(読み)ボク

デジタル大辞泉 「牧」の意味・読み・例文・類語

ぼく【牧】[漢字項目]

[音]ボク(漢) [訓]まき
学習漢字]4年
〈ボク〉
家畜を放し飼いにする。「牧歌牧場牧草牧畜牧童牧羊耕牧放牧遊牧
人々を治め導く。「牧師牧民
役人。地方長官。「州牧」
〈まき〉「牧場

うま‐き【牧/馬城】

まき(牧)」に同じ。むまき。
さはに―を置きて馬を放つ」〈天智紀〉

まき【牧】

《「馬城まき」の意。「城」は物を収めておく所》牛・馬などを放し飼いにする場所。牧場。まきば。

むま‐き【牧/城】

うまき

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精選版 日本国語大辞典 「牧」の意味・読み・例文・類語

ぼく【牧】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 牛や馬などを放し飼いにする場所。まき。まきば。牧場。〔孟子‐公孫丑・下〕
  3. 牛や馬などを飼う人。うしかい。うまかい。〔春秋左伝‐昭公七年〕
  4. 牛や馬などを飼うこと。また、その牛や馬。牧畜。
    1. [初出の実例]「毳帳穹廬にして鳥のごとくに居て牧(ホク)を逐ふ」(出典:大唐西域記長寛元年点(1163)一)
    2. [その他の文献]〔書経‐禹貢〕
  5. 養うこと。養い導くこと。〔広雅‐釈詁一〕
  6. 古代中国の九州の長官。転じて、地方長官。また、地方官。役人。〔書経‐立政〕

ま‐き【牧】

  1. 〘 名詞 〙 ( 馬城(まき)の意 ) 牛・馬などを放し飼いにする場所。まきば。ぼくじょう。ぼく。
    1. [初出の実例]「人人、あまたありける限り重なりて、衣の裾をおのおのふまへつつ、すきすきに倒れ伏したるは、まきの馬の心地ぞしたりける」(出典:狭衣物語(1069‐77頃か)三)

うま‐き【牧・馬城】

  1. 〘 名詞 〙 馬を放し飼いにする場所。まきば。まき。
    1. [初出の実例]「又多(さは)に牧(ムマキ)を置きて、馬を放つ」(出典:日本書紀(720)天智七年七月(寛文版訓))

むま‐き【牧・馬城】

  1. 〘 名詞 〙うまき(牧)

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改訂新版 世界大百科事典 「牧」の意味・わかりやすい解説

牧 (まき)

馬や牛を放し飼うために区画された地域。《和名抄》に〈むまき〉とみえ,この訓は〈馬城〉あるいは〈馬置〉の意といい,馬飼の音のつまったものともいう。《日本書紀》天智7年(668)7月の〈多(さわ)に牧(むまき)を置きて馬を放つ〉の記事を初見とするが,以前から各地に牧が置かれていたことは確かである。

牧には公牧と私牧とがあるが,律令制の整備につれて公牧の制度は急速に整い,《続日本紀》慶雲4年(707)3月条に〈(てつ)の印を摂津,伊勢等23国に給いて牧の駒,犢(こうし)に印せしむ〉とみえる。令制の牧は〈厩牧令〉によると,牧ごとに長1人,帳1人をおき,馬,牛それぞれ100頭の〈群〉について各2人の牧士を配した。牧長,帳は春秋に禄を与えられ考課をうける官人であるが,実例では郡司級の地方豪族が用いられており,任期も定められていない。牧長は国司の指揮下にあって,牧士を率いて馬牛の増殖に当たり,隍,柵などの施設の修造,春の野焼き,秋の校印,馬牛帳の作成などの責任をもっており,生産された馬は軍団の乗馬にあて,一部は駅馬,伝馬とし,民間に売却されることもあるが,その処分は国司の権限に属する。令制の牧設置の目的は馬牛の生産にあり,増殖の定数は5歳以上の雌馬,4歳以上の雌牛の6割,これを超えると賞与の稲を与えられる規定で,全数の1割の損耗が認められていた。牧に必須の諸施設の修造には近隣の公民が動員されたものと推察されるが,一牧数百~1000頭にも及ぶ馬牛の管理と増殖は粗放な自然状態にあり,生産された半ば野生の馬牛を馴致し採乳するため,牧には厩舎や馬場が付属しており,厩には飼養のための多くの丁が配置されていた。なお〈厩牧令〉の厩条は中央馬寮(めりよう)の厩の規定とみる説が有力であるが,地方の牧にも厩は付属しており,これが準用されていたと考えられる。

