大泉寺(読み)ダイセンジ

デジタル大辞泉 「大泉寺」の意味・読み・例文・類語

だいせん‐じ【大泉寺】

山梨県甲府市古府中町にある曹洞宗の寺。山号は万年山。開創は大永年間(1521~1528)、開山は天桂禅長、開基は武田信虎武田信玄の墓がある。

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精選版 日本国語大辞典 「大泉寺」の意味・読み・例文・類語

だいせん‐じ【大泉寺】

山梨県甲府市古府中町にある曹洞宗の寺。山号は万年山。大永年間(一五二一‐二八)武田信虎が創建。開山は天桂禅長。永祿一〇年(一五六七)信玄が再建。信虎の墓がある。

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日本歴史地名大系 「大泉寺」の解説

大泉寺
だいせんじ

[現在地名]甲府市古府中町

愛宕あたご山の北に続く大笠おおがさ山西麓にある。武田信虎が甲府の大泉寺小路に造営した曹洞宗寺院。万年山と号し、本尊は釈迦如来。「甲斐国志」によれば、創建は甲府開創直後の大永年中(一五二一―二八)で、開山は天桂禅長。信虎は当寺を自己の菩提寺とするとともに、武田氏領国の曹洞宗を統轄する僧録所に定めたという。かつて境内には大泉(富士見池)とよばれる池があり、甲斐国繁栄の時には普段は見えない富士の山影が水面に映し出されたという(甲州巡見記)。武田信玄(晴信)誕生説話も伝えられ(甲斐国志)、当寺はもと大川寺という密教寺院で、大永元年の信玄誕生に際し、霊夢の実現に驚いた信虎が改称・改宗を行い、天桂禅長を導師として二一日間の万部法華経の読誦を行ったという。二世の吸江英心は信虎の弟で、天文年中(一五三二―五五)に甲斐・信濃両国の曹洞宗総録司を勤めたというが(同書)、不詳。

永禄元年(一五五八)閏六月一〇日の武田晴信印判状(大泉寺文書)では、早世した晴信四女(桃由童女)の菩提を弔うため、浄古寺じようこじ(現牧丘町)のうち大村右京亮分三貫文の地が当寺に寄進された。同七年三月三日には火災があり、同一〇年に殿堂が再建されたと伝えられる(甲斐国志)。しかし同一一年と推定される戊辰四月一五日付武田家印判状(大泉寺文書)に、方丈造営の間、門前・寺領の人足はほかの普請役を免除すると記されることから、寺の復興にはなお年月を要したものと考えられる。元亀元年(一五七〇)一二月一日には北条氏政夫人であった信玄長女黄梅院の菩提供養のため、当寺に南古なんご(現甲西町)の内「局知行分」一六貫二〇〇文が寄進され、併せて菩提寺の建設が命じられた(「武田信玄判物」同文書)

大泉寺
だいせんじ

[現在地名]岡崎市中町 東丸根

なぐり町の北裏後方、丸根まるね山の南面する中腹に位置する。東林山と号し、曹洞宗、もと竜海りゆうかい院末であった。本尊薬師如来。初めは「桃林山大仙寺」と書いた。天文一二年(一五四三)徳川家康の母於大(伝通院)が創建し、開山は俊恵蔵主。寺伝によれば、同一一年に於大が懐妊した際、俊恵が登城して持仏堂本尊薬師の前で安産の祈祷をし、これによって城の東北に一宇を草創して持仏堂の薬師を本尊とし、十三仏画像・紋付打敷・幕・提灯などを寄進して大仙寺と称したという。

弘治二年(一五五六)の今川義元寄進状(大仙寺文書)に先判を失うとあり、また同年のしんさう書状(同文書)に「われわれかてら」とある。

大泉寺
だいせんじ

[現在地名]盛岡市本町通一丁目

寛永城下図によるとあぶら町中ほどの北裏、遠曲輪の内側にあり、表・裏ともに三〇間とみえる。亀通山霊井院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。寺領五〇石を有し、領内に末寺二二・末庵二四があった(「寺社修験本末支配之記」内史略)。大泉寺縁起によれば開基は顕然房(越前の出身で初め源為義・義朝、のち平宗盛に仕えた斎藤実盛の三男)、建保三年(一二一五)福岡ふくおか(現二戸市)の地に専立庵悟真ごしん寺を創立したが、天正一九年(一五九一)九戸政実の乱により焼失。

大泉寺
だいせんじ

[現在地名]町田市下小山田

堀之内ほりのうちにある。曹洞宗。補陀山水月院と号する。本尊釈迦如来。安貞元年(一二二七)小山田行重が菩提入に開いた真言宗高昌こうしよう寺に由来し、永享年間(一四二九―四一)無極慧徹を開山と仰いで、二世月江正文が曹洞宗に改宗し、大泉寺と号したと伝える。上野国双林そうりん(現群馬県子持村)中興開山一州正伊(長享元年没)はかつて小山田大泉寺の月江に一〇余年服侍したが、国の乱の兵火で寺は灰燼に帰したとあり(双林寺聯灯録)、享徳三年(一四五四)以来の享徳の乱で当寺は焼失したことが知られる。

