田中町(読み)たなかちよう

日本歴史地名大系 「田中町」の解説

田中町
たなかちよう

[現在地名]八幡市八幡吉野

紺座こうのざ横町のほぼ東に位置し、高橋たかはし筋の常盤ときわ道以東一町の両側とその東端から南の安居橋あんごばし筋までの道西片側の町並。東は家田いえだ町、南は山路やまじ北小路きたこうじへ続く。常盤郷に属するが、中世は高橋筋の南側が山路郷であったかと思われる。町名は石清水いわしみず八幡宮社務慶清が康治二年(一一四三)一一月より当地に居住し、後世田中と号するによる(男山考古録)

田中町
たなかまち

[現在地名]岩槻市宮町みやちよう一丁目

渋江しぶえ町から北北東に延びる日光御成道の両側に開けた町で、突端に城下惣構の田中口があり、番所や高札場が設けられていた。西側に二筋の小路があり、渋江町寄りは代官だいかん町、もう一筋は同心どうしん町でこの二町は当町に付属していた(「風土記稿」には元代官町・元同心町とある)。また東側にも二筋の小路が延び、一筋は新正寺しんしようじ曲輪に通ずる新正寺口へ、一筋は松龍しようりゆう寺へ向かう(大岡氏時代の岩槻城惣絵図・「風土記稿」)。宝永六年(一七〇九)の岩槻各町宗門人別惣高(勝田家文書)によると男一四〇・女一二六。

田中町
たなかまち

[現在地名]矢島町田中町

矢島町の外町の一つ。矢島絵図(秋田県庁蔵)によれば、東南は七日町なのかまち村、西北はたて町に接する。

文禄年間(一五九二―九六)以来町を形成していたが、寛永一七年(一六四〇)生駒壱岐守領となり八森はつもりに陣屋が置かれ、人家も増えたという(由利郡田中町地誌)。しかし菅原氏の由緒書(生駒藩史)に「寛永十七年八月より高俊公に仕へ、御代官役を勤め候、町奉行となり田中町を開く、年月不詳」とあり、生駒氏領となった以後の早い時期に町割がなされたと推定される。

田中町
たなかちよう

[現在地名]東山区本町二十丁目

下井しもい(現本町十九丁目)の南、本町ほんまち(伏見街道)五条より数えて二〇町目に位置(明治二年に本町二十丁目と改称)

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「田中町 此町西側に田中社有」とある。町名は田中社の所在による。「山州名跡志」に「田中社 在三橋南三町目、大路西方、町ヲ号田中町」とあり、更に「田中社ト称スルハ、古此辺皆田ニシテ、社其田間ニ在シ故也」とする。

文献上の初見は、寛永一四年(一六三七)洛中洛外惣町数人家数改日記(「半日閑話」所引)で、「同所(東福寺)前田中町」とみえ、地図では、承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図が早い。

田中町
たなかまち

[現在地名]水戸市ほん町二丁目

うら四町目の南、源五郎げんごろう橋を渡った町。木戸の外の片側の宿家は新店といい浜田はまだ村の地。新店前から橋を渡り、くらしたんぼを経て坂戸さかど村に至る。東は浜田村、北は裏四町目・かみ町。「新編常陸国誌」に「古記云、東側七十三間、西側五十七間、戸数三十三」とある。城下第一の古い町並で、寛政一一年(一七九九)清水しみず町と改正された。

田中町
たなかまち

[現在地名]鰺ヶ沢町田中町

鰺ヶ沢町の東端にあり、東は中村なかむら川を挟んで舞戸まいど村、西は七ッ石ななっいし町に接する。慶安(一六四八―五二)頃の絵図には、三ッ屋みつや村として東は神明宮の下(現本町二丁目東端)と続き、川を隔てて舞戸村に接している(西津軽郡史)。三ッ屋浜は広く海に突出した漁場で、最も早く海士がたどり着いたという伝説がある(同書)

貞享四年(一六八七)検地帳に三ッ屋町とあり、家数一九。元禄一六年(一七〇三)の鰺ヶ沢町の絵図(鰺ヶ沢町史)では三ッ屋町は田中町となり、家数二九。

田中町
たなかまち

[現在地名]和歌山市田中町二―三丁目

南新地みなみしんちの南、橋向はしむかい町の東にあり、「続風土記」に西田中町・東田中町の二町を記す。城下近隣諸村の物資は橋向町に集められたが、東の田中町には青物市場と問丸があった。「紀伊名所図会」に田中市として「日々市あり、柿・蜜柑等の菓類殊に多し」として「田中蜜柑市の図」が描かれる。また小口金融業者も現れ、宝永元年(一七〇四)分の御触帳(和歌山県立図書館蔵)によれば、同年銀札の発行に際し小口の扱いを東・西両町の五名に認可している。

