改訂新版 世界大百科事典 「文禄慶長の役」の意味・わかりやすい解説
文禄・慶長の役 (ぶんろくけいちょうのえき)
豊臣秀吉が1592-98年(文禄1-慶長3)に2度にわたって企てた朝鮮に対する侵略戦争。朝鮮側では〈壬辰・丁酉倭乱〉または〈壬辰倭乱〉とよぶ。
日本側の状況
秀吉の動機と準備過程
本来,秀吉の意図は明国を服属させること(唐(から)入り)で,朝鮮に対してはその道案内を求めるという〈仮道入明(かどうにゆうみん)〉を標榜していた。秀吉が出兵の意志を公表した事実が確認できるのは,関白任官直後の1585年(天正13)9月であるが,その後,対馬の宗義智(よしとし)に命じて外交交渉にあたらせ,朝鮮国王の来日を求めた。九州征服後には博多を兵站(へいたん)基地化し,蔵米を集中できる体制をとるなど,具体的準備がすすめられた。秀吉が対外的な領土拡張を求めて出兵したことはいうまでもない。国内の封建的統一の達成後,秀吉が家臣に知行地を給付するには,原則として自己の直轄領を割いて与える以外に方法は無く,それには限界があった。諸大名のなかには海外に所領を希望する者もあり,これらの動きを背景にして,国内統一の延長上に朝鮮出兵が企図された。また,16世紀中ごろに勘合貿易が中断されてから,中国産の生糸(白糸(しらいと))はポルトガル船を介して輸入されていたが,秀吉の意図する貿易独占政策は明国との直接取引を求めていた。この動きは領土拡大の要求に裏打ちされていた。また朝鮮出兵の準備過程は,太閤検地の施行過程と対応していた。わずか20年にすぎない豊臣政権の全過程は,一面では朝鮮出兵という対外侵略の論理に貫かれていたといえよう。
出兵に際しての軍事動員の指令は,1591年9月ごろ秀吉から諸大名に発せられた。諸大名はそれに基づいて,領内で人員,武具,兵粮米,船などを用意して肥前の名護屋に参陣した。これには奥羽の大名まで実際に動員されている。翌92年(文禄1)=文禄の役の陣立書によれば,朝鮮に出兵するのは西国大名が主力で,軍団は地域的にまとめられ,1万~2万人程度のグループを構成している。その中核には織豊取立大名が配置され,旧族大名である外様を実際に動員できるような体制がとられている。諸大名に賦課された軍役は,たとえば九州大名は知行高100石について5人役(本役)のように,石高制に依拠した形をとっている。豊臣政権の軍役体系は,外様大名を含めた全領主階級を包摂して成立しており,ここに封建的ヒエラルヒーの完成した姿を見いだすことができよう。水軍組織としては,九鬼,藤堂,脇坂らの織豊取立大名を主体とする舟手が作られ,人馬や兵粮米の輸送などにたずさわった。軍事編成には,武士階級だけでなく領国内の民衆も動員された。彼等は陣夫役(農民),水主(かこ)役(漁民)として徴発され,諸大名の軍役体系に組み入れられた。諸浦の船も九州に回漕され,釜山~対馬~壱岐~名護屋間の漕送りに利用された。朝鮮出兵は農漁村の生産条件を大きく破壊したのである。
和議交渉と第2次出兵
緒戦の勝利で朝鮮の都が陥落した92年5月,秀吉は日本,朝鮮,中国にまたがる国割計画を発表した。後陽成天皇を北京へ移し,その関白に秀次をつけ,日本の帝位は皇子(周仁親王)か皇弟(智仁親王)に継がせ,その関白に羽柴秀保か宇喜多秀家をあてるというものである。これは,大局的判断を欠いた空想的プランにすぎないが,かえって秀吉の構想を積極的に物語っている。
