江戸時代,将軍より1万石以上の領地を与えられた大名の所領,あるいは,その所領支配の組織・機構を藩と呼ぶ。藩の呼称は,江戸幕府の大名領に対する公称ではなく,当時は〈領知〉あるいは〈知行所〉と呼ばれていた。藩が行政単位として公式に使用されたのは1868年(明治1),明治維新政府が旧大名領を藩と呼び,旧幕領に府県を置いたときから,71年の廃藩置県までのわずかの期間である。
江戸時代の中ごろから,漢学者たちが,中国において皇帝から領地を与えられた諸侯を藩王あるいは藩鎮といったのにならって,日本の大名領をそう呼ぶようになった。新井白石が1702年(元禄15),6代将軍となる徳川家宣の命で,諸大名の事跡を著した《藩翰譜(はんかんふ)》は,藩の用例の早いものである。しかしこの時期には,藩という用語は漢学者などきわめて限られた人々にしか使用されていなかった。江戸時代後期に入ると,藩という用語の使用例は多くなり,大名がみずからの領地を藩と呼び,その家臣たちは藩士と自称することが見られるようになる。これは,後期に入ると大名の改易・転封がきわめて少なくなり,大名の領主としての連続性と所領範囲の固定化,さらにはこれらのことを基礎にした政治的,地域的なまとまりが徐々に強まっていったことに対応したものである。
藩は,江戸時代を通じて,その興亡を含めると500藩近くとなるが,江戸時代初期には200足らず,1664年(寛文4)には221藩,幕末の1865年(慶応1)には266藩であった。1664年の藩を領地高別に見ると,50万石以上が6藩,50万石未満25万石以上が12藩,25万石未満10万石以上が28藩,10万石未満5万石以上が43藩,5万石未満3万石以上が32藩,3万石未満が98藩,その他,領地高表示のない松前藩,格式上の知行高が10万石の対馬藩があり,5万石未満の藩が数の上では60%近くを占める。これらの藩の多くは,領地に城を持たない大名であった。また藩は,将軍家との関係で,大きく親藩,譜代藩(譜代),外様藩(外様)に分けられ,親藩はさらに三家(尾張徳川家,紀伊徳川家,水戸徳川家),一門,連枝に分けられた。譜代藩の藩主は,徳川氏が覇権を握る以前より徳川氏の家臣であったもののうち1万石以上の領地を持つもので,多くは徳川氏によって取り立てられたものであり,老中をはじめとする幕府の要職には彼らが就いた。譜代藩のおもなものには彦根藩(井伊氏),姫路藩(酒井氏),小田原藩(大久保氏),佐倉藩(堀田氏)などがある。外様大名は,徳川氏の全国統一の過程で徳川氏に臣従した大名たちであり,戦国大名の系譜を引くもの(旧族大名)と,織田信長,豊臣秀吉に取り立てられたもの(織豊取立大名)とに分けられる。旧族大名には,薩摩藩島津氏,長州藩毛利氏,米沢藩上杉氏,仙台藩伊達氏などが,織豊取立大名には,福岡藩黒田氏,広島藩浅野氏,岡山藩池田氏,加賀藩前田氏などをあげることができる。
初期の藩政は,城下町に武士を集住させ,家臣の知行地の割替えを行い,また知行形態を地方(じかた)知行から俸禄制へ移行し,軍役規定を定めて家臣を大名の統制下におき,さらに農村に対しては検地を施行し,年貢収納のために村請制を導入し,五人組や宗門改めによって農民を掌握することなどを通じて,支配の確立・強化にあたった。
藩の政治組織・機構のあり方は,藩によってさまざまであり,整一なものではないが,一般的には,国元と江戸とに二分され,ときとして京都や大坂にも屋敷があった。国元には,役方の最高職として家老が置かれ,その下に用人,寺社奉行,町奉行,勘定奉行,郡(こおり)奉行,代官が置かれた。番方は,城代-組頭-物頭-番士の序列で家臣が組織されていた。江戸藩邸には,江戸家老あるいは江戸留守居がおり,納戸役人や勘定の役人たちが付属していたほか,江戸在番の家臣たちがいた。
