人が貝殻を捨てた場所をいう。貝殻量の多少や形成時期の新旧を問わない。したがって現代の貝塚もありうる。しかし、文字のない、あるいは生活記録の乏しいころに形成されたものを、とくに貝塚として区別しようとしているのは、直接的には、食料残滓(ざんし)によって狩猟や漁労の体系を、人骨によって埋葬法や形質を知ることができる点などに、遺跡の一型である貝塚の優れた特性を認めるからである。世界の貝塚研究は、デンマークで始まった。ウォルソーWorsaaeは1850年、エデールホーフ貝塚の踏査とハーベルセ貝塚の発掘を実施し、翌年、貝塚は自然の積成ではなく、人間の食物残骸(ざんがい)が集積したものと発表し、これをKjökken möddinger(英語のkitchen midden)と命名した。デンマークの貝塚発掘は、欧米の貝塚の発見や発掘を刺激し、日本にもアメリカ経由で伝えられた。今日、貝塚は世界各地に分布していることが判明している。もっとも、海、河川、湖沼の沿岸に必ず貝塚があるわけではない。貝の多量の生息を促す水域に限られる。ヨーロッパでは、デンマークが中心でバルト海側に多く、ほかにフランスやポルトガルにもある。アメリカ大陸でも、アラスカから南アメリカまで分布している。太平洋西岸でも、ロシア連邦、中国、東南アジアはもとより、樺太(からふと)(サハリン)、日本、台湾、フィリピン、インドネシア、南太平洋の島々にも分布している。
[堀越正行]
1959年(昭和34)酒詰仲男(さかづめなかお)は、北海道から九州までの貝塚総数を2147(うち縄文時代967)と発表した。しかし、その後も増え続け、総数は約3000、うち縄文貝塚は約1500を上回るとみられる。
[堀越正行]
貝の繁殖を促す、干満差の大きい干潟の発達した地域に貝塚が多い。しかし、貝塚が集落の一角に形成された場合、海に直面した所よりも、当時でも海とは数キロメートル離れた少し奥まった所(海と10キロメートル以上離れた海産貝の貝塚もある)に位置することが多い。それは、魚貝のみで生活していたわけではなく、植物食や狩猟に大きなウェートを置いていたことを物語っている。
[堀越正行]
貝塚の形状は、台地縁(へり)近く、谷頭、舌状(ぜつじょう)台地の先端、尾根状台地の鞍部(あんぶ)など立地する地形条件によって外的に、さらに竪穴(たてあな)住居址(し)などの遺構の覆土、平坦(へいたん)地、緩急斜面などの捨てる場所によって内的に規定されている。その結果、平面形は、地点貝塚、点列貝塚、点列馬蹄形(ばていけい)貝塚、弧状貝塚、馬蹄形貝塚など(ほぼこの順に規模も大きく、貝殻の量も多くなる)に分けられるが、立地や捨て場によって形状がかなり異なる。たとえば、尾根状台地の先端や鞍部型馬蹄形貝塚は東北地方、谷頭斜面型馬蹄形貝塚は古鬼怒(こきぬ)湾沿岸、台地縁辺覆土・平坦地型馬蹄形貝塚は東京湾沿岸に目だつ。
[堀越正行]
貝塚には2通りの解釈がある。一つは、すべて貝塚は居住者の日常的捕食によって形成されたとする考えであり、もう一つは、大貝塚は、これに加えて保存食や交換財としての干し貝加工によって形成されたとする考えである。小池裕子のハマグリの貝殻成長線による採取季節推定(1975)によると、縄文時代のハマグリ採取は、基本的には周年行われていたものの、春季から夏季前半に採取の盛期(60~70%)を迎え、夏季からしだいに減少し始め、秋季後半と冬季の採取は不活発であるという。貝類採取が一定の季節性を帯びていることは、今日の潮干狩とまったく同じである。余分に採取した貝を干し貝に加工していたことは十分予想される。しかし、いかに大貝塚であろうと、貝を主食としていたとは考えられない。
[堀越正行]
日本列島の沿岸には現在約6000種の貝が生息しているといわれているが、全国の貝塚からは、約500種ぐらいしか出土していないという。さらに普通にみかけるのは100種内外で、主体的な貝になると20種前後である。これは、彼らの採貝地が主として潮間帯であることのほか、多量に、容易にとれ、しかもおいしい貝が選択されていることを物語っている。内湾では、マガキ、ハイガイ、ハマグリ、アサリ、シオフキ、外洋砂底では、ダンベイキサゴ、チョウセンハマグリ、岩礁では、スガイ、イボニシ、レイシ、サザエ、カリガネエガイ、イガイ、汽水域ではヤマトシジミ、淡水域では、カワニナ類、シジミ類、タニシ類、イシガイ、ヌマガイ、カワシンジュガイなどが代表的貝種である。
