モンゴル(英語表記)Mongolia

翻訳|Mongolia

精選版 日本国語大辞典 「モンゴル」の意味・読み・例文・類語

モンゴル

(Mongol) ユーラシア大陸中央部にある国。ゴビ砂漠とその以北のモンゴル高原の大部分を占め、北はロシア、南は中国内モンゴル自治区に接する。一九二一年中国から独立。二四年に人民共和国が成立し、九二年モンゴル国に改称。住民はモンゴル人。首都ウランバートル

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改訂新版 世界大百科事典 「モンゴル」の意味・わかりやすい解説

モンゴル (モンゴル)
Mongolia

基本情報
正式名称=モンゴル国Mongol Ulus 
面積=156万4100km2 
人口(2011)=281万人 
首都=ウランバートルUlaan-baatar(日本との時差=-2時間) 
主要言語モンゴル語(ハルハ方言) 
通貨=トゥグルクTöglög

アジア大陸東北部に位置する,モンゴル人による国家。1924年より90年までは,モンゴル人民共和国といった。〈モンゴル〉というと,地理的ないしは民族的名称として,中華人民共和国の内モンゴルなども含める場合があるので,日本では,国家名としては区別して〈モンゴル国〉と表記することもある。範囲は北緯41°32′~52°15′,東経87°47′~119°54′に及ぶ。北はロシア連邦,南は中華人民共和国と接する。民族構成はモンゴル系のハルハ族が大多数を占め,その他ブリヤート族,ドルベド族などのモンゴル系住民や,トルコ系(カザフ族),ツングース系,漢族系,ロシア系に属する住民もいる。

17世紀末,清朝がジュンガル部のガルダンを倒して以来,外モンゴルは清の支配下に入った。清朝はモンゴル族が再び連合して清に反抗するのを警戒する一方,モンゴル族を同盟者とみなし固有の社会構造を維持させることに努めた。しかし清は王公領を厳密に設定したため遊牧社会が古来保持していた能動性は阻害され,牧民は王公の強い支配を受けた。また清朝の保護のもと,チベット仏教ラマ教)勢力は拡大し封建領主化し,モンゴル牧民は王公・仏教僧のはげしい搾取にあった。19世紀になると漢人商人が大量に進出して,モンゴル全域に商業網を張りめぐらした。彼らは金融高利貸資本として活動し,王公・牧民はともにその重圧にあえぐこととなる。

 一方,清朝の政治構造もアヘン戦争以降,漢人官僚の勢力が台頭したため変容をとげ,清朝は1906年(光緒32)の官制改革を契機に,従来のモンゴル政策を改め,モンゴル統治機構を再編し,漢人の入植を奨励して開発を推進し,ロシアの南下にも対抗しようとした。このような清の動きは,モンゴル,特に外モンゴル・ハルハ地方の王公,仏教僧の強い反発を招き,従来より存在していた反清運動は一気に高揚した。11年夏には彼らの代表がひそかにロシアへ赴いて援助を要請した。

 同年10月辛亥革命により清朝が倒れると,ハルハの王公・仏教僧は独立を宣言,ウルガ(ウランバートル)の活仏ジェブツンダンバ・フトクト(ボグドゲゲン)を皇帝とするボグド・ハーン政府を樹立した。ボグド・ハーン政府は内モンゴルをも含めた大モンゴル国建設をめざしたが,ロシアは当時の国際情勢を考慮し,中国宗主権下で外モンゴルに自治を行わせることで問題を収拾しようとして,まずボグド・ハーン政府と〈露蒙協定〉(1912年11月)を結び,ついで中国との間で〈露中宣言〉(1913年11月),最終段階として関係3国による〈キャフタ協定〉を15年6月に調印した。この協定により,ボグド・ハーン政府は中国宗主権下の外モンゴル自治政権として承認された。ボグド・ハーン政府の抱いた大モンゴル国構想はここで挫折したが,キャフタ協定で認められた領域は今日のモンゴル国領土の原型となった。協定から内モンゴルが除外されたのは当時の国際関係の影響もあるが,内外モンゴルの地域間較差,さらに地域的統合を欠いていた内モンゴルの内部状況とも関係がある。これ以後内モンゴルは外モンゴルと異なった歴史を歩むこととなった。

