文禄慶長の役(読み)ぶんろくけいちょうのえき

改訂新版 世界大百科事典 「文禄慶長の役」の意味・わかりやすい解説

文禄・慶長の役 (ぶんろくけいちょうのえき)

豊臣秀吉が1592-98年(文禄1-慶長3)に2度にわたって企てた朝鮮に対する侵略戦争。朝鮮側では〈壬辰・丁酉倭乱〉または〈壬辰倭乱〉とよぶ。

本来,秀吉の意図は明国を服属させること(唐(から)入り)で,朝鮮に対してはその道案内を求めるという〈仮道入明(かどうにゆうみん)〉を標榜していた。秀吉が出兵の意志を公表した事実が確認できるのは,関白任官直後の1585年(天正13)9月であるが,その後,対馬の宗義智(よしとし)に命じて外交交渉にあたらせ,朝鮮国王の来日を求めた。九州征服後には博多を兵站(へいたん)基地化し,蔵米を集中できる体制をとるなど,具体的準備がすすめられた。秀吉が対外的な領土拡張を求めて出兵したことはいうまでもない。国内の封建的統一の達成後,秀吉が家臣に知行地を給付するには,原則として自己の直轄領を割いて与える以外に方法は無く,それには限界があった。諸大名のなかには海外に所領を希望する者もあり,これらの動きを背景にして,国内統一の延長上に朝鮮出兵が企図された。また,16世紀中ごろに勘合貿易が中断されてから,中国産の生糸(白糸(しらいと))はポルトガル船を介して輸入されていたが,秀吉の意図する貿易独占政策は明国との直接取引を求めていた。この動きは領土拡大の要求に裏打ちされていた。また朝鮮出兵の準備過程は,太閤検地の施行過程と対応していた。わずか20年にすぎない豊臣政権の全過程は,一面では朝鮮出兵という対外侵略の論理に貫かれていたといえよう。

 出兵に際しての軍事動員の指令は,1591年9月ごろ秀吉から諸大名に発せられた。諸大名はそれに基づいて,領内で人員,武具,兵粮米,船などを用意して肥前の名護屋に参陣した。これには奥羽の大名まで実際に動員されている。翌92年(文禄1)=文禄の役の陣立書によれば,朝鮮に出兵するのは西国大名が主力で,軍団は地域的にまとめられ,1万~2万人程度のグループを構成している。その中核には織豊取立大名が配置され,旧族大名である外様を実際に動員できるような体制がとられている。諸大名に賦課された軍役は,たとえば九州大名は知行高100石について5人役(本役)のように,石高制に依拠した形をとっている。豊臣政権の軍役体系は,外様大名を含めた全領主階級を包摂して成立しており,ここに封建的ヒエラルヒーの完成した姿を見いだすことができよう。水軍組織としては,九鬼,藤堂,脇坂らの織豊取立大名を主体とする舟手が作られ,人馬や兵粮米の輸送などにたずさわった。軍事編成には,武士階級だけでなく領国内の民衆も動員された。彼等は陣夫役(農民),水主(かこ)役(漁民)として徴発され,諸大名の軍役体系に組み入れられた。諸浦の船も九州に回漕され,釜山~対馬~壱岐~名護屋間の漕送りに利用された。朝鮮出兵は農漁村の生産条件を大きく破壊したのである。

緒戦の勝利で朝鮮の都が陥落した92年5月,秀吉は日本,朝鮮,中国にまたがる国割計画を発表した。後陽成天皇を北京へ移し,その関白に秀次をつけ,日本の帝位は皇子(周仁親王)か皇弟(智仁親王)に継がせ,その関白に羽柴秀保か宇喜多秀家をあてるというものである。これは,大局的判断を欠いた空想的プランにすぎないが,かえって秀吉の構想を積極的に物語っている。