江戸時代後期の藩政は,多くの藩で,参勤交代をはじめとする江戸入用の増大,年貢収納高の減少,米価安などのなかで,財政は悪化の一途をたどったが,藩は江戸,京,大坂など三都の商人から多大の借財をし,領内に対してはたび重なる調達金を課すことでしのいだ。また,積極策を採る藩では藩政改革を断行し,殖産興業や藩専売制を行うなどして,領内の物産の振興につとめ,その商業的利潤をも得ようとしたが,すべての藩で成功したわけではない。幕末期には,外国船の日本近海への出没による対外的緊張の高まりと,さまざまな局面での幕府との政治的対抗が増すなかで,多くの藩で軍制改革が行われ,洋式軍制を採用する藩も見られた。
執筆者:藤井 譲治
近世社会の支配者身分である武家のうち,とくに大名および大名による支配機構である藩に関しては,多くの歴史的文書が残されている。藩政史料,大名文書などともいわれるが,藩庁文書すなわち,大名の行政・支配に関する記録(公文書)と,家や個人にかかわる記録(私文書)に大別される。しかし,明確に両者に区別できない部分もある。
(1)藩庁文書 公文書という狭い意味での藩政史料である。(a)領知関係 将軍からの所領宛行状(あてがいじよう),領地目録など大名の地位を示す文書。(b)番方の諸記録 本来武家は兵士であることに関しての,軍事編成,軍役(ぐんやく)(軍事上の負担),武器,参勤交代,大坂城などの城番や海防などの軍事的勤役,大坂の陣・島原の乱や幕末・戊辰(ぼしん)戦争などの出兵,軍制・兵制とその改革など。(c)役方の諸記録 武家は同時に行政官であり,国元と江戸藩邸は行政官庁であった。側用人・奥役人などの藩主側近関係,御用部屋・評定所(ひようじようしよ)などの政庁・裁判所,寺社統制と宗門人別改め,年貢などの収入・算用・支出。国産(特有の物産)とその専売などの財政・勘定方関係,郡奉行以下の村落支配,町奉行以下の城下町支配など,官僚機構的に整備された諸役所の記録,発布された諸法令,およびそこに集められた諸書類など。(d)家臣団関係史料 (b)の番方の史料にも関係するが,上級から下級に至る多数の家臣団の統制条目・法度(はつと),知行・扶持(ふち),分限帳(ぶげんちよう)・武鑑(藩士名簿),奉公書(ほうこうがき)・家督相続・由緒書(ゆいしよがき)・系図など。(e)藩学・藩校関係 武芸・諸学の教育の記録,学校組織,教官・学生名簿,藩校収集蔵書,教官の著述など。(f)編纂物 以上のような,藩内の諸役所・諸部局の文書・記録をもとに編纂された,藩史,歴代の事跡など。明治時代以降も,各旧大名家の多くはそれぞれの編纂所に専門家を揃えて,この仕事を行っている。
(2)大名文書 大名の〈家〉や,歴代個人にかかわるもので,大名家の系譜・由緒書,婚姻・葬祭などの慶事・凶事記録,歴代の家記,私生活,趣味・学芸・大名家の蔵書など。
江戸幕府の崩壊当時,全国の藩(大名)は約250あったが,そのほかに中途で絶えた家もある。それらはなんらかの形で,上記のような諸史料を持っていたはずである。しかし明治維新の変動や,その後の時代の激変を経た今日までに,かなりの史料が失われたり,本来の所有者の手を離れている。江戸時代にあっても,遠隔の地に中世以来居を占めてきた旧族大名は,かなりの史料を保持し続けて後世に至ったが,転封の激しい譜代大名の多くの場合は,重要な役割を果たした大名家であっても,その間に多くの史料が処分され,失われている。しかし,例えば上野国館林→陸奥国白河→播磨国姫路→越後国村上→姫路(再封)と転じて,1741年(寛保1)から越後国高田にあって幕末に至る榊原家の文書のように,各地の時期の史料を含むような例も多い。太平洋戦争中の戦災のため,東京や地元の旧城下町で多くの史料が失われ,戦後華族制度の廃止などの影響で,各家の家史編纂所はほとんど機能を停止し,その所蔵史料も多くは地元の図書館へ引き取られたり,各地の大学などへ買い取られた。それらのうち比較的多量なおもなものの,現在の所蔵機関をあげると次のようである。弘前藩津軽家文書(弘前市立図書館,国立史料館),盛岡藩南部家文書(盛岡市中央公民館ほか),福井藩松平家文書(福井県立図書館,松平慶永関係は福井市郷土歴史博物館),鳥取藩池田家文書(鳥取県立博物館),岡山藩池田家文書(岡山大学付属図書館),長州藩毛利家文書(山口県立文書館),徳島藩蜂須賀家文書(国立史料館),佐賀藩鍋島家文書(佐賀県立図書館),熊本藩細川家文書(熊本大学付属図書館),延岡藩内藤家文書(明治大学図書館),一橋家文書(茨城県立歴史館)。
