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フィンランド フィンランド Finland

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4件 の用語解説(フィンランドの意味・用語解説を検索)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

フィンランド
フィンランド
Finland

正式名称 フィンランド (スオミ) 共和国 Suomen Tasavalta。面積 33万8424km2。人口 538万7000(2011推計)。首都 ヘルシンキヨーロッパ北部の共和国。スウェーデン語では Republiken Finland。

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百科事典マイペディアの解説

フィンランド

◎正式名称−フィンランド共和国Suomen Tas-avalta/Republic of Finland。◎面積−33万8427km2。◎人口−545万人(2013)。
→関連項目環境税ペタヤベシヘルシンキオリンピック(1952年)

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世界大百科事典 第2版の解説

フィンランド【Finland】

正式名称=フィンランド共和国Suomen Tasavalta∥Republic of Finland面積=33万8145km2人口(1996)=513万人首都=ヘルシンキHelsinki(日本との時差=-7時間)主要言語=フィンランド語スウェーデン語通貨=マルッカMarkkaヨーロッパの北部を占める共和国。フィンランドは英語名で,自称名はスオミSuomi。国土の面積は日本より少し小さい。その約3分の1は北極圏にあり(最北端は北緯70゜05′30″),アイスランドに次いで世界で最も北に位置する国である。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フィンランド
ふぃんらんど
Finland

ヨーロッパ北部、スカンジナビア半島の付け根に位置する共和国。フィンランド語の正称はスオミ共和国Suomen Tasavalta、スウェーデン語名Republiken Finland。北緯60度から70度にわたり、南北に細長い。南はフィンランド湾、西はボスニア湾に面し、東はロシア、北はノルウェー、北西はスウェーデンと国境を接する。国土の3分の1弱が北極圏で、気候は寒冷であるが農林業は盛んである。面積33万8145平方キロメートル。うち3万3522平方キロメートルが内水面で、森と湖の国といわれ、正称「スオミ」のsuoは湖沼を意味する。人口520万6295(2003)。首都はヘルシンキ。
 国旗は白地に青十字で、雪の白、湖の青、キリスト教の十字を象徴する。国歌はJ・L・ルネベルィ作詞、F・パシウス作曲の『Maamme』(たたえよ 祖国を)。
 ロシアとスウェーデンの間にあって、歴史的にその支配・影響を受けてきたが、両国のいずれとも異なる民族的・文化的特質が1917年の独立でようやく国際的に認められた。国民の文化的・経済的水準は高く、国民性は勤勉でまじめである。第二次世界大戦後は東西両勢力の緩衝地帯としての役割を果たし、冷戦終結後は立場は変わったが、いまも難民支援など平和への努力をつねに怠らない。[塚田秀雄]

自然

ほぼ全域が先カンブリア時代の花崗(かこう)岩と片麻(へんま)岩からなり、南東部にはラパキビrapakivi(本来は「砕かれた岩」の意)とよばれる特殊な花崗岩がある。ボスニア湾沿岸では氷河の消滅以後、地盤が隆起しつつあるために、新しい粘土質の沖積土がある。古い安定陸塊が侵食によって楯状地(たてじょうち)の平坦(へいたん)面を形成したところに、地質学的にはもっとも新しい氷期と後氷期の作用が加わったと考えられる。全体として北から南、東から西へと低くなっている。6万に達する湖の大部分は、中南部の湖水地帯に集中する。それらの湖の成因の多くは、東北東―西南西に走る長大で複数のエンド・モレーン丘(終堆石(しゅうたいせき)丘)であるサルパウスセルカが、国土の傾斜に沿う南北の流れをせき止めたために湛水(たんすい)したものである。氷河を消滅させた温暖な気候は海水位を上昇させたために、低平な楯状地からなる国土のほとんどが一度は水面下に沈み、その後の地盤の隆起で沖積層を表面にのせて陸化した。その沖積層は肥沃(ひよく)な海岸・湖岸平野をなすが、最高海水位より高くとどまった地域は氷食された裸岩に覆われており、ドラムリン、エスカーなどの氷河地形が全域を支配していて農業は困難である。
 気候は、北大西洋の低気圧の侵入があり、内海の影響もあって、高緯度のわりには冬が温暖である。年平均気温はラップランドのソダンキュラで零下0.4℃(1月零下13.5℃)、南部のヘルシンキで4.7℃(2月零下6.8℃)である。年降水量は500~600ミリメートルの所が多く、年間通じて降水があるが、南部では秋に比較的多い。初夏の干魃(かんばつ)と夏の霜が農業には危険であるが、冬の寒さは当然のこととして国民に受け止められている。気温以上に日照時間の季節差が、文化、社会、経済のあらゆる面に影響している。ヘルシンキでも12月の日照時間は、曇天の影響もあって、わずかに17時間である。ラップランドの山岳地域にツンドラ気候がみられるほかは、全域が亜寒帯多雨気候に属している。フィンランド湾やボスニア湾は塩分濃度が低く、2~6か月間は凍結する。
 植生はマツ、モミの針葉樹林帯が支配的で、これにシラカバ、ハンノキなどが加わるが、南端部ではカシなどを含む混交林となり、北部ではしだいに矮化(わいか)し、ツンドラに変わる。クマなど大形の野生動物は減少したが、オオジカは都市の近郊にもなお数多い。[塚田秀雄]

