慈光寺(読み)ジコウジ

デジタル大辞泉 「慈光寺」の意味・読み・例文・類語

じこう‐じ〔ジクワウ‐〕【慈光寺】

埼玉県比企郡ときがわ町にある天台宗の寺。山号は都幾山。開創年代は延暦年間(782~806)、開山は鑑真がんじんの弟子の道忠と伝える。江戸時代寛永寺の末寺。法華一品経などは慈光寺経として国宝。坂東三十三所第9番札所。

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精選版 日本国語大辞典 「慈光寺」の意味・読み・例文・類語

じこう‐じジクヮウ‥【慈光寺】

  1. 埼玉県比企郡都幾川村にある天台宗の寺。山号は都幾山。宝亀年間(七七〇‐七八〇)、鑑真(がんじん)和尚の弟子道忠の開基と伝えられる。所蔵する法華一品経、阿彌陀経般若心経は国宝。坂東三十三所の第九番札所。

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日本歴史地名大系 「慈光寺」の解説

慈光寺
じこうじ

[現在地名]都幾川村西平

西平にしたいらの北部、小川おがわ町境にある都幾山(慈光山ともいう)の東側中腹にある。都幾山一乗法華院と号し、天台宗。本尊は十一面千手千眼観音。江戸後期の都幾山慈光寺実録(寺蔵文書、以下断りのない限り同文書)によれば、当寺は天武天皇一二年(六八三)に慈訓が慈光翁から周辺地を、春日翁より千手観音を授かり開いた観音霊場という。のちに役小角が来遊して西蔵坊を設け、その後鑑真の弟子道忠が堂宇を整えた。このため道忠を開山、役小角を根本開山とする。なお、観音堂は坂東三十三観音霊場の第九番札所。平安時代には清和天皇から「天台別院一乗法華院」の勅額を賜ったと伝え、貞観一三年(八七一)三月には上野国前権大目安倍小水麿の書写した大般若経六〇〇巻(小水麿経との称があり、現在、寺蔵の一五二巻は県指定文化財、ほかにも群馬県立歴史博物館蔵のものなど二〇巻以上が残される)が奉納されている。この写経は関東地方で作成された現存する最古の写経といわれている。このように平安時代、すでに関東の有力寺院となっていた当寺は、鎌倉時代にも引続き隆盛であった。

「吾妻鏡」文治五年(一一八九)六月二九日条によると、源頼朝は「武蔵慈光山」に持仏の愛染明王像を納め、別当厳耀ならびに衆徒等に奥州合戦の戦勝祈願を命じている。同年一〇月二二日、奥州合戦で勝利を納めた頼朝は鎌倉に帰る途次所願成就の御礼として当寺に愛染明王供米と長絹一〇〇疋を送っている(同書)。建久三年(一一九二)五月八日、鎌倉勝長寿しようちようじゆ院で営まれた後白河法皇の四十九日の仏事に、当寺は一〇〇僧中一〇僧を参列させている。


慈光寺
じこうじ

[現在地名]東大阪市東豊浦町

くらがり峠北方の山に囲まれた髪切こうぎりのはずれにある。境内は大阪府の顕彰名勝に指定されており、ホトトギスの名所として知られた(河内名所図会・五畿内物産図会)。真言毘盧舎那宗、山号髪切山、本尊大日如来。寺伝によると、役行者が大和国鬼取おにとり山で二妖賊を捕らえ前鬼・後鬼として使役するが、その頭髪を切り埋めた地に黄金の観音像と自刻の三六歳像を安置し創建したのに始まるという。この観音は「行者こゝに練行の時、当山坤の方四町に於て感得し給ふ、今、其地を観音嶽といふ」(河内名所図会)との伝承もある。「河内鑑名所記」は鬼を捕らえた場所を鬼取が嶽とし、観音は役行者自刻で、十社権現、役行者の笈・錫杖・鉞などがあると記す。なお両鬼の髪を切った所は「くすまろ石」とよばれ、当寺東方の生駒山に至る山道の傍らにあり、髪を埋めた所はとうげ集落の西方にあり精心田しようしんだとか鬼髪田きはつでんとよばれる。


