鎌倉初期の歌人。正式には「さだいえ」だが音読されることが多い。父は正三位(しょうさんみ)皇太后宮大夫(こうたいごうぐうのだいぶ)俊成(しゅんぜい)。母は若狭守(わかさのかみ)藤原親忠女(ちかただのむすめ)の美福門院加賀(びふくもんいんかが)。幼名は光季(みつすえ)、5歳で季光と改め、翌年定家と改名した。同母兄に成家(なりいえ)、同母姉に建春門院中納言(ちゅうなごん)(健(けん)御前)、異父兄に隆信(たかのぶ)、歌人の寂蓮(じゃくれん)は従兄(いとこ)。1166年(仁安1)叙爵(じょしゃく)、1175年(安元1)侍従を経て1211年(建暦1)従三位(じゅさんみ)、1214年(建保2)参議、1227年(安貞1)正二位、1232年(貞永1)71歳で権(ごん)中納言に至ったが、同年12月官を辞し、翌年の1233年(天福1)10月出家し、1241年(仁治2)8月20日80歳で没した。京極(きょうごく)中納言と号し、法名を明静(みょうじょう)という。18歳から74歳までの日記に『明月記(めいげつき)』がある。
[有吉 保]
歌人としての活動は、1178年(治承2)3月17歳の「別雷社歌合(わけいかずちのやしろのうたあわせ)」が最初で、「養和(ようわ)元年(1181)初学百首」「寿永(じゅえい)元年(1182)堀河(ほりかわ)院百首」のころから本格的な詠歌習作期に入ったとみられる。「堀河院百首」は、隆信、寂蓮、兼実(かねざね)らの周囲の賞賛を得た。1186年(文治2)西行(さいぎょう)の勧進(かんじん)した「二見浦(ふたみがうら)百首」、1187年「殷富門院大輔(いんぷもんいんのたいふ)百首」「閑居百首」などの百首歌を次々に詠み新風の試作を示している。1188年に奏覧された『千載(せんざい)集』には8首も入集。翌年10月ごろに西行から依頼されていた「宮河(みやがわ)歌合」の判を完成、感銘を受けた。
[有吉 保]
文治(ぶんじ)・建久(けんきゅう)期(1185~1199)は新風模索期で、九条家歌壇のなかで達磨(だるま)歌と非難されながらいちずに精進し、「一字百首」「一句百首」「花月百首」「二夜百首」「十題百首」など多くの作品を残した。1193年(建久4)の良経(よしつね)主催の「六百番歌合」は四季・恋題各50の画期的な題詠の催しで、御子左(みこひだり)家の新風と六条藤家(ろくじょうとうけ)の旧風が対決した。定家の恋歌は新生面を打ち出している。1196年の政変で詠歌の場を失ったが、1198年「御室(おむろ)五十首」では艶美(えんび)な秀歌を残す。
[有吉 保]
「正治(しょうじ)二年(1200)後鳥羽院(ごとばいん)初度百首」には俊成の努力によって追加で認められた。このときの斬新(ざんしん)な詠歌が院を深く感動させ内昇殿を許された。その後の歌壇が後鳥羽院主催で御子左家系の新風を主力とするものになってゆく機縁になった。院の主催する「仙洞(せんとう)十人歌合」「老若五十首歌合」「新宮(しんぐう)歌合」に参加。1201年(建仁1)7月に和歌所(どころ)を設置すると寄人(よりゅうど)になり、同11月『新古今和歌集』撰修(せんしゅう)の撰者になる。1202年末から翌年春ごろに結番された史上最大の歌合「千五百番歌合」の詠者であり、秋4・冬1の判者となり、評者としての優(すぐ)れた才能をみることができる。「建仁(けんにん)二年八月十五夜水無瀬(みなせ)殿恋十五首歌合」では、『源氏物語』や『狭衣(さごろも)物語』の世界を詠歌に導入し、「白妙(しろたへ)の袖(そで)の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く」のような艶美の極致の世界を詠出する。「元久(げんきゅう)元年(1204)春日社(かすがしゃ)歌合」や1205年の「元久詩歌合(しいかあわせ)」での院の新企画に定家はすこし冷めた態度で接している。