日本大百科全書(ニッポニカ) 「トムソン」の意味・わかりやすい解説
トムソン(Sir Joseph John Thomson)
とむそん
Sir Joseph John Thomson
(1856―1940)
イギリスの物理学者。電子の発見者。マンチェスター近郊で生まれる。オーウェンス・カレッジで工学を学んだのち、1876年ケンブリッジ大学に入学して物理学を学び、1880年、数学卒業試験mathematical triposで、ラーモア(ラーモア歳差運動の発見者)に次いで第2位で合格、学位を得た。その後、同大学キャベンディッシュ研究所長レイリーの下で実験的研究を開始し、1883年王立協会会員、1884年レイリーの後を継いで同研究所長に就任した。
初期の研究としては、電磁理論や物理化学上の仕事があるが、1880年代前半以降一貫して気体放電現象を研究対象に取り上げ、当初、それを電磁的ないし化学的運動形態としてとらえたのち、1890年、エネルギー保存則の適用を契機として「グロットゥスの鎖」とファラデー管の気体放電機構への導入を経て、1891~1895年ファラデー管による「電気の分子論」の展開を通して、原子の内部的構造の追究に進んだ。こうした長期にわたる彼の気体放電研究こそが、後の電子の発見の歴史的出発点とみなされる。電子の発見を、短絡的に、陰極線研究、すなわち真空放電実験のみの結果とする説があるが、1896年以前、陰極線はトムソンの主要な研究対象ではなく、むしろ1895年末のレントゲンによるX線の発見とその直後からの彼自身によるX線研究が電子の発見の契機であった。というのは、X線発見後、トムソンはX線と気体放電をそれぞれ「電媒質波」と「対流波」ととらえていたが、彼自身のX線研究の結果、X線の本性について縦波説から横波説に考えを変え、そこでこの「極端に小さい波長」のX線を生み出す「親」として初めて陰極線に注目、原子よりミクロな「原初的原子」の考えに至ったからである(1896)。
電子の発見に直結する陰極線研究は、1896年、気体放電・X線および「レナール線」の三者の関連で始められ、とくに1896年秋のX線を照射した気体の電気伝導性に関する実験による、電流として陰極線と気体放電が同等であることの確認、および1分子の独立な分離過程としての「イオン化(電離)」概念の確立が、陰極線の本性解明の不可欠な前提となった。そして1897年4月までに彼は、M・バークランドの「磁気スペクトル」が残留気体の種類によらないことの解釈を通して、また陰極線の「複合性」を踏まえ、陰極線粒子(電子)と気体放電の際の「伝導性粒子」(イオン)の比較・区別によって、陰極線粒子が電子(彼はそれを当初「コーパスクル」とよんだ)であり、それは「原初的原子」にほかならない点を明らかにした。これが電子の発見である。さらに同年、電場および磁場中での屈曲実験によって、この粒子の比電荷e/m(eは粒子の電荷、mは質量)を測定し、一方、1898年イオンの電荷eを測定して、それらから1899年、電子の質量が水素原子の約1000分の1であることを確かめた。こうしてトムソンは、「ア・トム」(原子)がそれ以上壊されない究極の微粒子であるとする古代ギリシア以来の物質観を覆した。
この時点で、あらゆる物質原子はすべてこのコーパスクル(電子)から構成されているとみなし、したがって元素の化学的性質は原子内電子の数と配置から説明しうると考えた。その立場から1897年「浮遊マグネット模型」、1903~1904年には「陽球モデル」を提案、原子構造論を展開した。そこで原子内電子数決定のため、1906年、物質によるβ(ベータ)線の吸収に注目、高速荷電粒子と原子の相互作用によって原子の内部構造を調べる実験的方法を創始した。また1910年にはβ線の散乱理論を展開、1個の電子が1個の原子に衝突するという荷電粒子の原子との相互作用の要素的過程を初めて理論的に取り扱った。他方、1905年ごろから陽極線研究を開始、1912年アストンと共同で、陽極線分析によりネオンの同位元素(アイソトープ)を発見した。
1905年に王立科学研究所教授にも就任、キャベンディッシュ研究所長引退後、1918年ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学長になった。門下にはラザフォード、タウンゼンドJohn Sealy Edward Townsend(1868―1957)、ランジュバン、C・T・R・ウィルソンら多数の物理学者がいる。19世紀末から20世紀初頭にかけて、各国からキャベンディッシュ研究所に集まった若い研究者たちがトムソンの下で行った組織的研究が、今日の原子物理学の基礎を築いたといえる。著書も多くあるが、『気体を通しての電気伝導』Conduction of the electricity through the gases(1903)は原子物理学の出発点とその後の発展の軌跡を記す名著である。
[宮下晋吉]
『G・P・トムソン著、伏見康治訳『J・J・トムソン』(1969・河出書房新社)』
トムソン(Sir George Paget Thomson)