 キャフタ協定でロシアが設定した外モンゴルの自治体制は長続きしなかった。その原因は,この体制を支える帝制ロシアが革命で崩壊したことによる。中国(中華民国)はこの機会に再び外モンゴルに対する主権回復をめざし19年一方的に自治を解消した。モンゴル側はこれに反発し民族解放運動が始まる。当時ロシアは内戦と連合国軍の干渉出兵のさなかにあったが,東部シベリアにいた反ボルシェビキ派のセミョーノフは大モンゴル国構想を掲げモンゴル側に接近を試みた。だがシベリア内戦はしだいに反ボルシェビキ派に不利となり,セミョーノフ配下のウンゲルンは20年10月自己の部隊を率いモンゴルへ侵入し,反革命の拠点としようとした。モンゴルではスヘバートルをはじめとするロシア革命の影響をうけたグループが活動を始めていたが,彼らは一部の旧勢力とも提携しながらソビエトの援助により民族解放・社会変革をめざした。彼らは20年6月〈モンゴル人民党〉を結成,翌21年3月臨時政府を樹立し,モンゴル解放のため軍事行動を開始した。モンゴル軍はソビエト赤軍の支援のもとにウンゲルン軍を破り,21年6月ウルガに入城,活仏を再び元首とするモンゴル人民政府を成立させた。人民政府は同年11月ソビエト政府と〈ソビエト・モンゴル友好協定〉を調印し,唯一の独立合法政権として相互承認した。しかし当時のモンゴルには活仏を頂点とする仏教・王公勢力が存在し,また漢人商人が商業網を押さえていた。モンゴル人民党による国内改造は,まずこれら旧勢力の特権の制限・剝奪による弱体化,国外勢力の追放へと向けられた。24年ジェブツンダンバ・フトクトが死ぬと,人民政府は活仏元首制を廃止し,同年11月国号を〈モンゴル人民共和国〉と改め,〈封建社会〉より〈資本主義社会〉を経ることなく〈社会主義社会〉へと移行する〈非資本主義的発展の道〉を国家路線として採択し,最初の憲法を制定した。

革命後,モンゴル人民党(25年に〈モンゴル人民革命党〉と改称)はまず〈反封建闘争〉を行い,王公・ラマ僧院の財産を没収し,特権を剝奪した。さらに30年の第8回党大会の決定にもとづき,遊牧民の集団化と農民への一部転換,中央消費組合による国内商業独占,反宗教キャンペーンを推進したが,このような急進的〈極左路線〉はモンゴル社会内部に緊張と生産低下をもたらし,32年にいたり段階的社会主義化路線へと変更を余儀なくされた。30年代後半になると,ソビエトにおける〈スターリン粛清〉の影響がおよび,日本の侵略に対する危機感とあいまって,モンゴルでも多くの人々が〈ブルジョア民族主義者〉として粛清された。この過程で権力を握ったのがチョイバルサンであった。40年には憲法が改定され,モンゴルはすでに社会主義建設段階へと移行したことが確認された。しかし当時は第2次大戦勃発前夜であり,本格的な社会主義建設は戦後に始まる。戦後における社会主義国家の増加は,モンゴルの発展の基礎条件となる。52年チョイバルサンが死ぬと,ツェデンバルYu.Tsedenbalがあとをつぎ,58年にいたって彼の指導力は安定したものとなった。60年には憲法が三たび改定され,社会主義国家への移行が達成されたことが明記された。なお84年8月,ツェデンバルのあとを襲ってバトモンフZh.Batmunkh首相が書記長に就任した。

 現在のモンゴルにおける政治体制をみると,立法面での最高機関は人民大会(1期5年,通常大会は年1回)で,大会休会中は幹部会(9名で構成)が職務を代行し,その議長(84年12月よりバトモンフが就任)が元首に当たる。行政面の最高機関は閣僚会議で,各省大臣・委員会委員長,アカデミー総裁など約40名で構成される。閣僚会議議長(首相)は84年12月よりソドノムD.Sodnomである。地方行政単位として18のアイマク(県に相当)と首都ウランバートルと工業都市ダルハンおよびエルデネトのホト(特別市に相当)がある。通常各アイマクは20くらいの下位行政単位ソムからなる。司法面では,最高裁判所を頂点とする三審制を採用しているが,政治犯は特別裁判所で審理される。国家機構は,形態としては立法・行政・司法の三権に分かれているものの,権力は人民大会に集中する〈民主集中体制〉をとっている。しかしこの国で実質的に政治指導をしているのは,唯一の政党〈人民革命党〉であり,党員ならびに候補は7万7600名(1982)を数え,党大会はほぼ5年おきに開催される。中央委員会のもとには政治局(局員8名),書記局(局員7名)が置かれ,最も重要な政治方針は政治局が決定している。以上のようにこの国の政治体制はソビエトときわめて類似しているということができる。

