大光寺(読み)だいこうじ

精選版 日本国語大辞典 「大光寺」の意味・読み・例文・類語

だいこう‐じ ダイクヮウ‥【大光寺】

宮崎県宮崎郡佐土原町にある臨済宗妙心寺派の寺。山号は仏日山。建武二年(一三三五)伊東氏の一族田島祐聰が岳翁長甫を開山に創建。田島氏の菩提寺。大光寺の耳仏。

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日本歴史地名大系 「大光寺」の解説

大光寺
だいこうじ

[現在地名]佐土原町上田島

旧佐土原城下の東方、愛宕あたご山の北東麓にある。仏日山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は十一面観音。開基は建武二年(一三三五)が通説だが、文書上では貞和三年(一三四七)以降の存在が確認される。開基以前の古文書二〇通は旧来の児湯こゆ郡周辺の文書で占められ、大光寺が周辺寺社の権限を田島伊東氏(田島氏)を媒介に集積していったことを示している。開山檀那田島伊東氏とのかかわりが深く、開山は田島祐聡に迎えられた嶽翁長甫(以上、安政五年「佐土原藩寺院本末開山調写」大安寺文書など)。なお大光寺文書から分離した文書群に、伊予の西福寺文書がある。

〔中世〕

僧源淵建仁寺常楽庵造塔勧縁疏(大光寺文書、以下中世は断りのない限り同文書)の康安二年(一三六二)三月五日の追記によると、山号は仏日名山、寺名は大光自国禅寺。貞和三年一〇月二五日の伊東祐聡寄進状によって大光寺開山嶽翁長甫に「三田井之内横枕」の田四反が寄進されており、当寺はこの時までには成立していた。嶽翁長甫は伊勢国中原に生れ、京都東福寺で乾峰士曇の弟子となり、貞和三年頃に大光寺の開山として下向したらしい(「乾峰和尚語録」五山文学新集)。同四年八月には木造騎獅文殊菩薩が康俊(慶派の奈良興福寺大仏師)の手で造営され(同像底板銘)、同年九月には宝殿が造立されており(同月一六日大光寺自国宝殿縁起)、この頃に寺観は充実度を増していたとみられる。山門の額は年月日未詳の乾峰士曇書状に山門額を書送ったことがみえ、乾峰士曇の筆になる。この間、長甫と士曇の交流は深く、士曇は再三にわたり長甫に書簡を送って上洛を促している。京都からみた大光寺の役割は、文和元年(一三五二)頃のものとみられる六月吉日の乾峰士曇書状に記されるように、京都天龍寺領国富くどみ庄の維持が中心であったとみられる。

大光寺
だいこうじ

[現在地名]長崎市鍛冶屋町

大音だいおん寺の南東にある。大谷山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。慶長一九年(一六一四)龍造寺氏一族の三浦弥助が開基となって創建したと伝える。弥助は発心して京都本願寺に行き、慶了と号し、のち伊良林いらばやし郷に庵室を営み、この年に一宇を建立、本願寺末として大光寺が開創されたという。元和七年(一六二一)長崎津の大光寺慶了が木仏を下付された(木仏之留)。慶了は長崎五人僧の一人として布教に努めた。

大光寺
たいこうじ

[現在地名]春野町花島

花島はなじまの南東、もり町との境界の春埜はるの山北東にある。春野山と号し、曹洞宗。本尊は大梵天王・帝釈天王・閻魔大王の三体。享和三年(一八〇三)刊の「遠江古蹟図会」によると、養老二年(七一八)行基により開かれた真言宗の大寺と伝える。戦国期に兵火にかかり、さらに山津波で廃れたが、その後修験吉祥院別当として花島村などの人々により祀られた。慶長年間(一五九六―一六一五)瑞雲ずいうん院六世泰洲のとき吉祥院の承諾を得て古堂を修復、弟子を常住させ、大光寺と改称し曹洞宗の寺として再興した。

大光寺
だいこうじ

[現在地名]斐川町上直江

上直江かみなおえの中央、岩野いわの原に位置する。岩野山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。かつては大円だいえん寺と称した。弘仁年中(八一〇―八二四)岩野某の創建と伝え、妻薬師とよばれる薬師像を祀っていた。宝永三年(一七〇六)岩野山の上に薬師堂を建て、出雲郡中の信仰の対象となった。明和四年(一七六七)僧薫随が常念仏堂を建立し、楯縫たてぬい郡の鰐淵がくえん寺、神門かんど郡の般若はんにや(現出雲市)と交替で三年に一度千日の大回向を郡中で行うようになった。

大光寺
だいこうじ

[現在地名]上里町勅使河原

神流かんな川右岸の平野部、JR高崎線の南に位置する。勅使山と号し、臨済宗円覚寺派。本尊は聖観音。建保三年(一二一五)丹党の勅使河原権三郎有直が創建、勧請開山は明庵栄西といわれ、応永一八年(一四一一)に上野国泉龍せんりゆう(現群馬県伊勢崎市)白崖宝生により再興されたと伝える。「風土記稿」に「姑ク伝ル儘ヲ記セリ」として、「応永十八年八月十八日勅使藤野信雄卿、開山白崖ヘ普覚円光禅師ノ勅号ヲ賜ハラントテ下向アリシニ、折シモ神流川水増テ溺死セリ、ヨリテ其遺骸ヲ当寺ニ葬リシ故、山ヲ勅使ト銘シ、村名モコレヨリ名付、寺号モ彼法諡ヲ用ヒシト云、信雄ノ法諡ヲ大光寺殿勅使神流居士ト号シ、コレヲ開基ト称ス」とみえる。