とむそん
Sir George Paget Thomson
(1892―1975)
イギリスの物理学者。同じく物理学者のJ・J・トムソンの息子である。ケンブリッジに生まれ、トリニティ・カレッジで学び、父のもとで物理学の研究に入る。第一次世界大戦では、短期間の従軍ののちファルボロで主として航空に関する空気力学の研究に従事した。1922年アバディーン大学教授となり、そこで電子が金属の薄膜によって回折をおこすことを示す実験に成功し、彼とはまったく別に電子の波動性を証明したデビッソンとともに1937年のノーベル物理学賞を受けた。その後、試料に電子線を反射回折させ、物質表面の性質を調べる手法を確立した。1939年に中性子によるウランの核分裂が成功したことを聞くと、ただちにその軍事的利用の可能性に注目した。第二次世界大戦中はふたたび王立航空研究所で軍事研究に従事し、またオタワに駐在してアメリカの原爆製造(マンハッタン計画)に密接に関係した。戦後は重水素の核反応に興味をもち、その理論的研究で水爆の開発にもかかわった。
[川合葉子]
トムソン(William Thompson)
とむそん
William Thompson
(1775―1833)
リカード派社会主義者。アイルランド、コークの大地主・富豪の家庭で育ったが、数度のフランス旅行で得たフランス革命の影響やサン・シモン派の人々との接触から、資本家・地主と労働者・農民との貧富の大きな格差、信仰による差別などの社会的矛盾を痛感し、その改善に生涯を捧(ささ)げた。まずベンサムの功利思想に基づく教育改革を『アイルランド南部に対する実践教育』Practical Education for the South of Ireland(1818)で提唱し、ついで資本制社会の個人間競争を排撃し、オーエンの協同組合村の構想に立脚した、土地・生産手段の共有と自発的意思による相互協働と各人の労働に応じた平等な分配とを実現する共同社会を『富の分配の諸原理に関する研究』An Inquiry into the Principles of the Distribution of Wealth Most Conducive to Human Happiness(1824)で理想とした。またこの共同社会で初めて女性は男性への従属から解放されうることを『人類の半数を占める女性の訴え』An Appeal of One-Half the Human Race, Women, against the Pretensions of the Other Half(1825)で示し、女性解放と社会改革とが一体であることを明らかにした。晩年はイギリス全土の協同組合の連合を図る全国会議の結成(第1回=1831年5月マンチェスター、第2回=同年10月バーミンガム、第3回=1832年4月ロンドン)に参加し、共同社会の設立計画を策定するなど実践活動を指導した。
[鎌田武治]
トムソン(Sir Charles Wyville Thomson)
とむそん
Sir Charles Wyville Thomson
(1830―1882)
イギリスの博物学者、エジンバラ大学教授、チャレンジャー号世界周航探検の科学隊長。スコットランドのボンサイドに生まれ、エジンバラ大学で医学を学ぶ。1868年にライトニング号、1869年にポーキュパイン号で、深海の生物調査に従事し、深海にそれまで信じられていたような無生物層はなく、表層から深層(650ファゾム=約1200メートル)まで生物がすんでいることを明らかにした。1872年から1876年までは、チャレンジャー号の大探検に科学隊長として乗り組み、海洋生物のみならず海底、海水の性状、測温などの本格的な観測調査を行い、同号の探検を成功させた。また試料の整理や50巻に及ぶ『チャレンジャー報告』の編集に努力したが、完成をみずに死去した。この事業はJ・マレーによって引き継がれた。トムソンの名を冠したワイビル・トムソン海嶺(かいれい)は北大西洋の北緯60度、西経7.5度付近に東西に連なるもので、北側と南側で生物相が異なることで知られる。おもな著書に『The Voyage of the Challenger』(1877)、『The Depths of the Sea』(1873)がある。
[半澤正男]
トムソン(Elihu Thomson)
とむそん
Elihu Thomson
(1853―1937)
アメリカの電気技術者。イギリスで生まれ、5歳のときアメリカに移住。セントラル・ハイスクールに学んだ。1870年から同校で化学と数学を教え、ヒューストンEdwin J. Houston(1847―1914)との共同研究を行い、1883年にトムソン‐ヒューストン会社を創立、1892年にはエジソン会社と合併してゼネラル・エレクトリック会社となった。1887年反発交流電動機の特許をとったのをはじめ、三相交流発電機、電気抵抗溶接機、積算電力計、アーク灯など700以上の発明特許を得た。1908~1911年国際電気技術委員会会長、1921~1923年マサチューセッツ工科大学学長を歴任した。
