藤井村(読み)ふじいむら

日本歴史地名大系 「藤井村」の解説

藤井村
ふじいむら

[現在地名]壬生町藤井

南流するくろ川を隔てて壬生城下の東に位置し、城下と小金井こがねい宿(現国分寺町)を結ぶ藤井道(小金井道とも)が通る。この道の黒川渡河点、右岸に壬生五河岸の一つ藤井河岸が設置された。また当地から壬生への渡船場があり、「壬生領史略」によれば渡船は当村側で営業していた。北に原宿はらじゆく新田、南に星宮ほしのみや新田があり、いずれも当村の枝郷。東は細谷ほそや村・橋本はしもと(現石橋町)。永正一五年(一五一八)八月三日の高清借用状(米良文書)に宇都宮「藤井」とみえ、高清は当地の円浄坊門弟引の旦那職などを質に入れ、廊之房から銭一貫文を借用している。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]岸和田市藤井町・藤井町一―三丁目

村の南東、春木はるき川左岸の低位段丘部に位置する。府中ふちゆう街道が村の北西を北から南西に走る。

村高は古検高一八五石余(「岸和田御領分中古高今高仕出帳」鬼洞文庫蔵)。慶長九年(一六〇四)の加守郷藤井村指出帳(東京大学史料編纂所蔵)でも同高、うち七石五斗余は荒で毛付高一七七石八斗余(うち一九石五斗余は畑方分)。同一〇年の和泉国絵図でもほぼ同高。和泉国村高帳(鬼洞文庫蔵)によると正保二年(一六四五)には二二五石余。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]三方町藤井

南前川みなみまえがわ村の南に位置し、丹後街道が通る。西方はす川に向かって田地が広がる。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に「藤井保十四町三百卅歩」とみえ、「尊勝寺領」と朱注がある。下って延文四年(一三五九)には藤井保内の二反が気山能大夫の天満宮楽頭職田となっている(三月日付「地頭某宛行状」江村家文書)。経緯は不明だが室町時代には当保が東岩蔵ひがしいわくら真性しんしよう(跡地は現京都市左京区)領となっていることが知られ(安倍家文書の「東岩蔵寺真性院由緒書」所収の応永一三年一二月二二日付綸旨写)、康正二年造内裏段銭国役引付に「三貫五百文(中略)東岩蔵寺真性院領、若州藤井保段銭」とある。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]柏崎市藤井・田塚たつか二―三丁目

鯖石さばいし川中流河岸に迫る丘陵のうち、西丘陵が消え、下流氾濫地帯にあたる西岸の村。東は鯖石川対岸の中田なかだ村、西は田塚村、南は下田尻しもたじり村、北は上原かみはら村。石船いわふね神社(現村上市)蔵の嘉吉二年(一四四二)一一月六日銘の鰐口に「敬白越後国苅羽郡鵜川荘藤井卒都婆八幡宮 檀那道吉右近五郎」と記す。文禄四年(一五九五)二月九日の藤井堰掟(白川風土記)に、上杉景勝の家老直江兼続は「此水下へ罷出もの之儀 前々其所之田地もちつけふたいの百姓等におゐてハ、きよよふいたすへからさる事」と命じ、新田開発と新百姓の創出に意を注いでいるが、当村は下流諸村の故地であろう。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]鹿島町藤井

内浦街道に沿い、南西は福田ふくだ村。通称「ふじ」とよぶ。承久三年(一二二一)九月六日の能登国田数注文に藤井村とみえ、公田数は一町(もとは六町)で、同元年に立庄されたとある。鎌倉期の加賀の有力武士林一族のなかに能登国に居住した藤井六郎光基がいるが(尊卑分脈)、本貫地は当地と考えられる。文明一八年(一四八六)六月石動せきどう山に参詣するため当地を通った聖護院道興は「藤井といへる所は浦ちかき里也けれハ、波をみて」「浦ちかきやとりをしめて春ならぬ藤井の里も波になれつゝ」と詠んでいる(廻国雑記)