田中町
たなかちよう

中京区西洞院通丸太町下ル

南北に通る西洞院にしのとういん(旧西洞院大路)を挟む両側町で、北は丸太町まるたまち(旧春日小路)、南は竹屋町たけやまち(旧大炊御門大路)が通る。

平安京の条坊では、町の西側が左京二条二坊四保一五町の東、東側が左京二条三坊一保二町の西。平安中期以降は春日西洞院大路の南にあたる。町の東半は、平安京の官衙町「神祇官町」、西側は高陽院の地(拾芥抄)

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「田中町」とみえ、以降筆描図系では変化はない。

田中町
たなかちよう

[現在地名]奈良市紀寺きでら

川之上突抜かわのかみつきぬけ町の南に所在。「奈良曝」に「紀寺組」とみえ、木寺きでら村のうちにできた町で、「奈良坊目拙解」によれば寛永年間(一六二四―四四)に民家が建ち、興福寺領で宅地税が課せられた。北方坊屋敷ぼうやしき町のうちにも田中町があるので当町を南田中町ともいう。

田中町
たなかまち

[現在地名]鶴岡市本町ほんちよう一丁目

八間はちけん町の北東、東流するうち川南岸にある。町名は城下の外れに位置することからつけられたとも推定されるが、のち鳥居河原とりいがわらなど城下周辺に屋敷割が行われたため、市中に位置することになったという(大泉掌故)。承応―明暦(一六五二―五八)頃から藩の牢屋・仕置場が設けられており、足軽身分とほぼ同格の町同心等が居住した。

田中町
たなかちよう

上京区下立売通千本東入

東西に通る下立売しもたちうり通を挟み、町の東を浄福寺じようふくじ通、中央を土屋町つちやまち通、西を千本せんぼん通が通る。平安京内裏の「仁寿殿・紫宸殿清涼殿綾綺殿・校書殿・宜陽殿・安福殿・春興殿・承明門」などの跡地(「拾芥抄」の宮城指図)

近世の聚楽第じゆらくだい遺構では南外堀跡にあたる。寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「田中丁」とあり、町屋は下立売通の北側にみえ、その北は神明しんめい町まで野畑である。

田中町
たなかまち

[現在地名]中区田中町・たから町・富士見ふじみ町・西平塚にしひらつか

竹屋たけや村域にできた武家屋敷町で、東は平塚ひらつか町、西は下流川しもながれかわ町、南は同じく竹屋村内にできた町人町竹屋町、北は薬研堀やげんぼりに接する。寛永年間広島城下絵図には新開の「田中二軒屋敷」の住人に藩儒として迎えられた石川丈山の名を記している。

田中町
たなかまち

[現在地名]前橋市表町おもてちよう二丁目

町人町の南に置かれた武家居住区域の砂堀すなぼりの一部と田中小路・南田中小路・多津塚たづづかを併せ、明治七年(一八七四)改称された。西は堀川ほりかわ町、南は前代田まえしろた村、北は片貝かたかい町・相生あいおい町に接する。

田中町
たなかちよう

[現在地名]池田市さかえ町・栄本さかえほん

林口はやしぐち町の南にある。東・西両ほん町の境の十字路から南に延びる通りの両側に開けた町。元禄一〇年(一六九七)池田村絵図(伊居太神社蔵)によると当町には酒屋一・茶商一・古手屋一・糸引五・職業無記載四四、借地水呑四九が認められ、通りの両側以外は広く水田が広がっている。

田中町
たなかちよう

東山区新宮川町通五条上ル

新宮川しんみやかわ(宮川筋東裏筋)に位置。建仁寺領新家地として、正徳二年(一七一二)に開町した六町の一。町名は、正徳四年洛外町続町数小名家数改帳(荻野家文書)に「四軒 同(建仁寺新門前) 田中町」とあり、成立後まもない頃の零細な町並をしのばせる。

宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「田中町 此町の北に東へ行細辻子有。

田中町
たなかまち

[現在地名]土浦市田中一―二丁目

土浦城の西に位置する。享保年間(一七一六―三六)の土浦城郭図(土浦市立図書館蔵)には西門のところに田中口たなかぐち、さらにその西側一帯はかみ沼とあり、沼地になっている。安政四年(一八五七)頃作製の新治郡土浦中城分郷地絵図(石塚家文書)には「五番田中 高拾三石八升四合、反別壱町一反五畝三歩 弐拾弐筆、内田壱町一反一畝六歩、畑三畝廿七歩」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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