地誌

行政上は12県に分けられていたが、1997年9月より5県となった。一般的には自然によるラップランド、漸移地域、海岸平野、湖沼台地の4区分が基本となる。
 ラップランドはラッピ県に相当し、いまもサーミ人のほとんどがここに住む。フィン人の進出は遅く、開発が遅れ、農業は寒冷な気候のために振るわず、トナカイ飼育が行われる。天然林を利用した製材などはケミ市を中心に行われているが、樹木の成長に要する期間が長く、植林は採算がとれない。もっとも未開発な地域である。
 漸移地域は、県都オウルを中心とするオウル県に相当し、北ポヒャンマー地方にあたる。歴史的には長く北のサーミ人と南のフィン人やスウェーデン人の地域を隔てる緩衝地帯であった。南部の定住的な農耕民が広大な未開地を狩猟・漁労の場とし、しだいに農業地域が北進して、サーミ人を圧迫したのである。沿岸部の農業は酪農が主で、内陸部はかつての焼畑やタール焼成にかわって原木の切り出しが盛んである。
 海岸平野は、バーサを中心とした南ポヒャンマー、トゥルクを中心都市とするワルシナイススオミ、タンペレなどを含むハメ、ヘルシンキの東西に広がるウーシマーの各地方と南カリャラ(カレリア)の一部からなる。古くからスウェーデン系住民によって定住農耕が行われた先進経済地域であり、農業では穀作、混合農業の比率が高く、林業はあまり盛んではない。都市化が進み、工業も活発で、全人口の約70%がこの地域に集中する。もっともゲルマン的な地域ともいえる。
 湖沼台地はハメと南カリャラの一部を含むが、クオピオ県とミッケリ県からなるサボ地方が中心で、ヨエンスーを中心都市とする北カリャラが加わる。やや閉鎖的な森林地域で、19世紀末まで焼畑が行われた。方言、民俗文化の点でも強い個性をとどめている。小規模農家による酪農と林業は生産性が低く、農村人口は急速に減少しつつある。もっともスオミ的な地域といえる。
 国土を北西―南東の線で区分して、南西部を文化的フィンランド、北東部を自然的フィンランドとよぶこともある。また、アハベナンマー諸島(スウェーデン語名オーランド諸島)は、高度の自治権を有する以上の4区分された地域とは別個の地域となっている。[塚田秀雄]