 朝鮮側の対応と合わせて後述されるように,戦局は秀吉の思惑通りには推移しなかった。当時の朝鮮の正規軍は弱体であったが,慶尚道,全羅道を中心とする民衆の義兵組織や,圧倒的な明の援軍の到着によって補給路が絶たれ,渡海した兵員も各地に分散されたうえ一戦ごとに死傷者を出して手薄となっていた。この間,小西行長沈惟敬(しんいけい)(明の遊撃将軍)との間ですすめられていた和議交渉も,戦局の推移につれて二転,三転した。日本側の条件は出陣諸将の間の思惑の相違からまとまらず,秀吉自身も,当時の国際関係(明帝国を中心とする冊封体制)についての認識に欠けるところがあった。93年(文禄2)6月,秀吉は来日した明の使者に7ヵ条の和平条件を呈示した。ここで秀吉は,明の皇女を天皇の后とし,人質となっている朝鮮皇子を返還することなどのほか,勘合貿易の復活協議と朝鮮八道のうち4道の割譲を求めている。くしくも併記されたこの2条件は,秀吉が出兵の際に企図したことがらであり,国内において,いわゆる武断派・吏僚派諸将の,それぞれの要求を反映するものであった。明側としてはこのような要求に応ずるはずはない。行長と沈惟敬らは秀吉の表文を偽作し,これをもとに秀吉を〈日本国王〉に封ずることとした。ことの次第は96年(慶長1)大坂城での明使引見の際に明るみに出,秀吉は激怒して再征となった。

 97年(慶長2)の再征=慶長の役は,偽りの講和交渉がもたらしたものであるから,出兵を強いられた将兵はもとより,兵粮米を負担せねばならない農民の苦痛は大きかった。中世以来不課の原則がとられて来た田の裏作麦の収穫高の1/3を徴収して兵粮米を確保するという非常手段もとられたが,翌年8月の秀吉の死によって,この法令は撤回された。

 秀吉の死によって,朝鮮出兵という前近代社会でほとんど唯一の対外侵略戦争は,多数の犠牲をもって終りをつげた。豊臣政権は,総力をあげての大動員によって,自己の政権の崩壊を招いたが,みずから確立した幕藩制的支配原理は継承されていくのである。
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1592年4月,日本軍は釜山に上陸し壬辰倭乱(文禄の役)が始まるが,日本軍は約半月の間に慶尚道と忠清道の主要都市を,5月初めには漢城(朝鮮の首都,現在のソウル)を,6月には平壌や咸鏡道を占領した。朝鮮国王の宣祖は漢城を放棄して北方へ逃避し,5月初め,一部の反対を押し切って明に救援を要請した。

 緒戦における日本軍の勝因としては,(1)当初,朝鮮の地方長官や軍隊の指揮官の多くが日本軍に抵抗せず,戦争を回避したり逃亡したこと,(2)日本軍は戦国時代を経て戦争になれていたうえ,朝鮮側にない鉄砲(鳥銃)を使用したこと,(3)朝鮮政府の封建的支配に不満を抱く民衆や軍卒の間に,朝鮮の支配層に対する反抗や日本軍への協力(附倭)が現れ,当初,民族的結集に困難が生じたこと,などがあった。しかし海上では,92年5月から李舜臣の率いる朝鮮海軍が活躍し,5月末には亀甲船(きつこうせん)も登場,92年7月の海戦で日本海軍は大敗北をこうむった。以後,日本軍は海上補給路をおびやかされるようになる。他方,陸上でも,92年6月ころから,反撃に転じた朝鮮軍の活動や,郷土防衛に決起した各地の抗日義兵(郭再祐軍など)のゲリラ活動によって,のびきった日本軍の補給線が切断されはじめた。そのため,日本軍は占領地における物資・人員の苛酷な調達を強行し,朝鮮民衆との対立を深めた。それがまた,抗日義兵勢力の拡大につながり,92年7月以降,日本軍はしだいに守戦に立たされることになった。抗日義兵将の大部分は地方の支配者(地方に居住する両班(ヤンバン)。その多くは地主層)であり,彼らは私財を投じて義兵を組織し,日本軍と闘うと同時に,崩壊した地方の支配秩序(階級支配)の維持につとめた。そして,日本軍との対立が深化する中で,多くの民衆が義兵に参加し,義兵の大衆化がすすんでいった。

