南村(読み)みなみむら

精選版 日本国語大辞典 「南村」の意味・読み・例文・類語

みなみむら【南村】

  1. 姓氏の一つ。

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日本歴史地名大系 「南村」の解説

南村
みなみむら

[現在地名]飯能市南・吾野あがの

上井上かみいのうえ村・中藤なかとう上郷かみごうの西に位置する山村で、小名に南・田代たしろ朽野谷とちやがや飛村ひむら梨本なしもと中沢なかざわがある。秩父郡高麗こま領に属した(風土記稿)秩父往還(江戸秩父道)が通る。上我野かみあがの村が分立して成立した村で、元禄郷帳に「上我野南村」とみえる。高は三〇二石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、ほかに明神社領・妙見社領がある。なお小名中沢には慶長二年(一五九七)の検地帳(飯能市蔵)があり、表題に「秩父郡上吾野内中沢(村)地詰帳」とある。この頃には一村を形成していたと思われる。高は屋敷を合せて二七貫七四五文。中沢は元文三年(一七三八)南村から分郷、別に村役人も置いたが、独立村ではないため中沢組と唱えたという(風土記稿)


南村
みなみむら

[現在地名]上尾市南・緑丘みどりがおか一―五丁目・錦町にしきちよう

かみ村の南東大宮台地上にあり、村域は門前もんぜん村を挟んで南北に二分される。近世初頭には上村などとともに桶川宿の内に含まれていたらしい。足立郡大谷おおや領に属する(風土記稿)。元和七年(一六二一)・同八年の年貢割付状(須田家文書)には南在家みなみざいけ村、寛永期(一六二四―四四)の年貢割付状(同文書)には桶川南村・桶川之内南村・桶川南在家村などとあり、同二〇年の割付状(同文書)に単独で南村の記載がみられる。天正一八年(一五九〇)以後旗本西尾領。元和四年同氏の常陸土浦移封により収公された(寛政重修諸家譜)。前掲元和七年の年貢割付状によれば田三町四反余(一四石余)、畑屋敷一九町七反余(永一一貫余)ほかに新田見取田三反余(一石余)、畑一町三反余(永五八〇文余)


南村
みなみむら

[現在地名]八日市市柴原南町しばはらみなみちよう沖野おきの三―四丁目

芝原しばはら村の南東にあり、玉緒たまお神社(旧十禅師社)の鳥居前集落のような様相をもつ。宝徳元年(一四四九)七月一〇日の柴原村人連署畠売券(今堀日吉神社文書)に「南村右馬尉」が署名している。慶長七年(一六〇二)の検地帳(柴原南町共有文書)では総反別二九町七反余、内訳は上田一七町二反余・中田六町五反余・下田四町二反余、ほかに一町七反余の荒分があった。なおこの検地帳では屋敷地を含めすべて田地で表示されている。寛永石高帳では高四二四石余、彦根藩領。元禄八年大洞弁天寄進帳では人数四一九(男二一四・女一九六、寺社方男九)


南村
みなみむら

[現在地名]鹿屋市南町

西俣にしまた村の南、大姶良おおあいら川中流域右岸の台地上に位置。南俣みなみまた村とも称された。南部はじんおかを境に大根占おおねじめ郷。当村の西俣山は猟所とされた(三国名勝図会)大姶良郷のうち。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳によれば高一千二八八石余。「三州御治世要覧」によれば延享(一七四四―四八)頃の高一千二三二石余。旧高旧領取調帳では高一千二五二石余。


南村
みなみむら

[現在地名]高野町南

高野山たかのやま(現神之瀬川)南側に位置し、大鬼おおき(一〇〇四メートル)の北西麓にあたる。北の新市しんいち村との間を西流する高野山川沿いに耕地が広がる。西は中門田なかもんで村、東は比和ひわ(現比和町)と接する。南の奥門田村から入った雲伯路が新市村へ抜ける。