モンゴル革命直後,前述したように〈ソビエト・モンゴル友好協定〉が結ばれたが,当時ソビエトは中国(中華民国)との関係正常化を模索しており,その立場は微妙であった。1924年,〈中ソ協定〉が締結され,中ソ国交が正常化されたが,ソビエトは中国に対し外モンゴルにおける中国の主権を認め,ソビエト軍の撤退を約束した。これにより,ソビエト外交におけるモンゴルの地位は矛盾したものとなった。しかしソビエトはモンゴルが実質的には中国より切り離された独立国家として存続するよう,モンゴルの社会主義的変革を推進した。これに対し中国がなんら有効な対応をとりえなかったのは,モンゴル側の強い独立への意志と中国国内の政治不安,さらにそれに続く日本の中国侵略に起因する。

 31年の満州事変にはじまる東アジア国際情勢の変化は,モンゴルおよびソビエトに日本の侵略に対する危機感を高まらせ,モンゴルはソビエトの対日戦略上の重要な地域となった。36年3月,両国は〈ソビエト・モンゴル相互援助議定書〉に調印,日本の脅威に共同して対処することとなり,翌年ソビエト軍はモンゴルへ進駐した。39年のノモンハン事件において,ソ・モ両軍が日本軍を撃退したことはこの協定によるものである。日本の敗戦に先立つヤルタ協定(1945年2月)ではモンゴルの現状維持がアメリカ,イギリスに認められ,また中ソ友好条約(同年8月)の合意にもとづき,45年10月モンゴルで独立を問う国民投票がおこなわれた。投票では反対が1票もなかったという。その結果,中国も翌年1月モンゴル人民共和国の独立を承認した。一方ソビエトは36年に締結した〈議定書〉を46年2月〈ソビエト・モンゴル友好相互援助条約〉に切り替え,軍事同盟を維持した。

 戦後世界においてソビエトの超大国としての存在があり,また東欧,アジアに多数の社会主義国家が出現したことは,モンゴルの国際社会での孤立した立場にあらたな展望を開くものであった。中・モ関係は49年に成立した中華人民共和国とのあらたな関係へと移行する。だが台湾に逃亡した国民党政権は53年にモンゴル独立承認を取り消し,さらにモンゴルの国連加盟,西側諸国との外交関係樹立に妨害を加えた。このことは冷戦・東西緊張の高まりとともに,モンゴルの対外関係拡大の重大な障害となったのである。

 49年に始まる中華人民共和国との関係は,少なくとも60年代初頭までは一応平穏であった。50年代後半には,ソビエトのモンゴル援助に対抗するように中国からも経済援助が行われ,さらに62年懸案であった国境問題が中国側の譲歩により解決した。ところが63年中ソ会談決裂以降中ソ対立が顕在化すると,モンゴルがソビエト支持の立場を貫いたため中国は翌年経済援助を打ち切って,派遣労働者の引揚げを断行した。中国で文化大革命が進行すると,中・モ対立は激化の一途をたどるが,ソビエトおよびコメコン諸国(モンゴルは1962年加盟)はこれに対しモンゴル援助を増強し,特にソビエトは66年〈友好相互援助条約〉を改定してモンゴル支援の立場を強く打ち出した。このように60年代後半より70年代まで中・モ関係は中国の政治的変動および中ソ対立のなかできわめて緊張したものとなった。80年代に入り中ソ関係正常化の動きが出てくるなかで,中・モ関係は経済・文化方面でしだいに改善の動きがみられる。だが一方中国の,モンゴル駐在ソビエト軍撤退要求は,モンゴル側を硬化させ,83年にはモンゴル在住中国人追放問題も発生した。中・モ関係は,中ソ関係が大枠では徐々に改善の方向へと進む今日,あらたな展開へと向かうようである。