[高橋智子]
トムソン(Stith Thompson)
とむそん
Stith Thompson
(1885―1976)
アメリカの口承文芸研究者。インディアナ大学で民俗学の教鞭(きょうべん)をとり、多くの民俗学者を育成した。1928年に、フィンランドのアンティ・アールネの『昔話のタイプ索引』を英訳、1961年にはそれを大規模に改訂増補し、『昔話の話型』The Types of the Folktaleを完成。これは、今日の昔話研究において、世界共通のカタログの目安として使われている。AaTh, AThなどと略す。1936年には『民間文芸のモティーフ索引』Motif-Index of the Folk-Literatureを完成、1958年にはそれを増補して6巻本とした。これも、昔話の比較研究には不可欠の索引とされている。1946年『民間説話』The Folktaleを公刊。これは、昔話の研究史、研究方法、昔話の実態、地球上の地域による特徴など、網羅的な、専門的入門書で、今日では、口承文芸、とくに昔話研究者の必読の入門書とされている。
[小澤俊夫 2018年12月13日]
『荒木博之・石原綏代訳『民間説話』上下(社会思想社・現代教養文庫)』
トムソン(George Thomson)
とむそん
George Thomson
(1903―1987)
イギリスの著名な古典学者、古代史家。初期の著作にはギリシアの叙情詩論や悲劇の校訂などがあるが、1941年『アイスキュロスとアテナイ』Aeschylus and Athensを公刊し一躍古代史家として注目を浴びた。この著は、史的唯物論を古代ギリシア史に適用した最初の試みといえるもので、アイスキロスの悲劇のマルクス主義的解明を通して、原始社会からアテネの民主政の成立、展開が社会史的に探られている。同じ方法論にたって、49年には『ギリシア古代社会研究』Studies in ancient Greek societyという大著を公にし、その問題の深化を図っている。なお、彼はイギリス、アイルランドの詩にも造詣(ぞうけい)が深く、その学識を駆使して小論ながら詩の起源とその発展を論じた優れたマルクス主義詩論『詩とマルキシズム』Marxism and poetry(1946)もある。
[古川堅治]
『池田薫訳『ギリシア古代社会研究』上下(1954、55・岩波書店)』▽『出隆・池田薫訳『最初の哲学者たち』(1958・岩波書店)』▽『小笠原豊樹訳『詩とマルキシズム』(1972・れんが書房)』
トムソン(Baron Roy Herbert Thomson)
とむそん
Baron Roy Herbert Thomson
(1894―1976)
カナダ出身の世界的な新聞経営者。トロントに生まれ、1935年週刊紙『ティミンズ・プレス』を買収してから新聞・放送の経営に乗り出した。1952年の総選挙に敗れてからイギリスに進出、1953年『スコッツマン』紙を買収、1959年にはケムズレー新聞チェーンを買収してその合理化に努め、1960年には高級紙『サンデー・タイムズ』を、1966年には『タイムズ』紙を買収するのに成功した。そのほかアメリカはじめ世界各地で新聞、雑誌、放送局を買収してこれを経営、「新聞王」といわれた。個々の企業の報道内容にはあまり干渉せずに商業的に成功させることを目ざした。イギリスに帰化、1964年男爵となった。
[伊藤慎一]
トムソン(James Thomson)
とむそん
James Thomson
(1700―1748)
イギリスの詩人。スコットランド生まれ。古典主義全盛時代のイギリス詩壇にあって、自然への深い関心を清新な詩風で歌った先駆的存在である。代表作『四季』(1726~30)は、その愛情こめた写実的な自然描写のゆえにワーズワース、シェリーなどへの道を開き、晩年の夢想詩『懈怠(けたい)の城』(1748)とともに、後代のロマン派詩人に大きな影響を与えた。ほかに長詩『自由』(1736)、仮面劇『アルフレッド』(1740)などがある。
[上島建吉]
トムソン(James Thomson, B. V.)
とむそん
James Thomson, B. V.
(1834―1882)
イギリスの詩人。同名の『四季』の詩人と区別して、シェリーの名前の一部Byssheと、ドイツの詩人ノバーリスのつづりかえ(アナグラム)Vanolisの頭文字B. V.を筆名とした。当初はもっぱら人生の喜びを歌ったが、のちビクトリア朝的憂愁と絶望感に満ちた作品『恐るべき夜の街』(1880刊)で文学史に名を残した。エッセイも多い。
[早乙女忠]
トムソン(Francis Thompson)
とむそん
Francis Thompson
(1859―1907)
イギリスの詩人。ビクトリア王朝文学に現れたカトリシズム復興の一翼を担う。司祭になる勉強をしたが、心身虚弱のため初志を果たさず、極貧とアヘン中毒に苦しみながら詩作を続けるうち、『天の猟犬』(1891)などで詩才を認められた。17世紀のクラショー、19世紀のパトモアの影響が濃く、苦悶(くもん)を秘めた神秘思想を歌う詩風。
[川崎寿彦]