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文禄・慶長の役 ぶんろく・けいちょうのえき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

文禄・慶長の役
ぶんろく・けいちょうのえき

文禄1 (1592) 年と慶長2 (1597) 年の2度にわたる豊臣秀吉の朝鮮,明の連合軍との戦い。高麗の陣ともいう。朝鮮では干支により壬辰倭乱・丁酉再乱,明では万暦朝鮮役と呼んだ。出兵の準備は天正 14 (1586) 年九州征伐の頃からすでにでき,文禄1年3月肥前名護屋に本営をおいた。

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百科事典マイペディアの解説

文禄・慶長の役【ぶんろくけいちょうのえき】

文禄1年―2年(1592年―1593年)と慶長2年―3年(1597年―1598年)の2度にわたる豊臣秀吉朝鮮侵略戦争。朝鮮役とも。秀吉は朝鮮に入貢を求め,さらに征明(みん)の案内を命じたが拒否されたため,1592年小西行長加藤清正小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ,漢城(ソウル)を落とし北上し明の援軍を碧蹄館に破ったが,沈惟敬(しんいけい)との和議交渉で撤兵。
→関連項目加藤清正唐津焼川尻己酉約定古活字版小西行長薩摩焼島津家久昌徳宮水軍宗廟太閤蔵入地朝鮮通信使朝鮮本対馬藩内藤如安名護屋名護屋城万暦帝藤原惺窩増田長盛身分統制令李舜臣李朝(朝鮮)

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

文禄・慶長の役
ぶんろくけいちょうのえき

1592年(文禄1)から1598年(慶長3)にかけ、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が明(みん)(中国)征服を目ざして朝鮮に兵を出した侵略戦争。この戦争の呼称について、朝鮮では当時の干支(かんし)をとって「壬辰(じんしん)・丁酉倭乱(ていゆうわらん)」とよび、明では宗属国朝鮮を守るという意味で「万暦(ばんれき)朝鮮の役」とよんでいる。これに対し日本では、その当時「唐入(からい)り」「高麗陣(こうらいじん)」などとよんだが、江戸時代に入り「征韓」とか「朝鮮征伐」とよぶようになった。近代に至って、朝鮮を植民地化の対象とみる考えが出てくると、「朝鮮征伐」という意識はいっそう高まった。また、日清(にっしん)・日露戦争を「日清役」「日露役」とよぶ風潮に影響されてか、20世紀に入り、秀吉の引き起こしたこの戦争を、辺寨(へんさい)を征する「役」をつけ、「朝鮮役」「文禄・慶長の役」とよぶようになった。今日では「文禄・慶長の役」とともに「秀吉の朝鮮出兵」とよぶのが一般的であるが、事の本質からみて、「秀吉の朝鮮侵略」とよんだほうが正しい。[北島万次]

侵略の構想

秀吉の大陸侵略構想は、1585年(天正13)の関白(かんぱく)就任直後からみられたが、1587年の九州征服を契機として具体化した。この年、秀吉は対馬(つしま)の宗(そう)氏に対朝鮮交渉を命じた。その内容は、朝鮮が日本に服属し明征服の先導をすることであった。しかし、旧来から朝鮮と深い交易関係をもっていた宗氏は、秀吉の意向をそのまま朝鮮に伝えず、家臣の柚谷康広(ゆたにやすひろ)を日本国王使に仕立て、秀吉が日本の新国王になったので統一を祝賀する通信使(親善の使い)を派遣してほしいと要請した。これに対し朝鮮側は、秀吉が日本国王の地位を纂奪(さんだつ)したものとみなし、これを断った。しかし、秀吉の強硬な命令により、1589年、宗義智(よしとし)は博多(はかた)聖福寺の外交僧景轍玄蘇(けいてつげんそ)、博多の豪商島井宗室(しまいそうしつ)らとともに朝鮮に渡り、通信使の派遣を重ねて要請した。その結果、黄允吉(こういんきつ)、金誠一(きんせいいつ)らが通信使として来日し、1590年11月、聚楽第(じゅらくだい)で秀吉の引見を受けた。その際、秀吉は彼らを服属使節と思い込んで「征明嚮導(せいみんきょうどう)」(明征服の先導)を命じた。これが朝鮮国王のもとに報告されることになるが、秀吉は翌1591年から肥前名護屋(なごや)(佐賀県唐津(からつ)市)に征明の基地の築城普請を始めた。一方、宗義智と小西行長(こにしゆきなが)は、秀吉の命じた「征明嚮導」を「仮道入明(かどうにゅうみん)」(明に入りたいので道を貸してほしい)という要求にすり替えて朝鮮側に交渉したが、それは拒絶された。[北島万次]