慈光寺
じこうじ

[現在地名]徳島市福島一丁目

福島ふくしま地区北部、かつての本丁筋にある。黄竜山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は釈迦如来。寺伝によると蜂須賀至鎮が京都南禅寺の梅心を開山として招き、名東みようどう八万はちまん村に創建した広雲寺が前身で、慶長一一年(一六〇六)至鎮の生母生駒氏が没すると、城下に移してその墓所とし、生駒氏の法名(慈光院)を当てて寺名を慈光寺と改め、伽藍を完成させたという。寛永年間(一六二四―四四)には寺領二〇七石余を与えられており(寛永一八年忠英様御代両国内寺領社領等支配帳)、幕末の寺領は名東郡芝原しばはら村に一〇六石余、阿波郡山野上やまのうえ(現市場町)に一一三石余、同郡大野島おおのじま(現同上)に三六石余があった(旧高旧領取調帳)


慈光寺
じこうじ

[現在地名]村松町蛭野 滝谷

はく山の北の裾野にある。蛭野ひるの集落から滝谷たきや川沿いの参道を南へ、途中門前もんぜんの集落を経て約二キロの地点にある。曹洞宗太源派、明白山(または滝谷山)字慶院と号し、本尊は聖観世音菩薩。古くから「お滝谷さま」と呼称されている。耕雲こううん(現村上市)種月しゆげつ(現西蒲原郡岩室村)雲洞うんとう(現南魚沼郡塩沢町)とともに越後四大禅道場に数えられる。当寺は菊水の紋を用いる。勧請開山を傑堂能勝、実質開山を顕窓慶字とする。「日本洞上聯燈録」によると、応永二七年(一四二〇)に顕窓は幼くして耕雲寺で傑堂より得度したと記す。


慈光寺
じこうじ

[現在地名]堺市中之町東四丁

妙法みようほう寺の南東に位置し、浄土真宗本願寺派、山号無量山、本尊阿弥陀如来。寺伝によると文明五年(一四七三)円二坊賢智の開基。賢智は楠木太郎左衛門正吉と称し畠山義就配下の武将であったが、真宗しんしゆう寺を再建した樫木屋道顕に誘われて本願寺八世蓮如に帰依し一宇を建立したという。当初は紺屋こんや町にあったため紺屋道場と称された。賢智の子は観心かんしん(現河内長野市)で出家し京都の東寺に住していたが同じく蓮如に帰依して円浄と改め、和泉・紀伊・阿波などの当寺配下の末寺を支配したと伝える。


慈光寺
じこうじ

[現在地名]久慈市大川目町 新町

久慈川の中流左岸の山麓、久慈城跡の西に位置。遍照山と号し、清浄光しようじようこう(現神奈川県藤沢市)の末寺で、阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩を本尊とする。もとは天台宗であったが時宗二祖他阿真教の勧進によって改宗したものと伝えられる県北唯一の時宗寺院。五八世快輪の記録から、仁安三年(一一六八)に開かれたとされる。天正一九年(一五九一)九戸政実の乱で久慈氏が滅亡するとともに衰退の一途をたどったが、寛文四年(一六六四)八戸藩の創設により、大川目おおかわめを知行地とした久慈氏の支族摂待氏の保護を受けて再興したと伝える。


慈光寺
じこうじ

[現在地名]西区草津東三丁目

山号は普門山、日蓮宗。本尊は久遠実成釈迦如来。文安四年(一四四七)古江ふるえに禅寺として創建され、江戸時代に廃寺となった滋光じこう(茲光寺とも記す)を、元禄一四年(一七〇一)法華宗に改めて現在地に再興したという。