[堀越正行]
貝塚の土壌は、包含地遺跡がpH6前後の酸性を示すのに対し、貝殻を構成する炭酸カルシウムが作用してpH8前後のアルカリ性を示す。そのため、狩猟や漁労による食料残滓(ざんし)である鳥・獣・魚骨、利器や装身具に加工された骨・角・牙(きば)・貝製品、さらには埋葬された人骨や犬骨なども腐朽せずに遺存し、豊かな情報を提供している。
[堀越正行]
貝塚は手長明神(てながみょうじん)などの巨人や、800歳まで生きた比丘尼(びくに)によってつくられたという伝説は、奈良時代から江戸時代の人々が貝塚の形成者を超人的に理解していたことを物語っている。これを、大昔住んでいた人間によるとの想定で発掘したのはE・S・モースが最初で、彼により1877年(明治10)9月、大森貝塚(東京都大田区・品川区)が発掘調査された。以後、貝塚を中心に縄文時代研究が進展した。人種論の材料としての人骨の採集に重きを置く発掘、貝塚の層位を利用して土器の編年を体系化しようとする発掘、これに貝の淡鹹(たんかん)度を絡め、海進・海退の問題を解明しようとする発掘などが、第二次世界大戦前までの主流であった。戦後、貝塚を集落という観点でとらえる調査・研究が進捗(しんちょく)する一方、魚貝類の詳細な分析研究が、生態学的研究や自然貝層の研究などとともに進み、生業や環境に関する理解が深まっている。今日ようやく貝塚が総合的に解明されつつあるといえる。
[堀越正行]
『石井則孝他著『シンポジウム 縄文貝塚の謎』(1978・新人物往来社)』▽『酒詰仲男著『日本縄文石器時代食糧総説』復刻版(1984・土曜会)』▽『金子浩昌「貝塚と食料資源」(『日本の考古学2』所収・1960・河出書房)』
大阪府南西部、大阪湾に臨む繊維工業都市。1943年(昭和18)市制施行。市域は、南の和泉(いずみ)山脈の北西斜面から泉南丘陵と洪積台地、海岸平野へと南北に長く延びる。その間を近木(こぎ)川が縦谷をなして流れ、山地部に水間(みずま)盆地などの小盆地をつくる。海岸線に並行して南海電気鉄道南海本線、JR阪和線、阪和自動車道、阪神高速道路湾岸線、国道26号、170号が走り、これらの線に直交して水間鉄道が通じる。この地の農耕開発は古く、条里制遺構と60余の溜池(ためいけ)がある。市の開発は16世紀後半、当地の一向(いっこう)宗徒が紀州・根来(ねごろ)寺から卜半斎了珍(ぼくはんさいりょうちん)を迎え、願泉寺(貝塚御坊)を中心に寺内町を形成したのに始まり、一時本願寺の本拠ともなった。2代了閑(りょうかん)の世、徳川家康から寺内の諸役免許の黒印を受け、その後代々地頭とよばれて近世を通じて勢力をもち、商工業を誘致し繁栄した。とくに和泉木綿と和泉櫛(ぐし)は世に知られた。明治以降綿業の近代化が図られ、繊維工業都市として発展、1935年には大日本紡績(現、ユニチカ)の進出で紡績業の一中心地となった。2001年度(平成13)の総出荷額1381億円のうち約16%を、2019年度(令和1)の2670億円のうち約5%を繊維業が占める。ワイヤロープの生産でも知られる。近郊農業も盛んで、とくにミカンとタマネギ、キャベツ、ナスが多い。厄除(やくよ)け観音で知られる水間寺と水間公園、孝恩寺の国宝指定の観音堂(釘無(くぎなし)堂)、国史跡の丸山古墳、国の天然記念物和泉葛城(かつらぎ)山ブナ林などがあり、二色の浜(にしきのはま)は海水浴場として知られる。面積43.93平方キロメートル、人口8万4443(2020)。
[位野木壽一]
『『貝塚市史』全3巻(1955~1958・貝塚市)』
過去の人々が貝類を採取し食べた後に捨てた貝殻が堆積してできた遺跡。貝殻の炭酸カルシウムによる土壌中和作用の結果,通常残りにくい人骨・獣骨などがよく保存されるため,当時の人々の食糧・生活や環境の復元に有効な資料が得られる。
