旧佐土原城下の東方、
僧源淵建仁寺常楽庵造塔勧縁疏(大光寺文書、以下中世は断りのない限り同文書)の康安二年(一三六二)三月五日の追記によると、山号は仏日名山、寺名は大光自国禅寺。貞和三年一〇月二五日の伊東祐聡寄進状によって大光寺開山嶽翁長甫に「三田井之内横枕」の田四反が寄進されており、当寺はこの時までには成立していた。嶽翁長甫は伊勢国中原に生れ、京都東福寺で乾峰士曇の弟子となり、貞和三年頃に大光寺の開山として下向したらしい(「乾峰和尚語録」五山文学新集)。同四年八月には木造騎獅文殊菩薩が康俊(慶派の奈良興福寺大仏師)の手で造営され(同像底板銘)、同年九月には宝殿が造立されており(同月一六日大光寺自国宝殿縁起)、この頃に寺観は充実度を増していたとみられる。山門の額は年月日未詳の乾峰士曇書状に山門額を書送ったことがみえ、乾峰士曇の筆になる。この間、長甫と士曇の交流は深く、士曇は再三にわたり長甫に書簡を送って上洛を促している。京都からみた大光寺の役割は、文和元年(一三五二)頃のものとみられる六月吉日の乾峰士曇書状に記されるように、京都天龍寺領
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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…1962年低開発地域工業開発地区に指定後,電気・自動車部品などの工場が進出し,宮崎市のベッドタウンとして宅地開発も進んでいる。重要文化財の騎獅文珠菩薩像を有する大光寺や巨田(こた)神社,日講庵跡,フェニックス自然動物園がある。名産に朝鮮から伝わったという佐土原人形がある。…
※「大光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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