1207年(承元1)の「最勝四天王院障子和歌」では、いったん定家が選んだ歌を院が改選するなど、感情的な軋轢(あつれき)がみられる。1209年定家は源実朝(さねとも)に詠歌口伝(くでん)(『遣送本近代秀歌』)1巻を贈っている。定家は『新古今集』完成後の切継(きりつぎ)期を経て、順徳院の内裏(だいり)歌壇でも指導者的地位にあり、「建保(けんぽう)三年(1215)内裏名所百首」に詠進する。1216年自撰家集の『拾遺(しゅうい)愚草』を編纂(へんさん)している。「建保五年内裏歌合」「建保六年道助法親王(どうじょほっしんのう)家五十首和歌」にも詠進する。1219年(承久1)7月『毎月(まいげつ)抄』を衣笠家良(きぬがさいえよし)に贈るか。翌年2月内裏和歌会の定家の詠歌が院に誤解されて勅勘を被る。翌1221年5月承久(じょうきゅう)の乱が起きて7月院は隠岐(おき)に遷幸。
[有吉 保]
定家はこのころより古典研究に意を注ぎ、1221年3月には『顕註密勘(けんちゅうみっかん)』(『古今集』の注釈書)を著し、1223年(貞応2)には『貞応(じょうおう)本古今集』を、1236年(嘉禎2)には『嘉禎(かてい)本古今集』を書写している。前年に『源氏物語』を、1234年(天福2)には『天福(てんぷく)本伊勢(いせ)物語』を、1235年(文暦2)には『土佐日記』を書写している。これらの古典書写は、最良の本文を後世に伝えようと考えたからのようである。
晩年の最大の業績は、第9番目の勅撰集、『新勅撰和歌集』を1235年に撰進したことで、平淡優雅で格調の高い歌風を特色とする。この年の5月には「百人一首」(原形)を選んでいる。若いころの創作物語とされる『松浦宮物語(まつらのみやものがたり)』が定家の作ならば、散文にも挑戦したことになる。定家は、王朝和歌を革新的に継承し、和歌の叙情性を復活させて新古今歌風と称される個性ある歌調を完遂させ、さらに新勅撰によって、中世全体を貫く根幹歌風の平淡美を形成させた。
[有吉 保]
『石田吉貞著『藤原定家の研究』(1957・文雅堂)』▽『赤羽淑著『藤原定家全歌集全句索引』(1974・笠間書院)』▽『安田章生著『藤原定家研究』増補版(1975・至文堂)』▽『久保田淳著『王朝の歌人 9 藤原定家』(1984・集英社)』
中世初期の歌人。〈ていか〉ともよばれる。父は俊成,母は藤原親忠の女で,初め藤原為経(寂超)の妻となり隆信を生み,のち俊成の妻となった。兄は10人以上あったが成家のほかはすべて出家,姉も10人以上あり妹が1人あった。
定家は14歳のとき赤斑瘡,16歳には痘にかかりいずれも危篤に陥り終生呼吸器性疾患,神経症的異常に悩まされた。19歳の春の夜,梅花春月の景に一種狂的な興奮を覚え,独特の妖艶美を獲得した。この美に拠って86年(文治2)和歌革命を行い(《二見浦百首》),天下貴賤から〈新儀非拠達磨歌〉との誹謗(ひぼう)を受け,14年間苦境にあえいだ。1200年(正治2)後鳥羽院の《正治百首》の列に加えられて一躍宮廷歌壇首位に抜擢され,その革命的歌風は見る間に全歌壇を圧倒する新風となった。翌01年(建仁1)10月,後鳥羽院の寵により熊野御幸の列に加えられ,同年11月には《新古今和歌集》の撰者を命ぜられた。その撰集の仕事と夜を日につぐ歌会,歌合に彼は虚弱の身に鞭うって活躍した。そのころから後鳥羽院との調和が破れ,《新古今集》の竟宴にも出席しなかった。しかし謹直精励な彼はその後も《新古今集》の切継ぎの仕事に最後まで全力を尽くした。このころから後鳥羽院の関心は関東討伐に向かい和歌を離れたので,歌壇は順徳院の手に移った。定家もその新歌壇の人となり後鳥羽院との関係はいよいよ悪化,07年(承元1)の《最勝四天王院障子和歌》の撰定によって両者の関係は最後的に決裂し,ついに20年(承久2)後鳥羽院の勅勘を受けるに至った。