歴史

最初の人類文化の痕跡(こんせき)がみいだされるのは紀元前7000年ごろからである。しかし現代フィンランド人はその直接の子孫ではなく、紀元後1世紀ごろにフィンランド湾南岸から移住するようになった民族とするのが定説である。その後、南西部からラドガ湖にかけて、スオミ、ハメ、カレリアの三大部族が形成された。12世紀になると、スウェーデンからの十字軍によってこれらの部族は次々とその支配下に入る。一方、南東からはノブゴロド共和国が勢力を伸ばし、1323年スウェーデンとノブゴロド共和国との間にパヒキナサーリ条約が結ばれ、国境が確定されたが、これによってカレリアは東西に二分された。
 16世紀に入り、スウェーデンがデンマークの支配を脱し宗教改革が断行されると、『新約聖書』のフィン語訳(1548)もなされる。17世紀のスウェーデン興隆期にはフィン人部隊は勇名をはせたが、大北方戦争を機にフィンランドは何度かスウェーデンとロシアの角逐の場と化した。1809年には、ナポレオン戦争のあおりを受けてロシア皇帝を君主とする自治大公国としてロシアに併合されるが、スウェーデン時代からの諸制度は温存され、初めて国としての輪郭ができるなかでフィンランド人としての自覚が高まった。民族叙事詩「カレバラ」(カレワラ)集成などの文化運動も、しだいに支配言語であるスウェーデン語との闘争へと高揚していった。
 しかし19世紀末からは汎(はん)スラブ主義の高まり、国際対立のなかでのペテルブルグ(社会主義時代のレニングラード)防衛の必要などから、フィンランドの自治権を奪おうとするロシア化政策が強行される。日露戦争の影響で一時ロシア皇帝の勢力が後退した1906年には、それまでの身分制議会が一挙に普通選挙による一院制の国会に変革された。ロシア化には暴力・非暴力による抵抗が試みられたが、ロシア革命(1917)がそれに終止符を打ち、レーニン政権から独立の承認を受けた。
 翌1918年ブルジョア政府勢力と社民党革命勢力との内戦が勃発(ぼっぱつ)し、前者の勝利に終わった。共和国として新生したフィンランドは、このあと、国の安全保障を求めて苦難の道を歩み始める。1939年9月、ドイツがポーランドに侵入し第二次世界大戦が開始されると、その直後の10月、ソ連はレニングラードの防衛を理由としてフィンランドに領土の交換等を求めた。フィンランド側の非妥協的姿勢により交渉は決裂し、ソ連軍が侵攻を開始、「冬戦争」(第一次ソビエト・フィンランド戦争)に突入する。フィンランドは善戦及ばず、南東部を割譲せざるをえなかった。1941年独ソ戦が勃発し、フィンランドは第二次ソビエト・フィンランド戦争(継続戦争)に巻き込まれる。1944年休戦協定を結んでフィンランドが戦線を離脱すると、ドイツ軍はラップランドを徹底的に破壊した。一方、ソ連に対しては、占領は免れたものの海軍基地の提供、大幅な(12%)領土割譲、賠償などを強いられた。
 戦後フィンランドは1948年にソ連と「友好協力相互援助条約」を結び、対ソ協調路線をとりつつ、中立政策を志向した。しかし、東西冷戦の終結とソ連の崩壊はフィンランドをめぐる国際政治環境を一変させた。フィンランドは、1992年にロシアと平等・互恵を原則とする基本条約を結ぶかたわら、西欧への接近を図り、1994年に北大西洋条約機構(NATO(ナトー))との間で平和のためのパートナーシップ協定を締結、さらに1995年にはヨーロッパ連合(EU)に加盟するなど、冷戦後の時代に適応した新たな外交・安全保障政策を講じている。[玉生謙一・松村 一]

政治

1919年制定の憲法で任期6年の大統領に広範な権限を与えている。議会は一院制で、比例代表制の選挙が行われる。小党が分立し、従来は第一党の社会民主党およびこれに続く左翼の人民民主同盟と、中間派の中央党の三党で連立内閣を組織することが多かった。1956年以来、1981年10月病気辞任するまで連続して大統領の地位にあった中央党出身のケッコーネンの指導力は、小党分立の状況によって維持されてきた。1987年の総選挙で初めて左右連合政権が成立したが、1991年には、保守中道政権、1995年には、社会民主党を中心にした連立内閣になるなど、ソ連の崩壊など環境の変化を反映しながら、やや不安定な政情が続く。伝統的に社会民主党の勢力が強い。
 2000年の大統領選挙ではタルヤ・ハロネンTarja Halonen(1943― )が当選、初の女性大統領となり、2006年再選を果たした。2003年の総選挙では中央党が第一党となり、以後、中央党を中心とした連立内閣が組まれている。
 アハベナンマー諸島を含めて国内を5に区分する県は国の行政機関であり、地方自治体は市町村のみである。
 ソ連とは友好協力相互援助条約を結んでいたが、1992年に、ソ連崩壊とともにこれを破棄し、1995年にはEUに加盟した。しかし、外交の基本政策は非同盟中立であるから、EUの外交・防衛政策との調和の問題がある。
 かつて対ソ連関係を重視せざるをえなかった状況を「フィンランド化」とよんだが、この国の外交はつねに国際平和への貢献を指向しており、国連の平和維持活動にも積極的に参加している。
 なお、1994年から2000年まで大統領を務めたアハティサーリが、国際紛争の解決に貢献したとして2008年にノーベル平和賞を受賞している。[塚田秀雄]