 牧はその管理の必要上,耕地や民家と隔離しやすい島や中州,半島状の地形が多く占定されたが,広大な面積を占めていたために墾開の対象となり,8世紀半ば以降,畿内,近国には廃止,移転されたものも多く,軍団制とともに令制の牧は衰退する。《延喜式》にみられる公牧はこうした状況に対応して編成替えされたもので,表のように未墾地の多い辺境地方に集中している。《延喜式》には(1)兵部省管下の〈官牧〉39牧(馬27,牛15),(2)左右馬寮管下の〈勅旨牧〉32牧,(3)同じく〈近都牧〉,家嶋とも7牧,(4)薬園の耕作と牛乳の採取を目的とした典薬寮の味原牧,の4種がみられる。このうち官牧は令の牧制を継承したものとみられるが,ここでは勅旨牧とともに生産した馬牛を中央に貢上するように変わっており,また近都牧は貢上された馬牛を飼養するところに特色がある。すなわち9世紀には,官牧および勅旨牧から年貢として納められた馬牛は,別に東国など特定の13ヵ国から貢上される〈諸国繫飼馬牛〉(毎年馬105,牛22)とともに,駒牽(こまひき)などによって皇族,貴族,官人に分与され,一部は馬寮の厩で櫪飼(たてがい)されるが,他は近都牧で放飼し,または〈国飼〉として畿内近国に管理を委託した。令制と比較すると,この時期の公牧の制度は,中央政府の需要を中心に編成されていたことになる。しかし白羽馬牧や占市牛牧にみられるように,公牧の一部は9世紀中にすでに牛馬を売り払い,正税に混入してその利を貢納にあてる有名無実の存在となっており,残ったものも10世紀半ばには,《朝野群載》所収〈牧馬生益勘文書様〉で知られるように,牧司の請負事業となって事実上地方豪族の私牧化し,中央への貢上は諸国繫飼馬牛と一体化されてしまう(《西宮記》)。一方,勅旨田と同様に初めから半ば私的・荘園的性格をそなえていた勅旨牧は,10世紀に最盛期を迎え,しだいに馬寮官人の荘園と化しながらもその数を増し,新たに展開される〈奥州交易馬〉とともに,まがりなりにも宮廷年中行事としての駒牽を支えたのであり,馬寮領として中世まで存続したものも少なくなかった。

私牧は早くから史料にみえ,藤原南家黒麻呂の上総国藻原牧のように8世紀には地方にも普及していた。11世紀になると,殿下渡領河内国楠葉牧をはじめ,摂関家,院などの私牧が畿内近国を中心に数多く設定され,しばしば近隣荘園と紛争を起こしており,そうした情勢の中で近都牧なども権門の私牧に転化していく。また牧は広大な面積を占め,牧厩には田畠が付属しているのが普通であったため,しだいに墾開されて牧の実質を失い,荘園に転生したものも少なくなかった。辺境といわれる東国などでもその事情は変わらず,藻原牧は9世紀には荘となるが(藻原荘),11世紀以後急速にその傾向を強める。

 こうした情勢の中で牧と中世武士との関係が注目される。古く10世紀の平将門は官牧長洲,大結両牧を基盤としていたが,武蔵国小野牧を地盤として発展した小野横山党,秩父牧の秩父,甲斐国柏前,穂坂牧の逸見,小笠原をはじめ,官牧や勅旨牧も私領化されながら多くの武士団を生み出した。騎馬を主とした中世武士と牧の関係は密接であり,武士の棟梁源氏の発展も摂関家の諸牧と深い関係にあったものと推察されている。鎌倉・室町両幕府は,御厩別当に三浦義村や伊勢氏のような重要人物を配置し,源頼朝以来しばしば朝廷に貢馬を献じているが,独自の牧制が行われたか否かは明らかでない。しかし1210年(承元4)10月に諸国の御牧興行のことを守護・地頭に命じ,翌年5月に小笠原御牧の牧士と奉行人三浦義村の代官との喧嘩のことが《吾妻鏡》にみえるので,幕府直轄の牧が設定されていた可能性も考えられる。少なくとも鎌倉時代に,幕府の支配が強く及んだ東北地方で牧が発達し,戦国以降の馬牧の一大中心地となる陸奥国糠部(ぬかのぶ)郡の諸牧の基礎が作られたことは疑いない。糠部郡の七戸御牧の初見は1334年(建武1)であるが,この郡が幕府滅亡とともに北条家領から足利氏に移っていることも重要である。また当時の武家社会では良馬が盛んに贈答されており,その中には牧に放たれて馬質の改良に貢献したものも少なくなかったと推察されるが,その意味では15世紀以降の海外貿易の中で中国から麗馬がもたらされ,東北地方に多くの韃靼(だつたん)馬を移入したと伝えられることは興味深い。戦国期の九州薩摩には西洋馬を輸入して牧に放したという唐牧伝承が残されている。
執筆者:

中世以降,牧はその分布地域を縮減し,東北,九州などの未開発地に圧縮されていく。近世に存在した隠岐の牧畑などは,このような過程で生まれた耕牧輪転の特殊な牧であるが,一般には村および民衆の利用する規模のより小さい牧が多くなる。そして民衆が共同で牛を放牧する大牧場(おおまきば)のほかに,より小規模の個人牧場としての小牧場(こまきば)も出現してくる。

 これに対し幕府諸藩もそれぞれ公の牧を設け,牛馬の飼育に努めた。幕府は,直轄の牧として下総に牧を設け,小金牧には5牧,佐倉牧には7牧あって小金五牧,佐倉七牧といわれていた。のち房州峰岡牧が整備され,野馬奉行などの職もできて,年々名馬を産した。そして放牧地の樹木が繁茂しすぎて馬の運動にさしつかえるときは間引きを行わしめ,境界の土手普請などに関しても指令を与え,地を画して牧区を分け,種馬を仙台,南部,三春,秋田などから取り寄せて収容したこともあり,また牧場の払下げ,烙印の判定なども行われて,幕府の牧制も整ってきた。

 諸藩でも戦備の重要な用具として馬の繁殖育成に力を尽くした。例えば東北の盛岡藩は昔から名馬の産地であったから,当時すでに藩有の9牧場が開かれていたが,いわゆる御野となったのは慶長・元和(1596-1624)のころである。のち三保野,四鎖野,広野,立崎野を併せて盛岡藩の13牧と称していた。弘前藩も昔から牧畜の盛んな土地で,枯木平牧など藩営の馬牧が5ヵ所あった。水戸藩では徳川光圀が1678年(延宝6),常陸国多賀郡大能村(現,高萩市)に牧を置き,牛馬を放牧して〈大能牧〉と名づけ,初めてオランダの馬12頭を入れて繁殖を図り,牧馬は400頭にもなり,牧の地域も多くの村にまたがって広い範囲に及んでいた。西国の薩摩では天文年間(1532-55)に吉野牧にアラビア馬を輸入して放飼し,唐牧と称していたという。1580年(天正8)には福山牧を,1666年(寛文6)には大嶽野牧を開設し,当時,薩摩藩内に20余牧が存在した。

 幕府諸藩ではこのように牧畜に力を尽くし,江戸中期以降になると幕府の直轄牧場である房州峰岡牧をはじめ駿州の尾上牧,天野牧,霞之牧など,牧場の開始されるものが,ますます多くなる。そして盛岡藩,薩摩藩などの雄藩ではますます牧制を整えて,その経営法は集約的となる。水戸藩では桜野牧(1835)が,高鍋藩では官牧民牧あわせて48牧が置かれ,肥後では阿蘇の広漠たる原野をはじめとして数多くの牧場が開かれた。

 このような幕府諸藩の官設牧場に対し,他方,民間には里牧,百姓牧などがあり,おおむね村の山林原野に共同で放牧採草したが,特に一定の地を画して〈牧〉を設けることはまれであった。村の共同利用地である山林原野への共同入会放牧で,この場合はその入会放牧地が牧となる。近世に盛んに行われていた上記の諸牧も明治維新後はほとんど廃牧となったが,のち民間の事業として経営される牧場となっているものもある。
執筆者:



牧(旧村) (まき)

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普及版 字通 「牧」の読み・字形・画数・意味


常用漢字 8画

[字音] ボク
[字訓] うしかい・やしなう・まき・おさめる

[説文解字]
[甲骨文]
[金文]

[字形] 会意
牛+攴(ぼく)。攴は鞭をもつ形。牛を追うて放牧する意。〔説文〕三下に「牛をふ人なり」とあり、また牧養すること、牧場の意に用いる。〔左伝、襄十四年〕に「庶人工隷(さうれい)牧圉(ぼくぎょ)」とあって、牧圉は隷の徒とされた。また民治の意に用い、地方の長官を牧民という。

[訓義]
1. うしかい、うまかい、ひつじかい。
2. やしなう、放ち飼いする。
3. まき、まきば。
4. 放牧の地、郊外の地。
5. おさめる、のぞむ、つかさどる。
6. 牧民の官、地方の長官。
7. つかえる、臣下、田官。