藤井村
ふじいむら

[現在地名]岡山市西大寺一宮さいだいじいちのみや

東片岡ひがしかたおか村・東幸崎ひがしこうざき村の東、小丘陵の間の谷間にあり、東は千手せんず(現邑久郡牛窓町)。「一遍上人絵伝」に「備前国藤井といふ所の政所におはして、念仏すゝめ給けるに、家主は吉備津宮の神主が子息なりけるが、ほかへたがひたり、其妻女聖をたとびて、法門など聴聞し、俄に発心して出家を遂にけり」とあり、藤井は当地のことか。元亨四年(一三二四)鹿忍かしの庄下司藤井氏と豊原とよはら庄雑掌との間で、藤井など四ヵ所をめぐる争論が起こり、うち藤井など二ヵ所は藤井氏が賜った(同年四月一九日「鹿忍庄下司・豊原庄雑掌和与状案」安仁神社文書)


藤井村
ふじいむら

[現在地名]御坊市藤田ふじた町藤井

吉田よしだ村の東、道成どうじよう(現日高郡川辺町)の南から日高川右岸にかけた地。慶長検地高目録では土生はぶ(現川辺町)に含まれたが、万治元年(一六五八)鐘巻かねまき村・千津川せんづがわ村・小熊こぐま(現川辺町)とともに土生村から分村(日高郡誌)。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では土生五ヵ村の一つとされ、村高三七二石余、町数三二町六反余、家数四五で内訳は本役二六・半役八・大工一・桶屋二・年寄二・無役四・ありき一・庄屋一、人数二一二、牛二七、馬四、御蔵一。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]勝沼町藤井

八代郡に属する。下岩崎しもいわさき村の南西に位置し、村内はきたノ組・みなみノ組に分れる(甲斐国志)。慶長古高帳に村名がみえ、高一七八石余、幕府領。寛永一〇年(一六三三)旗本小栗(二氏)領の二給となる(「寛政重修諸家譜」、「貞享二年采地簿」臆乗鈔、元禄郷帳)。宝永二年(一七〇五)甲府藩領、享保九年(一七二四)に幕府領石和代官支配となり、幕末に至る(甲州三代官領知村付及高帳・旧高旧領取調帳など)


藤井村
ふじいむら

[現在地名]天理市藤井町

竜王りゆうおう山東北方に所在する渓谷集落。「国民郷士記」に藤井性円・広英・佐兵衛の名がみえる。染田天神社記録(「山辺郡誌」所収)に「永享四年七月廿日於藤井始行了、現納米伍石弐斗三升并弐百五十七文在之、当年預性円」とある。

慶長郷帳にみる村高二五六・六石。慶長五年(一六〇〇)織田長益(有楽斎)領。元和元年(一六一五)戒重かいじゆう(のち芝村藩)領となる。鎮守は三十八さんじゆうはち神社で三十八大神を祀り、「奉造立藤井御宮 于時文亀弐年年預三光院道西、藤井殿西念施主等敬白」と墨書した棟札が残る。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]下仁田町南野牧みなみのまき

南流するかぶら川が村央付近で東流するいちかや川を合して東南流し、川沿いに下仁田道が通り、本宿もとじゆく村境に西牧さいもく関所が設置されていた。東は坂詰さかづめ村、西は芦野平あしのたいら村、北は本宿村などと接する。近世はおおむね幕府領。寛文郷帳には元禄郷帳で枝村となる横間よこま村とともにみえ、両村の合計高八二石七斗余はすべて畑方。元禄郷帳には枝村としてほかに深山みやま村を記す。後期の御改革組合村高帳では高二一五石余、家数五三。市ノ萱川右岸の支流沿いの阿唱念あしよねに空居上人建立と伝える堂跡がある。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]水戸市藤井町

水戸城下の北西に位置し、那珂川の西側にある。東は岩根いわね村・飯富いいとみ村。日光道・笠間道が村内を走り、入野いりの(藤井川)が村の南部を東流する。

「延喜式」神名帳の那賀なか郡七座に「藤内フチウチノ神社」の名がみえ、「水府志料」の藤井村の項に「この村神社を藤内と云。式内の社にて、那珂郡の地也。藤内を藤井と呼び誤たる事、社記にも見へたり」とあり、村名は藤内神社に由来すると考えられる。康安二年(一三六二)の佐竹義篤譲状(秋田県立図書館蔵)に「松王丸分 藤井氏 一、那珂西藤井郷北方内平沢蔵人給分旧井五郎入道跡」とみえる。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]山鹿市藤井

