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イラク Iraq

翻訳|Iraq

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

イラク
Iraq

正式名称 イラク共和国 Al-Jumhūriyyah al-`Irāqiyyah。
面積 43万4128km2
人口 3477万6000(2013推計。近隣諸国への難民 200万人を含む)。
首都 バグダード

西南アジアの国。国土の中心をなすのはチグリス川ユーフラテス川が潤すメソポタミア平原(→メソポタミア)で,「肥沃な三日月地帯」の東部を占める。北東部の山地は,農耕文化の発祥の地ともいわれる。1921年に始まるイギリスの委任統治を経て 1932年に王政として独立,1958年に軍事クーデターにより共和国となった。住民はアラブ人が主で,中央部,南部,西部一帯に住むが,北部,東部にはクルド人(約 23%)が多く,ほかにトルクメン人,アッシリア人などの少数集団がある。公用語はアラビア語であるが,北部のクルド自治区ではクルド語も公用語と認められている。住民の約 96%がイスラム教徒で,シーア派が 60%以上で多数を占める。しかし少数派のスンニー派アラブ人(約 34%)が歴史的に政治的要職を独占してきた。北部,北東部および南部で採掘される石油と,主として南部のナツメヤシが二大産物で,特に石油輸出の財政に占める割合は 9割以上である。1950年代以降,モノカルチャー経済的構造を改めるため,数次にわたって総合開発計画を実施し,その成果は南部の巨大石油化学コンビナートの建設に始まり,多目的ダムの建設による穀物,綿花生産の推進,紡績,精糖,肥料,セメント,鉄鋼などの諸工場の建設となって実を結んだ。さらに 1970年代には石油価格高騰をうけて順調な経済発展を進めてきたが,1980~88年のイラン=イラク戦争で大幅に後退。さらに 1990年のクウェート侵攻を経て,1991年の湾岸戦争以降国際的に孤立し,経済制裁を受けて危機的状況に陥った。政治的にも北部のクルド人がイラク中央政府の威令を離れ,多国籍軍の庇護のもとで反サダム・フセイン活動の拠点となった。しかし 1996年に「食糧のための石油」輸出が認められたことで諸外国の対イラク交易は徐々に回復し,2000年前後にはその石油輸出量が戦前レベルに回復したことから,フセイン政権はアラブ諸国やフランスやロシアなどの支援を得て,アメリカ合衆国やイギリスに挑戦的姿勢をとり続けた。2001年のアメリカ同時テロ事件をきっかけに,2003年3月に米英を中心とした連合軍がイラクを攻撃,3週間弱でフセイン政権は実質的に崩壊し(→イラク戦争),アメリカ軍駐留のもと,新政権に移行した。(→イラク史

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朝日新聞掲載「キーワード」の解説

イラク

人口約2750万のうち、民族別ではアラブ75〜80%▽クルド15〜20%▽トルクメンなど少数民族は約5%。宗教はイスラム教シーア派60〜65%▽同スンニ派32〜37%▽キリスト教徒などが3%。平均寿命は69歳。1人あたりのGDPは3600ドル。国連によると、推定失業率25〜40%で、イラク人の54%が1日1ドル以下で生活しているとの数値もある。

(2008-03-20 朝日新聞 朝刊 東特集I)

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デジタル大辞泉の解説

イラク(Iraq)

アジア大陸南西部の共和国。首都バグダッドメソポタミア文明発祥地。宗教はイスラム教。英国の委任統治領から1932年王国として独立、1958年共和国となる。1980年代にフセイン政権が国境を巡ってイランと争った。1990年クウェートに侵攻するも、翌年米国を中心とする多国籍軍により撃退。2003年に大量破壊兵器保有の嫌疑を受けて米英などの攻撃を受けてフセイン政権が崩壊。イスラム教宗派間・民族間の対立が増すが2006年5月、民主選挙による初の政府が発足。チグリスユーフラテス両河流域の平原を中心に灌漑(かんがい)農業が発達。ナツメヤシの産地。油田も多い。人口2967万(2010)。

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百科事典マイペディアの解説

イラク

◎正式名称−イラク共和国al-Jumhuriya al-Iraqiya/Republic of Iraq。◎面積−43万4128km2。◎人口−3267万人(2011)。