[古辞書の訓]
〔和名抄〕牧 无万(むまき) 〔名義抄〕牧 ウシカフ・カフ・ムマキ・アハレブ・ヲサム・ヤシナフ

[熟語]
牧苑・牧監・牧牛・牧圉・牧子・牧司・牧児・牧守・牧豎・牧・牧嘯・牧場・牧食・牧人・牧地・牧豬・牧長・牧笛・牧田・牧奴・牧童・牧犢・牧馬・牧伯・牧放・牧民・牧羊・牧養
[下接語]
岳牧・九牧・廏牧・圉牧・群牧・侯牧・耕牧・司牧・守牧・州牧・樵牧・人牧・芻牧・畜牧・田牧・統牧・農牧・放牧・民牧・遊牧・養牧・力牧・良牧

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百科事典マイペディア 「牧」の意味・わかりやすい解説

牧【まき】

牛馬を放牧し,その飼育・増殖を目的に設定された区域。古代令制の官牧は,主として諸国の軍団に支給する馬を飼育したが,軍団制の崩壊で9世紀初めに再編成され,《延喜式》の規定では兵部省(ひょうぶしょう)所管で令制の官牧に由来する諸国牧(官牧)と,左右馬寮(そうめりょう)所管で皇室牛馬供給のための御牧(みまき)(勅旨牧),貢上牛馬飼養のための近都牧(きんとのまき)の3種となる。牛馬は年貢として貢進し,皇族・官人に支給された。9―10世紀ころから権門や地方豪族の私牧が増加し,公牧も私牧化,これらはのちに開発により荘園化していく。兵馬が重要視された中世には,牧は武士団発生の基盤となることが多く,江戸時代にも幕府・諸藩は公牧を設けて軍備のための良馬育成に努めた。→秩父牧望月牧垂水荘
→関連項目岡屋牧楠葉牧皇室領質侶牧種子島垂水東牧・垂水西牧鳥養牧放牧

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「牧」の意味・わかりやすい解説

牧(牧地)
まき

牛馬などの家畜を放し飼いする所。大化改新(645)以前の文献に現れてくるが、その詳細は明らかでない。改新後、牧は律令(りつりょう)国家の一翼として制度化され、漸次整備されていった。668年(天智天皇7)7月、牧を多く置いて馬を放たせたとあり、700年(文武天皇4)3月、諸国をして牧地を定め牛馬を放たしめたことがみえる。令制の牧は、その後編纂(へんさん)された厩牧令(くもくりょう)、厩庫律(くこりつ)に規定されている。それによると、全国の牧はすべて兵部(ひょうぶ)省兵馬司がつかさどり、国司のもとで牧長以下の牧官がその経営にあたり、国ごとに設置された軍団に供給する馬匹のほか、駅馬・伝馬や農耕牛の増殖を図った。しかし平安初期には軍団制の崩壊とともに、牧は諸国牛馬牧(官牧)、勅旨牧(御牧)、近都牧(寮牧)の三つに分かれた。諸国牛馬牧は令制の牧のうち牧地に適して残った東西の18か国39牧を数え、勅旨牧は左右馬寮(めりょう)所管の東国四か国32牧が皇室御料馬の供給をもっぱら担い、近都牧は左右馬寮所属で諸国から貢進の繋飼(けいし)牛馬を京都に近い四か国六牧に放牧した所である。これらの官営牧のほか、摂関家をはじめ貴族や寺社が経営・領有した数多くの私牧がしばしば史料に登場する。

 やがて公私の牧は武士階級の台頭する起因ともなる一方、牧地の耕地化・荘園(しょうえん)化が進み、牛馬の小作(厩飼(きゅうし))が普及し衰退していったものと思われる。鎌倉時代になると、軍事および運輸の目的から、東北、中部、中国、九州の牧畜に適した地方の牧が隆盛し続けて、近世の牛馬産地の基礎を築いた。下って江戸時代には、幕府が下総(しもうさ)(千葉県)の小金(こがね)五牧・佐倉(さくら)七牧など多くの直轄牧場を整備し、また諸藩のなかでも東北地方の諸藩や中国地方の松江藩のように藩牧として再興、奨励して牛馬の生産に意を注いだところが多くあった。

 明治に入ると、殖産興業を目ざして官営および民営の牧場は、外国種畜の輸入や洋式農機具の導入を進めた。一方、軍事用馬匹の改良のため、1896年(明治29)4月には種馬(しゅば)牧場および種馬所の官制を公布し、全国に種馬牧場二か所と種馬所九か所(のちに15か所に増設)が設けられた。現在もこれらの施設の多くは、畜産の多様化にあわせて技術の振興のために転換して使われている。現在では、牧は山林原野の共同放牧地による集約的形態で多く営まれている。

[鈴木健夫]