 他方,明の救援先鋒軍は,92年6月に朝鮮に到着したが,7月の平壌戦で日本軍に敗れると,日本軍(小西行長)と50日間の休戦協定を結び,中国へ引きあげてしまった。その後,93年1月には明の救援主力軍(4万3000人)が朝鮮軍と連合して平壌,開城を奪回したが,明軍は漢城付近の戦闘で大敗すると戦意を失い,講和に期待をかける。また,93年2月には約3万人の日本軍が漢城付近で朝鮮軍に大敗し,そのため小西行長は明軍との講和に期待をかける。こうして日明間の講和が結ばれ,93年8~10月,日本軍は朝鮮南部に約4万人を残して撤兵した。朝鮮政府は徹底抗戦を主張して講和に反対したが,明軍は朝鮮軍の対日戦も禁止した。しかしこの講和は前述のように明軍の沈惟敬・李如松と小西行長が講和条件を偽って明の皇帝と豊臣秀吉に結ばせたもので,その偽りが露見し,97年1月,秀吉の朝鮮再侵略開始となった(丁酉倭乱)。

97年1月,日本軍は朝鮮南部4道の領有をめざして慶尚道から全羅道,忠清道に侵入したが,朝鮮軍と明軍の反撃を受け,97年9月からは守戦に立った。98年3月以降は日本軍の守城(倭城)が次々と撃破され,敗北は決定的となった。そして秀吉の死を契機に98年10月,朝鮮から撤兵を開始したが,日本軍は李舜臣ら朝鮮海軍の追撃をうけ,同年11月,ようやく撤退を完了した。こうして日本の侵略は失敗に終わった。

 前後6年余にわたる日本の侵略は,朝鮮に莫大な被害を与えた。耕地は約3分の1に減少し,日本軍による虐殺や,家を焼かれ流亡する中での餓死者・病没者の続出によって,人口も大幅に減少した。日本に強制連行された朝鮮人も5万~6万人に達したが,その中には陶工も含まれ,唐津焼,薩摩焼などは彼らによって始められた。また,朝鮮儒学の成果を日本に伝えた姜沆(きようこう)のような学者もいた。さらに多くの文化財(慶州の仏国寺,漢城の景福宮などの建築物や美術品,書籍など)が戦火で焼かれ,医学,朱子学などの朝鮮本や銅活字なども大量に日本に奪われた。

 しかし,壬辰倭乱によって朝鮮社会が衰退したとみることは正しくない。戦後に実施された大同法(画期的な税制改革)は戦争中から進んでいたし,奴婢文書を焼きすてるなどの身分解放をめざす奴婢の闘争も進展していた。戦争が中断された94-96年には,朝鮮政府の封建的支配に対し,新興勢力を中心とする民衆の闘争が激化した。そうした中で身分制の弛緩,商品経済や農奴制などが進展した。崩壊過程にあった明は,壬辰倭乱に対する戦費負担などで崩壊過程がいっそう促進されて1644年に滅亡し,日本では侵略戦争の失敗が豊臣政権の崩壊を促進した。一方,朝鮮では多くの曲折を経ながらも李朝を存続させた。それは,壬辰倭乱に勝利し,また,すでに1565年に新進官僚による士林派政権が成立し,社会の新しい動向に適応する体制がともかくもできていたことによる。だが,この戦争が朝鮮に深い傷痕を残したことも事実であり,近代以降今に至るまで,壬辰倭乱は日本の侵略に対する憎しみ,警鐘の原点となり,李舜臣をはじめ,義僧軍を率いた休静西山大師)や日本軍の武将をかき抱いて身を投じた義妓論介などは民族的抵抗のシンボルとなっている。なお,柳成竜《懲毖録(ちようひろく)》はこの戦争の過程を詳述し,後世への戒めとした書である。

 室町時代以来の日朝間の善隣関係は,この戦争で断絶するが,その後江戸幕府は国交回復につとめ,1607年に復交し(朝鮮通信使の受入れ。当初は,日本に拉致された朝鮮人の〈刷還〉を名目としたため,回答兼刷還使と称した),09年には日朝通商条約(己酉約条)を結んだ。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「文禄慶長の役」の意味・わかりやすい解説