経済・産業

18世紀までは焼畑を含む自給的農業が経済活動の根幹であり、漁業、狩猟、製鉄を含む手工業もほとんどが農業あるいは農村にかかわっていた。林業も木タール製造やマスト材の伐採が行われた。これらの経済活動は、西ヨーロッパとロシアの両経済圏の谷間に置かれていた。19世紀の後半以降、新大陸の開発や産業革命の影響を強く受けるようになり、林業とそれに基づく工業が国家経済の基本となった。しかし産業構造は国内市場の狭小も原因となって、木材関連産業と金属機械や造船など一部の産業に偏っている。石油、石炭の埋蔵は確認されず、鉄、銅の鉱山は小規模である。コバルト、バナジウムがわずかに輸出される程度で鉱物資源には恵まれていない。水力にも、落差が小さく水量が不安定、湖が浅く貯水能力が小さいなど、恵まれてはいない。森林資源のみは大いに活用されているが、生育に要する期間が長いため、人口密度、農業との相対的問題として考えれば過大評価はできない。
 農業は、条件に恵まれた南西部で混合農業や小麦、ライムギの主穀農業が行われるが、全体的には10ヘクタール程度の小農家による酪農が中心である。すべての農作物の栽培限界にあたるこの国では、牧草でさえ被害を受ける真夏の霜による凶作が繰り返された。しかし、現在ほとんどの農産物は自給能力を有しており、高コストのために輸出能力を欠く酪製品は過剰生産に悩んできた。農民は現金収入の多くを林業経営と林業労働から得ている。高度の機械化が進んだため林業労働の生産性は高いが、これがかえって農民を林業労働から排除し、少数の専門林業労働者を分離することとなり、農家経営を困難にしつつある。林地は集約管理されるが、植林などの投資が有効なのは成長が比較的早い中部以南である。モミは南部に多いが、マツはラップランド北部を除く全域に分布し、これらとともに、近年はシラカバもパルプ用材として利用されるようになった。水産業はフィンランド湾、ボスニア湾で小規模なイワシ・ニシン漁を主とした沿岸漁業がみられるにすぎない。かつて盛んであったサケ漁は資源量が減少し衰退した。
 工業は、国内市場向けの食料、衣料、化学製品などがあるほか、林産加工業とそれに関係する機械製造、砕氷船など地理的条件を生かしたものに特色がある。1993年の統計では、林産加工と製紙業あわせて20.5%、金属・機械が32.9%を占める。輸出収入でみると前者は約35%に達する。機械類ではパルプ・紙製造プラントや多目的林業用機械に特色があり、林産加工では製材製品、紙、板紙、パルプ、合板などの工場が沿岸の港市や湖の排水点の近くに立地する。製材製品のプレハブ住宅、家具などのように付加価値の大きい高次加工品に製造の重点が移りつつある。また、ノキアは携帯電話機製造で世界最大手のメーカーとして知られ、輸出における携帯電話機の占める割合も高くなっている。
 1995年のヨーロッパ自由貿易連合(EFTA(エフタ))からの離脱、EU加盟は、貿易については、実態に即したものであり、ドイツ、イギリス、アメリカや隣国スウェーデンとの取引が大きい。2000年の段階では、輸出は約459億5000万ドル、輸入は約341億4000万ドルである。
 なお、1999年ヨーロッパ通貨同盟(EMU)に加盟、通貨にユーロを導入している。
 鉄道の総延長は5859キロメートル(1995)で、大半が国有である。道路総延長は7万9166キロメートル(1995)。ほかに、河川、運河、数多い湖を通じ、総延長6300キロメートルに及ぶ航行可能水面をもつ。航空はフィンランド航空とカル航空の2社がある。[塚田秀雄]

