目次 未成年後見 後見の機関 後見の事務 親権と未成年後見との関係 禁治産後見 国際的生活関係と後見 日本史上の〈後見〉 イスラム社会 の〈後見〉 未成年者 には,生活につき配慮をしてくれる者が必要であり,さらに,財産があればこれを管理してくれる者も必要である。また,禁治産者 については前記の者のほか,療養看護をしてくれる者が必要である。これらの必要を満たすものを後見制度といい,前者を未成年後見,後者を禁治産後見という。まず前者について述べ,後者については前者との差異点のみを述べることにする。
未成年後見 日本の民法では,未成年者の親が親権者となり未成年者を保護するのが原則である。しかし,未成年者に親がいないとき,または,親があっても親権喪失 や親権行使不能のため保護の任務を果たすことができないときには,後見が開始し(民法838条1項),親権者の役割を代行する後見人がおかれる。このように後見は親権 を補充する制度であるから,後見の内容は親権に準じ,ただ,後見人には親のような無私の愛情を期待するのが無理であるから,親権の場合と違って後見監督の制度がおかれているのである。しかし,後見が開始したといっても,実際上は,必ずしも後見人が決められるわけではなく,親類などが事実上未成年者のめんどうをみてやっている場合が多い(事実上の後見)。ただ,15歳未満の未成年者が養子にいくとか,未成年者所有の不動産を売却するとか,死亡した親権者の保険金を受け取るとかの場合に,はじめて法律上,法定代理人 が必要となり,後見人選任がなされるのが普通である。
後見の機関 後見の任務を果たすための機関の中心は,後見人であり,そのほか,後見監督制度が働くことがある。(1)後見人 後見人になるのは,通常家庭裁判所 によって選任された者(選任後見人 ,また選定後見人 ともいう。841条)であるが,まれに,親権者であった者がその死亡に際し遺言で後見人を指定することもあり,その場合には指定された者が後見人になる(指定後見人 。839条)。なお,禁治産者,準禁治産者 ,破産者等の欠格事由がある者(846条)は,後見人にはなれない。後見人は,老齢,疾病,遠隔地居住等の〈正当事由〉があれば,辞任することができる(844条)。また,後見人が不正な行為をするなど,任務に適しないときには,家庭裁判所は後見人を解任することができる(845条)。(2)後見監督 後見人の仕事を監督し,かつ,補充する者が後見監督人 である(848,849条)。後見監督人が後見人と特別な身分関係にあると監督の実効を期しがたいので,後見人の配偶者,直系血族,兄弟姉妹は後見監督人にはなれない(850条)。さらに,必要があれば,家庭裁判所は,後見人や後見監督人の仕事を監督しうる建前になっている(863条)。
後見の事務 後見人のすべき仕事については,後見人就職時(853条以下),在職中(856条以下),後見終了時(870条以下)の3時点に分けて詳細な規定がおかれている。(1)後見人就職時の事務 後見人は被後見人の財産全体の状況を把握する必要があり,かつ後見人の職務の公正を期する点から,就職後遅滞なく被後見人の財産を調査し,1ヵ月以内にその目録を調製しなければならず(財産調査,財産目録 調製,853条本文),また,被後見人の財産を保全し,不必要な支出をおさえるために,被後見人の生活,教育ならびに財産管理に要する年間の費用を,あらかじめ定めなければならないことになっている(861条)。(2)在職中の事務 後見人の仕事は,ほぼ親権者のそれと異ならないが,後見人になる者は通常親ほど親身でない可能性があるから,後見人に対しては,親権者に対してよりも若干詳細な拘束が課せられている(たとえば855,856条)。(a)後見人は,被後見人を健全に育成するため,彼を監護教育する権利(820条),そして,居所指定権 ,懲戒権,職業許可権(821~823条)をもつ。(b)後見人は被後見人の財産を管理し処分する権限(859条1項)をもっている。(3)後見終了時の事務 被後見人が成年に達したり,婚姻して成年として扱われるに至った場合には(753条),後見人を必要としなくなるから,後見監督人があればその立会いのもとで,被後見人の財産について生じたいっさいの収入・支出の計算をしなければならない(870,871条)。
親権と未成年後見との関係 学者のなかには,未成年者の保護のための制度が,現行法では親権と後見とに分かれているのを,一本に統一しようとする考え方がある。つまり,未成年者の保護にあたる者を,親であれそうでない者であれ,これを後見人と呼ぼうとするものである(親権後見統一論 )。この議論は,親権という言葉が親の子を支配する権利であるような感じを与えることを避け,子の立場を中心として論じようとする点で意味があるが,この立場に立つ人も,多くは親が後見人になる場合には,後見監督をあまり働かさないことにすべきだとしているから,実質的には現行制度と大差がない。