中世はじび多賀たか村に属し、天正一四年(一五八六)九月一五日付多賀山通信預ケ状(堀江文書)に「南村」とみえる。


南村
みなみむら

[現在地名]大東町南村

北村の東、あか川の支流須賀すが川の左岸にあり、支流刈畑かりはた川下流域に位置する。慶長七年(一六〇二)の南村検地帳によると田方三四町四反余・分米四四八石余、畑方一四町五反余・分米一一八石余、屋敷数二三。明暦二年(一六五六)の検地帳によると田方一四町七反余・分米二〇四石余、畑方三町三反余・分米二二石余、屋敷数は御引屋敷一一(うち御蔵屋敷一)・御役目屋敷一二。元禄十年出雲国郷帳では高二八〇石余、寛文四年(一六六四)の本田高二七二石余・新田高九斗余。「雲陽大数録」では高三三〇石。



みなみのかわむら

[現在地名]大垣市南頬町・大池町おおいけちよう二葉町ふたばちよう長井町ながいちよう羽衣町はごろもちよう恵比寿町えびすちよう恵比寿町南えびすちようみなみ恵比寿町北えびすちようきた花園町はなぞのちよう旭町あさひまち

水門すいもん川左岸、大垣輪中の中央に位置する。西は南寺内みなみじない村、北は大垣城下に接する。村名は中世の高橋たかはし郷の南側にあったことに由来するという。郷帳類にはおもに南輪とみえ、南ヶ輪・南川・南顔などとも記す。元禄五年(一六九二)南ヶ輪を南ヶ(南頬)と改称(座右秘鑑)。江戸時代を通じて大垣藩領。慶長郷帳には南かわ村とみえ、村高二五六石余。元和二年(一六一六)村高領知改帳では南川村。正保郷帳には南輪村とみえ、田高二三七石余・畑高八六石余、うち大垣藩領三〇三石余・遮那しやな院領一〇石余・八幡社領一〇石。貞享二年(一六八五)の大垣領村々高帳では高三五二石余。


南村
みなみむら

[現在地名]八東町南・しま

日理ひずち村の南、八東川北岸沿いに位置する。枝郷に島村があり、元禄一四年(一七〇一)の変地其外相改目録(県立博物館蔵)に、島村は正保(一六四四―四八)以前から内村として成立していたが、正保国絵図には記載せず元禄国絵図には収載したとある。拝領高は六五二石余。本免六ツ四分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高七七〇石、竈数六〇余。「因幡志」では家数九〇、産土神は牛頭天王。


南村
みなみむら

[現在地名]能登島町南

まがり村から西へ二八町にあり、七尾北湾に北面し南川に沿う。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に「皆見」とみえ、富来氏が給人であった。天正一三年(一五八五)六月一八日の免定写(当摩文書)によると「みなみ」の免引は三ツ。同二〇年八月一五日の白山宮建立棟札(伊夜比神社蔵)には南とある。正保郷帳では高八六石余、田方一町・畑方四町七反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印(南区有文書)には見波村と記され、高九八石、免五ツ、小物成は山役一〇八匁、鳥役三匁(出来)、網役四六匁(うち二三匁出来)、串海鼠役二七匁、猟船櫂役四五匁(うち二五匁出来)、海鼠腸役一匁。


南村
みなみむら

[現在地名]斐川町美南みなみ

斐伊川の南に広がる水田地帯、久木ひさぎ五ヵ村の一つ。南は上庄原かみしようばら村、西は下直江しもなおえ村、北は福富ふくどみ村。南に北高瀬きたたかせ川に沿って山陰道が通る。文政七年(一八二四)の有高輪切帳写(県立図書館蔵)に記載された輪は上京新田かみきようしんでん輪・下京新田輪・原垣はらのかき輪・大曾根おおそね輪・松野まつの輪・いさなき輪がある。寛文九年(一六六九)の検地帳がある。村高は元禄十年出雲国郷帳、天保郷帳とも久木村に含まれている。「雲陽大数録」では高一千一四〇石。「雲陽誌」では「明暦年中久木村を五ケ所に別て」と記されるが、寛文九年頃に事実上五ヵ村が画定すると考えられる(斐川町史)


南村
みなみむら

[現在地名]和束町大字南

釜塚かまつか村の南に位置し、西方和束川に面する地域を除いては三方山で囲まれる。「京都府地誌」は地味について「其色赤ク其質下等ニ属シ略茶ニ適ス、西部和束川河ノ涯ハ稍肥沃ニシテ稲梁ニ宜シク灌漑モ亦便ナリ」と記す。村の字地名に名荷みようが大生水おおしようず榜示塚谷ぼうじづかだになどがある。