一方,鎌倉の源実朝との関係はしだいに親密となり,1209年(承元3)には定家から実朝に《近代秀歌》を贈り,13年(建保1)には相伝の《万葉集》を献じなどした。承久の乱後の京都は定家の主家九条家,妻の実家西園寺家の支配に移り定家は急に政界・歌界に権威をもつようになると同時に,嫡子為家の妻として関東第一の富強宇都宮家の女をめとったので家計もきわめて富裕となり,一条京極に豪壮な邸宅を営むに至った。しかし定家の関心は和歌から離れ主として古典の書写に向かった。写書のおもなものは《秋篠月清集》《古今集》《新古今集》《金槐集》《久安百首》《後撰集》《源氏物語》《伊勢物語》《拾遺集》《長秋詠藻》《和漢朗詠集》《大和物語》《千載集》《古来風体抄》《土佐日記》《俊頼髄脳》《和泉式部集》《みつの浜松》《夜半のねざめ》《更級日記》など。また定家の歌学書としては《近代秀歌》《毎月抄》《秀歌体大略》《秀歌大体》《定家十体》《顕註密勘》《三代集之間事》《僻案抄》《定家卿長歌短歌之説》《定家物語》《定家卿相語》などがある。自己の和歌を集めたものに《拾遺愚草》《百番自歌合》があり,一般の歌を集めたものに《二四代(にしだい)集》《小倉百人一首》《八代集秀逸》があり,自作の物語に《松浦宮(まつらのみや)物語》がある。
父俊成から御子左家(みこひだりけ)を継いだ定家の歌風は,初めは俊成の幽玄の風であった。和歌革新後は妖艶風に変化したが世間ではやはり幽玄といった。だから幽玄には〈さびし〉と艶とを中心とした俊成風の幽玄と,妖艶を中心とした定家風の幽玄とがあるわけである。しかし中世では,もっぱら定家の風を幽玄といった。定家は本来強剛な性格をもち,それが病的神経に強められて反抗好争の人となり,1185年(文治1)24歳の年には少将源雅行を殿上でなげうって除籍され,46歳の年には《最勝四天王院障子和歌》の撰歌で後鳥羽院をあからさまに悪口誹謗(ひぼう)して勅勘の因をつくった。定家の代表歌として次の2首をあげる。〈見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮〉と〈秋とだに吹きあへぬ風に色かはる生田の杜の露のした草〉とである。前者は1186年(文治2)和歌革命として詠んだ《二見浦百首》の歌,後者は1207年(承元1)《最勝四天王院障子和歌》の歌で後鳥羽院勅勘の因となった問題の歌である。
意志があくまで強く老後多病の身であれほど多くの書写を行い,《摩訶止観》の書写には19ヵ月の間毎日休まず書写した。名誉心が強く官位の昇進には激しく焦心し,自己の健康には異常に注意し咳が一つ出ても日記に記すほどであった。恩に感じては一身を顧みず,主家の不幸にあっては自分たち夫妻も2人の娘もすべて出家してその恩に殉じた。定家が19歳から死の直前まで書き継いだ漢文日記が《明月記》である。中世には定家は神のごとく尊敬され,正徹のごときは〈定家をなみせん輩は冥加も有るべからず罰をかうむるべき事也〉(《正徹物語》)とまでいっている。
執筆者:石田 吉貞
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(五味文彦)
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1162~1241.8.20
「ていか」とも。鎌倉前・中期の歌人。父は俊成。母は美福門院加賀。京極中納言と称される。1233年(天福元)出家,法名明静。20歳頃父の教えに従って本格的に詠作を始め,九条良経らのもと新風和歌を開拓。「正治初度百首」では後鳥羽上皇から高く評価され,院歌壇の中心的歌人として活躍。「新古今集」撰者の1人。20年(承久2)後鳥羽上皇の怒りをうけ閉門,そのまま承久の乱を迎えた。35年(嘉禎元)「新勅撰集」を単独撰進。晩年は古典研究,書写校勘(こうかん)に努め,多くの功績を残す。自撰家集「拾遺愚草」,著書「近代秀歌」「詠歌大概」「顕注密勘」,日記「明月記」。