文禄・慶長の役
ぶんろくけいちょうのえき

1592年(文禄1)から1598年(慶長3)にかけ、豊臣秀吉(とよとみひでよし)が明(みん)(中国)征服を目ざして朝鮮に兵を出した侵略戦争。この戦争の呼称について、朝鮮では当時の干支(かんし)をとって「壬辰(じんしん)・丁酉倭乱(ていゆうわらん)」とよび、明では宗属国朝鮮を守るという意味で「万暦(ばんれき)朝鮮の役」とよんでいる。これに対し日本では、その当時「唐入(からい)り」「高麗陣(こうらいじん)」などとよんだが、江戸時代に入り「征韓」とか「朝鮮征伐」とよぶようになった。近代に至って、朝鮮を植民地化の対象とみる考えが出てくると、「朝鮮征伐」という意識はいっそう高まった。また、日清(にっしん)・日露戦争を「日清役」「日露役」とよぶ風潮に影響されてか、20世紀に入り、秀吉の引き起こしたこの戦争を、辺寨(へんさい)を征する「役」をつけ、「朝鮮役」「文禄・慶長の役」とよぶようになった。今日では「文禄・慶長の役」とともに「秀吉の朝鮮出兵」とよぶのが一般的であるが、事の本質からみて、「秀吉の朝鮮侵略」とよんだほうが正しい。

[北島万次]

侵略の構想

秀吉の大陸侵略構想は、1585年(天正13)の関白(かんぱく)就任直後からみられたが、1587年の九州征服を契機として具体化した。この年、秀吉は対馬(つしま)の宗(そう)氏に対朝鮮交渉を命じた。その内容は、朝鮮が日本に服属し明征服の先導をすることであった。しかし、旧来から朝鮮と深い交易関係をもっていた宗氏は、秀吉の意向をそのまま朝鮮に伝えず、家臣の柚谷康広(ゆたにやすひろ)を日本国王使に仕立て、秀吉が日本の新国王になったので統一を祝賀する通信使(親善の使い)を派遣してほしいと要請した。これに対し朝鮮側は、秀吉が日本国王の地位を纂奪(さんだつ)したものとみなし、これを断った。しかし、秀吉の強硬な命令により、1589年、宗義智(よしとし)は博多(はかた)聖福寺の外交僧景轍玄蘇(けいてつげんそ)、博多の豪商島井宗室(しまいそうしつ)らとともに朝鮮に渡り、通信使の派遣を重ねて要請した。その結果、黄允吉(こういんきつ)、金誠一(きんせいいつ)らが通信使として来日し、1590年11月、聚楽第(じゅらくだい)で秀吉の引見を受けた。その際、秀吉は彼らを服属使節と思い込んで「征明嚮導(せいみんきょうどう)」(明征服の先導)を命じた。これが朝鮮国王のもとに報告されることになるが、秀吉は翌1591年から肥前名護屋(なごや)(佐賀県唐津(からつ)市)に征明の基地の築城普請を始めた。一方、宗義智と小西行長(こにしゆきなが)は、秀吉の命じた「征明嚮導」を「仮道入明(かどうにゅうみん)」(明に入りたいので道を貸してほしい)という要求にすり替えて朝鮮側に交渉したが、それは拒絶された。

[北島万次]

文禄の役

1592年(文禄1)3月、秀吉は約16万の兵力を9軍に編成し、朝鮮に渡海させた。4月12日、釜山(ふざん)に上陸した宗義智と小西行長の第一軍は、「仮道入明」の最後通牒(つうちょう)を朝鮮側に示したが返事なく、釜山城を落とした。ここに第一次朝鮮侵略(文禄の役)が始まる。このあと、加藤清正(かとうきよまさ)、黒田長政(くろだながまさ)らの軍も侵入し、5月3日、朝鮮の都漢城(ソウル)は陥落し、朝鮮国王は平安道に向けて逃亡した。その報告を受けた秀吉は、やがて明を征服したのち、後陽成天皇(ごようぜいてんのう)を北京(ペキン)に移し、日本の天皇は周仁親王(かねひとしんのう)か智仁親王(ともひとしんのう)とし、養子秀次(ひでつぐ)を中国の関白にして、日本の関白は羽柴秀保(はしばひでやす)(大和大納言(やまとだいなごん)、秀次弟、秀長養子)か宇喜多秀家(うきたひでいえ)を任じ、秀吉自身は日明貿易の港であった寧波(ニンポー)に入り、朝鮮は羽柴秀勝(ひでかつ)(岐阜宰相、秀次弟、秀吉養子)か宇喜多秀家に与えるなどの大陸経略構想を5月18日に示した。このときすでに、漢城を落とした日本の兵力は、京畿道(けいきどう)―宇喜多秀家、忠清道―福島正則(ふくしままさのり)、全羅道―小早川隆景(こばやかわたかかげ)、慶尚道―毛利輝元(もうりてるもと)、黄海道―黒田長政、平安道―小西行長、江原道―森吉成(もりよしなり)、咸鏡道(かんきょうどう)―加藤清正を部将として朝鮮全域に入った。その目的は、朝鮮全域を明征服の足場として固め、釜山から義州までの道筋と秀吉出陣の際の宿所を確保することにあった。そのために、朝鮮農民を農耕につかせて兵糧米(ひょうろうまい)をとり、日本軍に反抗する者を処罰する占領政策がとられた。咸鏡道の場合、鍋島直茂(なべしまなおしげ)は朝鮮農民を人質にとって牢(ろう)に入れ兵糧米をとっている。