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世界大百科事典 第2版の解説

イラク【‘Irāq】

正式名称=イラク共和国al‐Jumhūrīya al‐‘Irāqīya∥Republic of Iraq面積=43万5052km2人口(1996)=2142万人首都=バグダードBaghdad(日本との時差=-6時間)主要言語=アラビア語,クルド語通貨=イラク・ディナールIraqi Dinarアジア南西部の共和国。日本の奄美諸島から北関東とほぼ同緯度の北緯30゜から37゜の間に位置し,北はトルコ,西はシリアとヨルダン,南はサウジアラビアとクウェート,東はイランに境を接する。

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大辞林 第三版の解説

イラク【Iraq】

西アジアにある共和国。南東端の一部がペルシャ湾に臨む。チグリス・ユーフラテス両河流域の平原を占め、メソポタミア文明の発祥地。石油の産出が多い。オスマン帝国の支配下から、イギリス委任統治領を経て、1932年王国として独立。58年共和制をしく。住民はイスラム教徒のアラブ人、クルド人。首都バグダッド。面積43万8千平方キロメートル。人口2880万( 2005)。正称、イラク共和国。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

イラク
いらく
Iraq

西アジアに位置する国。正式名称はイラク共和国Al-Jumhryah al-‘Irqyah、英語ではRepublic of Iraqという。北はトルコ、東はイラン、西はシリアとヨルダン、さらに南はサウジアラビアとクウェートに接し、南部の一部がペルシア湾(アラビア湾)に臨む。面積43万8317平方キロメートル、人口2899万3000(2007推定)、人口密度は1平方キロメートル当り66人。首都はバグダード。
 古くはメソポタミアとよばれ、肥沃(ひよく)で広大なティグリス、ユーフラテス両川流域を主要部とする農業国であったが、20世紀になり豊かな石油資源を背景に工業化に積極的に取り組むようになった。政治的には1958年の革命(イラク革命)で王制から共和制に転換したが政情不安が続いた。しかし、1968年のクーデターで生まれたバース党のバクル政権は、1970年代後半から比較的安定した基盤を得た。1979年にはサダム・フセインが大統領に就任し、イラン・イラク戦争(1980~88)、湾岸危機・湾岸戦争(1990~91)を経て長期政権を維持したが、2003年のイラク戦争でアメリカ・イギリス両軍の攻撃を受け、フセイン政権は崩壊、連合国暫定当局(CPA)から暫定政府、移行政府による統治機関を経て、新政府が2006年に発足した。[原 隆一・吉田雄介]

自然

イラクは大別して三つの地域に分けられる。国土の中央部を流れるティグリス、ユーフラテス両川流域、北から北東を限るクルディスターン地方の山岳地域、ならびに西部、南西部を占めるシリア・アラビア台地の砂漠地域である。なかでもティグリス、ユーフラテス両川流域のメソポタミア平原はイラク総面積の82%を占め、イラクの自然環境のなかでもっとも重要な意味をもっている。この両川流域は、ティグリス川沿岸のサマッラー、ユーフラテス川沿岸のヒートを結ぶ線でさらに上流域と下流域に分けられる。上流域は標高500メートル前後の起伏の多いジャジーラ丘陵となり、流出口のない無数のワジ(涸(か)れ谷)のつくった小盆地を形成している。下流域は沖積平野となり、両川からの灌漑(かんがい)によりイラクの農業の中心地帯となっている。ティグリス、ユーフラテス両川が合流したあとのシャッタル・アラブ川沿岸はアシの生い茂る沼沢地帯を形成している。クルディスターン山地はイラン、トルコの国境に接し、イランのザーグロス山脈に連なる急峻(きゅうしゅん)な褶曲(しゅうきょく)山脈で、標高3000メートルを超える高山もみられる。ティグリス川の本流やその支流の大ザーブ川、小ザーブ川などが流下し、大小ザーブ川の谷が貫く平原一帯が古代のアッシリアの地である。イラクの西部、南西部を占める砂漠地帯は、ユーフラテス川下流低地からしだいに高くなり、標高1000メートルまでの高原を形成している。北部がシリア砂漠の延長であり、南部のヒジャーラ砂漠はサウジアラビアのネフド砂漠の北縁となっている。砂漠地帯にはメソポタミア平原に向かって多くのワジが刻まれ、最大のワジ・ハウラーンは全長480キロメートルに達する。
 気候は、低地では5月~10月の乾燥し暑さの厳しい夏と、12月~3月の比較的温暖で湿潤な冬との対照的な二つの季節がある。山地では冬は寒さが厳しい。バグダードの年平均気温は22℃であるが、7月の平均気温は34.2℃で、日中は日陰でも43℃に達する。このため住民は暑さを逃れるため昼間は地下室で過ごす。最低平均気温は1月の8.5℃で気温差は大きい。1921年7月8日バスラで観測された58.8℃は世界最高記録である。降水量は、クルディスターン山地では年間400ミリメートルを超えるが、南西部へ向かうにつれてしだいに減じ、バグダードでは150ミリメートル前後にすぎない。砂漠地帯ではさらに乾燥し、農耕の不可能な不毛の地となる。ティグリス、ユーフラテス両川をはじめとしてその大小の支流は、クルディスターン山地やトルコの山地、高原の降水を集め、豊かな水量に恵まれている。[原 隆一・吉田雄介]