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…中世初期の歌人。〈ていか〉ともよばれる。父は俊成,母は藤原親忠の女で,初め藤原為経(寂超)の妻となり隆信を生み,のち俊成の妻となった。兄は10人以上あったが成家のほかはすべて出家,姉も10人以上あり妹が1人あった。 定家は14歳のとき赤斑瘡,16歳には痘にかかりいずれも危篤に陥り終生呼吸器性疾患,神経症的異常に悩まされた。19歳の春の夜,梅花春月の景に一種狂的な興奮を覚え,独特の妖艶美を獲得した。この美に拠って86年(文治2)和歌革命を行い(《二見浦百首》),天下貴賤から〈新儀非拠達磨歌〉との誹謗(ひぼう)を受け,14年間苦境にあえいだ。…
…栗本は狂歌これを無心と名づく〉(《井蛙抄》),〈有心無心の連歌〉(《吾妻問答》)など,優雅な和歌やそれに類した優美な連歌をさし,またこのような和歌・連歌の様式美をさす歌学用語ともなった。歌合判詞では,人や歌の心が深くこもることを賞して〈心あり〉とする用例が多いが,この伝統と藤原俊成の幽玄とが母胎となり,藤原定家の有心理念が形成される。とくに〈いづれの体にてもただ有心の体を存ずべきにて候〉(《毎月抄》)など,すべてにわたって基本とされるに及び,中世文学論の重要理念となった。…
…いわゆる小倉百人一首の歌をその撰者藤原定家がみずから書した色紙。京都嵯峨の小倉は風光優雅で古来多くの山荘がいとなまれた。…
…鎌倉初期成立の歌集でもっとも親しまれてきた〈百人一首〉。藤原定家撰。1235年(嘉禎1)成立か。…
…江戸時代以後には漢字の字音をどんな仮名で表すかも問題とされるようになったが,それは字音仮名遣いという。最初に仮名遣いを意識的に取り上げた藤原定家の仮名遣いを〈定家仮名遣い〉という。それをうけて世に広めた〈行阿(ぎようあ)仮名遣い〉を批評して,上代の万葉仮名に根拠を求めた契沖の仮名遣いを〈古典仮名遣い〉〈復古仮名遣い〉または,〈歴史的仮名遣い〉とよぶ。…
…その精神性は〈摩訶止観〉から学んだものであることは,俊成自身が言明しているところである。 俊成の子藤原定家は,《近代秀歌》《詠歌大概》《毎月抄》等の歌論を書いて,俊成の歌論を一歩推し進めた。〈詞(ことば)は古きを慕ひ,心は新しきを求め,及ばぬ高き姿をねがひて〉(《近代秀歌》),〈まづ心深く,長(たけ)高く,巧みに,詞の外まで余れるやうにて,姿気高く,詞なべて続け難きがしかもやすらかに聞ゆるやうにて,おもしろく,かすかなる景趣たち添ひて面影ただならず,けしきはさるから心もそぞろかぬ歌にて侍り〉(《毎月抄》)とあるように,高さや深さという内面性をいっそう重んじている点が注目されるのである。…
…歌論書。藤原定家が1209年(承元3)将軍源実朝の依頼で執筆。歌論部は《古今集》の序をふまえた和歌史批判と,その帰結としての作歌理念・表現方法論に分かれ,宇多朝(9世紀末)以前の古歌の尊重,余情・妖艶体の摂取,本歌取り技法による詩情の更新などの立場が提唱されている。…
… 本文もまた当時は浮動性の多いものだったようで,陽明文庫本にその面影の一部を残している。こうした異本群の混乱を救い統一した形に整えようとしたのが鎌倉初期の藤原定家および,ともに河内守となった源光行(みつゆき)(1163‐1244)・源親行(ちかゆき)父子であった。定家は当時の善本とされた7本をもとに〈青表紙本〉を整定し,光行・親行らはさらに多くの本を参考にして〈河内(かわち)本〉を整定した。…