 このような侵略行為に対し、朝鮮民衆は両班(ヤンパン)層に率いられ、義兵を組織して民族的決起を行った。慶尚道の郭再祐(かくさいゆう)の義兵、全羅道の高敬命(こうけいめい)の義兵は日本軍の侵略の直後に決起したものであり、侵略が奥地へ進むにつれ、義兵の決起は朝鮮全域に広まった。また李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍は日本水軍を破って日本の補給路を断ち、明からもいち早く救援軍が朝鮮に入った。1593年1月、明軍は平壌の小西行長らの日本軍を破って漢城に向けて南下した。これに対し日本軍は、漢城の北方にある碧蹄館(へきていかん)で明軍を破り、ここに朝鮮を除外して、日明間で講和交渉の機運が持ち上がった。1593年6月、秀吉は名護屋において明使節に、朝鮮南四道の日本割譲、勘合貿易(かんごうぼうえき)の復活など7か条の要求を示した。それとは別に小西行長は、明側から外交にあたっていた沈惟敬(しんいけい)と画策し、偽作した秀吉の降表(表とは明皇帝に奉る文書)を家臣内藤如安(ないとうじょあん)に持たせて明皇帝のもとへ派遣していた。如安は、釜山周辺に駐屯する日本軍の撤兵、日本は朝鮮と和解し明の宗属国となり、冊封(さくほう)のほか貢市(こうし)を求めないと誓った。この結果、1596年(慶長1)、明皇帝から「茲(ここ)ニ特ニ爾(なんじ)ヲ封(ほう)ジテ日本国王ト為(な)ス」という誥勅(こうちょく)が秀吉のもとにもたらされるに至った。

[北島万次]

慶長の役

自分の要求がまったく無視されたことを怒った秀吉は、翌1597年ふたたび兵を朝鮮に出し、第二次侵略(慶長の役)を起こした。第二次侵略の目的は征明でなく、朝鮮南四道の実力奪取にあった。それゆえ、残虐行為も惨を極め、朝鮮民衆の虐殺、鼻切り、捕虜の日本強制連行などが行われた。しかし、明・朝鮮側の抵抗も強く、朝鮮南部に侵入した日本軍はほとんど海岸線に釘(くぎ)づけとなった。このときの戦いとしては、南原城(なんげんじょう)の戦い、蔚山(うるさん)の籠城(ろうじょう)、泗川(しせん)の戦い、順天(じゅんてん)の戦い、露梁津(ろりょうしん)の海戦などが知られている。その間、1598年8月秀吉の死去により、日本軍は朝鮮からの撤退を始めるようになり、同年11月、島津勢の撤退を最後に、7年間にわたる戦争は終わった。

[北島万次]

『中村栄孝著『日鮮関係史の研究 中』(1969・吉川弘文館)』『藤木久志著『日本の歴史15 織田・豊臣政権』(1975・小学館)』


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百科事典マイペディア 「文禄慶長の役」の意味・わかりやすい解説

