鎌倉中期に日蓮によって開かれた宗教。もっぱら『法華経(ほけきょう)』を帰依(きえ)の対象にするので法華宗(ほっけしゅう)と称していたが、安土桃山(あづちももやま)時代の末期には天台法華宗(天台宗)と区別するため、日蓮法華宗、日蓮宗といわれるようになった。
[浅井円道]
1253年(建長5)4月28日、安房国(あわのくに)(千葉県)の清澄寺(せいちょうじ)で初めて「南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう)」を日蓮が唱えたときを立教開宗の日とする。念仏信者であった地頭(じとう)東条景信(とうじょうかげのぶ)の怒りに触れて清澄(きよすみ)を追われ、鎌倉に出た日蓮は街頭布教を繰り返していたが、暴風、大火、地震、飢饉(ききん)、疫病がしきりで、ことに1257年(正嘉1)8月の地震は鎌倉を破壊した。仏者としてこの惨状を黙視するに忍びず、仏典によって災難興起の由来と退治の方法を考え出し、『立正安国(りっしょうあんこく)論』と名づけて1260年(文応1)7月16日、前執権北条時頼(ほうじょうときより)に上奏した。そのなかには内乱・外寇(がいこう)の予見があり、また亡国の邪法として法然念仏(ほうねんねんぶつ)を指定している。以後、日蓮は数々の迫害を受けるが、それはすべて『立正安国論』に由来する。献上の翌月には念仏者の集団による松葉谷草庵(まつばがやつそうあん)(自坊)の焼打ち、翌年の1261年(弘長1)5月から1263年2月までは伊豆の伊東に流罪(いまの仏眼寺(ぶつげんじ))、1264年(文永1)9月のころ母の重病を見舞うために故郷に帰り、11月11日東条郷の松原大路で地頭東条景信の伏兵の刀難にあい、弟子1人、信者1人は討ち死にし、日蓮も眉間(みけん)に刀傷を受けた。一方、日本に降伏を勧める蒙古(もうこ)の牒状(ちょうじょう)が1268年、1269年と繰り返しきて、風雲はいよいよ急を告げ、したがって日蓮の立正安国の運動もまたいよいよ激化した。そして1271年9月12日江の島の対岸の竜口刑場(たつのくちけいじょう)(いまの竜口寺(りゅうこうじ))にて斬首(ざんしゅ)の科刑にあったが、不思議にも難を逃れ、その場からただちに佐渡流罪となり、1274年3月赦免となる。迫害が与える精神的重圧は大きく、日蓮はそのたびごとに『法華経』の文にこれを照合し、「法華経の行者」日蓮の自覚を深めた。日蓮は50歳までは鎌倉を本拠として駿河(するが)、房総に布教し、53歳までは佐渡、61歳までは身延山(みのぶさん)(久遠寺(くおんじ))に住して諸方に文書伝道し、弟子らを督励して甲斐(かい)、駿河にも教団の地盤を築いていった。1282年(弘安5)10月13日武蔵国(むさしのくに)池上(いけがみ)(本門寺)で入滅。
[浅井円道]
日蓮は入滅のとき、日昭(にっしょう)、日朗(にちろう)、日興(にっこう)、日向(にこう)、日頂(にっちょう)、日持(にちじ)を本弟子(六老僧)と定め、遺言により身延に埋葬された。翌年正月の百日忌には六老僧らの計18人が交替で祖廟(そびょう)に香華(こうげ)する月割当番(輪番)表を制定し、各自は有縁の地で布教に励むとともに、所定の月には身延の輪番に服した。しかし三回忌の前後にはもっぱら日興が常住して祖廟給仕の任にあたったが、領主の波木井実長(はきいさねなが)の信仰に不純ありといさめて、1288年(正応1)離山、駿河の富士山麓(さんろく)に大石寺(たいせきじ)、本門寺を創建した。これが初度の分派で、富士門流形成の起源である。日興の門下に本六(ほんろく)、新六(しんろく)の12人をはじめとする弟子があり、甲斐、駿河、伊豆を中心として、東は奥羽から西は四国・九州までも教線を伸ばし、とくに日尊(にちぞん)(1265―1345)は京都の上行院(じょうぎょういん)(後の要法寺(ようぼうじ))など36寺を建立したといわれる。日興の高弟日目(にちもく)の滅後、門下に対立が生じ、興門の八箇本山は二流三流に分かれて明治時代に至り、いったんは大同団結して本門宗を公称したが、1900年(明治33)大石寺派は本門宗から独立して日蓮宗富士派と称し、1913年(大正2)には日蓮正宗(しょうしゅう)を名のった。
日昭門流(浜門流(はまもんりゅう))は、日昭建立の鎌倉浜土(はまど)の法華寺(のち伊豆玉沢(たまさわ)に移転)、越後国(えちごのくに)村田の妙法寺で法類を相続した。