禁治産後見 禁治産者についても,これを保護する必要があるから,後見人がおかれる(838条2号)。禁治産者に配偶者がいる場合には,配偶者が当然に後見人になり(法定後見人 。840条),配偶者がいないときには家庭裁判所が後見人を選任する(選任後見人。841条)。後見人の職務としては療養看護が中心であり(858条1項),家庭裁判所の許可があれば,禁治産者を精神病院に入れることもできる(858条2項)。 執筆者:鈴木 ハツヨ
国際的生活関係と後見 以上に述べられた後見の諸問題は,関係人の1人以上が外国に国籍や住所をもつ場合にはどうなるであろうか。この場合,原則としては後見を必要とする要保護者(未成年者または禁治産者・準禁治産者)の本国の法律によって処理されるが,例外的に日本の法律が基準とされる場合もある。すなわち要保護者の本国法上は後見開始の原因があるにもかかわらず,後見人が,選任されていないなどでいなかったり,いても国外に住むなどして現実に実効的な監護・管理をなしえないようなとき,および禁治産後見の場合は,日本で禁治産宣告がなされたとき,以上がこれにあたる。いずれの場合も,日本に住所または居所をその要保護者本人がもっている必要がある。たんにその者の財産が日本に在るというだけでは足りない(法例24条。4,5,25条参照)。以上の原理自体は明快のようであるが,その適用にあたって,とくに未成年者に対する後見に関し,困難な問題を生じることが少なくない。親権の尽きたところから後見が始まる,といわれるように,それが一国の法体系の中だけで処理される限り親権と後見とは支障なく連携するようにつくられており,問題はほとんどないはずである。けれども国際私法上は,親権の基準となる法律(父または母の本国法)と後見のそれ(被後見人の本国法)とが,それぞれの国籍が異なる場合など,必ずしも同一の国法とはならないために困難を生む。(1)親権の準拠法によれば後見が開始するとなっているのに,後見の準拠法ではいまだ後見は開始の原因がない,(2)たしかに後見準拠法上も後見は開始するが,それは法律であらかじめ順位をつけて定められていて裁判所によって選任する必要がない,(3)後見準拠法は後見開始原因があるとしているのに対して,親権準拠法はいまだ後見が始まるとはしていない,こうした事態である。
けれども,なによりもまず明確にしておかなければならないのは,後見開始原因のあるかないかを決定できるのはあくまでも後見の準拠法であって決して親権のそれではない,という点である。親権の準拠法は,ただ親権者がいるかいないか,この点だけを決定できるにすぎないのである。もっとも,その親権者が国外にいたり病気,老齢,失業などの理由で,実効的な養護を現実に行いえないようなときに後見が開始するかどうかは,後見の準拠法によって定められる。上に指摘した(2)の場合も,同様に要保護者に対する実効的な保護を確保する考慮から,次のようにすべきであろう。つまり,法律上定められている後見人が実効的な保護を現実に行いえないときは,法例24条2項にいう〈後見ノ事務ヲ行フ者ナキトキ〉にあたるから,日本法に従って処理し後見人を選任する,というようにである(韓国民法932~935条,中華民国民法1094条等参照)。アメリカ人の非嫡出子を生んだスウェーデン 人の母が病気で死ぬ前に生後1年ほどの幼児の養育を日本人夫婦に委託していたところ,在日スウェーデン公使が本国で監護権者に選任されたとして,幼児の引渡しを求めた事例がある(東京高裁1958年7月9日判決・家裁月報10巻7号29頁)。これは前段までに述べられたものとは異なり,本国で選任された監護権者が日本で権利を行使するという事態であったが,裁判所は引渡しを認めた。本人の本国で適法に選任されている以上は,実効的な保護養育を現実に行いうる限りで,日本においても承認すべきものとするのが現行法の建前である,と考えられたからであろう。
さらに問題となるのは各国における公的社会法的保護(日本では,例えば児童福祉法などによるもの)と私的家族法的保護(親権あるいは後見)との関係が,そのいずれを重視するかの点で異なっており,国際的に摩擦を起こすところである。母とスウェーデンで居住していたオランダ国籍の未成年子に対し,母の死後オランダ法上はオランダ人父の〈後見〉が開始したが,船員という職業がら保護の実を果たしえないので,オランダの裁判所はあらためてオランダ人女性を後見人に選任した。他方,スウェーデン児童福祉局は自国内に居住する未成年子のため独自に保護教育措置を講じたが,それは実質的にオランダで選任された後見人の権限を制限するものであった。そのため,オランダ政府はスウェーデン政府を相手どり,未成年子の〈後見〉に関する条約(1902年,ハーグ)に基づき,国際司法裁判所 に条約違反を訴え出た。この条約によれば本国の措置を優先すべきこととなっていたからである。