国府所在地であったと考えられる。寛永備前国絵図に村名がみえ、高一一一石余。「備前記」によると平場にある村で、枝村として西今在家をあげる。「備陽記」によると岡山城下京橋きようばしまで道程一里・船路一里。田畑二五町一反余、家数七八(寺とも)・人数四一九。文化年間の「岡山藩領手鑑」によると直高五三六石余、蔵入と家臣二人および国清寺の給地。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]赤碕町西宮にしみや

大石おおいし村の南に位置する。拝領高は一五四石余、本免は四ツ九分。藪役銀二匁三分を課されていた(藩史)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」によれば高一六四石、竈数一六。幕末の六郡郷村生高竈付では生高一六六石余、竈数一一。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]和泉市芦部あしべ

一条院いちじよういん村の南、槙尾まきお川の右岸にある。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳によると、高三〇八石余、幕府領。寛文二年(一六六二)から延宝六年(一六七八)まで大坂城代青山宗俊領。貞享元年(一六八四)以後の領主の変遷は今福いまふく村に同じ。


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]古賀市今在家・いましよう三丁目

青柳あおやぎ川の東岸に位置し、北西は古賀村。小早川時代の指出前之帳では今在家村の田二〇町九反余(分米一九八石余)・畠一町余(分大豆七石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高五五四石余(慶長石高帳)。元禄五年(一六九二)には高四六〇石余、家数一五・社一、人数一五八(田圃志)


今在家村
いまざいけむら

[現在地名]當麻町大字今在家

染野しめの村東方に所在。慶長郷帳の村高二四八・四五石、幕府領(代官北見勝忠)。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領となり、廃藩置県に至る。その間同藩の二割半無地高増政策により村高三一五・五七石に増加。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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