朝鮮側の対応と合わせて後述されるように,戦局は秀吉の思惑通りには推移しなかった。当時の朝鮮の正規軍は弱体であったが,慶尚道,全羅道を中心とする民衆の義兵組織や,圧倒的な明の援軍の到着によって補給路が絶たれ,渡海した兵員も各地に分散されたうえ一戦ごとに死傷者を出して手薄となっていた。この間,小西行長と沈惟敬(しんいけい)(明の遊撃将軍)との間ですすめられていた和議交渉も,戦局の推移につれて二転,三転した。日本側の条件は出陣諸将の間の思惑の相違からまとまらず,秀吉自身も,当時の国際関係(明帝国を中心とする冊封体制)についての認識に欠けるところがあった。93年(文禄2)6月,秀吉は来日した明の使者に7ヵ条の和平条件を呈示した。ここで秀吉は,明の皇女を天皇の后とし,人質となっている朝鮮皇子を返還することなどのほか,勘合貿易の復活協議と朝鮮八道のうち4道の割譲を求めている。くしくも併記されたこの2条件は,秀吉が出兵の際に企図したことがらであり,国内において,いわゆる武断派・吏僚派諸将の,それぞれの要求を反映するものであった。明側としてはこのような要求に応ずるはずはない。行長と沈惟敬らは秀吉の表文を偽作し,これをもとに秀吉を〈日本国王〉に封ずることとした。ことの次第は96年(慶長1)大坂城での明使引見の際に明るみに出,秀吉は激怒して再征となった。
97年(慶長2)の再征=慶長の役は,偽りの講和交渉がもたらしたものであるから,出兵を強いられた将兵はもとより,兵粮米を負担せねばならない農民の苦痛は大きかった。中世以来不課の原則がとられて来た田の裏作麦の収穫高の1/3を徴収して兵粮米を確保するという非常手段もとられたが,翌年8月の秀吉の死によって,この法令は撤回された。
秀吉の死によって,朝鮮出兵という前近代社会でほとんど唯一の対外侵略戦争は,多数の犠牲をもって終りをつげた。豊臣政権は,総力をあげての大動員によって,自己の政権の崩壊を招いたが,みずから確立した幕藩制的支配原理は継承されていくのである。
執筆者:三鬼 清一郎
朝鮮側の対応と戦局の推移
1592年4月,日本軍は釜山に上陸し壬辰倭乱(文禄の役)が始まるが,日本軍は約半月の間に慶尚道と忠清道の主要都市を,5月初めには漢城(朝鮮の首都,現在のソウル)を,6月には平壌や咸鏡道を占領した。朝鮮国王の宣祖は漢城を放棄して北方へ逃避し,5月初め,一部の反対を押し切って明に救援を要請した。
緒戦における日本軍の勝因としては,(1)当初,朝鮮の地方長官や軍隊の指揮官の多くが日本軍に抵抗せず,戦争を回避したり逃亡したこと,(2)日本軍は戦国時代を経て戦争になれていたうえ,朝鮮側にない鉄砲(鳥銃)を使用したこと,(3)朝鮮政府の封建的支配に不満を抱く民衆や軍卒の間に,朝鮮の支配層に対する反抗や日本軍への協力(附倭)が現れ,当初,民族的結集に困難が生じたこと,などがあった。しかし海上では,92年5月から李舜臣の率いる朝鮮海軍が活躍し,5月末には亀甲船(きつこうせん)も登場,92年7月の海戦で日本海軍は大敗北をこうむった。以後,日本軍は海上補給路をおびやかされるようになる。他方,陸上でも,92年6月ころから,反撃に転じた朝鮮軍の活動や,郷土防衛に決起した各地の抗日義兵(郭再祐軍など)のゲリラ活動によって,のびきった日本軍の補給線が切断されはじめた。そのため,日本軍は占領地における物資・人員の苛酷な調達を強行し,朝鮮民衆との対立を深めた。それがまた,抗日義兵勢力の拡大につながり,92年7月以降,日本軍はしだいに守戦に立たされることになった。抗日義兵将の大部分は地方の支配者(地方に居住する両班(ヤンバン)。その多くは地主層)であり,彼らは私財を投じて義兵を組織し,日本軍と闘うと同時に,崩壊した地方の支配秩序(階級支配)の維持につとめた。そして,日本軍との対立が深化する中で,多くの民衆が義兵に参加し,義兵の大衆化がすすんでいった。