社会

公用語はフィン語(フィンランド語)とスウェーデン語であり、西部・南部に約6%のスウェーデン語を話す人々が住むが、出生率が低く国外への移住率が高いためにスウェーデン語人口は減少している。ラップランドにはサーミ人(1726人、1994)が住み、サーミ語を話している。言語上の少数派の利益を擁護せよという声は尊重されてはいるが、困難な問題の一つである。人種的には混血が進んでいるが、フィン語を話すフィン民族は、フィン・ウゴル語族の一語派としてその文化的特質がよく維持されてきた。言語上もっとも近縁であるのは、フィンランド湾を挟んだ対岸のエストニア民族で、相互に意思疎通が可能である。18世紀後半以来、スウェーデンやロシアの文化的支配に対抗して、フィンランド民族主義の出発点となったのはフィン語であり、民族叙事詩「カレバラ」であった。ラップランド、海岸平野、湖沼台地という地域区分は、中世における優勢な言語としてサーミ語、スウェーデン語、フィン語をそれぞれ有していたとも考えられ、フィン語の支配力が強化され、その話される地域を拡大したとみることができる。人口の自然増加率は0.5%台と低いうえに、国外移住が多く、1960年代に約18万人ほどに達した移住者は1970年代に入って減ったものの、なお北アメリカ、スウェーデン、オーストラリアなどへの移住が人口の増加を抑えている。
 2000年の1人当り国内総所得(GNI)は2万4900ドルであるが、所得の格差は都市住民の階層間におけるよりも、産業間、地域間の差として強く現れている。都市的産業の水準の高さに対し、農林業は低い。1人当り収入は1966年にヘルシンキで指数164に対し、北部の農村では65(全国平均100)であったが、1976年には135と85に縮小した。これは北部への投資が進んだこともあるが、北部から南部都市域への国内人口移動の結果でもある。北東部の農村では廃村や集落の再編成などの現象もみられ、1960年代以降の経済・社会の変化は急激であった。都市の生活に適応できない村からの流出人口は、失業、アルコール中毒などの社会問題を生んでいる。同時に、都市における住宅不足は深刻な問題である。
 老齢年金、就業不能者年金、健康保険を柱とする社会保障制度は年々充実し、医療サービス制度や義務教育の完全無料化などと相まってこの国を高度の福祉国家にしている。教育の面でも、新しい学校制度によって統合学校がつくられ、義務教育は9年制となった。その上に各種の期間の異なる職業学校と高等教育への進学を主目的とする高等学校がある。大学は10の総合大学のほか、工科大学、経済大学、芸術大学などを含めて23あり、そのうち3大学はもっぱらスウェーデン語で授業を行う。中等・初等教育においても、スウェーデン系国民に対するスウェーデン語による教育機会が保障されている。
 宗教は福音(ふくいん)ルーテル派教会が国教となっているが、信仰の自由は保障されている。国民の85.9%がルーテル派教会、1.1%が東部を中心にギリシア正教を信じている(1994)。
 テレビは公共放送4系統があり、民間テレビ1局が商業放送を行っている。ラジオは公共放送のフィンランド語3系統、スウェーデン語1系統があるほか、ローカル局が59局ある。一般新聞62紙中、10紙がスウェーデン語である(1996)。[塚田秀雄]