歴史


古代~第一次世界大戦前
メソポタミアは世界最古の文明を擁した地である。紀元前3000年、シュメールは自らの文字をもつ独自の文化を築いていた。続いてユーフラテス川流域にバビロニア王国、新バビロニア王国が、ティグリス上流にアッシリア王国が興って栄えた。しかし、前539年イランのアケメネス朝ペルシアが征服して以後、イラクはアレクサンドロス大王、パルティア、ササン朝ペルシアなど外部勢力の侵入、支配を受けた。7世紀なかばイスラム教がアラビア半島におこり、イスラム教徒団はイラクを支配していたササン朝軍を破り新時代を開いた。ウマイヤ朝時代にはイスラム帝国の中心はシリアに置かれたが、749年からアッバース朝時代が始まると、首都はイラクのクーファ、そしてバグダードに置かれ、唐の長安、ビザンティン帝国のコンスタンティノープルと並ぶ繁栄を享受した。その後この王朝はしだいに勢力を失い、イラン、中央アジア、エジプト、北アフリカに続々と独立政権ができ、経済上の中心もエジプトに奪われることになった。1258年アッバース朝はモンゴル軍に滅ぼされ、バグダードは殺戮(さつりく)と破壊によって荒廃した。さらに14世紀末にティームールの率いるモンゴル軍が攻め寄せ、生命線ともいえる灌漑施設を破壊した。1534年から第一次世界大戦に至るまで約400年の間、イラクはオスマン・トルコの属州としてその支配下に置かれた。その間トルコ軍とサファビー朝のイラン軍との戦いの戦場となることも多かった。
第一次世界大戦後~共和国政権樹立まで
第一次世界大戦の際にはトルコがドイツ、オーストラリア側について参戦し、イギリス・インド軍がバスラ付近に上陸、1918年トルコを制圧しイラクの大部分を占領した。このころ国内では民族運動が高まり、多くの地域で反乱が生じた。1920年サン・レモ会議でイラクの委任統治権を認められたイギリスは、メッカのハーシム家のファイサルを国王として迎え委任統治を実施した。ファイサル国王はその後たびたびイギリスとの条約を改定し、独立への歩を進め、1932年国際連盟に加入して念願の独立を果たした。第二次世界大戦そして戦後の混乱ののち、石油収入で国民経済も潤い始めた1953年、若いファイサル2世が即位した。国王の完全な支持のもとでヌーリー・アッサイードが首相として独裁的な敏腕を振るい、政局も安定するかに思われた。しかし1958年7月、アブドゥル・カーリム・カセム准将の率いる軍事クーデターが成功し、国王、皇太子、多くの皇族と首相らが殺害され共和国政権が樹立された。
バース党の台頭
1958年クーデターで君主制から共和制に変わったイラクのカセム政権は、バグダード条約(後の中央条約機構CENTO(セントー))から脱退、中立主義的かつソ連寄りの政策を推進した。その後、国内では、軍部の反乱、共産党勢力の増大、クルド人の反乱、対外的には、イランとのシャッタル・アラブ川の領有権問題、クウェート併合などをめぐって、指導者層に対立が起こり政情不安が続いた。そして1963年2月バース党将校団によるクーデターでカセム政権は崩壊した。新政権の大統領アレフはまもなく軍と協力して、バース党勢力の一掃に成功した。この結果、親エジプト派が台頭し、単一政党「アラブ社会主義者連合」の設立、重要企業の国有化など一連の社会主義的政策が打ち出された。何度かの政変ののち、1968年7月穏健派のアハマッド・ハッサン・バクル将軍らによるクーデターでバース党政権が成立した。バクルが大統領に就任し、9月には暫定憲法が公布された。しかしバース党内の内紛は激しく、クーデター未遂事件は後を絶たなかった。1972年ソ連との友好協力条約に調印、ソ連の影響下に置かれたイラクと、アメリカの勢力下にあるイランとの対立という図式が定着した。こうした情勢を背景に、かねてより懸案のイラク石油会社(IPC)の国有化を断行したが、それに伴う大幅な原油生産量の減少は国民経済を圧迫した。しかし一方、西側大手石油資本との紛争は国内世論の統一と民心の結束に役だち、バクル政権の安定に寄与した。
 1973年10月、第四次中東戦争を機にパーレビ国王のイランと国交を回復し、1975年両国間の国境紛争に終止符を打った。これによりイランは、イラク領内で自治権を要求して武装決起した少数民族のクルド人への支援を停止した。同時にイラク政府軍はクルド人に総攻撃を加え、15年間にわたったクルド人の解放闘争はいちおう鎮圧された。中東諸国のなかでもっとも親ソ的だとされたイラクとソ連の関係は、1978年に入ってから悪化した。対外政策の相違やソ連一辺倒からの脱皮といった原因のほかに、ソ連によるイラクのクルド人への支援もイラク政府を刺激した。1978年エジプト・イスラエル平和協定や1979年イラン革命など激動の中東情勢のなかで、1979年7月、11年間の長期政権を維持した大統領バクルが健康上の理由で引退、後任には実質上実権を握ってきたサダム・フセイン革命評議会副議長が就任した。以降、共和制のかたちをとりながらも、実質は大統領フセインの独裁体制が強化されていった。