江戸時代には和束郷の一村で、高一二三・八五石、禁裏新御料(享保一四年山城国高八郡村名帳)。明治一〇年代の調べでは、田七町余、畑四町余、戸口は五二戸、二一七人、物産に製茶があった(京都府地誌)

小字下河原しもかわらにある正法しようぼう(臨済宗永源寺派)は、天平一六年(七四四)当地に葬られた聖武天皇皇子安積親王の菩提を弔うために創建されたと伝える。


南村
みなみむら

[現在地名]静岡市南・唐瀬からせ一―三丁目・岳美たけみ

浅服あさはた山の南、ともえ川の上流域に位置し、南はいけ村。浅畑あさばた七郷の一つ(駿河志料)。中世は浅服郷のうち。天文一八年(一五四九)八月一一日の駿府浅間社社役目録(村岡大夫文書)によると、浅間社(静岡浅間神社)の六月二〇日の流鏑馬郷役として浅服郷が三貫五〇〇文を負担しており、そこに「六給衆打かへ打かへ仕候、此内南村壱貫六百文也」とみえる。


南村
みなみむら

[現在地名]加茂町大字美浪みなみ

兎並うなみ村の南西、さと村の東に位置する小村で、集落は灯明寺とうみようじ山の西麓にある。平安時代から中世にかけては東大寺や興福寺の所領であった賀茂庄の一部であった。

享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳による村高は三〇・五六石、すべてが津藩藤堂家の知行であった。当村は本来兎並村の枝村とされたが、寛文三年(一六六三)に分離したといわれる(京都府地誌)。元禄郷帳では独立村とされるが、天保郷帳には兎並村と合石で記される。明治一〇年代の「京都府地誌」は、田畑を兎並村に合記するため不明であるが、戸数九、人口三六を記す。


南村
みなみむら

[現在地名]広陵町大字南

弁才天べざいてん村の西に接続する。箸尾はしお村に属し、その南端に位置したことにちなむ村名であろう。貞享二年(一六八五)から元禄一五年(一七〇二)の間に分村。南は「はしを南」「南市ハ」の名が寺戸村文禄検地帳でみえるように、しも街道筋に教行寺きようぎようじ町の南に発展した。享保九年(一七二四)和州御領郷鑑(柳沢文庫)の南村の項に「恵美須社 社地拾弐坪 村支配」とあり、恵美須社を中心に、中世箸尾城下の市場として発展したものであろう。


南村
みなみむら

[現在地名]有田市宮原みやはら新町しんまち

有田川の北岸、どう村の南にある。集落は本村のほか井口いぐち中筋なかすじ・新町の四ヵ所に分れる。新町は熊野街道に沿い旅籠もあって街を形成している。「続風土記」には「道村の出村にして南にあるより名つく、後漸々に村居繁栄して一村となれり」とある。有田川の渡河地に集落が発生したのであろう。慶長検地高目録に南村がみえ、村高四三九石余が記されるから、道村からの分村は室町期である。


南村
みなみむら

[現在地名]美山町大字南

知井ちい一二ヵ村の一。由良川上流左岸にある山間集落。北(上流)きた村、南西(下流)上久保かみくぼ村。古代は「和名抄」に記す弓削ゆげ郷に属し、鎌倉時代以降は知井庄の地。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛文四年(一六六四)より篠山藩領となるが、山林は享和二年(一八〇二)より禁裏御料となり京都代官の支配を受けた。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると、高九七・七二九石、旧高旧領取調帳では一二〇・二九一石。


南村
みなみむら

[現在地名]谷和原村南

福岡ふくおか村の南に所在。台通だいどおり用水東岸の微高台地に居住区がある。村域の福岡古墳群は円墳一〇基からなる。福岡村より分村したという(新編常陸国誌)が、「寛文朱印留」に村名がみえ、河内狭山藩北条氏領。「各村旧高簿」によれば明治元年(一八六八)には旗本小笠原長左衛門の知行地で村高六三五・九六六石。