スウェーデン法上の保護教育措置は〈後見〉に含まれず,したがって条約違反はないと判示されたが,ここには私法上の保護と社会法的なそれとの交錯がよく示されていよう。史上有名なボル事件である(1958年11月28日判決)。こうした困難を避けるため〈後見〉という語をあえて使わず,行政機関による措置をも規律の対象に含め,未成年者の常居所地国に原則的な権限を認めた〈未成年の子の保護(Protection of Minors)に関する官庁の管轄および準拠法に関する条約〉がハーグ会議で採択された(1961年採択,69年発効)。しかし,これによってもなお,本国官庁の権限が常居所地国のそれに優位する場合が認められていたため,その間の権限の調整に問題を残していたので(4条),未成年者の常居所地国の権限を一層強化し,あわせて国家間の積極的な連携・協力義務を内容とする改正条約が採択されるにいたっている(1996年10月,ハーグ)。この条約の精神を成人の保護にも及ぼすため,成人の保護に関する条約の制定が構想され,その1999年10月における成立を目指して,日本を含めたハーグ会議関係諸国は鋭意努力中である。 執筆者:秌場 準一
日本史上の〈後見〉 古代以来,朝廷,寺社,武家あるいは個々の氏や家において,長官・主人などが幼少・病弱等の理由で任を果たせないとき,その補佐をしたり代行したりすること,あるいはその行為にあたる人を後見といい,〈うしろみ〉とも呼んだ。朝廷における摂政 はある種の後見であり,鎌倉幕府の執権 や連署 も将軍補佐に由来するところから後見と呼ばれ,室町幕府では関東管領 が後見と呼ばれることがあった。戦国時代には大名が幼少の際,政務,軍事万般を代行・指揮する後見があり,江戸時代後期にも将軍職に対する後見が置かれることがあった。個々の貴族・武士の家に必要に応じて後見が置かれたのはいうまでもないが,南北朝時代に成立した猿楽能において演者の代役・世話役として控える者を後見といったのは,後見が広い分野に置かれたことを示す一例である。後見となる人は,個々の氏や家では近親の有力者が通例であったが,朝廷,幕府,大名など公的機関では非血縁の有力臣下が務めることもあった。
戦国時代武士の間には,軍事的必要から陣代・番代と呼ばれる特殊な後見人が存在した。これは未成年の被後見人に代わり封的(軍事的)勤務に服するほか,被後見人の所領を管理・収益し,彼に堪忍分 (かんにんぶん)を与えてこれを扶持(ふち)するものであった。それは主君のための後見人で,その任命は主君の選任もしくは許可によった。江戸時代泰平の世を迎えると,陣代・番代の制は幕府法上認められなくなった。古代からの代理人による後見や,中継相続の形をとる事実上の後見は,戦国期や江戸時代の武士にも見られないわけではないが,むしろ庶民の間で行われた。庶民の場合,相続人(家の新戸主)が未成年もしくは女性(ただし女性相続は認められない場合もある)であれば,親族の協議によって選ばれた後見人(代判人)が付せられ,被後見人に代わって家業を務め,租税等を負担するのが普通であった。これは家のための後見人であるが,中には年貢徴収の目的から百姓の後見人選定に藩が介入し,領主のための後見人と見られるべき場合も存在した。 執筆者:義江 彰夫+林 由紀子
イスラム社会の〈後見〉 イスラム法は未成年者(男女ともシャーフィイー派 では15歳未満,ハナフィー派では18歳未満の者)には独立して法律行為を営む能力がないものとみなし,これに後見人walīを指定する。両親が婚姻中は子どもは親権に服するが,両親が別居または離婚した場合には母親が後見人となって子どもの養育に責任を負う。母親が死亡したり後見人としての資格を失ったときには祖母が後見人となり,祖母がいなければ曾祖母,次いで父親が後見人となる。また婚姻問題の処理や財産管理を目的とした後見には,本人の父親か祖父,あるいは遺言による男の指定後見人が指名される。この場合の後見人はみずから の意志に従って婚姻をとりまとめ,相当な理由があれば被後見人の財産を自由に処分する権利を有していた。
イスラム社会では,以上のような法定の後見人とは別に,奴隷が主人の子どもの後見人となって,その教育や保護の任に当たることがしばしばあった。これはイスラム以前のアラブ社会に根ざす慣習であるが,アッバース朝 (750-1258)時代に成立したワジール (宰相)の職も,当初は解放奴隷(マワーリー )によって占められることが多く,カリフの個人的な補佐役としての性格を多分に残していた。またセルジューク朝 (1038-1194)時代に登場するアター・ベク も,元来は君主の子どもの養育係を務めた奴隷であり,この地位を利用して勢力を拡大すると,やがて自立して各地に独立の王朝を樹立するに至った。この伝統はマムルーク朝 (1250-1517)にも受け継がれ,幼少のスルタン が即位すれば,その父親に扶養されたマムルーク (奴隷軍人)出身の有力アミール が後見人として大きな勢力をふるったのである。 執筆者:佐藤 次高