日本では2000ヵ所以上の貝塚が知られているが,その大半は縄文時代に属し,特に東北地方の太平洋沿岸,東京湾,東海地方および有明海沿岸に濃密に分布する。縄文貝塚の形成は,縄文海進による海水準変動と深く関連する。関東地方を例にあげると最終氷期に-100m以下にあった海水面は急激に上昇し始め,約8000年前の夏島貝塚が形成された頃にはほぼ現在の海水準に達した。縄文海進の最高期は縄文早期末の6500~5500年前に相当し現在の海水準より約4m高位にあり,海域は溺れ谷の奥深く拡大した。この時期の茅山(かやま)貝塚からはマガキ,ハイガイといった湾奥部の貝類が出土している。その後海水準は徐々に低下し,後退した海岸線のあとに干潟ができると貝類の採取もより活発になった。縄文前期には花輪台,幸田(こうで)の貝塚に代表される点列貝塚が形成され,中・後期になると干潟の拡大に伴いU字形または環状の長径100~150mにも及ぶ大型貝塚が多数形成された。姥山,加曾利,堀之内,大森の各貝塚では貝層の下から多数の住居址が検出されている。貝塚を構成する貝類は,地域によって異なり,北日本太平洋岸の大洞,沼津,宮戸島などの貝塚ではアサリの浅海域の貝類が,関東地方ではハマグリ,ハイガイ,マガキのような内湾種が多く,関東以西では高山寺,里木貝塚のようにハイガイの比率が高くなる。一方内陸の河川沿岸にある藤岡,水子,蜆塚などの貝塚ではヤマトシジミなど汽水域の貝類が,琵琶湖沿岸の石山貝塚ではセタシジミが採取されていた。沖縄の荻堂,室川貝塚からはシャコガイ,ヤコウガイなどサンゴ礁に成育する貝類が出土する。貝類以外の動物骨の出土も多く,北海道オホーツク文化期のモヨロ貝塚は海獣の狩猟が注目され,東北太平洋岸の沼津,宮戸島,寺脇,大畑貝塚ではマグロ,スズキ,マダイなど大型魚を対象にした高度の漁労技術が特徴的である。伊川津,吉胡,津雲貝塚からは数十体におよぶ人骨が出土し,縄文人の系統あるいは埋葬法について論じられている。
貝塚は世界各地に広く分布する。最も古い貝層を伴う遺跡といわれる最終氷期のフランスのムスティエ文化の洞窟遺跡からは,イシガイなど淡水産のみならず海産のムール貝が出土した。大規模な貝塚は中緯度地帯に多く,著名なエルテベレ貝塚に代表されるヨーロッパ北海沿岸のほか,北アメリカでは太平洋側のカリフォルニア州沿岸,大西洋側のメーン州,サウス・カロライナ州,フロリダ州の河口域,南アメリカ太平洋側のペルー南部からチリ,大西洋側のブラジルの沿岸部に多い。北海沿岸のエルテベレ文化や北アメリカのアーケイック文化にみられるように,貝塚人は海洋適応の結果,定住性の高い比較的安定した生活を送ったと考えられる。東シナ海地域も貝塚の豊富な地域で,日本の縄文土器を伴出する東三洞貝塚や弓山貝塚などの大型貝塚があり,さらに農耕がおもな生業となった後も金海貝塚や羊頭窪(ようとうわ)貝塚のように貝類の採捕は続く。海岸域をはなれて内陸部でも大型陸生マイマイの貝塚が形成されることがあり,アフリカのカプサ文化ではエスカルゴの貝塚があり,東南アジアのホアビン文化,バクソン文化の遺跡からも陸生マイマイが出土する。
執筆者:小池 裕子
大阪府南部の市。1943年市制。人口9万0519(2010)。大阪湾に面し,和泉海岸平野とその南にひろがる洪積台地にまたがった南北に細長い市域をもつ。洪積台地の末端部に位置する浄土真宗願泉寺(貝塚御坊)の寺内町として発展し,明治初年まで堀と土手を寺内の周囲にめぐらしていた。海岸に平行してJR阪和線,南海本線が走り,南北に水間鉄道が走る。また,台地下には南北に紀州街道(国道26号線)が通じ,市域南部に阪和自動車道のインターチェンジがある。江戸時代から農家の副業として発展した和泉木綿織物の産地で,明治に入って近代的な紡績工場が立地し,とくに1934年に当時東洋一の規模の大日本紡績(現,ユニチカ)の工場を建設してからは泉州地域における代表的な綿スフ紡績・織物業の集積地となった。農業では,市域の南東部丘陵地や山地斜面を利用したミカン栽培や稲作の裏作としてのタマネギ栽培のほか,大阪市の近郊に位置する地の利を生かしたハウスでの蔬菜栽培も行われている。
執筆者:秋山 道雄