一方,水戸藩徳川家,宇和島藩伊達家などのように,その家,またはその家で組織した財団の保管している場合もあるが,公共機関のもののほとんどが,目録の作成・公刊などによって研究上の利用が利便になっているのに対して,それらの整理は比較的遅れている現状にある。また,家史編纂所でまとめたままになっていた藩史,家史などで,公共機関やそれに準ずる機関の手に移って近年公刊を見たものに,《鳥取藩史》(鳥取県発行),《忠義公史料》(鹿児島県維新史料編纂所発行)などがある。
執筆者:河内 八郎
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江戸時代、将軍から石高(こくだか)1万石以上の土地を宛行(あてが)われた大名の支配領域、およびその支配機構をいう。
藩という公称は、江戸時代にあったのではなくて、1868年(明治1)明治新政府が旧幕領に府・県を設置したのに対して、旧大名領には藩の呼称を用い、ここに藩は公称として用いられるようになったが、1871年の廃藩置県によって藩の実態は消滅し、以後大名領をさす場合の通用語となった。したがって、藩が日本で一定の行政区域の表現とされたのは、厳密にいえば明治維新当時だけである。
[泉 雅博]
藩=大名の数は、江戸時代を通じて260前後に上る。これを藩成立の事情から分類すると、旧族大名、織豊取立(しょくほうとりたて)大名、徳川取立大名の三つとされ、一般には前二者を外様(とざま)大名とした。
徳川取立大名は親藩(しんぱん)と譜代(ふだい)に分かれ、親藩はさらに御三家(ごさんけ)(尾張(おわり)、紀伊、水戸)、御三卿(ごさんきょう)(田安(たやす)、一橋(ひとつばし)、清水(しみず))、家門(かもん)、連枝(れんし)などに分けられる。
また、大名は、城地の有無、領域の規模にしたがって、国主(こくしゅ)(国持(くにもち))、準国主(国持並(なみ))、城主(城持(しろもち))、城主格(城持並)、無城に分けられ、あるいは江戸城中の詰間(つめのま)により大廊下(おおろうか)、溜間(たまりのま)、大広間(おおひろま)、帝鑑(ていかん)間、柳(やなぎ)間、雁(かり)間、菊間などに分ける場合もあり、さらに官位や石高の大小によっても分けられた。
1792年(寛政4)の『大成武鑑(たいせいぶかん)』によると、大名領の石高は約1800万石であったが、親藩・譜代大名の石高と外様大名の石高はほぼ折半されていた。なお、全国の総石高のうち藩によって占められる石高の比率は約71.5%となっていた。
この『大成武鑑』による大名数は256藩で、うち親藩は12藩、譜代大名は144藩、外様大名は100藩となるが、大名の主体は帝鑑、雁の両間に詰める譜代の106家で、その1家当り平均石高は5万石前後であった。
[泉 雅博]
藩は将軍と大名との関係を前提として成立する。この両者は、基本的には、武家諸法度(ぶけしょはっと)を基準とする支配と服従の関係にあった。大名は武家諸法度を遵守することを、将軍の代替りごとに誓約した。つまり、忠誠の誓約としての誓詞血判の式である。したがって、将軍の交替ごとに、大名は給付を受けた所領をいったん将軍に返還し、改めて新将軍の法度の発布とそれに対する遵守の誓約をまって、所領の再給付を受けた。しかし、実質的には知行(ちぎょう)の世襲が認められ、ここに藩政のそれぞれの展開をみることになる。
