1867年江戸(東京)生まれ。本名・金之助。帝国大卒。愛媛県尋常中学(松山中学)、熊本の五高などで英語を教えた後、英語研究のため33歳で英国留学。帰国後、一高、東京帝国大で教えた。1905年「吾輩は猫である」の連載を開始、松山中学での経験を基にした「坊っちゃん」を06年に発表。翌年に新聞社に入社し創作に専念、「三四郎」「それから」「行人」「こころ」など数々の名作を残した。持病の胃潰瘍が悪化し「明暗」連載中の16年に死去。(共同)
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小説家。本名金之助。慶応(けいおう)3年1月5日(新暦2月9日)に江戸牛込馬場下横町(東京都新宿区牛込喜久井町)に生まれた。
[三好行雄]
父は同町一帯を支配する名主小兵衛直克(こひょうえなおかつ)、母千枝との5男3女の末子であった。父母晩年の子として疎まれ、生後まもなく里子に出され、続いて塩原昌之助の養子になった。9歳のとき養父母が離婚したため夏目家に帰ったが、父母はかならずしも温かく迎えなかった。肉親の愛に恵まれなかった幼時の原体験は漱石を他人の愛情に敏感な内向型の人間に育て、また、肉親のなかにさえ他者をみる非情な人間観を培った。後年の漱石文学が愛とエゴイズムの種々相を描くことになる遠因の一つである。初めは漢学好きの少年として二松学舎(にしょうがくしゃ)などに学んだが、成立学舎を経て大学予備門(東京大学教養学部)に進むころから英文学研究を生涯の仕事として選び、1890年(明治23)に帝国大学文科大学(東大文学部)英文学科に入学した。予備門時代に正岡子規(まさおかしき)を知り、漢詩文を介して親交を結び、俳句の手ほどきを受けた。1893年大学を卒業、一時大学院に籍を置いたが、東京高等師範学校講師、第五高等学校教授を経て、1900年(明治33)には文部省から英語研究のためイギリス留学を命じられるなど、英文学者としての道は順調に伸びていった。その間、1895年から翌年にかけて愛媛県の松山中学校の教師を勤めたが、その体験は『坊つちやん』(1906)に生かされている。
[三好行雄]
イギリス留学は足掛け3年に及んだ。帰国後、1903年(明治36)に第一高等学校教授に就任、兼ねて文科大学の講師として英文学を講じた。大学での講義をまとめた『文学論』(1907)と『文学評論』(1909)は、日本人の手になる最初の英文学研究として評価が高い。しかし、漱石自身は早くから東洋の伝統的な文学精神と英文学のパトス(情念)との矛盾に悩み、日本人として異国の文学を研究することの困難と不安を感じ続けていた。教師生活にも耐えがたい嫌悪を覚えるようになった。加えて、1896年に結婚した妻鏡子との不和、旧養父母との金銭上のトラブルなど家庭内の心労も重なり、学生時代からの神経衰弱が高じて、強度の発作に悩むことも多かった。当時の危機的な日々はのちに『道草』(1915)で描かれるが、そうした暗鬱(あんうつ)な心情のカタルシスとして書かれたのが、処女作の『吾輩(わがはい)は猫である』(1905~1906)である。自他を含めて、現実の地平に集う衆愚の生活相が鋭く風刺され、辛辣(しんらつ)に笑い飛ばされている。近代文学に類のないユニークな作風で、闊達(かったつ)自在な語り口と相まって多くの読者を集め、小説家としての地位を不動のものにした。併行して『倫敦塔(ロンドンとう)』や『幻影(まぼろし)の盾』(ともに1905)などのロマンチックな短編も書き継がれ、『坊つちやん』では多感、直情のさわやかな青年像の創出に成功した。
[三好行雄]
