ユダヤ人にかかわる問題を論じる際に,いったいユダヤ人とは何であるのかがつねに問われ続けてきた。ユダヤ人とはもっぱらモーセの教えを信じる人びとである,という規定がある。そうだとするならば,ユダヤ人という言い方は正確ではなく,ユダヤ教徒と呼ぶべきであろう。これに対して,ひとたびユダヤ教徒を親として生まれたからには,たまたまその人がモーセの教えを捨てて他の信仰に帰依したとしても,やはりユダヤ人であることに変りはない,信仰のいかんにかかわりなくユダヤ人はつねにユダヤ人であり続ける,という考え方もある(ただしヨーロッパの諸語では,両者は同一の単語を用いて表されてきた)。ユダヤ人をこのように宗教集団としてみるか,民族あるいは人種集団としてとらえるか,さらにはこれを〈世界的国民〉とするか,また〈民族階級〉とみなすか,これらはいずれも,少数者集団としてのユダヤ人と,その周囲の多数者とがどのように互いにかかわりあっているかによるものであり,それぞれの歴史的情況によって規定されている。
中世,とくに十字軍以前は,ヨーロッパでもイスラム世界でも,ユダヤ人は,宗教的問題として,すなわちユダヤ教徒として扱われていたのに対し,これをもっぱら民族,人種とみる考え方は,19世紀以降,ヨーロッパにおいて,近代市民社会が国民国家という枠組みのなかで形成されるようになってから生まれた。そこでは,ユダヤ教徒のナショナリティが問われ,やがて国家をもたないユダヤ人は市民社会の矛盾を転嫁するかっこうの存在となり,宗教的差別が人種的差別に転化され,〈ユダヤ人〉概念が完成される。したがって本項では,古代以来のユダヤ教徒の歴史を述べるのではなくて,〈ユダヤ人〉という概念や存在のもってきた意味を歴史的に問い直すことが中心となる。
イスラム勃興以前から,アレクサンドリアを中心として広く地中海沿岸とくに北アフリカ,またアラビア半島とくにイエメンなど,さらにセイロン,インドにもユダヤ教徒(アラビア語でヤフードYahūd)が定住し,交易に従事し手工業を営んでいた。イスラムの成立とともに彼らはキリスト教徒とならんで〈啓典の民〉として,一定の人頭税(ジズヤ)の支払いを条件にジンミーとして支配権力の庇護のもとにおかれた。ユダヤ教徒がどこまで自由を享受できたかは地域と時代により異なり,公職に就くことを禁じたウマル協約(第2代正統カリフ,ウマル1世によるとされるが,実際には800年ころに成立したもの)にもかかわらず,イベリア半島などでは,キリスト教徒とともにユダヤ教徒もその高い文化的・経済的水準により王朝支配者に召し抱えられ,高い官職に就いた例も少なくない。逆にムワッヒド朝(1130-1269)支配下の地域では,ユダヤ教徒が激しい迫害を受けた時期もある。しかし全体としては,イスラム世界のユダヤ教徒はその信仰を守りつつ,経済・文化の重要な担い手あるいは伝播者として活躍し,イスラム社会の発展に寄与することができた。
キリスト教世界のなかでもビザンティン帝国では,テオドシウス2世(在位408-450)およびユスティニアヌス1世(在位527-565)以来,ユダヤ教徒はいっさいの官職から排除され,キリスト教徒を農奴として用いることを禁じられ,事実上,農耕に従事することが不可能となった。さらにヘラクレイオス(在位610-641)は彼らに対しキリスト教への改宗を強制するにいたった。
これに対しグレゴリウス1世(在位590-604)以来のローマ教皇は,原則として,これとは異なった対応を示した。キリスト教徒にとってユダヤ教徒は,イエス殺しの罪深き人であることによってイエスの教えのまことを証明する生き証人であり,したがって彼らの信仰を寛恕し,彼らの生命を維持し,その宗教儀式,墓地,シナゴーグを保護することが必要である,というのであった。この原則はその後の公会議でも繰り返し確認され,さらにカリストゥス2世(在位1119-24)のユダヤ教徒保護教書で明記されるにいたった。ユダヤ教徒に対しその意に反し改宗を強要することを禁じ,彼らを殺傷し,金銭を奪い,奉仕を強い,宗教儀式に介入し,墓地を荒らすなどの行為を厳しく戒めたこの保護教書は,15世紀半ばまで繰り返し教皇によって確認された。この事実は確かに,ローマ・カトリック教会がこのような態度をその原則として保持し続けたことを物語ってはいる。しかし,それは同時に,この原則が実際上は絶えず侵されていたこと,すなわち先に列挙したもろもろの行為がキリスト教徒によって再三再四行われた事実をも裏書きするものでもあった。とはいえ,ローマ教皇のユダヤ教徒に対する原則的な立場は,12世紀末ころまでは,イスラム世界の宗教的権威のそれと基本的には同じであったといえる。