和泉国の寺内町。北の大津川と南の近木(こぎ)川にはさまれ海岸に沿って南北に長く立地する。中世には木島(きのしま)荘と近木(こぎ)荘に属し,36戸の海村貝塚村が,1545年(天文14)に以前からあった寺庵に卜半斎(ぼくはんさい)了珍という僧を根来寺から招いて道場とした。50年にこの道場は,本願寺証如から阿弥陀画像を交付されて真宗の道場となり,この地は地域流通の結節点である寺内町に発展していった。77年(天正5)織田信長の雑賀(さいが)攻めの時,坊舎は破壊されたが,80年に再興し板屋道場と称した。信長によって石山本願寺から紀伊鷺森に退去させられていた顕如は,83年から3年間,大坂天満に移るまでここに寺基を置き貝塚御坊と称した。寺内町の町立て(都市計画)が完成するのはこのころで,南北4町余の地を幅3間の堀が囲み,中央を南北に紀州街道が貫通して,道の東に接して道場が建てられていた。その後,道場は願泉寺となり,寺内町は卜半(斎)家と20人の年寄によって運営された。
執筆者:峰岸 純夫 顕如が貝塚を離れた後も,寺内衆による自治行政は存続したが,94年(文禄3)了珍の奔走により,寺内が太閤検地の対象から除外されたころから,漸次卜半の寺内私領化が進んだ。1610年(慶長15)には,寺内衆が2代了閑の領主性を否定し,惣町自治の回復を徳川家康に訴えたが,かえって敗訴し,以後貝塚は御坊住職卜半氏を地頭とする封建都市に再編成され,諸役免許の特権と独立区画を保持しながら,明治維新まで寺内町として続いた。近世を通じて町数は5ヵ町,神社1社,寺院は御坊願泉寺以下10ヵ寺。周辺岸和田藩領の農村を後背地として発展し,1746年(延享3)の記録によれば,家数1500軒,人口6746人。廻船11隻,渡海41隻,漁船35隻。米屋22軒,毛綿(もめん)屋70軒,酒屋9軒,古手屋100軒,干鰯(ほしか)屋43軒,鍛冶屋40軒,櫛挽(くしびき)90軒,旅籠屋16軒,両替屋5軒,以下ほとんどの諸商諸職が集中し,商工業都市の形態を整えていた。
執筆者:藤本 篤
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過去の人類が居住地の周辺に捨てた貝類の殻や魚骨・獣骨が層をなして堆積した遺跡。縄文早~晩期に各地にみられるが,関東地方の東京湾沿岸には大規模な貝塚が集中する。地域によっては弥生~古墳時代以降までみられる。貝塚を構成する貝から,海水産主体の鹹水(かんすい)貝塚と淡水産主体の淡水貝塚にわけられ,さらに純鹹・主鹹・淡鹹・主淡・純淡に細分される。規模のうえでは平面形が環状または馬蹄(ばてい)形をなす大型貝塚と,廃屋となった竪穴住居の窪地などに堆積した小型貝塚がある。貝塚は日々の食べかすや不用品が下から順に堆積しているので,縄文土器の編年研究に大きく寄与し,通常の遺跡では遺存しにくい埋葬人骨なども多く検出され,葬制の研究や人類学的な研究が進められた。当時の食生活や生業活動に関するさまざまな資料も得られる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…両守護の下に守護代,小守護代,郡代が置かれ,両家とも守護職を世襲して戦国時代に及んだ。 南北朝内乱の過程で,荘園制の解体と変質が進んだが,高野山領近木(こぎ)荘(現,貝塚市),摂関家領大鳥荘(現,堺市)などでは,多数の小農民が年貢直納者として荘園領主に把握されており,荘園制は室町期にも崩壊には至っていない。一方,台頭してきた小農民層は団結して年貢減免闘争(荘家(しようけ)の一揆)を起こし,一部の有力農民は商業活動にも手をひろげ,高利貸活動で土地を集積し,地主化する者もあらわれるようになった。…
…
【貝と人間】
貝と人との関係は,それを食べ物として海や川で採取したことに始まる。その食べたあとの殻が積み重なってできたのが貝塚で,日本をはじめ世界各地に遺跡として残されている。また美しい貝は飾りに使われ,さらに貨幣に使われるなど,貝と人間の関係は深くなり,貝にまつわる伝説,信仰へと発展した。…
※「貝塚」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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