初期の文学観は『草枕(くさまくら)』(1906)に具体化されている。「非人情」の美を求める画家の感想に託して、煩わしい日常生活を逃れ、趣味と唯美の世界に遊ぶ「彽徊(ていかい)趣味」をよしとしたのである。しかし、漱石はやがて小説家としての自覚を深めるとともに、出世間の芸術観を自ら否定し、現実と正面から対決する文学を目ざすに至った。同時に、創作に生涯を賭(か)ける決意を固め、1907年に教職を辞して朝日新聞社に入社した。入社第一作の『虞美人草(ぐびじんそう)』(1907)は誇り高い自我の女を創造して利己と道義の対立を描いているが、この作あたりから漱石の作風は明瞭(めいりょう)に変化し、日本の近代社会に潜む矛盾や葛藤(かっとう)を正面から描き出そうとする方向に向かった。『三四郎』(1908)では純朴な青年の愛の形とともに、「迷羊(ストレイシープ)」に似た青春の危うさが描かれ、『夢十夜』(1908)も自分のみた夢に擬して、同時代文明の批判や人間性の謎(なぞ)を語っている。また、『三四郎』のヒロインを通じて問われた個の自立と我執の問題は、さらに『それから』(1909)と『門』(1910)の三部作に発展し、愛をめぐる人間心理の明暗を執拗(しつよう)に追求するテーマの端緒を開くことになった。『それから』は姦通(かんつう)という極限状況を設定して性愛の倫理的根拠を探り、『門』は背徳によって結ばれた夫婦の浄福と不安を描いて、癒(い)やしがたい近代人の孤独を彷彿(ほうふつ)する。漱石はやがて『現代日本の開化』(1911)について講演し、西欧列強の圧力によって開国した性急な近代化の外発性を厳しく批判することになるが、そうした同時代文明への懐疑と知識人の命運の洞察とに、漱石文学の原点があった。
[三好行雄]
1910年、漱石は胃潰瘍(いかいよう)の療養に赴いた修善寺(しゅぜんじ)温泉で、大量の吐血のため人事不省に陥り、いわゆる「三十分の死」を経験した。その間の心情は『思ひ出す事など』(1910~1911)に回想されているが、「死すべき者」としての人間認識がさらに深まるとともに、我執への批判もいっそう徹底して、『彼岸過迄(ひがんすぎまで)』(1912)以下『行人(こうじん)』(1912~1913)、『こゝろ』(1914)を経て『道草』(1915)、『明暗』(1916)に至る一連の知識人小説が書かれることになる。『彼岸過迄』は軽い筆致の作品だが、実生活で幼い娘を亡くした作者の感慨が基調に沈み、死者のあわれと対照して浮薄な生の諸相が強調される。『行人』は傲慢(ごうまん)な自我に憑(つ)かれた知識人の孤独地獄を描いて、我執にとらわれた愛の不毛を告知する。他方、『彼岸過迄』と『行人』の間に明治帝の崩御と乃木希典(のぎまれすけ)の殉死があり、漱石はとくに乃木の殉死に大きな感動を受けた。『こゝろ』はその感動を契機として書かれた作品で、徹底した自己否定を貫き、他者と自己を同時に傷つけるエゴイズムの限界を見極めた主人公は、大正という新しい時代を迎えて「明治の精神」に殉死する。続く『道草』ではイギリス留学から帰国後の数年間に題材を求め、実生活の記憶を再構成しながら相対世界の暗鬱な精神的風景画が描かれている。いずれも、自己の思想の「時勢遅れ」(こゝろ)を自覚しながら、なお現在へかかわるための倫理的根拠を確認しようとする意図が読み取れる。「則天去私」の心境について語り始めたのも、同じころである。漱石はこうして、我執を超える絶対の倫理を憧憬(しょうけい)しながら、人間存在の深奥に潜む暗い部分を直視する『明暗』を書き始めた。日常のさまざまな人間関係のはらむ利害と愛憎、打算と策略のおぞましい人間喜劇を執拗に追い続けた長編であるが、起稿後まもなく宿痾(しゅくあ)の胃潰瘍が悪化し、ついに起(た)てなかった。大正5年12月9日、大内出血を繰り返して没し、病臥(びょうが)の間に書き継がれた『明暗』は未完のままに中絶した。享年50歳であった。
[三好行雄]
漱石の文学は虚構と想像力による文学空間の提示という、本格的な客観小説の方法を最後まで失わず、また、強健な思想性と倫理性を貫くことで、同時代の自然主義とは明確な一線を画した。東洋と西洋の亀裂(きれつ)、愛とエゴイズム、知識人の孤独と不安など多彩な主題を描いたが、それらは現代の生と状況にもかかわる重要な問題として多くの読者を集めている。長編小説のほか、『文鳥』『永日(えいじつ)小品』などの短編や俳句・漢詩の秀作もある。漱石はまた多くの門下生に慕われ、師弟交歓の「木曜会」を週一度、自宅で開いた。小宮豊隆(とよたか)、森田草平、鈴木三重吉、阿部次郎、内田百閒(ひゃっけん)、野上弥生子(やえこ)、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)らの俊秀が育ち、大正期の市民文学に大きな影響を与えている。東北大学に旧蔵書が架蔵され、熊本市とロンドンに記念館がある。