文禄・慶長の役【ぶんろくけいちょうのえき】

文禄1年―2年(1592年―1593年)と慶長2年―3年(1597年―1598年)の2度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争。朝鮮役とも。秀吉は朝鮮に入貢を求め,さらに征明(みん)の案内を命じたが拒否されたため,1592年小西行長・加藤清正・小早川隆景ら15万余の大軍を渡海させ,漢城(ソウル)を落とし北上し明の援軍を碧蹄館に破ったが,沈惟敬(しんいけい)との和議交渉で撤兵。1597年講和交渉が決裂し再度出兵。しかし遠征軍は朝鮮勇軍と明の援軍のため苦戦し,水軍も敗退を重ね,秀吉の死により1598年停戦協定を結び帰還。
→関連項目加藤清正唐津焼川尻己酉約定古活字版小西行長薩摩焼島津家久昌徳宮水軍宗廟太閤蔵入地朝鮮通信使朝鮮本対馬藩内藤如安名護屋名護屋城万暦帝藤原惺窩増田長盛身分統制令李舜臣李朝(朝鮮)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「文禄慶長の役」の意味・わかりやすい解説

文禄・慶長の役
ぶんろく・けいちょうのえき

文禄1 (1592) 年と慶長2 (1597) 年の2度にわたる豊臣秀吉の朝鮮,明の連合軍との戦い。高麗の陣ともいう。朝鮮では干支により壬辰倭乱・丁酉再乱,明では万暦朝鮮役と呼んだ。出兵の準備は天正 14 (1586) 年九州征伐の頃からすでにでき,文禄1年3月肥前名護屋に本営をおいた。総勢 15万 8000の兵を9軍に編成し,同年4月第1陣が釜山に達し戦端を開いた。朝鮮,明の両軍と対戦し,平壌の戦い,碧蹄館の戦い,晋州城攻めなどを経て広範な地域を占拠し,さらに明への侵入を企図したが,同2年4月竜山停戦協定の成立に伴い撤退。秀吉は同年6月に明帝の娘を后妃に迎えること,勘合船を復活すること,朝鮮を割譲することなどの7ヵ条を講和条件として決定させたが遵守されなかった。秀吉は,協定の不履行,条件の不備,さらに交渉の内情を不満として,慶長2年 14万の軍兵をもって再征したが,蔚山の戦い泗川の戦いでは明軍に包囲され,戦局は必ずしも好転しなかった。同3年8月秀吉の死によって停戦協定が結ばれ,戦いは終結した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「文禄慶長の役」の解説

文禄・慶長の役
ぶんろく・けいちょうのえき

1592(文禄元)〜98(慶長3)年,豊臣秀吉が2度にわたり朝鮮に侵略した戦争
全国を統一した秀吉は諸大名の領土拡張欲とその統制のため,朝鮮に明征服の道案内を求め,これが拒否されると,1592年3月,肥前名護屋を本営として小西行長・加藤清正を先鋒に出兵。平壌(ピョンヤン)付近まで進出したが,明の援軍と朝鮮義兵の抵抗により戦局は膠着。'93年4月,小西が講和を斡旋し停戦(文禄の役)。'96年大坂城に来た明使の書中に秀吉を日本国王に封じるという言があり,秀吉は大いに怒り'97年再度出兵を命じた。明の援軍等のため初めから苦戦を続け,'98年秀吉の死を契機として撤兵(慶長の役)。この両役は,朝鮮の国土と人々に多大な被害をあたえ,豊臣政権の衰亡を早めることになった。文化的には強制連行された多数の朝鮮人陶工により窯業の発達がもたらされた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「文禄慶長の役」の解説

文禄・慶長の役
ぶんろく・けいちょうのえき

1592〜98
豊臣秀吉が行った2度にわたる朝鮮侵略。朝鮮の記録では「壬辰 (じんしん) ・丁酉 (ていゆう) の倭乱」という
1592(文禄元)年出兵。1597(慶長2)年和議を破って再び出兵したが,明軍の出動と朝鮮民衆の抵抗に苦しみ,水軍を率いた李舜臣の活躍などもあり,秀吉の死により中止。このため朝鮮を援助した明の国力が衰え,明朝衰退の一因となった。日本では豊臣政権の崩壊が進み,戦場となった朝鮮では耕地が3分の1に減少し,人口の減少や文化財の略奪がみられたが,社会改革を進めて国土を再建した。またこのとき日本に多くの陶工が強制連行され,唐津焼や薩摩焼が始められた。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「文禄慶長の役」の解説

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)

壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱(わらん)