文禄の役

1592年(文禄1)3月、秀吉は約16万の兵力を9軍に編成し、朝鮮に渡海させた。4月12日、釜山(ふざん)に上陸した宗義智と小西行長の第一軍は、「仮道入明」の最後通牒(つうちょう)を朝鮮側に示したが返事なく、釜山城を落とした。ここに第一次朝鮮侵略(文禄の役)が始まる。このあと、加藤清正(かとうきよまさ)、黒田長政(くろだながまさ)らの軍も侵入し、5月3日、朝鮮の都漢城(ソウル)は陥落し、朝鮮国王は平安道に向けて逃亡した。その報告を受けた秀吉は、やがて明を征服したのち、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を北京(ペキン)に移し、日本の天皇は周仁親王(かねひとしんのう)か智仁親王(ともひとしんのう)とし、養子秀次(ひでつぐ)を中国の関白にして、日本の関白は羽柴秀保(はしばひでやす)(大和大納言(やまとだいなごん)、秀次弟、秀長養子)か宇喜多秀家(うきたひでいえ)を任じ、秀吉自身は日明貿易の港であった寧波(ニンポー)に入り、朝鮮は羽柴秀勝(ひでかつ)(岐阜宰相、秀次弟、秀吉養子)か宇喜多秀家に与えるなどの大陸経略構想を5月18日に示した。このときすでに、漢城を落とした日本の兵力は、京畿道(けいきどう)―宇喜多秀家、忠清道―福島正則(ふくしままさのり)、全羅道―小早川隆景(こばやかわたかかげ)、慶尚道―毛利輝元(もうりてるもと)、黄海道―黒田長政、平安道―小西行長、江原道―森吉成(もりよしなり)、咸鏡道(かんきょうどう)―加藤清正を部将として朝鮮全域に入った。その目的は、朝鮮全域を明征服の足場として固め、釜山から義州までの道筋と秀吉出陣の際の宿所を確保することにあった。そのために、朝鮮農民を農耕につかせて兵糧米(ひょうろうまい)をとり、日本軍に反抗する者を処罰する占領政策がとられた。咸鏡道の場合、鍋島直茂(なべしまなおしげ)は朝鮮農民を人質にとって牢(ろう)に入れ兵糧米をとっている。
 このような侵略行為に対し、朝鮮民衆は両班(ヤンパン)層に率いられ、義兵を組織して民族的決起を行った。慶尚道の郭再祐(かくさいゆう)の義兵、全羅道の高敬命(こうけいめい)の義兵は日本軍の侵略の直後に決起したものであり、侵略が奥地へ進むにつれ、義兵の決起は朝鮮全域に広まった。また李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍は日本水軍を破って日本の補給路を断ち、明からもいち早く救援軍が朝鮮に入った。1593年1月、明軍は平壌の小西行長らの日本軍を破って漢城に向けて南下した。これに対し日本軍は、漢城の北方にある碧蹄館(へきていかん)で明軍を破り、ここに朝鮮を除外して、日明間で講和交渉の機運が持ち上がった。1593年6月、秀吉は名護屋において明使節に、朝鮮南四道の日本割譲、勘合貿易(かんごうぼうえき)の復活など7か条の要求を示した。それとは別に小西行長は、明側から外交にあたっていた沈惟敬(しんいけい)と画策し、偽作した秀吉の降表(表とは明皇帝に奉る文書)を家臣内藤如安(ないとうじょあん)に持たせて明皇帝のもとへ派遣していた。如安は、釜山周辺に駐屯する日本軍の撤兵、日本は朝鮮と和解し明の宗属国となり、冊封(さくほう)のほか貢市(こうし)を求めないと誓った。この結果、1596年(慶長1)、明皇帝から「茲(ここ)ニ特ニ爾(なんじ)ヲ封(ほう)ジテ日本国王ト為(な)ス」という誥勅(こうちょく)が秀吉のもとにもたらされるに至った。[北島万次]

慶長の役

自分の要求がまったく無視されたことを怒った秀吉は、翌1597年ふたたび兵を朝鮮に出し、第二次侵略(慶長の役)を起こした。第二次侵略の目的は征明でなく、朝鮮南四道の実力奪取にあった。それゆえ、残虐行為も惨を極め、朝鮮民衆の虐殺、鼻切り、捕虜の日本強制連行などが行われた。しかし、明・朝鮮側の抵抗も強く、朝鮮南部に侵入した日本軍はほとんど海岸線に釘(くぎ)づけとなった。このときの戦いとしては、南原城(なんげんじょう)の戦い、蔚山(うるさん)の籠城(ろうじょう)、泗川(しせん)の戦い、順天(じゅんてん)の戦い、露梁津(ろりょうしん)の海戦などが知られている。その間、1598年8月秀吉の死去により、日本軍は朝鮮からの撤退を始めるようになり、同年11月、島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終わった。[北島万次]
『中村栄孝著『日鮮関係史の研究 中』(1969・吉川弘文館) ▽藤木久志著『日本の歴史15 織田・豊臣政権』(1975・小学館)』

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