[三好行雄]
『『漱石全集』全35巻(1978~1980・岩波書店)』▽『小宮豊隆著『夏目漱石』(1938・岩波書店/1953・岩波新書)』▽『唐木順三著『夏目漱石』(1966・創文社)』▽『江藤淳著『決定版夏目漱石』(1974・新潮社)』▽『荒正人編『漱石研究年表』(1974・集英社)』▽『三好行雄他編『講座夏目漱石』全5巻(1981~1982・有斐閣)』
作家,英文学者。江戸牛込馬場下横町の名主夏目小兵衛の五男に生まれた。本名は金之助。生後1年で塩原昌之助の養子になり,幼年期を浅草界隈で送った。また,そのころ疱瘡にかかり,大人になってからも鼻の頭に痘痕が残った。このことを〈彼は暗い櫺子(れんじ)のうちで転げ廻った。惣身(そうしん)の肉を所嫌はず搔き挘(むし)って泣き叫んだ〉と《道草》に記している。孤独な幼年時代の記憶は暗い色調に覆われている。10歳のとき養父母の離婚のため生家に戻ったが,やすらかな帰属感を抱くことはできなかった。やがて東京府第一中学に入学するが,まもなく中退,二松学舎に入り漢籍を学んだ。漱石の漢詩文の趣味と素養はこの時期に身についた。しかし文明開化の世に好きな漢詩文で身を立てることは諦め,成立学舎に入って英語を学び,1884年大学予備門に入学した。学制改革により予備門が改称された第一高等中学本科に進むにあたり,専攻を英文学に決めたとき,漱石は趣味にもとづく漢文の文学よりは国家有用の事業としての英語の文学を生涯の仕事としようとした。しかし〈洋文学の隊長〉たらんとの当初の野心は,まもなく〈英文学に欺かれたかの如き〉失望に変わった。英文学への懐疑は,東京帝大英文科に進み,卒業して後もつのる一方で,自分の生存理由を疑う人生的懐疑へ深まり,何ものかに追跡されている迫害妄想を抱くにいたった。かくて1895年高等師範学校の職を辞し,松山中学の英語教師として都落ちするという,常識からすれば不可解な行動に出た。松山で作った漢詩の〈大酔醒め来りて寒さ骨に徹し,余生養い得て山家に在り〉という句などから推察すれば,松山行きには自己埋葬の衝動が感じられる。翌年,熊本の第五高等学校へ移り,以後4年間,正岡子規の影響もあって多くの俳句を作っている。1900年文部省の命によりイギリス留学の途に上った。漱石は在学以来苦しんだ英文学への懐疑を根底より解決しようとし,下宿にこもり食費を節約して書物を買い込み,猛勉強を始めたが,激しい神経衰弱に陥り文部省の報告書を白紙のまま本国へ送り,そのため漱石発狂のうわさが飛んだ。漱石が突き当たったのは彼我の文学の言葉の違い,それも感性に訴える面での〈趣味taste〉の違いに由来する了解不可能という壁であった。この宿命的な壁を除くことはできないが,論理化することによって日本人として英文学に対する主体的態度を確立しようとし,歴史,心理学,社会学,文明論にわたる読書と思索を続けた。それは英文学の範囲を超えた文学の原理的考察であり,東西文明の根底的な比較であった。
03年帰国した漱石は,東京帝大英文科講師として〈英文学概説〉の講義を,ロンドンでの悪戦苦闘の思索をもとにおこなった(《文学論》)が,学生には難解で不評だった。一方漱石の神経衰弱は帰国後も続き,しばしば幻聴に悩み,被害妄想によるかんしゃくの破裂となり,一時妻子と別居するにいたった。このときの苦しみは,05年から雑誌《ホトトギス》に高浜虚子のすすめで発表した《吾輩は猫である》に,滑稽と諧謔を交えて描かれ,晩年の《道草》には自己を俎上にのせて解剖する苛烈さで描かれている。《吾輩は猫である》は予想外の反響を呼び,作家漱石の文名があがった。この年《倫敦塔(ロンドンとう)》《薤露行(かいろこう)》を《猫》と並行して書き,翌年には《坊っちゃん》《草枕》を発表し,せきを切ったような旺盛な創作意欲は,大学教師との両立を困難にした。そして漱石を慕って家に出入りする小宮豊隆,森田草平,鈴木三重吉ら教え子を中心とする弟子たちのために木曜日を面会日とした。いわゆる木曜会は06年に始まり,漱石の死の直前まで続き,晩年には芥川竜之介,久米正雄,松岡譲らが加わった。