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世界大百科事典(旧版)内の文禄慶長の役の言及

【己酉約条】より

…全13ヵ条で,宗氏への米・大豆の賜給,日本からの使節の接待法,宗氏の歳遣船数などを細かく規定。通交方法・条文の構成などは中世以来のものを踏襲しているが,内容は文禄・慶長の役の影響で,通交者を日本国王(徳川将軍),対馬島主(宗氏),対馬島受職人(対馬の朝鮮官職を授けられた者)に限り,歳遣船数を20隻に減らす(戦前は30隻)など,対馬にとって不利となった。同時に寄港地も釜山1港に限られた(戦前は3港)。…

【水軍】より

…北九州の海賊衆である松浦党(まつらとう)の場合も,中世末期には平戸松浦氏,宇久五島氏らによって統合がすすめられるなかで天下統一を迎えた。 豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は,戦国大名化した海賊衆を水軍として把握する契機となった。1592年(文禄1)の陣立書には舟手勢として九鬼,堀内,杉若といった熊野海賊のほか,村上海賊の一派である来島兄弟が名を連ねている。…

【懲毖録】より

…著者は柳成竜。壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の過程を,戦争の様相,義兵の活躍,明軍との関係,李舜臣らの人物像などについて,直接の担当者であった著者が,体験をもとに後世へのいましめとして詳述している。1598年の作で,初刊は1633年(《西厓集》に収録)と推定される。…

【陶磁器】より

…武野紹鷗から千利休にいたる侘茶の深化は,唐物尊重から和物重視への転換をもたらしたが,それらの茶人の好みを反映させた茶陶の生産は,美濃において黄瀬戸,瀬戸黒,志野という創造性に富んだ桃山時代独特の様式を生み出した(志野陶)。一方,文禄・慶長の役を契機として新たに北九州を中心に,唐津,上野(あがの),高取,八代,薩摩,萩など朝鮮系の施釉陶生産地が生まれたが,桃山風の茶陶の影響を受けた展開を示している。この朝鮮系の登窯による施釉陶の量産方式は慶長初年(16世紀末)美濃に伝えられ,織部焼と呼ばれる桃山後期を代表する斬新な陶器を生んだ(織部陶)。…

【身分統制令】より

…侍,中間(ちゆうげん),小者などの武家奉公人が百姓,町人になること,百姓が耕作を放棄して商いや日雇いに従事すること,もとの主人から逃亡した奉公人を他の武士が召し抱えることなどを禁止し,違反者は〈成敗(死刑)〉に処するとしている。朝鮮出兵(文禄・慶長の役)をひかえて,武家奉公人と年貢の確保を目的としたものと思われる。従来この法令は,武士が百姓・町人に,百姓が町人になることを禁止したという意味で,武士・百姓・町人の身分の固定を意図したものと評価されている。…

【李舜臣】より

…その功により93年8月,三道(慶尚・全羅・忠清)水軍統制使に任ぜられたが,97年1月,慶尚右道水軍節度使元均らの中傷により無実の罪で捕らえられる。丁酉倭乱(慶長の役)の勃発で97年7月,再び統制使に任ぜられ,珍島沖の潮流を利用した海戦などで活躍するが,98年11月,露梁海戦で銃弾にたおれ戦死した(文禄・慶長の役)。李舜臣は朝鮮の救国英雄とされ,釜山やソウルには銅像がある。…

【柳成竜】より

…しかし国内の動揺をさけるため,金誠一とともに〈日本の侵略はない〉と主張したので,戦争が起こると一時失脚させられたが,やがて復職し,内政・外交(対明関係)に努力し,日本軍の撃退に功績をあげた。98年,戦争終結後,日明講和問題などの責任を問われて免職され,隠棲して《懲毖録(ちようひろく)》を著し,壬辰・丁酉倭乱(文禄・慶長の役)の経緯を記録し,後世へのいましめとした。文集に《西厓集》がある。…

【倭城】より

文禄・慶長の役(1592‐98)に際して日本軍が朝鮮南部に築城した城郭。日本軍が朝鮮に侵入したとき,日本からの軍需物資を保管し,その補給路を確保する拠点にした城郭で,慶尚・全羅両道の海岸に20数城築き,その多くは遺構を残している。…

※「文禄慶長の役」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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