日本歴史地名大系 「藤井村」の解説
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
- 和歌山県:御坊市
- 藤井村
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
- 愛知県:安城市
- 藤井村
東は
近世の支配は岡崎藩領。寛永一三年(一六三六)の村高五三〇石九斗余、その後矢作川南で、古新田・新々田の新田集落を分出する。宝暦一二年(一七六二)に至り、開墾地九五石一斗七升余が加わる。また二〇町歩の御林があり、竹一四束を上納。
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
西北は
江戸時代は麻生藩領で(寛文朱印留)、寛文年中(一六六一―七三)藤井村など六ヵ村と
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
天正検地では、一五九石一斗三升と高付けされ、信州松本御領分村々高附帳には二四一石二斗六升二合とある。「信府統記」によれば、享保九年(一七二四)当時の石高は二〇三石九斗六升六合三勺である。寛文四年(一六六四)頃水田は七町九段三畝九歩、畑地は三町六歩。慶安検地の時、本百姓一三、門百姓二である。
「東筑摩郡村誌」に「藤井耕地ノ午ニ当ツテ小森殿ト称スル所アリ、字面ヲ以テ考レバ来由アルベキ蹤跡ニ似タリト雖モ、何等ノ故ニテ此文字ヲ下スヤ弁ジ難シ、然レドモ並ビテ塚田ト称スル田アリテ其側ニ塚アリ、往々之ヲ穿テバ矢根・短剣・古銭等ノ出ルコトアリ、朽チテタダ雁股・尖矢ノ形ヲ存スルノミ、今ハ追々耕去リテ塚モ見エズ。
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
- 青森県:弘前市
- 藤井村
岩木山の東麓にあり、東は
貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、鬼沢村の支村とあり、村高一〇・八八六石。上畑・中畑と屋敷地だけの小さな村で、畑方は四・〇八九石、屋敷地は六・七九七石。屋敷持の人数は不明だが、本村の鬼沢村や隣接する他村落への出作者が多かったと思われる。
藤井村
ふじいむら
大和川左岸に立地。慶長郷帳の村高一三五・二二四石で、領主は「御餌指新三郎」とある。御餌指は幕府鷹匠と考えられるが未詳。寛永郷帳では餌指の名は市蔵・新五とみえるが、貞享五年(一六八八)領主の餌指内田氏は領内の鉄砲改めに際し、村内に一挺もないことを申告したが、のち三挺も発見され、その杜撰な支配のため改易となった。「庁中漫録」に「葛下郡藤井村百三十石余之所、御餌差内田四人、内田市郎右衛門、内田市右衛門、内田才三郎、内田彦九郎之知行にて候へとも、貞享五辰年鉄砲御触之節、藤井村ニハ百姓持鉄砲壱挺も無之由、江戸にて被申上処ニ、村ニ鉄砲三挺有之ニ付、不吟味之御祟ニて知行めしあけられ候、依之九月ヨリ之御ふれ事藤井村ハ御代官所へ申遣候」とあり、以後幕府領。
藤井村
ふじいむら
藤井村
ふじいむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報