日朗門流は、鎌倉比企谷(ひきがやつ)の妙本寺、武蔵国池上の本門寺、下総国(しもうさのくに)平賀(ひらが)の本土寺を本寺とし、日朗弟子の九鳳(くほう)、なかでも日像(にちぞう)は京都開教の先駆者となって四条に妙顕寺を創立し(四条門流)、日印(1264―1328)は鎌倉の本勝寺を継ぎ、越後国に本成寺(ほんじょうじ)を創立した。その弟子日静(にちじょう)(1298―1369)は足利尊氏(あしかがたかうじ)の外護(げご)で鎌倉本勝寺を京都六条に移して本国寺(のち本圀寺(ほんこくじ))をおこした(六条門流)。
日向は上総国(かずさのくに)茂原(もばら)の妙光寺(いまの藻原寺(そうげんじ))に住したが、日興の離山ののちは身延に常住することになったから、その法類を身延門流という。
日頂は上総国真間(まま)の弘法寺(ぐぼうじ)を管したが、排斥されて日興の門に投じてのちは、義父の日常(にちじょう)(1214―1299)が自邸を寺とした若宮法華堂(後の中山法華経寺)とともに管理。その法類を中山門流とよび、次々代の日祐(にちゆう)(1298―1374)は千葉氏の外護を得て教勢を伸ばし、日常が収集した「日蓮遺文」を充実し、肥前国の小城(おぎ)に光勝寺を建立して、九州開教の基を築いた。
日興以外の、以上五老(日持を加えて)の門流は身延山を中心とする狭義の日蓮宗(単称日蓮宗)に属し、教理上では日興門流の勝劣派に対して一致派とよぶ。一致・勝劣とは、『法華経』28品(ほん)の前14品を迹門(しゃくもん)、後14品を本門(ほんもん)とよび、迹門は二乗作仏の仏性理論を中心とするのに対し、本門は久遠成道(くおんじょうどう)の釈尊(しゃくそん)(釈迦(しゃか))と衆生(しゅじょう)との因縁(いんねん)を説く。一致派は、本迹ともに一経の内であるから、所詮(しょせん)の理(一念三千)においては一致であるというのに対し、勝劣派は、一致ならば天台宗と同じになるとしてこれに反対し、所詮の理においても本勝迹劣の相違があると主張した。
しかし、室町初期、日什(にちじゅう)は中山4代日尊から分立して京都に妙満寺を創し(妙満寺派、顕本法華宗(けんぽんほっけしゅう))、本国寺日静の弟子日伝(にちでん)と日陣(にちじん)とは本迹の一致・勝劣を争い、越後国の本成寺に拠(よ)った日陣は勝劣を主張して六条門流から分立し、京都に本禅寺を創した(本成寺派、法華宗)。同じく勝劣を主張する日隆も妙顕寺5代月明(がつみょう)のふるまいに飽き足らず、京都に本能寺、尼崎(あまがさき)に本興寺をおこして四条門流から独立し(八品派(はっぽんは)、本門法華宗)、また室町中期には同じく勝劣を主張する日真(にっしん)(1444―1528)が妙顕寺6代日具から独立して京都に本隆寺を創した(本妙法華宗)。これらを大別すれば、日蓮宗諸派は勝劣派と一致派とに分かれる。江戸初期には日奥(にちおう)の不受不施派(ふじゅふせは)が分立したが、これは行儀上の異見であって、その教学は一致派に属する。
ひるがえって1536年(天文5)天文法難(てんぶんほうなん)(天文法乱)で、京都に21を数えた諸大寺も叡山(えいざん)の焼打ちにあい、1579年(天正7)の浄土宗との安土宗論(あづちしゅうろん)で織田信長に圧迫され、1599年(慶長4)の大坂対論で徳川家康に不受不施義を厳禁されてのちは、宗門の折伏(しゃくぶく)的教風もしだいに軟化し、封建制度に即応して宗門を維持した。なお、本門仏立宗(ほんもんぶつりゅうしゅう)が江戸末期に長松日扇(ながまつにっせん)によって本門法華宗から分かれ、また近時になっては、在家信仰団体としての霊友会、立正佼成会(りっしょうこうせいかい)、創価学会などが盛んである。
[浅井円道]
日本天台宗が『法華経』、真言教(しんごんきょう)、浄土教を兼修したのに対して、日蓮宗は『法華経』を専修し、また前者が『法華経』中の迹門によったのに対して後者は本門による。そのわけは、宗教の五義、つまり教(法の浅深)、機(根の堪不(たんぷ))、時(期相応不相応)、国(風にかなうか否か)、序(仏法流布の先後)の五綱に照らすと、本門法華経が必然的に選択されねばならぬからである。
[浅井円道]
五義は1262年、日蓮の伊東流罪中に考え出された法華布教に必要な用心であるが、当初はまだ本門信仰は確立していなかった。しかし佐渡流罪の前後から教綱の一環として本面迹裏の教判が成立すると、末法の極重病(時綱)を治す大良薬は本門法華経でなければならぬ、また天台の迹門法華経の次(序綱)に広められねばならぬ大法は本門法華経、つまり釈尊の久遠以来所持の本法たる「南無妙法蓮華経」であるという。
[浅井円道]
本門の肝要を宗旨の三秘といい、本尊、題目、戒壇の三大秘法がこれである。