南境を菊池川が西流し、東は中富なかどみ村・小島おしま(現鹿本郡鹿本町)、北はしん(同上)、西は方保田かとうだ村と接する。「国誌」によると村名は八幡宮社前にある藤ノ井に由来するという。中世は千田ちだ庄内で、永和元年(一三七五)の千田庄支配注文(早大蔵後藤文書)に藤井名がみえる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると田五三町七畝余・畠屋敷一一町六反五畝余・屋敷筆数三八、分米七五〇石七斗余。近世は玉名たまな郡中富手永に属する。「国誌」には高一千九九石余とあり、文化一一年(一八一四)中富手永手鑑では田六〇町五反二畝余・畑一七町九反三畝余・古新地の田畑一町七反余がある。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]安城市藤井町

東は野寺のでら村・木戸きど村に接し、南は矢作川をもって志籠谷しこや(現西尾市)に対する。古代志貴しき庄に属する。中世、松平長親の四男彦四郎利長がここに拠り、藤井と称した。藤井松平氏の祖である。利長の子、勘四郎信一は、のち家康に仕え、伊豆守と称し、子孫は二家となり大名に列する。

近世の支配は岡崎藩領。寛永一三年(一六三六)の村高五三〇石九斗余、その後矢作川南で、古新田・新々田の新田集落を分出する。宝暦一二年(一七六二)に至り、開墾地九五石一斗七升余が加わる。また二〇町歩の御林があり、竹一四束を上納。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]日高町藤井

竹貫たかぬき村の西、八代やしろ川の中流域に位置する。江戸時代の領主の変遷は、当初は不明、寛永四年(一六二七)旗本宮城豊嗣の知行地となる(陣屋を二方郡清富に置く)。同二〇年同家断絶により収公されて幕府領(「断家譜」・寛永一六年知高帳・福井家文書)。寛文八年(一六六八)豊岡藩領となるが、享保一一年(一七二六)収公されて幕府領となり(「寛政重修諸家譜」、「豊岡藩旧京極領三万五千石村々高付」岡本家文書、「但馬国両代官所支配村々高帳」出石神社蔵など)、幕末に至る。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]玉造町藤井

西北は井上いのうえ村、西は五町田荒宿ごちようだあらじゆく村。嘉元大田文に「藤井十一町一反三百歩」と記される。延元元年(一三三六)の沙弥信崇譲状案(烟田文書)には「常陸国行方郡藤井村限東船子郷堺、限南入海、限西井上郷堺、限北下大道」とあり、烟田氏の支配領であったが、戦国末期に佐竹氏領となる。

江戸時代は麻生藩領で(寛文朱印留)、寛文年中(一六六一―七三)藤井村など六ヵ村と小幡おばた(現北浦村)が村境をめぐって争論し、同五年二月に幕府評定所は「野論之事双方令糺明之処右之論所先規為小幡村之野之由雖申之先給人時ヨリ入会ニ申付之条今以絵図之面墨筋之上加印判双方へ遣置之間墨筋之内小幡村並ニ六ケ村入会芝草可取之」(「入会原野秣場訴訟証拠物之写」栗又家文書)と裁定した。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]岡山市藤井

くろがね村の西にあり、たつくち山東方に連なる低い山地南麓に集落がある。近世には山陽道が横断し、宿が置かれた。「一遍上人絵伝」にみえる藤井を当地とする説もある。中尾なかお村六社大明神(現八幡宮)の文禄四年(一五九五)の神領書上(黄微古簡集)に「藤井ノ」三郎左衛門が載る。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)居都こづ庄に村名があり、寛永備前国絵図では高五七〇石余。正保郷帳では水損少と注記がある。「備陽記」によると田畠二九町八反余、家数四八・人数三三一、池三。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]新庄町大字南藤井みなみふじい

大屋おおや村南方にあり、「大乗院雑事記」文明一四年(一四八二)七月二三日条に「同御油庄々 二升五合藤井庄 一升五合正道寺」とある。慶長郷帳では新庄藩(桑山一晴)領。村高二六二・二九石。天和二年(一六八二)桑山一尹の改易で幕府領に編入。享和元年(一八〇一)郡山藩(柳沢保光)領に編入され廃藩置県に至る。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]市原市藤井