政治

1980年9月、革命後の混乱にあるイランとの間で、国境問題に端を発したイラン・イラク戦争が勃発(ぼっぱつ)した。戦争は長期化し、双方多大なる人的・物的損害を出して、1988年8月に停戦に至った。また、1990年8月にはイラク軍がクウェートに侵攻した。これに対して国連安全保障理事会はただちに対イラク経済制裁、クウェート併合無効を決議した。1991年1月17日、アメリカを主体とする多国籍軍による湾岸戦争が始まり、ハイテク兵器の攻撃によってイラク軍は潰走(かいそう)、26日にクウェートは解放された。4月11日、停戦が成立。戦後、イラク北部のクルド人自治区には、クルド人を保護すべくイラク軍の飛行禁止空域を定めて「安全地帯」が設置された。しかし、1996年8月にはクルド民主党(KDP)とクルド愛国同盟(PUK)との対立から、KDPの支援要請を受けてイラク軍がクルド人自治区に侵攻した。直後に、アメリカが武力行使を決定、イラクの防空施設に計44発の巡航ミサイルを打ち込み、イラク軍は数日で撤退した。また、湾岸戦争後の経済封鎖によって国内経済・産業は壊滅的な打撃を受け、治安も極度に悪化。1996年12月にはフセインの長男ウダイが襲撃される暗殺未遂事件が起こった。2002年には大量破壊兵器をめぐる国連査察が再開されるなどしたが、フセインは非協力的な態度をとり続け、国際的に孤立していく。2003年3月アメリカの最後通告に対してフセインは亡命を拒否、同月20日アメリカ・イギリス軍のイラク攻撃によりイラク戦争が始まった。同年4月には、アメリカ・イギリス両軍が首都バグダードをはじめとするイラク国内の主要都市を制圧、フセイン政権は崩壊し、フセインもまた12月にアメリカ軍に拘束された。
 2003年4月のフセイン政権崩壊後、イラク全土は、アメリカ・イギリスによる連合国暫定当局(CPA)の占領統治に入った。同年7月イラク人よりなるイラク統治評議会が誕生したが、占領統治体制の最高決定機関はCPAであった。その後、2004年6月1日に、国連、CPA、統治評議会の協議により、評議会メンバーのなかからアヤド・アラウィが首相に、ガジ・アジル・ヤワルが大統領に就任、閣僚も決まり、イラク暫定政権が発足(統治評議会は解散)。同年6月28日には、CPAからイラク暫定政権への主権移譲がなされた。同時にCPAは解散し、ここにアメリカ・イギリスの占領統治は終了するが、アメリカ・イギリスを中心とする多国籍軍は暫定政権からの要請を受ける形をとって駐留し続けていた。2005年1月、国民議会選挙が行われた結果、イスラム教シーア派勢力が勝利し議席の過半数を占める。同年4月、国民議会は、イラク移行政府の大統領としてクルド人指導者(クルド愛国同盟議長)のジャラル・タラバニJalal Talabaniを選出、タラバニは大統領に就任し、シーア派のイブラヒム・ジャファリIbrahim Jafariを首相に指名、移行政府が発足した。
 2005年10月には国民投票によって新憲法が承認された。同年12月には新憲法に基づく国民議会選挙が実施され、2006年4月に国民議会で改めて議長および大統領の選出、大統領による首相指名が行われ、同年5月にイラク新政府が発足した。議会は一院制で議席数は275。そのうち230は州ごとの比例代表制、45は少数派を優先した全国区の比例代表制で選ばれる。任期は4年。議会で選出される大統領の任期も連動して4年である。元首は大統領であるが、首相が行政権を握り、国軍の最高司令官を兼ねている。地方行政は首都バグダードやクルド人自治区3州を含む18州で構成され、2009年1月に14州において地方議会選挙が行われた。
 フセイン政権崩壊後、治安対策や復興支援活動のためイラクに駐留していた多国籍軍は2008年末の国連安全保障理事会決議の期限切れを機に各国部隊が撤退を進めた。また、2009年1月にはイラク、アメリカ間で有効期間3年の地位協定が発効した。この地位協定には2011年末までに駐留アメリカ軍をイラク全域から撤退させること、2009年6月末までにイラク治安部隊が各州で治安権限を回復するのに合わせて都市部や村からアメリカ戦闘部隊を撤収、アメリカ軍側が任務外で重大な罪を犯した場合はイラク側が第一次裁判権をもつこと等が盛り込まれている。この協定に基づきアメリカ軍は2009年6月に都市部からの撤退を完了した。軍、警察などイラク治安部隊の兵力数は約36万。そのうちイラク軍は陸軍16万3500、海軍1100、空軍1200(2008)となっている。
 2004年7月、フセインと旧政権幹部を裁く特別法廷が開廷し、2005年10月にはフセインの初公判が開かれた。本人は罪状認否で無罪を主張したが、2006年11月イラク高等法廷(特別法廷から改称)は人道に対する罪でフセインに死刑(絞首刑)判決を下した。同年12月26日には死刑が確定、同30日に刑が執行された。審理中の案件を残した刑執行には旧政権を握っていたイスラム教スンニー派をはじめ国際社会からも疑問視する声があがった。イラク国内は2003年5月にブッシュが大規模戦闘の終了を宣言した後も混乱が続きテロが頻発、一時は内戦状態となり200万人を超えるイラク難民が発生した。[原 隆一・吉田雄介]