 その他の諸国との外交関係をみると,ほぼ1950年までに東欧諸国および中国・北朝鮮と,50年代半ばより60年代はじめにかけて非同盟アジア諸国と,60年代中期以降アフリカおよび西欧諸国と外交関係を樹立し,61年には待望の国連加盟に成功した。しかしアメリカとの間には依然外交関係はない。日本は戦前ソ連の〈満州国〉承認と引きかえに外交関係の樹立を検討したこともあったが,戦後は暗黙の承認関係にとどまっていた。国交樹立には台湾政権の反対が主に障害となっていたが,ニクソン訪中の翌72年2月,国交樹立に踏み切った。日本のこの決断は70年代以降少しずつみられるようになった自主外交の例としてとりあげられる。

モンゴルにおいて本格的な経済建設が進められたのは第2次大戦以降である。第1次5ヵ年計画(1948-52)において戦時中の家畜の減少の回復が図られ,つづく第2次5ヵ年計画(1953-57)および3ヵ年計画(1958-60)において農牧業の集団化と工業化が推進された。この基礎のうえに61年から第3次5ヵ年計画が始まったが,中ソ対立の激化とともに中国は援助を停止し,一方モンゴルはコメコンに加入し(1962),ソビエト・東欧諸国の援助のもと工業開発をすすめた。60年代に入り急速に開発されたダルハン工業地区は,その好例である。5ヵ年計画は第7次(1981-85)に入って,その主眼は停滞状況にある農牧業の活性化と工業とりわけ軽工業および燃料・エネルギー工業の発展におかれている。現在のモンゴルにおける産業構造は表1のごとくである。モンゴルというと誰しも農牧業を思いうかべるが,その勤労人口の割合に比して,国民所得に占める割合が少ないことは注目に値する。

 産業構造をより細かくみると,農牧業総生産の80.8%は牧畜業で,農業は19.2%(耕地面積は70万ha)にすぎず,低い割合である。だが1940年においては,農業の割合が0.4%(2万6000ha)であったことを考えると,農牧業全体に占める農業生産の比重は飛躍的に増大しているといえよう。牧畜業の家畜内訳は表2に示してあるが,人口(約173万)と比較すると,その数の多さに驚かされる(羊の場合,人口1人当り約8頭)。しかし1930年当時の家畜総数(2368万頭)と比べると,ほとんど変わらず,牧畜業が不振であることがうかがえる。農牧業はすでに述べたように社会主義的集団化形態をとっており,組織的にみると,国営農牧場(現在49),農牧業共同組合(ネグデル,255),および機械牧畜ステーションにより構成されている。牧畜業では共同組合による経営が主体であるのに対し,農業は国営農場が中心的役割を果たしている(総耕地面積の79.1%)。農作物としては,小麦,カラス麦,大麦などの穀物(総耕地面積の79.2%)およびいも類がある。穀物については,現在国内自給できる水準へほぼ達している。

 工業生産では,織物,縫製,食品,皮革,製材,発電など総じて軽工業に集中している。鉱物資源としては,石炭を中心に銅,鉛,石油などを産出する。このうち,ソビエトとの共同開発によるエルデネトの銅・モリブデン鉱山は世界有数のものといわれる。対外貿易は,1980年度を例とすると,輸出26億9900万ルーブル,輸入3億6700万ルーブル,輸出入ともに98%近くが社会主義諸国(とりわけコメコン諸国とは96%)との交易で占められ,主要な輸出品は,畜産関連製品である。

 従来モンゴルというと,われわれは遊牧というイメージにとらわれがちである。しかしこのイメージは今日のモンゴルの実情には必ずしも当てはまらない。牧畜業および関連工業の産業全体に占める比重は低くないものの,近年他の産業分野が拡大している。牧畜業自体もすでに完全に集団化されているのである。そして定住化,都市化の波はモンゴル人の生活様式を変革しつつある。