大泉寺
だいせんじ

[現在地名]上磯郡木古内町字泉沢

海岸部にある。空谷山と号し、曹洞宗、本尊釈迦如来。「福山秘府」によれば空谷山大仙寺と号し、本寺は松前法源ほうげん寺、開山は同寺六世日外。古くは釈迦堂と号した。寛文七年(一六六七)松前くら町に建立。「無縁地故大破仕候ニ付」、法源寺が泉沢いずみさわへの移築を願出、享保八年(一七二三)許可されて名主屋敷地の空地に移った。「検考録」では開山は日外。元和三年(一六一七)廻国の僧慈天が青内あおなえ(現奥尻町青苗)に開基し、空谷山大全寺と号した。蔵町に移ったのち宝永四年(一七〇七)当地に移り、奥尻山大泉寺と改め、享保八年本堂・庫裏・薬医門を建立したとする。

大泉寺
だいせんじ

[現在地名]城端町北野

立野山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。永禄元年(一五五八)の創建。貞享二年寺社由緒書上に「井波瑞泉寺七代目顕秀、永禄元年に建立、其時代乱世に付、飛州より用所為通路、寺内に町人を集、町屋を立置被申に付、従太閤様禁制札被為成下、立置候」とある。これによれば井波瑞泉いなみずいせん寺七世顕秀の建立とあるが、「瑞泉寺由来記」には六世証心の隠居地と記され、永禄元年は顕秀は九歳であり、父証心は三八歳なので、北野きたの(瑞泉寺別業・大泉寺)は証心が建てたものであろう(井波町史)。天正九年(一五八一)井波瑞泉寺は佐々成政の兵火にかかり、七世顕秀・弟准秀の兄弟は一時五箇山ごかやまに逃れ、やがて顕秀は京都へ、准秀は北野へ移った。

大泉寺
だいせんじ

[現在地名]五霞村冬木

香取神社の南東の高台に所在。東光山宝覚院と号し浄土宗。本尊阿弥陀如来。東・南・西は沼地であったが、現在は水田と宅地になっている。寺域へ至る道の両側に石造仁王像が立ち、背に享保一二年(一七二七)と思われる銘を刻む。

寺伝によると文明八年(一四七六)当地に居住した越後の高田万右衛門なる人物が建立し、開山は聖誉岌源。江戸時代は現水海道みつかいどう市の弘経ぐぎよう寺末で本堂・方丈・庫裏などがあったと伝える。

大泉寺
だいせんじ

[現在地名]犬山市栗栖

栗栖くりす北部の山際にある。補陀洛山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は勢至観世音菩薩。応永一五年(一四〇八)の開基で、開山は曹洞宗の無極。中興開山は先照瑞初。天文一一年(一五四二)京都妙心みようしん寺に属した(徇行記)。寺内一反一畝は慶長一三年(一六〇八)備前検により除地となった(寛文覚書)が、天保村絵図では「境内四町八反歩、前々御除地」とある。

大泉寺
だいせんじ

[現在地名]五所川原市飯詰 福泉

飯詰いいづめ集落の中ほどにあり、清涼山と称し、浄土宗、本尊阿弥陀如来。もと貞昌ていしよう(現弘前市)末。貞享四年(一六八七)の検地帳に大泉寺とある。寺伝では役小角の弟子法明坊に始まり、建保三年(一二一五)金光の創立とし、明暦元年(一六五五)青天を開山として建立したとする。

大泉寺
だいせんじ

[現在地名]小牧市池之内 雨作

金剛山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。天正七年(一五七九)足立民右衛門が八幡神社付近に創建した。文化二年(一八〇五)に現在地に移転した。三淵の正眼みつぶちのしようげん寺の末寺であった。

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改訂新版 世界大百科事典 「大泉寺」の意味・わかりやすい解説

大泉寺 (だいせんじ)

山梨県甲府市岩窪町にある曹洞宗の寺。山号は万年山。信玄武田晴信の父信虎が天桂(てんけい)禅長に帰依し,大永年間(1521-28)に創建した。2世は信虎の弟吸江(きゆうこう)英心である。武田氏は当寺を僧録寺院に任命し,分国中の宗内寺院を統轄させたが,近世にも広厳院一宮町)と共に,甲斐国の宗内寺院を統轄する録所寺院であった。寺内には武田氏3代の墓があり,所蔵する信虎画像は重要文化財
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事典 日本の地域遺産 「大泉寺」の解説

大泉寺

(愛知県岡崎市中町字東丸根45)
ふるさとの森」指定の地域遺産。
面積900【m2】

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事典・日本の観光資源 「大泉寺」の解説

大泉寺

(滋賀県高島市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

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デジタル大辞泉プラス 「大泉寺」の解説

大泉寺

新潟県柏崎市にある真言宗豊山派の寺院。観音堂は国の重要文化財に指定されている。

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