経済・産業

イラクは1958年の共和制革命以来、基本的には社会主義化を進めながらも、経済分野では政経分離によって西側諸国との協調を推進した。しかしながら、1990年のイラク軍のクウェート侵攻以来、国連による経済封鎖が続き、2003年のイラク戦争によりイラク経済は壊滅的打撃を受けた。これにより、イラク国内の経済生活や工業生産はきわめて厳しい状況にある。なお、1996年12月には経済制裁が部分的に解除され、食料と医療品の購入という人道目的に限定して、半年で20億ドル分の石油輸出が再開されている。
 湾岸戦争以前には世界第5位の原油生産量(1989)を誇っていたイラク経済は、まさに石油に依存していた。この状況は国際社会への復帰後も変わらないものと推測される。財政収入に占める割合は、石油が圧倒的に多く、85%に及んでいる。1972年から1975年にかけてイラク石油会社IPC(イギリス、アメリカ、オランダ、フランス資本)およびその関連会社を国有化した政府は、積極的な石油政策に取り組んだ。新油田の探査、開発や、キルクーク、アイン・ザラハ、ズベールなど主要油田の拡張プロジェクトを推進した。こうした開発努力の結果、1975年当時240万バレル(日産)であったイラクの産油量は、1979年前半に330万バレルを記録した。大幅な増産と、1979年に入ってからの石油輸出国機構(OPEC(オペック))による原油価格の値上げで、石油収入は増加の一途をたどった。
 農業部門の就業人口は全就業者の7.9%(2005)にすぎない。国土面積の半分以上を不毛地が占め、耕地面積は13%(2000)にとどまる。しかも天水耕作が可能な土地は年降水量が400ミリメートルを超える北部の山岳地帯だけである。主要な農業地帯であるメソポタミア平原では灌漑(かんがい)に頼っている。土地生産性は低くその向上のためさまざまな努力が払われている。1958年から農地改革が実施され、その過程で集団農場化、機械化が推進された。ダム建設、灌漑施設の整備、新農地開拓、品種改良などの農業開発も盛んである。しかし農業部門は開発投資の効果が現れるのが遅く、一方で消費需要の増大に伴い、農産物輸入は増え続けている。主要な冬作物は小麦、大麦、亜麻(あま)、豆類で、夏作物は米、綿花、タバコ、トウモロコシ、キビ、野菜などである。ティグリス、ユーフラテス両川下流域ではナツメヤシが栽培され、その生産量は世界有数である。近年の穀物生産量は1996年の約300万トンから2000年の約80万トンに激減している。1998年から2年連続で干ばつが発生したことと、経済制裁により、農業機械、肥料など生産資材の確保がむずかしくなったことが原因と考えられる。
 製造業の就業者に占める比率は17.5%(1990)程度で、イラク経済の主要部門になるというところまでは達してしない。食品加工、織物、れんが製造、製革などの伝統産業に加えて、セメント、石油精製、石油化学、鉄鋼、機械など近代工業もおこった。とくにオイル・ブーム後の1970年代なかばから政府は積極的に工業化に取り組んだ。その結果、石油精製工業の伸びはずば抜けて高く、食品工業、非金属建材工業なども急増した。
 経済開発は王制以来数次にわたる五か年計画が作成されたが、絶えざる政変で計画の中断や遅れが目だった。1981年から1985年までの第五次五か年計画も実質的に実行されなかった。その後の経済計画は湾岸戦争、イラク戦争などによって混乱している。