今日のモンゴル人の生活をみるとき,まず触れなければならないのは人口の都市への集中現象である。現在,いわゆる都市生活者(86万1400,総人口の51%,1981)は農牧地帯生活者(同49%)より多い。これは,60年代以降の工業発展に起因する農牧地帯より都市への人口移動の結果であるが,とりわけ首都ウランバートル(人口43万5400,総人口の約25%,1981)へは過度の集中がみられる。都市生活者の多くはアパートに暮らし,生活の基本的様式は他の国の都市生活者と大差ない。一方農牧地帯では,伝統的遊牧生活様式が維持されている。家畜をつれた移動の動態は地域によって異なるが,一般に4月の中ごろより移動を開始し,6月末より9月の初旬まで夏営地で放牧する。夏の終りとともにまた移動をはじめ11月より4月まで冬営地にいる。もっとも夏営地・冬営地といっても,一ヵ所にとどまるのではなく,家畜と草の関係で移動する。この農牧地帯生活者の移動式住宅がいわゆるゲルgel(包(パオ))であり,畜群の移動とともに生活者も動く。今日では教育の普及にともない子供たちはこの移動に加わらず,学校の寄宿舎で暮らす。都市生活者の生活用式が西欧化されていることはさきに触れたが,ウランバートルのアパート住民でも夏季には郊外でゲルを建てて暮らすこともあり,ここに都市化の進んだモンゴル人の伝統的生活への憧憬を見いだすこともできよう。食事は農耕地域のようにバラエティーがあるわけではないが,羊肉を中心とした肉料理および多種にわたる乳製品に特色がある。

 革命以後モンゴルで最も成果をあげた分野は教育である。革命前の識字率はきわめて低かったが,1941年の文字改革(ウイグル文字による旧文字の廃止とキリル文字の採用)もあいまって,文盲は一掃された。また術後委員会が設けられ,学術用語,科学的概念のモンゴル語への置きかえも進められた。84年現在義務教育は8歳から15歳までの8年間であり,内3年間が初等教育である。初等・中等教育は8年制ないしは10年制学校よりなる。義務教育終了者のうち,84%が上級課程ないしは各種専門学校,職業訓練校へ進む。高等教育機関は7校あり,1942年創立のモンゴル国立大学が唯一の総合大学である。研究分野では,科学アカデミー(1921年典籍委員会として設立)があり,特にモンゴルに関する歴史・言語・民族学研究と出版活動は国際的にも高い評価をうけ,モンゴル研究の世界的拠点の一つに数えられる。また農牧省に属する研究機関での牧畜研究も名高い。このほか,文化施設としては,各種博物館,美術館,劇場,オペラハウス等がある。

 さまざまな民族楽器により奏でられるモンゴル音楽や民謡は,近年では西洋楽器も取り入れられますます盛んである。文芸では,革命以前においては,歴史的・宗教的題材のものが多かった。歴史物語,英雄物語,チベットからの影響による高僧伝,漢語・チベット語・満州語からの翻訳物などがある一方,牧民のあいだではさまざまの口承文芸が親しまれていた。そのなかには一般牧民の心と生活を歌いあげたものもあった。人々の生活と心情を近代的手法で描写するいわゆる近代文学の成立は革命後のことであり,ソビエトの革命的リアリズムからの影響は見のがせない。また長年にわたり人々のあいだで語りつがれた口承文芸は今でも人々により根づよく支持されている。スポーツでは,毎年8月ナーダムと呼ばれる祭典が開かれ,人々が技を競う。なかでもモンゴル相撲,弓,競馬が人気のあるスポーツである。

 モンゴルは,20世紀初頭を転回点として大きな変貌をとげた。王公・ラマ僧の支配に加えさまざまの外部勢力が入り組んだ遅れた遊牧社会から社会主義国家建設への歩みは,世界的にもユニークな体験といえよう。また地理的にも中ソ両大国にはさまれながら,長い歴史的伝統的文化を一方では保ちつつ,新たな変革と革新をめざして今も進みつつある。
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百科事典マイペディア 「モンゴル」の意味・わかりやすい解説