本尊とは久遠実成(くおんじつじょう)の教主釈迦仏(しゃかぶつ)、その姿を文字に図顕したのが十界曼荼羅(じっかいまんだら)である。題目とは行者が唱える「南無妙法蓮華経」をいい、この唱えによって釈尊が積んだいっさいの功徳(くどく)は自然にわれわれに譲与され、われわれは即身に成仏(じょうぶつ)し、死後は霊山浄土(りょうぜんじょうど)に往生する。戒壇とは行者が『法華経』を修行する道場のことであるが、究極的には現実の娑婆(しゃば)に建設しなければならぬ仏国土(立正安国)を意味し、ここに最終の理想を置く。この理想実現のために、僧俗は一体となって未信の者を教化し、いかなる迫害も『法華経』の身読(しんどく)として甘受し、懺悔滅罪(さんげめつざい)として喜ばねばならぬ。明治以降、日蓮の立正安国思想を国家主義的に解釈する人も出たが、本意は「法華経の行者」の菩提(ぼだい)心の内容であるから、それは時代迎合的な曲解である。
[浅井円道]
総本山は身延山久遠寺。久遠寺住職は法主(ほっす)とよばれ、日蓮宗の信仰面を統括する。また一宗の組織としては、全国の寺院・教師を統括する日蓮宗宗務院(東京・池上)が置かれ、その傘下に全国74管区の各宗務所がある。その頂上に管長(2000年現在49代)、宗務総長各1名があって院務を総監し、配下に綜合(そうごう)企画部、庶務部、財務部、教務部、護法伝道部、現代宗教研究所、勧学院、日蓮宗新聞社がある。地方宗務所には宗務所長1名があって、中央との渉にあたる。
主たる道場関係施設としては、得度した者には、年4回千葉県鴨川(かもがわ)市小湊(こみなと)の清澄寺において度牒(どちょう)が交付される。勉学して僧侶(そうりょ)の資格を得るためには山梨県身延山内の信行道場に入り、35日間、必要な行学二道を修行しなければならない。また修法師を志す者は千葉県中山法華経寺の大荒行堂(だいあらぎょうどう)に入り、11月1日から100日間、祈祷(きとう)修法を実習する。また文部科学省公認の学校として、身延山に身延山大学、東京都品川区大崎に立正大学があり、卒業した者には住職資格に相応する僧階が与えられる。他派では創価大学が東京都八王子市にあるが、仏教学部は備えていない。
海外布教の歴史は、早く日蓮直弟子の日持が1295年(永仁3)駿河国(静岡県)松野を出発して東北・北海道から、遠く蒙古(モンゴル)に布教し、その地で果てたといわれるが、蒙古布教の確証はない。近代に京都本圀寺48世旭日苗(あさひにちみょう)(1833―1916)が海外布教を志し、海外宣教会を結成して朝鮮・台湾・樺太(からふと)(サハリン)・満州(中国東北)に開教し実績を残したが、第二次世界大戦の敗戦により消滅した。日蓮宗の海外寺院は、2000年現在、アメリカに13(うちハワイに5)、カナダに1、イギリスに1、ドイツに1、韓国に1、スリランカに1、インドに1、ブラジルに4ある。
[浅井円道]
『立正大学日蓮教学研究所編『日蓮宗読本』『日蓮教団全史』(1961・平楽寺書店)』▽『中尾尭著『日蓮宗の成立と展開』(1973・吉川弘文館)』▽『日蓮宗宗務院編『日蓮宗事典』(1981・東京堂出版)』▽『日蓮宗現代宗教研究所編『近代日蓮宗年表』(1981・同朋舎)』▽『立正大学日蓮教学研究所編『日蓮聖人遺文辞典・歴史編』(1985・三省堂)』▽『日蓮宗勧学院編『宗義大綱読本』(1989・日蓮宗新聞社)』
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法華(ほっけ)宗とも。鎌倉中期に日蓮の開いた仏教宗派。日蓮は郷里の安房国清澄山で「南無妙法蓮華経」の題目(だいもく)を唱え,仏法の真髄は「法華経」にあると説き,他宗批判を強めた。「立正安国論」を幕府に上呈したがいれられず弾圧された。この不屈の国政批判意識は門弟にも継承され,とくに地方武士・都市商人・職人らに多くの信徒を得た。南北朝・室町時代に京都方面に積極的に進出し,町衆の精神的母胎ともなる。1536年(天文5)比叡山衆徒による焼打,79年(天正7)織田信長の主催する安土宗論などにより一時退潮。江戸時代には不受不施派(ふじゅふせは)のように反体制の立場をとる一派もあったが,おおむね体制化した。近代には立正佼成会や創価学会などの新宗教を輩出する一方,国柱会など国家主義化する側面もあわせもった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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