 イラク戦争以前の貿易は、石油(原油と石油製品)が全輸出の99%を占めていた。輸出先はアメリカ、ブラジル、トルコ、日本の順(1989)に多かったが、2001年の輸出先はアメリカ、イタリア、フランス、スペインの順となった。おもな輸入品は機械類、輸送機械、穀類、鉄鋼、繊維品であったが、経済開発ブームで、それまでの消費財から、鉄、非鉄金属品や機械など中間材、投資材に重点が移っていった。1989年の輸入相手国は、アメリカ、ドイツ、イギリス、日本、フランス、トルコと続き、貿易収支は24億7700万ドルの黒字であった。しかし、経済制裁が課せられたため貿易は限定されており、2001年の輸入相手国はアメリカ、オーストラリア、中国、イタリア、ヨルダンの順で、おもな輸入品は食料品、医療品、消費財であった。新政府発足から1年を経た2007年(速報値)の国内総生産(GDP)は624億ドル、1人当り国内総生産は2109ドルとなった。イラクの石油埋蔵量は1150億バレル(2007)で世界3位。平均産油量は日量215万バレル(2007)となり、2008年には日量231万バレルを記録し、生産、輸出ともイラク戦争直前を上回るようになった。[原 隆一・吉田雄介]

社会

住民は多くの民族からなっているが、アラブ人が全体の80%近くを占めている。少数民族のなかではクルド人がもっとも多く、総人口の約20%近くを占める。北西のクルディスターン地方に主として居住し、イラン、トルコ、シリアにまたがるペルシア系住民である。民族も言語もアラブ人とは異なり、自治権を要求して長い間中央政府と対立してきた。このほかに北イラクのトルコ人、中央部のイラン人をはじめ、トルクメン人、アッシリア人、アルメニア人、ヤジーディ人、シャバーク人、サバ人、ユダヤ人などが居住している。
 言語は公用語であるアラビア語がもっとも広く話されている。しかし北部ではクルド語とトルコ語のほうが一般的で、アッシリア語、アルメニア語、ペルシア語の方言も東部の部族の間で話されている。
 宗教もイラク住民を分ける重要な要素である。総人口の95%以上がイスラム教徒であり、スンニー派とシーア派にほぼ二分される。スンニー派はバグダードやバスラの市民をはじめとするアラブ人やクルド人、シーア派はその聖地カルバラ周辺のアラブ人やイラン人などで全人口のほぼ60%を占める。キリスト教徒はネストリウス派、グレゴリウス派、ギリシア正教、アルメニア正教など、各派あわせて20万以上いると推定される。そのほか若干のユダヤ教徒もいる。
 首都のバグダード、バスラ、モスルの三大都市をはじめとして各都市は急速に発展し近代化が進んだ。しかし2003年のイラク戦争により、大きな被害を受けた。農村地域では、住民の住居は日干しれんがを積み上げたもので、電気も水道もない暮らしが普通である。娯楽といえば露天の喫茶店に集まり、トルコ・コーヒーなどをすすりながら会話を楽しむぐらいなもので、こうした単調な生活を破るようにイスラム教の祭礼や結婚式などが盛大に行われる。
 教育制度は1970年代に大きく前進し、1974~1975年、小学校から大学までの教育の全過程での無料化と、私立学校の廃止と公立化が決定された。さらに6~12歳の初等教育が義務教育となっていたが、これを中等教育まで3年間延長することが検討されていた。こうした政府の積極的な施策によって国民の識字率は上がり、2000年には74.2%(男84.1%、女64.2%)となった。
 しかし、イラク戦争はこの国の教育にも大きな被害をもたらした。2004年のイラク政府調査によると700校以上が空爆によって破壊され、3000校以上が略奪の被害にあった。そのためイラク全土の学校で椅子(いす)、机をはじめ基本的な学用品の不足に陥っている。初等教育には430万人が登録されているが、推定80万人以上が通学していないとする、イギリスのNGOの報告もある。[原 隆一・吉田雄介]