旧滋光寺は古江の海蔵かいぞう寺末で、跡地は海蔵寺境内地となり、草津くさつ城跡東南麓は滋光寺畑じこうじばたとよばれる。毛利氏重臣児玉氏の菩提寺で、跡地に同氏の墓所が残る。「芸藩通志」は「古江村海蔵寺の南慈光寺址に五輪石塔あり、防州大守実渓玄真居士、天正十四年丙戌九月廿一日没と刻す、実名詳ならず、又海蔵寺過去帖に児玉景栄、通称平左衛門、法名玉栄常珍、天正十一年十二月十一日、児玉就方、通称周防、法名月叟眼雪、天正十四年六月九日とありて、此二人の墓も旧此寺内にありしといふ、今所在を失へり」と記す。


慈光寺
じこうじ

[現在地名]交野市星田

西山浄土宗、山号繁栄山、本尊阿弥陀如来。創建年代は明らかでないが、麟空が文化三年(一八〇六)に記した開山旦玉位牌裏面の刻記によれば、もと天台宗であったが慶長年間(一五九六―一六一五)の兵乱で無住となったのを旦玉が大念仏の道場として復興したという。復興の時期は確かでないが本堂前お堂に祀る蓮弁形十三仏には「慶長十二年三月十五日」の年号と法名多数を刻む。旦玉の頃の念仏供養塔であろう。本堂以下諸堂の整備は宝暦年間(一七五一―六四)輪空のとき(当寺過去帳)で、享和三年(一八〇三)の星田村明細書(「星田懐古誌」所収)には、佐太さた(現守口市)の大念仏宗来迎らいこう寺末とし、本堂・庫裏・地蔵堂・薬医門を記す。


慈光寺
じこうじ

[現在地名]岡崎市下青野町 柳原

山門を入り、松と銀杏の大木の間を歩いて本堂に面し、右手に鐘楼・庫裏がある。撫松山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。かつてこの地は青野あおの郷に属し、額田ぬかた碧海へきかい幡豆はずの三郡に接して布教の条件に恵まれていたところから、古くから寺院が建てられ、碧海の寺または青野の御堂とよばれていたという。一説によると、聖徳太子の創立で碧海精舎慈悲光明寺と称されたという。嘉祥三年(八五〇)に慈覚によって再興され、一時は弥陀堂・観音堂・地蔵堂、それに僧房が並んで信仰の中心であった。


慈光寺
じこうじ

[現在地名]岩井市弓田

香取神社北東に所在。明王山と号し天台宗。本尊不動明王。「弓田ゆだのポックリ不動」として知られる。寺伝によると天平一八年(七四六)行基の高弟が開山し、法相宗で知恩ちおん院と称した。平将門が厄除けの守り本尊として信仰したと伝える。天台宗が日本に将来されると、すぐに改宗。天正四年(一五七六)下妻城主多賀谷氏と弓田城主染谷氏との戦いの時、本堂などすべて焼失したが、本尊不動明王は公孫樹の大木の中に難を逃れたと伝える。


慈光寺
じこうじ

[現在地名]宇都宮市塙田五丁目

県立図書館東の通称赤門あかもん通り北端にある。大悲山無縁寺と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。永正一三年(一五一六)宇都宮成綱の開基、鎮誉魯耕祖洞の開山。慈光寺は成綱の法号による。「下野国誌」に「百目鬼どどめきと云所にあり」と記される。朱印地七石があった。境内に千手観音堂・十王堂、塔頭四・道心寮四があったが戊辰戦争の兵火により焼失、わずかに山門だけが残った。その山門も昭和二〇年(一九四五)の戦災で炎上。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「慈光寺」の意味・わかりやすい解説