織豊政権のもとで統一された全国的な土地制度を継承し、これを基礎とした江戸幕府は、17世紀前半を通じてその組織を整備してきたが、諸藩もまたほぼ同じ時期に藩制の確立をみた。
藩制確立の主要な指標の第一は、領内における大名領主権の集中と、その機能の確立にある。戦国期までは、大名家臣が自己の領地をもち、館(やかた)を構えて土地・人民を直接支配しており、大名はそれを知行権として認めていたが、近世大名は家臣を城下に集住させ、その知行権をしだいに限定して領主権のなかに吸収し、彼らには知行高に応じて蔵米(くらまい)を支給することにした。そして、下級家臣を含めて軍役編成を行い、行政機構を整備した。これを俸禄(ほうろく)制の確立とよぶ。
第二には、検地・刀狩(かたながり)による農民の一斉統制である。戦国期までは郷(ごう)・庄(しょう)に居住し、武器をもち、族縁的な共同体を形成していた農民を、直接生産者を基準として検地帳・人別(にんべつ)帳に登録し、転出転業を禁止した。そして、本百姓(ほんびゃくしょう)身分を設定して、村ごとに年貢・諸役を課し、これを徴収する体制を確立するとともに、村役人制度をもってこれを支配した。
第三には、城下町の設定と領国経済の確立である。武士階級に奉仕すべき商人・職人を城下町に集めて統制を加えつつ、生産物地代として徴収した米穀を全国市場に供給して、津留(つどめ)政策によって領内自給体制を整えながら、藩財政を確立することが藩制の円滑な運営を助長させた。しかし、このようないくつかの政策は、藩独自のものとしてではなく、幕府への臣従を前提として行われた。
[泉 雅博]
各藩は年貢増徴のため勧農に努め、藩政の安定的運営を志向したが、藩財政の圧倒的部分を年貢米の収納に依存している経済基盤のもとでは、いずれの藩も財政難は避けえなかった。領内統治のための行政費用に加え、幕府より命ぜられる勤役や、参勤交代に要する費用は莫大(ばくだい)なものであり、18世紀に入ると藩財政の窮乏は覆いがたいものとなった。また、このころより農村へと浸透し始めた商品経済によって、農民層分解が進行し、藩経済の基盤を根底から脅かし始めた。
このような事態のなかで諸藩は、領内検地の実施や徴租法の変更を通じていっそうの年貢増徴を図るとともに、商品生産の広がりに対応するため国産奨励や専売制を展開、また一方で、農民層分解を抑制するための土地改革を断行した。しかし、こうした政策も財政の回復、藩政の安定には結び付かなかった。
商人資本と結び、藩政を独占する門閥層に対する下士層の不満は改革派の結成を促し、貢租の苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に対する農民の怒りは百姓一揆(いっき)、打毀(うちこわし)となって激発した。こうした状況下で、幕府もしだいに藩に対する統制力を失っていき、とくに1853年(嘉永6)ペリー来航以後の対外危機の深刻化は、国内の矛盾をいっそう浮き彫りにし、政争の嵐(あらし)のなかで幕府を無力化した。1867年(慶応3)徳川慶喜(よしのぶ)は大政を朝廷に奉還し、江戸幕府は倒壊する。ここに至って藩の本来の意味もなくなり、廃藩置県によって藩は消滅した。
[泉 雅博]
『金井圓著『藩政』(1962・至文堂)』▽『山口啓二・佐々木潤之介著『幕藩体制』(1971・日本評論社)』▽『藤野保著『新訂幕藩体制史の研究』(1975・吉川弘文館)』▽『佐々木潤之介著『幕藩制国家論』上下(1984・東京大学出版会)』