文化

世界最古の文明が栄えたこの国には遺跡、古建築が多い。メソポタミア南部、ユーフラテス川流域にはウル、エリドゥ、ウルクなどのシュメール古代遺跡、バグダードの南にはバビロニア、新バビロニアの首都として栄華を誇ったバビロンの遺跡もある。これらの遺跡の数々の出土品はバグダードのイラク博物館に所蔵されている。バビロニア帝国ののちに興ったアッシリア帝国の舞台はティグリス川の上流、北部イラクであった。その代表的遺跡は北部の中心地モスル近郊のニネベとニルムード、そして南約60キロメートルのアッシュールの城壁や宮殿跡である。アッシリア帝国崩壊後、移住してきたベドウィンによってつくられたハトラの町の遺跡はアッシュールの南にある。ササン朝ペルシアの冬の首都クテシフォンはバグダードの南東約30キロメートルの地点にあり、古代遺跡中最大のアーチをもつ王宮跡が残っている。
 新バビロニア帝国滅亡以来、ペルシアに文化の中心を奪われたメソポタミアは、8世紀バグダードを中心とするアッバース朝文化が花開いた。バグダードやその北120キロメートルのサマッラーには王宮跡、モスク、モスクの尖塔(せんとう)、螺旋(らせん)状尖塔などがある。こうした古代文化の遺跡は政府の考古文化局の管轄下にあり、発掘、調査、研究が進められている。イスラム教シーア派の始祖アリーとその息子フセインの墓所のあるナジャフとカルバラーのモスクは単なる遺跡にとどまらず、いまも聖地として信徒の厚い信仰を集めている。なお、イラン・イラク戦争、湾岸戦争以前は、イラン、パキスタンなど諸外国からも巡礼者が多数訪れていた。[原 隆一・吉田雄介]