慈光寺
じこうじ

埼玉県比企(ひき)郡ときがわ町西平(にしだいら)にある天台宗の寺。都幾山(ときさん)一乗法華院(いちじょうほっけいん)と号する。本尊は千手観音(せんじゅかんのん)。坂東(ばんどう)三十三所第9番霊場。かつては女人禁制の修験(しゅげん)の寺であった。寺録によれば、673年(天武天皇2)慈光老翁の草創と伝えられ、僧慈訓(じくん)に千手観音像を刻ませて安置したのを開基とする。奈良時代の終わりごろ、鑑真(がんじん)の弟子釈道忠(しゃくどうちゅう)が堂宇を建立して開基第1世となった。貞観(じょうがん)年間(859~877)には天台別院一乗法華院と称されるようになった。源頼朝(よりとも)は1191年(建久2)奥州征圧成就(じょうじゅ)を記念して当寺一山75坊の営膳(えいぜん)料と田畑1200町を寄進。1591年(天正19)に徳川家康が100石の朱印寺領を給した。のち東叡山(とうえいざん)寛永寺末寺となり、一山75か寺あって関東天台別院となった。1270年(文永7)に藤原兼実(かねざね)ら一族が寄進した法華一品経(ほっけいっぽんきょう)は優雅な装飾経で、阿弥陀経(あみだきょう)、般若心経(はんにゃしんぎょう)とともに国宝に指定されている。道忠の創建と伝えられる開山塔、紙本墨書大般若経、銅鐘、金銅密教法具は国の重要文化財で、畠山重忠(はたけやましげただ)の名が刻まれた板碑など所蔵文化財は多い。

[中山清田]


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百科事典マイペディア 「慈光寺」の意味・わかりやすい解説

慈光寺【じこうじ】

埼玉県ときがわ町にある天台宗の寺。本尊十一面千手千眼観音。683年慈訓(じくん)が慈光翁から寺地を,春日翁から千手観音を授かり観音霊場を開いたという。役行者(えんのぎょうじゃ)が来遊,鑑真(がんじん)の弟子道忠(どうちゅう)が堂宇を整えた。平安時代清和(せいわ)天皇から〈天台別院一乗法華院〉の勅額を得たといい,関東の有力寺院として栄えた。宜秋門(ぎしゅうもん)院(任子(にんし))筆を含む写経全33巻は国宝,寛元(かんげん)3年(1245年)銘の銅鐘,独鈷鈴ほかの金堂密教法具,開山塔(木造宝塔)は重要文化財。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「慈光寺」の意味・わかりやすい解説

慈光寺
じこうじ

埼玉県ときがわ町にある天台宗の寺。白鳳年間,慈訓が開いた観音霊場を起源とし,さらにここに役小角が西蔵坊を建立したと伝えられるが,開山は鑑真の弟子釈道忠,役小角は根本開山とされている。平安時代,清和天皇から勅額「天台別院一条法華院」を賜ったほか,鎌倉時代には源頼朝も愛染明王像などを寄進,江戸時代には徳川綱吉の母桂昌院が金襴緞子の打敷きを寄進している。九条兼実がみずから書写し奉納したと伝えられる法華経一品経など経文 33巻が国宝に指定されているほか,国の重要文化財の紙本墨書大般若経,開山塔,銅鐘,金銅密教法具を所蔵。

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デジタル大辞泉プラス 「慈光寺」の解説

慈光寺

埼玉県比企郡ときがわ町にある寺院。天台宗。観音霊場として開基、奈良時代に道忠が開山したと伝わる。本尊は十一面千手千眼観音。源頼朝が奥州の藤原泰衡追討の際に戦勝を祈願した寺として知られる。国宝「慈光寺経」を所蔵。

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事典・日本の観光資源 「慈光寺」の解説

慈光寺(第9番)

(埼玉県比企郡ときがわ町)
板東三十三箇所」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の慈光寺の言及

【都幾川[村]】より

…山間の段々畑では茶がつくられ,弓立山の南西斜面ではミカンが栽培されている。天台宗の古刹(こさつ)慈光寺には国宝の《法華経一品経》のほか,重要文化財の開山塔など文化財が多い。堂平(どうだいら)山(876m)山頂には国立天文台堂平山観測所がある。…

※「慈光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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