07年漱石はいっさいの教職を辞めて東京朝日新聞社に入社し,職業作家になった。すでに40歳であった。入社第1作《虞美人草》は,一文を草するのに俳句を一句ひねるがごとき苦心を重ね,美文に陥る嫌いはあるが,一見古めかしい勧善懲悪の意匠の下に卓抜な文明批評をおこなっている。つづく《三四郎》(1908),《それから》(1909)では文明批評とからませた人間の存在追求に深さを増し,《門》(1910)にいたって片隅に生きる男女の日常を描いて,澄んだ静謐(せいひつ)な形而上的感触を暗示する作風を示した。しかしこの年の8月,宿痾の胃潰瘍から転地療養先で大吐血をし,生死の境を彷徨した。いわゆる〈修善寺の大患〉で,《思ひ出す事など》(1910-11)はこの体験のすぐれた結晶である。この後,《彼岸過迄》(1912),《行人(こうじん)》(1913),《こゝろ》(1914)で人間の孤独と〈我執〉を追求する深刻な作風を示した。晩年の漱石は,自伝的小説《道草》(1915)で過去の自己を俎上に,その意味を問い,《明暗》(1916)で老練な作家的技量を駆使した最大の長編を書きすすめたが,胃潰瘍の発作のため未完のまま永眠した。漱石最晩年の心境として〈則天去私〉が有名だが,漱石自身に格別の説明はない。《明暗》に暗示されている作家的自由の境地や並行して書かれた漢詩群に即して考えるべきで,固定的な理念とみるのは,晩年の漱石の実像にそぐわない。
執筆者:桶谷 秀昭
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(平川祐弘)
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明治・大正期の小説家,英文学者
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1867.1.5~1916.12.9
明治・大正期の小説家。本名金之助。江戸生れ。東大卒。幼時塩原家に入るが,養父母の不和から生家に戻る。大学の同級に正岡子規がいた。1895年(明治28)松山中学に赴任。翌年五高教授に転任。1900年文部省留学生としてロンドンに留学,英文学研究にたずさわる。03年一高教授兼東京帝国大学文科大学講師。05年「吾輩は猫である」と「倫敦塔(ロンドンとう)」などの短編を発表,文壇に登場。「坊つちやん」「草枕」などで余裕派とよばれた。07年東京朝日新聞に入社,文芸欄で活躍する。「三四郎」「それから」「門」の中期三部作を発表。大病をへて「こゝろ」「道草」「明暗」などで苦悩する近代知識人の内面を描いた。数種の全集がある。
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…彼女の作品はイギリス家庭小説の頂点を示しているが,外国への影響はほとんどないと言ってよい。しかし夏目漱石が彼女の作品を激賞し,晩年彼の〈則天去私〉の精神を体現するものとしてオースティンの小説をあげているのは注目すべきことである。【海老根 宏】。…
…やがてそれは,個性的な表現をめざす若い画家たちの前に壁のように立ちはだかることになる。1912年,夏目漱石が文展の没個性的な傾向や実質のない権威主義を批判して書いた《文展と芸術》はよく知られている。そして14年,二科会と再興日本美術院が在野の団体として旗あげするのは,文展の閉鎖性に理由がある。…