郡本こおりもと村の南に位置する。地内の古光ふるこう古国府在長面ぜえちようめんは在庁免の転じたものと考えられる。応永九年(一四〇二)六月銘などの懸仏がある。万治二年(一六五九)郡本村より分村したとされる。元禄郷帳に村名がみえ、高二五二石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高二五〇石余で家数三一、旗本井上領。天保郷帳では高二九九石余。享保一八年(一七三三)の争論に伴い、取決めた入会秣場に郡本村が百姓持林を作ることに反対、提訴しており、享和三年(一八〇三)内済している(市原地方史研究)


藤井村
ふじいむら

[現在地名]松本市里山辺 藤井

はら村の東に接し北側に山を負っている。

天正検地では、一五九石一斗三升と高付けされ、信州松本御領分村々高附帳には二四一石二斗六升二合とある。「信府統記」によれば、享保九年(一七二四)当時の石高は二〇三石九斗六升六合三勺である。寛文四年(一六六四)頃水田は七町九段三畝九歩、畑地は三町六歩。慶安検地の時、本百姓一三、門百姓二である。

「東筑摩郡村誌」に「藤井耕地ノ午ニ当ツテ小森殿ト称スル所アリ、字面ヲ以テ考レバ来由アルベキ蹤跡ニ似タリト雖モ、何等ノ故ニテ此文字ヲ下スヤ弁ジ難シ、然レドモ並ビテ塚田ト称スル田アリテ其側ニ塚アリ、往々之ヲ穿テバ矢根・短剣・古銭等ノ出ルコトアリ、朽チテタダ雁股・尖矢ノ形ヲ存スルノミ、今ハ追々耕去リテ塚モ見エズ。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]粉河町藤井

中津なかつ川を挟んで東毛とうげ村の西対岸に位置し、北は中津川なかつがわ村、南は猪垣いのかけ村、西は北長田きたながた村に接する。「続風土記」は「旧は猪垣の出村なりといふ、村の東の端に藤井といふ井あり(中略)粉河寺九水の一なり、村名もこれより出たり、本村の西なるを小名千本といひ、西北山の半腹に在るを小名平畑といふ、皆人家あり」と記す。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]弘前市鬼沢おにざわ

岩木山の東麓にあり、東は種市たねいち村、南は鬼沢村、北は貝沢かいざわ村に接する。

貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、鬼沢村の支村とあり、村高一〇・八八六石。上畑・中畑と屋敷地だけの小さな村で、畑方は四・〇八九石、屋敷地は六・七九七石。屋敷持の人数は不明だが、本村の鬼沢村や隣接する他村落への出作者が多かったと思われる。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]王寺町藤井一―三丁目・大字藤井

大和川左岸に立地。慶長郷帳の村高一三五・二二四石で、領主は「御餌指新三郎」とある。御餌指は幕府鷹匠と考えられるが未詳。寛永郷帳では餌指の名は市蔵・新五とみえるが、貞享五年(一六八八)領主の餌指内田氏は領内の鉄砲改めに際し、村内に一挺もないことを申告したが、のち三挺も発見され、その杜撰な支配のため改易となった。「庁中漫録」に「葛下郡藤井村百三十石余之所、御餌差内田四人、内田市郎右衛門、内田市右衛門、内田才三郎、内田彦九郎之知行にて候へとも、貞享五辰年鉄砲御触之節、藤井村ニハ百姓持鉄砲壱挺も無之由、江戸にて被申上処ニ、村ニ鉄砲三挺有之ニ付、不吟味之御祟ニて知行めしあけられ候、依之九月ヨリ之御ふれ事藤井村ハ御代官所へ申遣候」とあり、以後幕府領。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]高取町大字藤井

田井たいしよう村南方の谷間村落。康正二年(一四五六)の田井兵庫之庄御供米注進状(春日神社文書)に「ケンシヨウジ(顕正寺) 藤井殿」の名がみえ、武士化した名主がいた。地方蔵方寺尾勤録によれば、寛永一六年(一六三九)田井ノ庄村から独立。


藤井村
ふじいむら

[現在地名]大宇陀町大字藤井

調子ちようし村の東南に所在。慶長郷帳には「豊井村」とあり、村高は三三一・四石。慶長六年(一六〇一)松山藩(福島高晴)領。元禄八年(一六九五)幕府領。元禄検地により村高は二五七・四一五石と大きく減石した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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