…別名《古今秘註抄》ほか。六条藤家の顕昭が著した古今集注釈書(現存の顕昭《古今集註》とは別)に,1221年(承久3),藤原定家が自説を〈密勘(内密の考え)〉として書き加えたもの。定家は顕昭の注説におおむね肯定的だが,両者の学風が対照的に異なる例もみえる。…
…家集に《式子内親王集》がある。謡曲《定家葛》などには,藤原定家との恋愛関係が説話化されているが,事実ではない。【上条 彰次】。…
…藤原定家の自撰家集で,伝本は定家自筆本(冷泉家蔵)ほか3系統。1216年(建保4)に上中下3巻を編み,のち33年(天福1)ころまで自身で増補。…
…勅撰和歌集の第9番目。藤原定家撰。20巻。…
…そして明障子(あかりしようじ)(現在の障子)が用いられ,部屋に畳が敷きつめられるようになると,次代の書院造の祖型が形成されることになる。なお下級貴族の住宅や,平安末期から鎌倉時代ごろの貴族の力が衰えてしまってからの住宅は,当然規模も小さく,例えば藤原定家の住宅は寝殿と中門廊,持仏堂,侍所,車宿などを持つのみで,対も南池もない(図3)。【清水 拡】。…
…中世短歌の特質は,象徴性と哲学性とを基調としつつ内面化の方向を強めた点に認められるが,俊成の歌論の核心をなす幽玄,《山家集》に見られる西行の短歌作品は,はっきりとそうした特質を示しているからである。 《千載集》の次の勅撰集《新古今和歌集》(1205成立)は,上に記したような中世短歌の特質を典型的に体現したもので,選者の一人藤原定家の歌論の中心をなす有心(うしん)は,この方向の極北へ言及したものと見なしてよい。〈見わたせば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕暮〉(藤原定家)。…
…シテは式子(しきし)内親王の霊。旅の僧(ワキ)が都の千本(せんぼん)の辺で時雨にあい,雨宿りをしていると,そこへ若い女(前ジテ)が現れて,ここは藤原定家(ふじわらのさだいえ)が建てた時雨の亭(しぐれのちん)だと教え,昔を懐かしむかにみえる。女はさらに僧を式子内親王の墓に案内する。…
…藤原定家の書風をいう。定家の書は,父俊成のするどい書風とは異なり,巧妙とはいえない。…
…第1の時期には,親鸞や道元が仏教的立場から既存の宗派と既成道徳を徹底的に批評した(これは日本における一種の宗教改革であったということができる)。また藤原定家は最初の自覚的な歌論,すなわち文芸批評の原則を樹立した(これは貴族社会の内部から起こり,激しい社会的変動のなかで,文化的伝統を歴史的に自覚したという意味で,ヨーロッパの人文主義に通じている)。第2の時期には,本居宣長の儒教(およびある程度までは仏教)批評が,論戦の形をとってあらわれ,第3の時期,明治初年には,福沢諭吉らの啓蒙主義的な立場からの文明批評が活発になった。…
…それまでは〈盗古歌〉と考えて,本歌取りを避ける主張もあった(藤原清輔《奥儀抄》)。《新古今集》巻一の藤原定家の歌〈梅の花匂ひをうつす袖の上に軒洩る月のかげぞあらそふ〉は《古今集》巻十五,在原業平の〈月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして〉を本歌とする。本歌取りのありようについて藤原定家は《毎月抄》に〈本歌とり侍るやうは,……花の歌をやがて花によみ,月の歌をやがて月にてよむ事は達者のわざなるべし。…
…藤原定家が1219年(承久1)に著した歌論。1巻。…
…擬古物語。藤原定家作とする説が有力。鎌倉時代初期成立。…
…藤原定家の漢文日記。別名《照光記》。…
※「藤原定家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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