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ウマイヤ朝 ウマイヤちょうUmayyad; Umayya

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ウマイヤ朝
ウマイヤちょう
Umayyad; Umayya

初期イスラム国家の名称。預言者マホメットの死後,4代のカリフが推されて続いたあと,ウマイヤ家出身のムアーウィヤ1世 (在位 661~680) がカリフの位につき,生前に息子ヤジード (在位 680~683) を次期カリフに指名した。

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デジタル大辞泉の解説

ウマイヤ‐ちょう〔‐テウ〕【ウマイヤ朝】

Umayya》イスラム王朝の一。ウマイヤ家出身のムアーウィヤ1世が、ダマスカスを首都として建てた最初のイスラムカリフ王朝(661~750)。14代続いたが、アッバース朝に倒された。のち、イベリア半島に逃れたアブドゥル=ラフマーン1世がコルドバを首都としてウマイヤ朝を再興。これを後(こう)ウマイヤ朝(756~1031)という。

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百科事典マイペディアの解説

ウマイヤ朝【ウマイヤちょう】

オンマヤ朝とも。アラブによる初期イスラム王朝。前ウマイヤ朝(661年―750年)とその後身である後ウマイヤ朝(756年―1031年)の総称としても使われるが,ふつうは前者をさす。
→関連項目アクサー・モスクアムラ城アラビア半島アンジャールカイラワーンコルドバ(スペイン)スペインフサイン

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世界大百科事典 第2版の解説

ウマイヤちょう【ウマイヤ朝 Umayya】

ウマイヤ家のムアーウィヤ1世ダマスクスを首都として建設したイスラム王朝(図)。661‐750年。14代のカリフのすべてがウマイヤ家出身者(最初の3代はスフヤーンSufyān家,以後の11代はマルワーン家)であったのでこの名がある。同朝はアラブの征服によって成立し,その政策はイスラム社会の国家的統一の護持とイスラムの政治的領域の拡大を目標とし,結果としてアラブの異民族支配と,彼らの排他的特権が許容されていた。

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大辞林 第三版の解説

ウマイヤちょう【ウマイヤ朝】

ウマイヤ家出身のムアーウィヤがダマスカスを首都として樹立したイスラム王朝(661~750)。カリフの位をウマイヤ家が独占したアラブ人中心の帝国(アラブ帝国ともいう)。インド北西部からイベリア半島にわたる地を征服。一四代でアッバース朝に滅ぼされたが、一部はイベリア半島に逃れ、コルドバを首都として後ウマイヤ朝(756~1031)を建国。オンマヤ朝。

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ウマイヤ朝
うまいやちょう
Umayya

メッカのクライシュ人、ウマイヤ家出身のムアーウィヤ1世ダマスカスを首都として建設したイスラム王朝(661~750)。14代のカリフのすべてがウマイヤ家(初めの3人はスフヤーン家、あとの11人はマルワーン家)出身であったので、それが王朝名となった。
 第一次内乱(656~661)というイスラム国家の分裂を再統一したムアーウィヤ1世は、同朝の国家目標をイスラム社会の国家的統一とイスラム世界の拡大に定め、その基盤をアラブの民族的連帯に求めた。征服者アラブ諸部族民は、クーファ、バスラ、フスタートなどの軍事都市(ミスル)に軍人(ムカーティラ)として常駐し、拡大戦争に従事しつつ、支配者集団として非アラブ諸民族に君臨していた。一方、被支配者非アラブは、広大な征服地に散在していたが、商工業に従事する者以外はほとんど農民で、村落共同体ごとに一括して租税(ジズヤあるいはハラージュ)を取り立てられ、そのかわり信教の自由は保証されていた。彼らのなかには租税負担を免れようとしてイスラム教に改宗する者(マワーリー)がいたが、租税の免除は認められなかった。このように、同朝の下でアラブ・ムスリムは排他的特権を社会の至る所で享受していた。そのため同朝は「アラブ帝国」ともよばれる。
 また社会の国家的統一が優先されたため、前代の正統カリフ時代とは相対的に異なって、同朝下で政治権力の維持、強化がなされ、それがしばしばイスラムの理念と抵触した。たとえば、カリフ位のウマイヤ家による独占や、ムアーウィヤ1世による実子ヤズィード1世へのカリフ位継承がそれである。このような点から、とくにシーア派がそうであるが、後世のムスリムやムスリム法学者、政治思想家のなかには、同朝は真のイスラム国家から逸脱した世俗、王朝国家(ムルク)とよぶ者が多い。
 680年フサインのカルバラーでの惨死、683年ヤズィード1世の死によって、同朝は存亡の危機に瀕(ひん)した。これを第二次内乱(683~692)という。アブドゥル・マリクは内乱を終結させ、国家の中央集権化、アラブ化に努めた。その結果、次のワリード1世の時代に征服運動も再開され、同朝は黄金時代を迎えた。しかし、以後、前代から続いていた政府とアラブ・ムカーティラの対立、アラブ・ムカーティラ間の部族的党派心による反目、反ウマイヤ朝運動としてのシーア派やハワーリジュ派の散発的蜂起(ほうき)、マワーリーの不満、ウマイヤ家内部の派閥抗争などが相関しあい、同朝の支配体制はしだいに緩んだ。ウマル2世やヒシャームの国家再建策もすでに遅く、同朝は崩壊への道を進んだ。
 747年アッバース家の宣伝員(ダーイー)アブー・ムスリムはホラサーンのメルブで挙兵し、749年サッファーフ(アッバース朝創始者)はクーファでカリフを宣言した。750年マルワーン2世が逃亡先の上エジプトで殺害され、ウマイヤ朝は滅亡した。ヒシャームの孫のアブドゥル・ラフマーン1世は、アッバース朝の追っ手を逃れ、756年コルドバでウマイヤ朝を再興した(後(こう)ウマイヤ朝)。
 ウマイヤ朝の国家体制は本質的に拡大のための軍事体制であり、支配機構も単純で、多分に地方分権的であった。対外戦争が継続された結果、同朝の支配した領域の広さは、単独政権としてはイスラム史上第一で、西はピレネー山脈から、東は中央アジア、西北インドに及んでいた。ビザンティン帝国とは恒常的な戦闘状態にあり、コンスタンティノープルへの再三の遠征も試みられた(677~679、717、718)が、両国間の通商は絶えることなく続いていた。
 この時代はイスラム文化の揺籃(ようらん)期で、法学、伝承学、歴史学などのイスラムの諸学問が生まれた。詩のほかにさしたる文化的伝統のなかったアラブは、征服地の先進文化を積極的に受容し、それをイスラム的に再生した。それを象徴するのが、エルサレムの「岩のドーム」、ダマスカスの「ウマイヤ・モスク」、ムシャッターの城などである。[花田宇秋]
『嶋田襄平著『イスラム国家と社会』(1977・岩波書店)』