モンゴル

◎正式名称−モンゴル国Mongolia/Mongol Uls。◎面積−156万4100km2。◎人口−265万人(2010)。◎首都−ウランバートルUlaanbaatar(97万9800人,2006)。◎住民−モンゴル人90%(うちハルハ人は全人口の80%),ほかにトルコ系のカザフ人,中国人など。◎宗教−ラマ教。◎言語−モンゴル語(ハルハ語,公用語)が大部分。◎通貨−トゥグルク。◎元首−大統領,エルベグドルジTsakhia Elbegdorj(2009年6月就任,2013年7月再任,任期4年)。◎首相−サイハンビレグChimed Saikhanbileg(2014年11月就任)。◎憲法−1992年2月発効。◎国会−一院制,モンゴル国民大会議(定員76,任期4年)。最近の選挙は2012年6月。◎GDP−53億ドル(2008)。◎1人当りGDP−483ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−26%(1997)。◎平均寿命−男63.0歳,女69.6歳(2007)。◎乳児死亡率−26‰(2010)。◎識字率−97.8%(2003)。    *    *アジア中央部,モンゴル高原の北部を占める国。平均の標高は1580m。北西部ほど高く,南東部はゴビ砂漠をなす。その中間に国の大半を占める草原地帯が横たわり,古くから遊牧民族が活躍する舞台となった。古来,住民の唯一の生活手段は遊牧であったが,現在では農牧業従事者は就労者数の半分以下で,国民総生産でも鉱工業が首位を占め,都市人口のほうが上回る。工業はウランバートルを中心に行われており,同市が都市人口の半分を占める。地下資源としては石炭,銅,モリブデン,蛍石,金などがあり,銅は輸出の第1位を占めている。 生活は,地方では古い遊牧様式をのこす面が多く,移動性のゲル(パオ)に住む。かつて生活の末端まで支配したラマ教(チベット仏教)は,革命によって権力を失ったが,1990年代の改革のなかで再生しつつある。また国民の99%は文字の読み書きができなかったが,革命後は教育が普及し,小学校から大学まで建てられた。文字は1941年から古いモンゴル文字に代わってロシア文字を使用していたが,1990年の改革後,再びモンゴル文字を採用した。改革がすすむなかで伝統への回帰が広くみられ,民族的祝祭〈ナーダム〉が各地で盛大に催されている。 モンゴル帝国崩壊後,中国の支配を受け,1691年からは清朝の支配下にあった。ロシア革命の影響によって民族意識が高まり,スヘバートルチョイバルサンの指導で,1921年革命を起こして独立を宣言,ラマ教の活仏を元首とする君主政体のもとに人民政府を樹立した。1924年活仏が死去すると人民共和国を宣言,社会主義国家の建設に向かった。1990年モンゴル人民革命党の一党独裁体制を廃し,1992年の新憲法には社会主義の表現が消え,国名も単に〈モンゴル〉と改められた。市場経済への移行,対外開放も急速に進められている。1996年の総選挙では野党連合が人民革命党に圧勝し,非共産系政権が発足したものの,翌年の大統領選挙では人民革命党出身のバガバンディが現職大統領を破った。1997年世界貿易機関(WTO)に加盟。2000年7月総選挙では人民革命党が圧勝し,政権を奪取。2004年6月総選挙で,人民革命党と野党・祖国民主連合の議席が伯仲した。2005年の大統領選挙では,前首相で人民革命党党首,国会議長のエンフバヤルが当選。2009年5月の大統領選挙でエルベグドルジ元首相が当選。
→関連項目経済連携協定外モンゴル蒙古

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モンゴル」の意味・わかりやすい解説

モンゴル
Mongol

正式名称 モンゴル国 Mongol Uls。
面積 156万4100km2
人口 338万8000(2021推計)。
首都 ウラーンバートル

1924~92年はモンゴル人民共和国。アジア大陸の中部,モンゴル高原にある内陸国。北をロシア,他の3方を中国に囲まれる。行政上は 18の州 (アイマク ) と3特別市 (ウラーンバートル,ダルハン,エルデネト) に分かれる。地形は北西部の山地と,南東部の東部モンゴル高原に大別される。国土の平均標高は 1580m。山地は西部国境線沿いのモンゴルアルタイ山脈が 4000m級の高山を連ね,山容も険しいが,北西部のハンガイ山脈,北東部のヘンティー山脈では高度も減じ,山容も穏やかである。東部モンゴル高原は大部分が砂礫土壌の半ステップで,ヤギ,ヒツジ,ラクダが放牧されている。南部の国境沿いには植生のまばらなゴビが広がる。内陸の高原にあるため,大陸性気候で,年降水量は 50~300mm,気温の日較差,年較差がともに大きい。山脈の北斜面は比較的降水量が多く,森林が繁茂している。ハンガイ山脈,ヘンティー山脈ではなだらかな山腹に草原が広がり,ヒツジとウシの放牧が盛ん。北斜面を流れるオルホン川セレンゲ川 (→セレンガ川 ) 流域ではコムギや飼料作物などが栽培されている。住民の大部分はモンゴル系のハルハ族で,西部や北部には同じモンゴル系のオイラート族やブリヤート族も住む。西端のバヤンウルギー州はチュルク語系のカザフ族が多数を占める。公用語はモンゴル語系のハルハ語。主産業は牧畜と,畜産品加工の軽工業であるが,建設・建材工業,また特に鉱業の発展に力が注がれており,三つの特別市がその中心となっている。鉄道は未発達であるが,自動車道と航空路が首都と州都の間を結んでいる。 (→モンゴル史 )