他方,明の救援先鋒軍は,92年6月に朝鮮に到着したが,7月の平壌戦で日本軍に敗れると,日本軍(小西行長)と50日間の休戦協定を結び,中国へ引きあげてしまった。その後,93年1月には明の救援主力軍(4万3000人)が朝鮮軍と連合して平壌,開城を奪回したが,明軍は漢城付近の戦闘で大敗すると戦意を失い,講和に期待をかける。また,93年2月には約3万人の日本軍が漢城付近で朝鮮軍に大敗し,そのため小西行長は明軍との講和に期待をかける。こうして日明間の講和が結ばれ,93年8~10月,日本軍は朝鮮南部に約4万人を残して撤兵した。朝鮮政府は徹底抗戦を主張して講和に反対したが,明軍は朝鮮軍の対日戦も禁止した。しかしこの講和は前述のように明軍の沈惟敬・李如松と小西行長が講和条件を偽って明の皇帝と豊臣秀吉に結ばせたもので,その偽りが露見し,97年1月,秀吉の朝鮮再侵略開始となった(丁酉倭乱)。
再侵略と朝鮮の傷痕
97年1月,日本軍は朝鮮南部4道の領有をめざして慶尚道から全羅道,忠清道に侵入したが,朝鮮軍と明軍の反撃を受け,97年9月からは守戦に立った。98年3月以降は日本軍の守城(倭城)が次々と撃破され,敗北は決定的となった。そして秀吉の死を契機に98年10月,朝鮮から撤兵を開始したが,日本軍は李舜臣ら朝鮮海軍の追撃をうけ,同年11月,ようやく撤退を完了した。こうして日本の侵略は失敗に終わった。
前後6年余にわたる日本の侵略は,朝鮮に莫大な被害を与えた。耕地は約3分の1に減少し,日本軍による虐殺や,家を焼かれ流亡する中での餓死者・病没者の続出によって,人口も大幅に減少した。日本に強制連行された朝鮮人も5万~6万人に達したが,その中には陶工も含まれ,唐津焼,薩摩焼などは彼らによって始められた。また,朝鮮儒学の成果を日本に伝えた姜沆(きようこう)のような学者もいた。さらに多くの文化財(慶州の仏国寺,漢城の景福宮などの建築物や美術品,書籍など)が戦火で焼かれ,医学,朱子学などの朝鮮本や銅活字なども大量に日本に奪われた。
しかし,壬辰倭乱によって朝鮮社会が衰退したとみることは正しくない。戦後に実施された大同法(画期的な税制改革)は戦争中から進んでいたし,奴婢文書を焼きすてるなどの身分解放をめざす奴婢の闘争も進展していた。戦争が中断された94-96年には,朝鮮政府の封建的支配に対し,新興勢力を中心とする民衆の闘争が激化した。そうした中で身分制の弛緩,商品経済や農奴制などが進展した。崩壊過程にあった明は,壬辰倭乱に対する戦費負担などで崩壊過程がいっそう促進されて1644年に滅亡し,日本では侵略戦争の失敗が豊臣政権の崩壊を促進した。一方,朝鮮では多くの曲折を経ながらも李朝を存続させた。それは,壬辰倭乱に勝利し,また,すでに1565年に新進官僚による士林派政権が成立し,社会の新しい動向に適応する体制がともかくもできていたことによる。だが,この戦争が朝鮮に深い傷痕を残したことも事実であり,近代以降今に至るまで,壬辰倭乱は日本の侵略に対する憎しみ,警鐘の原点となり,李舜臣をはじめ,義僧軍を率いた休静(西山大師)や日本軍の武将をかき抱いて身を投じた義妓論介などは民族的抵抗のシンボルとなっている。なお,柳成竜《懲毖録(ちようひろく)》はこの戦争の過程を詳述し,後世への戒めとした書である。
室町時代以来の日朝間の善隣関係は,この戦争で断絶するが,その後江戸幕府は国交回復につとめ,1607年に復交し(朝鮮通信使の受入れ。当初は,日本に拉致された朝鮮人の〈刷還〉を名目としたため,回答兼刷還使と称した),09年には日朝通商条約(己酉約条)を結んだ。
執筆者:矢沢 康祐
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