文化

寒冷な気候、季節による昼夜の長さの極端な違い、広大な針葉樹林という自然条件の世界に、フィンランド湾やカレリア地峡を越えて入り込んだフィン人にとって、森林の開墾者、ポヒョラすなわち北の土地を目ざす者というあり方は「カレバラ」に歌い継がれた基本的な性格である。東のロシア、西のスカンジナビアの文化圏の影響を受けながら、ヨーロッパに同化し、変容しつつもなお個性ある文化を受け継いでいる。
 フィン人は孤独好きだといわれる。都市生活者にとって、夏の別荘を話題にする場合、それが湖畔にあって気分のよいサウナがついていることはもちろん、他人の別荘からどれだけ離れていて、週末に滞在してもだれとも顔をあわせなくともよいということが最大の自慢の種である。焼畑農業をしていた際に広大な林地を必要としたことの名残(なごり)かもしれない。この別荘で週末や夏の休暇を過ごして、イチゴやキノコを摘むのも大きな喜びである。自然に包まれていなければ不安な人々である。その孤独好きは、長く暗い冬の間、フィン人をして読書に没頭させる。けれども孤独好きというのはかならずしも正しくない。フィンランドの童話作家T・ヤンソンの描いた「ムーミン」の谷間の生活は、協力して働くことの多かったフィンランド農村社会を表している。土地の私的所有の概念が入ったのは、地域によって異なるが、一般に遅かった。客好きでもある。東部ではとくに陽気で、一族集まって時を過ごす習慣が残った。ヘルシンキのセウラサーリ島にある豊かな民家博物館はそのような民族文化・社会の特徴を示している。
 長い異民族支配に耐えて独立をもたらしたのは、守り続けてきた言語を核に、独自の文化に対する誇り、農民の勤勉さ、粘り強く不屈のがんばりを発揮する精神すなわちシスsisuであろう。シベリウスの交響詩『フィンランディア』は美しく過酷な自然への愛着、独立への執念、喜びを主題とするといわれるが、フィン人はそこにシスをみいだして満足する。
 建築家アルバール・アールトの作品は数多いが、たとえば機能的で美しい図書館が町の誇りになっている。繊維製品、家具、什器(じゅうき)などにおいても、単純・素朴ながら大胆なデザイン、優れた機能をもつものがつくりだされ、世界的な評価を得ているが、その根底には森の自由な農民精神がある。伝統は尊重するが、それにとらわれるばかりではない開拓者精神をうかがうことができる。[塚田秀雄]

日本との関係

フィンランド国民の対日感は歴史的にはごく友好的である。フィンランド独立の契機となったロシア革命は日露戦争におけるロシアの敗北がもたらしたという認識と、スウェーデンとの間で帰属が問題になったアハベナンマー諸島についての国際連盟の討議に際して日本がフィンランドを支持したことを記憶する知識人も多い。ヨーロッパに日本を紹介した地理学者ノルデンシェルドはスウェーデン系フィンランド人であった。現在では、共通する巨大な隣人ロシアを有するという感じ方も、第二次世界大戦中、ともにドイツと手を結んだという意識もある。一般にフィン人は日本についてかなりの関心をもっている。芭蕉(ばしょう)の『おくのほそ道』はフィンランド語訳が出版されている。日本人音楽家などでフィンランドで活躍する人も少なくない。交換留学生などを通じて、じみながら相互理解は進みつつあり、日本におけるフィン人キリスト教宣教師の活動も古くから活発であった。
 2000年には日本への輸出8億6208万ドル、日本からの輸入12億4414万ドルで、日本の大幅輸出超過であるが、貿易額は大きくない。日本への輸出はパルプ・紙、非鉄金属が中心である。輸入は自動車、電気機械、その他機械類が多い。プレハブ住宅、サウナ設備、繊維製品、携帯電話機などの日本への輸出が漸増しているが、対日貿易赤字を解消するまでには至らない。[塚田秀雄]
『角田文衛編『北欧史』(『旧版世界各国史6』1955・山川出版社) ▽木内信蔵編『世界地理6 ヨーロッパ』(1979・朝倉書店) ▽百瀬宏著『北欧現代史』(『世界現代史28』1980・山川出版社) ▽外務省編『スウェーデン王国・フィンランド共和国』(『世界各国便覧叢書 新版』1983・日本国際問題研究所) ▽石渡利康著『フィンランドの中立政策』(1992・高文堂出版社) ▽フィンランド大使館監修『フィンランド』(1993・NTTメディアスコープ) ▽フィリス・L・シュスター著、青山保訳『フィンランド』(1996・国土社) ▽百瀬宏他編『北欧史』(『新版世界各国史21』1998・山川出版社) ▽M・ヤコブソン著、上川洋訳『フィンランドの外交政策』(日本国際問題研究所・国際問題新書) ▽リョンロット編、小泉保訳『カレワラ』上下(岩波文庫)』

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世界大百科事典内のフィンランドの言及

【ロシア革命】より

…そのため〈ロシア革命〉という名称が〈十月革命〉と同義に用いられる場合もある。
【歴史的前提】
 20世紀初めのロシアは,フィンランドに自治を認めつつ支配し,ポーランド,カフカスを完全に併合し,東はシベリアより極東までを版図に収めた広大な帝国であった。大ロシア民族が,この帝国の住民を構成する多数の民族を支配していた。…

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