日本との関係

1964年(昭和39)に日本イラク貿易協定が調印され対日輸入制限が撤廃された。1974年8月には経済協力協定が締結され、日本が20億ドルの借款を供与する見返りに、イラクから10年間に原油9000万トン、石油製品7000万トンの安定供給を受けることになった。以来日本とイラクの経済関係は急速に深まり、1977年度には輸入依存度に占める日本の比重は20%で第1位となった。しかし、その後日本の比重は低下し、1989年度の対日輸出は、アメリカ、ブラジル、トルコに次いで4番目で8%であった。またイラクの日本に対する輸入依存度は5%であった。2007年の対日輸出は10億1800万ドル、輸入は1億2000万ドルとなっている。
 経済以外の分野でも協力関係が深まった。1978年3月には、日本イラク文化協会が設立され、日本イラク航空協定が調印された。これによりイラク航空の東京乗り入れ、日本航空南回りヨーロッパ線の一部および中東線のバグダード寄航が実現した。湾岸戦争以前は、政治家、文化・スポーツ団体、遺跡発掘隊の派遣など幅広い交流が行われ、イラクの経済開発計画に関連して、日系企業が多くのプロジェクトに参加した。しかしながら、湾岸危機以降、日本はイラクに対する経済制裁を実施し、1991年には在イラク日本大使館を閉鎖した。湾岸戦争の前後で、日本とイラクの関係は大きく変わったが、1999年以降、国会議員や外務省局長クラスのイラク訪問が行われ、対話は閉ざされなかった。湾岸戦争以前に約1900億円に達していた対イラク経済協力は停止したが、国際機関を通じた人道援助は継続された。しかし、2003年のイラク戦争では、日本は米英を支持する立場をとった。外交関係は維持するが、外交官の常駐は行わず関係事務は在ヨルダン日本大使館で扱う、という状況が続いたが、イラク戦争の大規模戦闘が終結した2003年5月、閉鎖していた在イラク日本大使館を再開。ところが同年11月、イラク北部のティクリートで日本人外交官2名(奥克彦参事官、井ノ上正盛書記官)と、同行した現地職員1名が襲撃を受け、死亡するという事件が発生した。一方、政府は2003年12月に「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」に基づく対応措置に関する基本計画を決定。国連安保理決議1483号の要請にこたえ、イラクに自衛隊を派遣することとし、2004年、イラク南部のサマーワに断続的に計約550名の部隊を送った。しかし、イラクの治安は悪化の一途をたどり、過激派武装勢力による外国人拉致(らち)および殺害が相次いでいる。2004年5月には、バグダード近郊で日本人フリージャーナリスト2名(橋田信介、小川功太郎)と同行のイラク人通訳1名が襲撃・殺害された。また同年10月には、バグダードを訪れた民間人1名(香田証生(こうだしょうせい))が、イスラム原理主義テロ組織、アルカイダ系とされる組織に拉致・殺害され、イラク戦争開戦後に犠牲となった日本人は5名となった。その後、治安維持権限が多国籍軍からイラク側に移譲されるに伴い、2006年に陸上自衛隊が撤収。2008年12月には航空自衛隊が撤収を開始(完全撤収は2009年2月)して自衛隊によるイラク復興支援活動は終了した。[原 隆一・吉田雄介]
『『世界文化地理大系11 西アジア』(1955・平凡社) ▽『世界地理風俗大系12 西アジア』(1964・誠文堂新光社) ▽前嶋信次編『西アジア史』(1972・山川出版社) ▽『文化誌 世界の国6 イラン・イラク・アラビア』(1974・講談社) ▽岩永博編『イラク――その国土と市場』(1978・科学出版社) ▽マロワン著、杉勇訳『メソポタミアとイラン』(1978・創元社) ▽『世界の民族15 中央アジア・西アジア』(1979・平凡社) ▽水口章著『イラクという国』(1993・岩波ブックレット) ▽メアリー・M・ロジャース著、東真理子訳『目で見る世界の国々60 イラク』(2002・国土社) ▽国末憲人著『イラク戦争の深淵――権力が崩壊するとき、2002~2004年』(2007・草思社) ▽小倉孝保著『戦争と民衆――イラクで何が起きたのか』(2008・毎日新聞社) ▽高橋英彦著『イラク歴史紀行――チグリス・ユーフラテス物語』(NHKブックス) ▽小玉新治郎著『西アジアの歴史』(講談社現代新書) ▽酒井啓子著『イラクとアメリカ』(岩波新書) ▽岸谷美穂著『イラクの戦場で学んだこと』(岩波ジュニア新書)』

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世界大百科事典内のイラクの言及

【地主】より

…もっとも,その発生過程,そこでの土地経営形態は,水資源の存在・管理形態,農業の集約度,商品作物の浸透度,中央権力のあり方,遊牧民社会の影響等々の自然・社会・経済・歴史的環境の違いによって,ともすれば一括して論じられることの多いアラブ地域内においても,相当な変異が見られた。 シリア,パレスティナ,イラク地方については,その多くの地域において,直接耕作者はムシャーmushā‘と呼ばれる,ある種の土地割替を伴う共同体的耕作慣行のもとで土地耕作にあたり,その上に,徴税請負権を中心とした地方有力者,遊牧民首長など,いわば領主階層の諸権利が重ね合わされていた。19世紀に入り商品作物栽培の普及,近代的土地所有観念の導入と相まって,特定の階層への土地集積現象が見られたが,その過程はおおむね,それまでの旧領主階層が近代的大地主として,共同体的慣行のもとで土地耕作にあたっていた直接耕作者をまるごと小作人あるいは農業労働者として再組織するという過程であった。…

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