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江戸時代の大名領域およびその支配機構をいう。藩という言葉は本来古代中国封建制において,天子から諸国に封じられた王侯の領国を意味した。江戸時代これになぞらえて,儒者などを中心に徳川将軍家に服属していた大名家を藩とよぶようになった。ただし江戸期における公称ではなく,明治維新直後の1868年(明治元)新政府が府藩県三治制をしいたときに,旧幕領である府・県に対し旧大名領がはじめて藩とよばれた。71年の廃藩置県により消滅。
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…したがって家中とは,日本において封建的な家制度が完成したといわれるこの時代に,その家の構成員全体をよぶ場合に用いられた擬制的な同族呼称のことなのである。【鈴木 国弘】
[近世]
江戸時代には一藩内の城下居住の武士を,郷村居住の武士である郷士に対して,家中と称したが,広義には両者を合わせて家中と総称した。藩という公称を欠いた江戸時代には家中が藩または藩士の総称の意味にも使われた。…
…例えば江戸時代の一人の農民にとって公儀とは幕府―大名―代官―村―家―家族という入子型の支配体系であったが,この体系の各項は,自分より上位の項に対しては私であり,下位の項に対しては公儀であった。藩は領民に対しては公儀であったが,幕府の裁判による処刑が公儀御仕置であり大名・旗本によるそれが自分仕置と呼ばれたように,大公儀(おおこうぎ)である幕府に対しては私であった。世間,世間体,世間のつきあいなど現在から見れば私的関係に属する分野にまで,公儀という言葉で表現されるようになったのも,公儀における公と私の上記のような関係から説明できるであろう。…
…国産方,産物方,産物会所ともいう。江戸中期以降,藩が領内で生産される国産の奨励または統制を行うために設けた機関。藩によっては統制の対象とした商品名をつけて木綿会所,砂糖会所などと呼んでいるところもある。…
…地方知行とは,家臣が直接給地を支配して年貢を収納する形態であり,戦国期の小領主の知行形態にならったものではあるが,江戸時代には大名領主権が強大となって裁判権などは吸収され,実質的には制限付きの年貢収納権だけが残されていた。蔵米知行とは,給地を名目上指定するものの藩の役人が一括して支配し,家臣には給地の年貢に相当する米・金を藩の蔵から支給する形態であり,給地支配から切り離されているところから擬制的知行ともいうべきものである。江戸時代初期には地方知行であっても,17世紀中葉に蔵米知行に転換した藩が多く,1701年(元禄14)の調査にもとづく《土芥寇讎記(どかいこうしゆうき)》の記事によると,全国243藩のうち地方知行は外様と大藩を中心に39,蔵米知行は譜代と中小藩を中心に204という分布を示している。…
…近世において諸藩が,藩外との米穀などの物資の移出入を統制あるいは禁止した政策。1635年(寛永12)の〈武家諸法度〉に幕府は〈私関所,新法の津留,制禁の事〉という一条を定め,新規の津留を禁じたが,以後諸藩の津留政策がなくなったわけではない。…
…江戸時代の,将軍を頂点とした封建的政治体制をいう。
[規定と特質]
幕藩体制は,兵農分離制を階級支配の原則とした純粋封建体制の一形態であって,石高制(こくだかせい)を土地所有体系の基本とした封建領主が,士・農工商・賤民の政治的編成を基本とした経済外強制によって民衆支配を行い,その支配体制の総体を鎖国制という民族的枠組みによって維持,固定している政治体制である。 兵農分離制はその封地との歴史的関係を断ち切って,将軍の恣意によって配置,移動させられる武士団を作り出し,これらの武士団は,兵農分離に伴う商農,工農の分離によって農村から切り離された商人,手工業者とともに,都市に集住して,都市民を形成した。…
※「藩」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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