南村
みなみむら

[現在地名]大分市南

大野川と乙津おとづ川に挟まれた輪中地域の同川沿い、常行つねゆき村の南に位置する。江戸時代を通じて肥後熊本藩領。高田手永洲ヶ在八ヵ村のうち。「肥後国誌」は「中島村・野賀村・榎ケ瀬村」などの小村ありと記す。寛永一一年(一六三四)の同藩豊後国郷帳に村名がみえ高一四〇石余。正保郷帳でも同高で、うち田高二石余・畑高一三七石余。高田たかた庄、水損所と記される。文化一〇年(一八一三)の反別は畑方一七町一反余。竈数五〇余・人数二四〇余、馬七。


南村
みなみむら

[現在地名]門前町南

是清これきよ村の南、南川下流の阿岸あぎし平野に立地。阿岸長氏系図(本誓寺文書)では、長宗連の子章縄が南に居住とある。天正一四年(一五八六)九月六日の阿岸五郎左衛門等寄進状(同文書)によれば、本誓ほんせい寺に阿岸村の「南谷之河原一所」「上之竹山」を寄進し、「みなみ」の住人が署名している。正保郷帳では高八一石余、田方三町八反余・畑方一町六反余。承応三年(一六五四)の村御印の高八六石余、免五ツ七歩(能登奥両郡収納帳)


南村
みなみむら

[現在地名]八日市市建部南町たてべみなみちよう

きた村の南にある。慶長三年(一五九八)七月の御蔵入目録(浅野家文書)に建部と注記して南村とみえ、高二九七石余。寛永石高帳では三二六石余。元和三年(一六一七)二七三石余(のち二五〇石余と減少)が織田信長七男信高系の旗本織田氏に与えられた。残る五二石余(のち四七石余)は信長九男信貞系の旗本織田氏に与えられ幕末まで続く。


南村
みなみむら

[現在地名]名張市南古山みなみふるやま

東田原ひがしたわら村と西田原村の北にあり、北の蔵縄手くらなわて(現上野市)に続く山間部の集落。江戸時代は寛文二年(一六六二)古検を改め本高二〇〇・六一四石、平高五一一・七五石。寛延(一七四八―五一)頃の戸数五四、人口二五八、馬九。社寺として若一王子、蓮福れんぷく寺があった(宗国史)


南村
みなみむら

[現在地名]堺市八田南之はんだみなみの町・八田西はんだにし町一―三丁など

きた村の南に位置し、村の西側を石津いしづ川が北西流する。大鳥郡に属する。中世は蜂田はちた庄に含まれた。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では高二七八石余、元文年中改和泉国四郡郷村高帳では二二四石余となり、以後変化はない。


南村
みなみむら

[現在地名]英田町南

横尾よこお村の北に位置する。北はきた村。中世は河会かわえ(郷)に属し、建武元年(一三三四)六月三日の雑訴決断所牒(入来院文書)に河会庄十町南村とあり、村内の土志谷はじたに(土師谷村)の田畠在家が某に安堵されている。正保郷帳に村名がみえ、田五八石・畑二八石余。


南村
みなみむら

[現在地名]市島町南

北部を鴨庄かものしよう川が流れ、西は梶原かじわら村。領主の変遷は同村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高一一二石余・畠高二二石、芝山あり、林・日損少しあり。「丹波志」では旗本川勝領で、家数七八。用水は村内四ヵ所の溜池より得る(鴨庄村誌)。産土神は字カサに鎮座する知乃ちの神社。


南村
みなみむら

[現在地名]麻生町南

西は霞ヶ浦に面し、北は小高おだか村。中世は小高氏の支配領で、天正年間(一五七三―九二)に小高村から分村と伝える。天正一九年の小高氏滅亡後、佐竹氏領となったが、慶長九年(一六〇四)麻生藩領となり、「寛文朱印留」に村名が載る。


南村
みなみむら

[現在地名]宮川村南

唐櫃からと村の西、宮川の右岸にある。文禄検地帳(徳川林政史蔵)には「三瀬谷之内南村」と記される。元禄郷帳は南村枝郷として不出野新田を記す。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数一三、人数五九。産物に蕎麦・芋・煙草・茶・渋柿がある。

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