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旺文社世界史事典 三訂版 「モンゴル」の解説

モンゴル
Mongol

内陸アジア北東部の草原地帯の歴史的呼称。中世以降,モンゴル系遊牧民族の住地となったためモンゴリアとも呼ばれる
北はシベリア,南は万里の長城,東は興安嶺,西はアルタイ山脈までで,ゴビ砂漠以北を外モンゴル,以南を内モンゴルと呼んでいる。乾燥した草原地帯のため,その住民は遊牧を営む民族で,トルコ系の鉄勒 (てつろく) ・鮮卑 (せんぴ) ・突厥 (とつけつ) ・ウイグル・キルギス,モンゴル系の匈奴 (きようど) ・柔然 (じゆうぜん) ・契丹 (きつたん) ・モンゴルなどである。13世紀にチンギス=ハンがモンゴル帝国を建設したことから,この名がこの地域一帯に拡大した。明代には東のタタール部と西のオイラート部に分かれて対立・抗争を続け,明朝にも侵入した。清代になるとまず内モンゴルが,ついで外モンゴル(ハルハ部)がこれに服属し,史上初めて中国の支配下にはいった。1911年辛亥革命が起こると,外モンゴルに独立運動が起こり,24年モンゴル人民共和国が成立し,遊牧社会の近代化が開始された。内モンゴルでも中華民国時代に独立の傾向を示し,47年中国共産党の指導下に内モンゴル自治区人民政府が成立した。1949年に中華人民共和国が成立するとこれに参加し,自治区となった。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「モンゴル」の解説

モンゴル

アジア北東部に位置し,ロシア連邦・中国と国境を接する。漢字表記は蒙古。13世紀にはユーラシア大陸を制覇し,モンゴル帝国を建設したが衰退,17世紀に清の統治下に入った。中国は辛亥(しんがい)革命を機に自治を承認したが,1917年のロシア革命,中国による自治権取消しなど混乱のすえ,24年ソ連の援助下にモンゴル人民共和国が成立,世界で2番目の社会主義国となる。日本の満州国建国,大陸侵略に危機感を強めたモンゴルはソ連と相互援助議定書を結び,39年にはソ連とともにノモンハンで日本軍を撃退した。45年8月ソ連の対日宣戦とともにモンゴルも対日宣戦を布告。中国はモンゴルの独立を認めていなかったが,45年の人民投票の結果独立を認め,50年中国とソ連との間にモンゴル独立を承認する協定が締結された。72年日本との国交樹立。88年以降経済改革が始まり,92年新憲法を施行,社会主義から民主主義・市場経済へ移行している。現在の正式国名はモンゴル国。首都ウランバートル。

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世界大百科事典(旧版)内のモンゴルの言及

【モンゴル族】より

…アルタイ系の民族の一つ。言語学的にモンゴル系の諸言語(モンゴル諸語)を話すか,かつて話していた人々の子孫を指す。その主要な居住地は,モンゴル全域,中華人民共和国の内モンゴル(蒙古)自治区,新疆ウイグル(維吾爾)自治区,ロシア連邦のブリヤート共和国,カルムイク共和国である。…

【遊牧】より

…これら定着農耕的村落や都市民との,畜産物と農産物との交換という,流通上のかかわりを牧畜民がもち始めるとともに,1ヵ所を本拠として定める移牧的,つまりより計画的移動をする牧畜形式が発生したと考えられる。ただしこの地域でも,なお遊牧的生活は残りつづけただけでなく,中央アジアやモンゴル草原に牧畜が展開し,ラクダの家畜化とともに半砂漠が牧畜の適地とみなされ始めると,遊牧民は定着的農耕民と対立し,固有な生活様式,社会組織,支配機構をもつものとして立ち現れてくることになる。 その社会組織の一つの特徴は,父系的親族組織であり,壮年男性を中心とした一種の戦士的集団の形成である。…

※「モンゴル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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