…この殉死は,一部の知識人からは時代錯誤として批判的に見られたが,一般には美談とされ,やがて政府により軍国主義の風潮を鼓吹するために利用されることともなった。さらに重要な影響としては,森鷗外と夏目漱石とがこの事件に強い感銘を受け,鷗外は《興津弥五右衛門の遺書》や《阿部一族》を,また漱石は《心》を書いたことが注目される。それはこの事件が,高い西欧的教養を積んだ二人の文学者の内心に,近代文明と伝統的文化との関係についての深い反省をよび起こしたことを意味している。…
…日本では《新体詩抄》(1882)で〈軽騎兵隊進撃の詩〉が訳出されてから,テニソン・ブームが起き,武島羽衣,土井晩翠,岩野泡鳴らがその思想的影響をうけている。夏目漱石も《文学論》で〈愛の手に断たれたる余の心を慰めたるは《モード》と《イノック・アーデン》なり〉と熱い告白をしている。漱石の《薤露行(かいろこう)》(1905)は,テニソンのアーサー王物語のみごとな翻案である。…
…デフォーの経済観は《ロビンソン・クルーソー》にも反映しており,マルクスやM.ウェーバーの著書にも経済人ロビンソンへの言及がある。日本では夏目漱石が《文学評論》(1909)で初めてデフォーを本格的に紹介している。デフォーは日常の事実以外は何も書いていないとして,漱石は批判的ではあるが,V.ウルフが評したようにデフォーは〈事実を描く天才〉といえよう。…
… 吉村冬彦の筆名で随筆もよくした。文学への開眼は五高在学中の夏目漱石との出会いにあった。教室で英語を習い,自宅で俳句を学び,その紹介で上京後正岡子規を訪ね,俳句や写生文を《ホトトギス》に寄せるにいたった。…
…《迷信論》(1646)は古代ギリシア・ローマ以来の西欧の迷信を無類の博学でもって列挙し,しかもそれを責めるよりはいつくしむ特異な姿勢でつらぬかれている。《壺葬論》(1658)の名文に盛られた死生観はまさしく珍とするに足り,夏目漱石が《三四郎》のなかでその一節の名訳をこころみたゆえんである。英文学史上屈指の文章家であった。…
…著者・執筆者が作品発表にあたって本名のかわりにつける作者名。筆名ともいう。中国では古くから,親のつけた実名・幼名のほかに自称の字(あざな)や雅号が文人のあいだで尊重されてきた。日本でもとくに詩文については雅号で互いに呼び合うという慣習が続いたが,その雅号もペンネームとみることができる。ヨーロッパでも近代になると,また日本でも明治時代になると,発表する作品ごとに筆名を変えるため一人で生涯におびただしい数の筆名をのこした作家・評論家が出現した。…
…晩年は文壇の大御所として尊敬された。夏目漱石が《虞美人草》でメレディスの文体を模したことは有名である。【海老根 宏】。…
…フランスのH.テーヌ,H.ベルグソン,前述のカザミアンなど,多くの学者,思想家は,イギリスこそ世界で最も優れたユーモリストを,最も多く生み出した国だと認めているが,その理由は上記により自明のこととなったであろう。 日本でも夏目漱石,坪内逍遥などの文学者,堺利彦などの社会主義者は,正しい意味でのユーモリストと呼ぶに値するが,彼らはイギリスの文学や文化に深い関心をもち,それから影響を受けた人たちであった。《吾輩は猫である》の著者漱石は,けっしてただ笑ったり,笑わせるだけの人ではなく,1905年東京帝国大学での18世紀英文学講義(後に《文学評論》として公刊)の中で,〈ヒューマーとは人格の根柢から生ずる可笑味〉と断言した。…
… 日本においては明治20年代以来,ワーズワースの紹介,翻訳,論考が多く行われてきた。最初期には山田美妙,植村正久などの名が挙げられるほか,夏目漱石が《英国詩人の天地山川に対する観念》の中で他の詩人と比較してワーズワースの自然観を的確に把握した。その後,島崎藤村,宮崎湖処子が続くが,より熱烈な傾倒は国木田独歩において顕著であり,論考や注釈のほか,短編小説《春の鳥》(1904)における翻案が見られる。…
※「夏目漱石」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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