牧(新潟県)
まき

新潟県南西部、東頸城郡(ひがしくびきぐん)にあった旧村名(牧村(むら))。現在は上越(じょうえつ)市の南部を占める一地区。2005年(平成17)、安塚(やすづか)町、柿崎(かきざき)町、大潟(おおがた)町、吉川(よしかわ)町、板倉(いたくら)町、名立(なだち)町、浦川原(うらがわら)村、大島(おおしま)村、頸城(くびき)村、中郷(なかごう)村、清里(きよさと)村、三和(さんわ)村とともに上越市に編入。旧村域は、高田平野の飯田(いいだ)川上流に位置する。信越県境の豪雪山村で、明治末期までは牧油田で知られたが、現在は廃鉱になっている。地すべりの常襲地帯で過疎化に悩まされている。高田からバスの便があり、国道405号線が通じる。国史跡の宮口古墳群からアスファルト塗の土玉などが出土している。鷹羽(たかば)温泉や憩(いこ)いの森を中心とする牧ふるさと村が名所になっている。

[山崎久雄]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「牧」の解説


まき

馬牛などを放牧して飼育するための土地と施設。日本には古墳中期以降,牧による馬の生産が導入された。律令制のもとでは主として軍事的目的から牧の制度が国家的に整備され,700年(文武4)全国に牛馬の牧の設定が命じられた。厩牧令(くもくりょう)などの規定では,兵馬司が全国の牧を中央で管轄し,各国の牧の経営・管理は国司の職掌とされた。牧ごとに牧長(ぼくちょう)・牧子(ぼくし)がおかれ,経営の実務に従事した。令制の牧は8世紀後期~9世紀に役割に応じて諸国牧(官牧)・御牧(みまき)(勅旨牧)・近都牧(きんとのまき)の3形態に分化した。「延喜式」にはこれら3種の牧が規定された。政府による牧経営は平安中期には形骸化し,その後は私牧(しのまき)が隆盛した。これらの牧は武士発生の重要な舞台になったとみられる。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「牧」の意味・わかりやすい解説


まき

牛馬などを放し飼いにする土地をいう。牧場の古名。日本の牧畜は上古にさかのぼるが,大化改新 (645) 以降,軍馬,駅馬,農耕用牛馬の管理も厳密に規定されるようになり,その飼育の場である牧場も国家による制度化が行われた。醍醐天皇は『延喜式』によって,皇室の料馬を供給させるための御牧,兵部省に管轄させる諸国牧,左右馬寮所管の近都牧を指定させ,御牧の年貢馬は信濃 80,甲斐 60,武蔵,上野各 50と定めた。その後,律令国家の解体とともに官牧は衰退したが,それに代り各地に私牧が設置されていった。江戸時代に入ると8代将軍徳川吉宗は下総小金,佐倉に公牧を開き,諸藩のなかでも南部藩の牧馬,松江藩の牧牛などが行われた。


まき

新潟県南西部,上越市南東部の旧村域。東頸城丘陵の西側に位置し,南は長野県に接する。 1954年沖見村と合体。 2005年上越市に編入。明治中期に最盛期であった越後古油田の一つがある。主産業は農業で,棚田での米作,野菜栽培,および畜産が行なわれる。細縄は特産。地すべりでも知られる。宮口古墳群,水科古墳群 (ともに国指定史跡) ,鷹羽温泉がある。

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旺文社日本史事典 三訂版 「牧」の解説


まき

牛馬の飼育地
大宝令に厩牧令が規定され,延喜式には御牧(勅旨牧)・諸国牧・近都牧の3種があり,牛馬を飼育し,皇室や政府・軍団や駅馬・伝馬の供給源となった。平安時代には貴族の私牧が,鎌倉時代以降は軍馬・運輸の必要から各地に牧ができた。江戸時代も盛んに行われ,幕府の公牧(佐倉など),南部藩の牧馬,松江藩の牧牛などが有名。

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世界大百科事典(旧版)内のの言及

【ウマ(馬)】より

…それらのうち,アンキテリウムはアジアへ移住し,ユーラシアの森林地帯で次の鮮新世まで繁栄した。日本でもその化石が知られ,岐阜県可児(かに)町で発見されたヒラマキウマ(平牧馬)がそれにあたる。中新世の後期は,全世界的な乾燥化があり草原性の環境が拡大したが,それに伴ってウマ科の第2回の大放散が見られた。…

【駒牽】より

…平安時代,諸国の(まき)から貢進する馬を天皇が見る儀式。8月15日におこなわれたが,のち朱雀天皇の国忌のため,16日に変更となった。…

※「牧」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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