中国,隋の初代皇帝。在位581-604年。姓は楊,名は堅。先祖は北魏時代に山西省北部の武州鎮に移住,祖父楊元寿は鎮司馬となり,父楊忠(507-568)は北魏末,六鎮(りくちん)の乱にあたって宇文泰に従って南遷し,北周開国の功臣となり,十二大将軍の一人に数えられた。楊堅は父の勲功によって鮮卑人で武川鎮軍閥の名家独孤信の娘(北周明帝の皇后の妹)をめとり,父の爵位をついで柱国・随国公となった。国号の隋はこれに由来する。また弟楊瓚には武帝の妹が降嫁し,長女は皇太子妃となった。宣帝が即位すると外戚楊堅の重みは増し,さらに幼い静帝が立つと後見役として衆望を集め,仮黄鉞,左大丞相,都督中外諸軍事となり全権を握った。これを不満とする実力者尉遅廻(うつちけい)らの挙兵も失敗し,楊堅は相国・随王そして翌581年2月に,静帝の譲りを受けて位につき,随より辵(しんにゆう)を除いて国号とし,元号を開皇と定め長子楊勇を皇太子に立てた。学問・教養は薄かったが,諡(おくりな)文皇帝にふさわしく,李徳林,高熲(こうけい),蘇威といった有能な官僚を用いて内政につとめ,〈開皇の治〉と称される文運隆々たる時代を現出した。
彼の治績中とりわけ注目されるのは589年(開皇9)の南朝併合であり,南北統一国家にふさわしい中央集権化のため中央官制・地方行政制度の整備改革に腐心している。すでに即位の翌年,従来の長安城東南にあたる竜首原に,中国最初の計画都市である新長安城すなわち大興城を築いているが,584年に長安と黄河を結ぶ運河,広道渠を,587年には淮河(わいが)と長江(揚子江)を結ぶ山陽瀆(刊溝)を開き,東西・南北の円滑な交流を図った。また開皇律令を制定したこと,均田,租庸調・府兵などの各制度はいずれも北朝にならったとはいえ,全国一律に体系化したことは高く評価される。ただ300年におよぶ分裂や地方差を無視し,短兵急に画一化しようと企てたきらいがあり,隋朝を短命に終わらせる遠因ともなっている。それも南北朝時代への反省に立ち,君主権の強化を急いだ結果であるが,君主権を弱体化する貴族・豪族勢力を抑えるため,587年に開始した官吏登用制度いわゆる科挙は,唐代になって機能を発揮しはじめ,紆余曲折を経ながら清末まで継承された事実をみても,彼の創見,くふうのすばらしさがわかる。
彼はまた仏教信仰による民心収攬をもくろみ,601年(仁寿1)と604年の2回にわたり100余州に仏舎利塔を建立しているが,これも唐代の官寺,日本の国分寺の濫觴(らんしよう)となっている。みずから節倹にはげみ賦税を軽減し民力を強め国庫を充実したが,それが煬帝(ようだい)を相つぐ大土木工事,無謀な侵略戦争に駆りたてる原因となったのは皮肉である。対外政策としては突厥(とつくつ)の内部離間策に成功し啓民可汗を臣服させ,高句麗遠征を企てて失敗したのが注目される程度である。官僚のみか実子に対しても猜疑心が強く,次男楊広の奸策に惑い皇太子楊勇を廃し,のち楊広の人となりを知り楊勇に後事を託そうとしたが時すでに遅く,楊広と大臣楊素にはばまれて果たせず,仁寿宮に病没し太陵に葬られた。楊広弑殺説もある。
執筆者:藤善 真澄
中国,三国魏の初代皇帝。在位220-226年。姓名は曹丕(そうひ),廟号は世祖。武帝曹操の長子で母は倡家の出身。211年(建安16),五官中郎将,副丞相となって後漢の丞相であった父をたすけ,217年に弟曹植を推す一派をおさえて魏国太子となった。220年,父が死ぬと魏王,丞相の位をついで後漢王朝の実権を掌握,九品官人法を行って反魏派勢力を排除しつつ父が整えた王朝交替をおしすすめ,献帝の譲位と群臣の勧進を三たび辞退したのちに受諾,洛陽を都に魏王朝を開いた。尭・舜・禹が行ったとされる禅譲革命を初めて完全な形で実行,以後,後周にかわった宋の太祖までこれが手本とされた。
内政面では,後漢の弊にかんがみて宦官が塩署令以上に就いたり外戚が輔政の大任に当たることを禁じる一方で,文帝自身がしばしば弟の諸王に地位をおびやかされたことから,お目付役をおいて皇族の動静に監視を加えた。その規制は厳酷をきわめ,かえって異姓司馬氏の台頭をうながして王朝滅亡の要因となった。対外的には,文帝の即位に反発して,221年(黄初2)劉備が蜀漢を,ついで翌年孫権が呉を建国し,三国鼎立の形勢が名実ともに定まった。
天下の10分の8を領有した文帝は,天下統一に熱意をもやし,再三兵をおこしたがいずれも失敗した。225年にも呉親征を試みて広陵(江蘇省江都県)まで進軍したが,長江(揚子江)の激流におじけづいて中止,翌年,洛陽へ帰るとまもなく病死した。性格は陰険で度量がせまく,やがて輩出する六朝的暴君の先駆的姿をそなえている。しかし他方,文才にめぐまれて五言詩にすぐれ,父の曹操,弟の曹植とともに〈建安文学〉隆盛に果たした文学史上の役割は大きく,また父(廟号は太祖)および子の明帝(曹叡,烈祖)とならんで〈三祖〉と称される。その著書《典論》の〈蓋(けだ)し文章は経国の大典にして不朽の盛事なり〉との一節は,文学独自の価値を宣言した文章として名高い。
→三国時代
執筆者:安田 二郎
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中国、前漢の第5代皇帝(在位前180~前157)。姓名は劉恒(りゅうこう)。廟号(びょうごう)は太宗(たいそう)。高祖劉邦(りゅうほう)と薄太后(はくたいごう)との子。高祖の死後政権を掌握した呂(りょ)氏一族が鎮定された時期に、代王から皇帝となった。治世22年間は、賈誼(かぎ)、鼂錯(ちょうそ)らの法家(ほうか)官僚を擁し、勧農政策、田租の廃止、肉刑の廃止などの諸政策を実行した。次代の景帝(けいてい)とあわせて文景の治として仁政とうたわれている。しかし一方では、豪族と一般農民との階層分化の激化という新たな社会不安がみえ始めていた。
[鶴間和幸]
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
※「文帝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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