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世界大百科事典内のウマイヤ朝の言及

【後ウマイヤ朝】より

…イベリア半島における最大・最長のイスラム王朝で,同地のイスラム化に最も貢献した。756‐1031年。ウマイヤ朝第10代カリフ,ヒシャームの孫のアブド・アッラフマーン1世が,アッバース朝の追手を逃れて,756年総督ユースフを破り,コルドバでアミールを宣して以来,1031年の滅亡まで,24代(19人)の君主のうち16人までがウマイヤ家出身者であったので,日本では後ウマイヤ朝と通称される。アブド・アッラフマーン1世は,カリフではなくてアミールと自称したが,それは彼の王朝がまだアッバース朝と比肩できず,またイスラム国家は一つで,しかも1人のカリフによって治められなければならないという伝統を重んじたからである。…

【イスラム美術】より

…初期の浴場は,古代ローマの形式(脱衣室,高・微・低温浴室)を踏襲したが,一般には浴槽のない蒸しぶろで,そのプランは多様である。市[イスラム]風呂[イスラム]
[歴史]
 (1)初期 ウマイヤ朝(661‐750)の建築遺構の大半は,シリア,パレスティナに残存している。モスクの基本的な形は,ほぼこの時代に固まり,三方をアーケードで囲んだ中庭と礼拝堂からなる多柱式が特にアラブ諸国にひろまった。…

【シリア】より

…ヘレニズム時代以来ペトラを中心に王国を築いたナバテア人もアラブ系であったが,そのほかにもシリア各地にアラブ系の諸部族が割拠していたことは確かであり,これはイスラムの膨張の一つの前提条件であった。パルミュラ滅亡ののち,シリアの地はビザンティン帝国の支配(395以降)を経て,7世紀にはアラブの支配下に入ったが,とくにウマイヤ朝時代にはダマスクスが首都となったため,一段とアラブ化・イスラム化が進むことになった。シリア・カナン神話メソポタミア【小川 英雄】
【ビザンティン帝国時代】
 ビザンティン帝国はシリアを七つの行政区に分けて支配した。…

【ディーワーン】より

…最初に用いられたのは640年,第2代カリフ,ウマル1世の時で,ムハンマドの妻を含むイスラム教団の有力者やアラブ戦士(ムカーティラ)たちに対する俸給(アターリズク)支給のための登録簿としてであったが,やがてそうした事務を取り扱う役所をも意味するようになった。ウマイヤ朝(661‐750)になると中央政府の業務も増え,租税徴収を担当する税務庁,カリフの文書を作成する文書庁,文書の封緘を行う印璽庁,戦士の登録と俸給の支給事務を担当する軍務庁,全国の駅逓を統括する駅逓庁などが設けられた。アッバース朝(750‐1258)ではウマイヤ朝末期以来の中央集権化がいっそう強められ,官僚機構が膨張し,分業化が進んで,ディーワーンの数も増加,それも状況に応じて臨機に改廃された。…

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