大光寺
だいこうじ

[現在地名]上野市寺田

おか山の頂上付近にあり岡山と号し本尊十一面観音。真言宗豊山派。岡寺・大岡寺とも書く。滋賀県甲賀郡水口みなくち町の大岡だいこう寺とともに、甲賀三郎兼家が伊賀守護の時、護持仏を本尊として建立、寄進した寺領一帯を寺田てらだと称したという伝説がある(伊水温故)。また「三国地志」は「天平勝宝五年二月初午ノ日、服部康氏夢想ニ依テ奏聞ヲトゲ、僧覚真ヲ請ジテ申請シテ開祖トス」との伝承を記す。

大光寺
だいこうじ

[現在地名]東区泉二丁目

しん町の北側にある。妙瑞山と号し、日蓮宗。本尊は法華経題目宝塔。初め本妙ほんみよう寺といい、上野国名和なわ(現群馬県)に、天文年間(一五三二―五五)日伝によって創建。慶長年中(一五九六―一六一五)同国厩橋うまやばし(現前橋市)へ移り、大光寺と改称。甲府を経て清須きよす(現西春日井郡清洲町)に転じ、田中大光たなかだいこう寺とよばれた。慶長一五年現在地へ(名古屋寺社記録集)

大光寺
だいこうじ

[現在地名]岡山市足守

陣屋町を西に離れた山際にある。法雲山と号し臨済宗建仁寺派。本尊は千手観音。足守藩主木下家の菩提寺で、寺名は四代藩主利当の法名大光院殿による。寺領として七〇石が付け置かれた(「賀陽郡御道筋諸品書上帳」足守木下家文書)。山門は深茂ふかもから移したと伝える薬医門で、寺内最古の建物と伝える。本堂は嘉永三年(一八五〇)宝福ほうふく(現総社市)からの移築。本堂西側の一段高い所にある霊廟は県指定重要文化財。桁行三間・梁間二間、単層入母屋造・桟瓦葺。

大光寺
だいこうじ

[現在地名]春日井市上条町

白山神社の西側に並び、明治初めの神仏分離までは神宮寺であった。朝宮山と号し、天台宗山門派。本尊は十一面観世音。創建は建保六年(一二一八)上条じようじよう城主の小坂孫九郎雄吉が朝宮あさみやより移し僧慈円を招請し、七堂一二坊を建立した。天正一二年(一五八四)小牧・長久手の戦で堂宇を焼失した。正保二年(一六四五)僧俊英によって、観音堂その他の建物が再建された。

大光寺
だいこうじ

[現在地名]泉佐野市中庄

浄土宗。己心山と号し本尊は阿弥陀如来。「蓮門精舎旧詞」によれば創建については不明だが、慶長七年(一六〇二)崇蓮社玄誉伝可の中興と伝える。伝可は阿波国三好氏の一族で、佐野の上善じようぜん寺純誉のもとで剃髪、なかしようの新川賀月を大檀那として中興した。もと真言宗で大高だいこう寺と称していたが中興にあたって浄土宗に改宗、字も大光と改めたという。

大光寺
だいこうじ

[現在地名]会津高田町藤家館 山王西

藤田ふじた集落の北にあり、常照山と号し、天台宗。本尊薬師如来。天正元年(一五七三)円識による再興と伝える。境内に高さ一・五九メートル、幅七一センチほどの板碑があり、梵字の下に延応二年(一二四〇)二月一九日の紀年銘がある。大光寺供養塔として県指定史跡。

大光寺
だいこうじ

[現在地名]赤堀町西久保

香堀山観行院と号し、天台宗。本尊勢至菩薩。開山は通秀と伝え、現住で四三世に及ぶ。慶安二年(一六四九)徳川家光の朱印状(当寺蔵)で一五石を与えられた。寛永一二年(一六三五)の勢至菩薩金像賛、貞享二年(一六八五)厨子の修理証文などを所蔵。

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百科事典マイペディア 「大光寺」の意味・わかりやすい解説

大光寺【だいこうじ】

宮崎県宮崎市にある臨済宗妙心寺派の寺。本尊十一面観音。1335年日向(ひゅうが)国伊東氏の一族田島祐聡が京都東福寺の岳翁長甫(がくおうちょうほ)を招いて氏寺として創建という。貞和(じょうわ)年間(1345年―1350年)伽藍・諸像などが造立された。江戸期に東福寺末を離れて京都妙心寺末になった。乾峰士曇(けんほうしどん)(開山岳翁の師)墨跡の《大光寺開堂祝偈》など6件,貞和4年の胎内銘がある騎獅文殊菩薩および脇侍像4体は重要文化財。

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デジタル大辞泉プラス 「大光寺」の解説

大光寺

宮崎県宮崎市、愛宕山の北東麓にある寺院。臨済宗妙心寺派。山号は仏日山、本尊は十一面観世音菩薩。1335年の開基と伝わるが、異説もある。南北朝時代の木造騎獅文殊菩薩像は国の重要文化財。

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世界大百科事典(旧版)内の大光寺の言及

【佐土原[町]】より

…1962年低開発地域工業開発地区に指定後,電気・自動車部品などの工場が進出し,宮崎市のベッドタウンとして宅地開発も進んでいる。重要文化財の騎獅文珠菩薩像を有する大光寺や巨田(こた)神社,日講庵跡,フェニックス自然動物園がある。名産に朝鮮から伝わったという佐土原人形がある。…

※「大光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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