このような姿勢が大きな変化をみせるにいたったのは,ヨーロッパ社会にキリスト教の原理が深く浸透し,社会生活のあらゆる分野を規定するようになると同時に,対外的にはイベリア半島でイスラム教徒と宗教の大義をかざして対決を深めるとともに,十字軍遠征により宗教的熱狂があおりたてられるようになった時期とほぼ一致している。すなわち12世紀末から13世紀初頭にかけて教会は,ラテラノ公会議で2度(第3回1179,第4回1215)にわたって,ユダヤ教徒によるキリスト教徒への影響を排除するために両者が親しい交わりをもつこと,またユダヤ教徒がキリスト教徒に対しなんらかの支配を及ぼすことを厳重に禁止したのである。これにより,ユダヤ教徒はキリスト教徒を告発したり,不利な証言をしたりすることができなくなり,キリスト教徒を食事に招待し,またこれと結婚することも許されず,キリスト教徒を農奴その他として雇用することも不可能となった。こうしてユダヤ教徒は,ローマ時代以来定着し,農耕にも,また都市においてはさまざまな手工業にも従事してきたヨーロッパ諸地域でこれらの生業からいっさい排除されていく。同時にユダヤ教徒はまた,それまで彼らが大きな役割を果たしてきた地中海を中心とする遠隔地貿易からも閉め出されることになる。キリスト教徒の血を儀式に用いるために無垢の子を誘拐し殺害するとの,いわゆる儀式殺人の非難,またユダヤ教徒がキリスト教徒の飲用とする泉に毒を混入させるなどの告発が行われるようになるのも,12~13世紀以降のことである。教会は,このような非難を繰り返し根拠のないものとして退け,このような非難から生じたユダヤ教徒殺害などを戒めるのであるが,やがて15世紀スペインを中心とする異端審問の狂気のなかで,教会みずから直接ユダヤ教徒狩りに加担し,改宗を強制されたユダヤ教徒(マラーノ)が多くその犠牲となった。このような展開は,ユダヤ教徒のゲットーへの強制隔離によってその頂点に達することになる。これによりユダヤ教徒は独自の集団,いわば事実上の身分としてキリスト教社会の底辺に位置づけられた。
こうしてユダヤ教徒は,ヨーロッパ・キリスト教社会において,そこから完全に排除され差別されつつ生存し,しかもなおかつ消滅することを許されない集団に転化するのである。彼らは迫害され収奪され差別されるさだめを負うことにより,その罪深さを証明する生き証人でなければならなかった。罪深い人びととして生きのびなければならないユダヤ教徒のこの境遇を最も如実に示すのが,金貸しの生業であった。他のあらゆる職業から閉め出されたユダヤ教徒は,ささやかな行商かあるいは金貸しにより生計を維持し,かつ彼らに課せられた税を支払わなければならなかった。その教義に基づいて利子の取得を禁じていた教会はユダヤ教徒による暴利収奪を絶えず非難しながら,しかも13世紀以降は教皇自身が利子禁止のおきてを破り続けた。ユダヤ教徒が利子取得の罪を犯すことは,彼らの罪深さに適合する行為であるというのがその論理にほかならなかった。この意味で,ユダヤ教徒をそれとして絶えず再生産し続けたのはキリスト教社会であったといえるであろう。
これまで一義的にユダヤ教徒として規定されてきた人びとの地位に大きな変動をもたらしたのは,近代市民社会と国民国家の成立であった。身分制を原理とする社会が崩壊するとともに,それまで総体として差別と収奪の対象としかみなされなかったユダヤ教徒を,市民社会のなかでどう位置づけ,中央集権的国民国家のなかにどのように統合していくかが初めて問題とならざるをえなかった。ユダヤ教徒にキリスト教徒と同じ市民として公民としての権利を与える,ユダヤ教徒解放の問題である。この問題にヨーロッパで最初に取り組んだのはフランスで,アメリカ合衆国の先例にならいつつ,フランス国民議会は1791年ユダヤ教徒に同等の市民権を与えることを宣言した。この解放は,ユダヤ教徒が社会と国家に市民として同化していくことを前提とし,かつまたこれを要求するものでもあった。宣言成立までの論議の過程でユダヤ教徒がなんらか独自の国民を形成する集団であってはならず,個々の市民としてのみ存在を許されるという考え方が強く表明された事実は,このことを物語っている。プロイセン(1812)をはじめ他のヨーロッパ諸国での解放もまたすべて同じ前提に立っていた。
しかし,これと同時に,およそヨーロッパ人が国民,ナショナリティなどの観念をイギリス人,フランス人あるいはドイツ人というかたちで意識する過程で,ユダヤ教徒もまた国民あるいはナショナリティではないのかという問題が,繰り返しさまざまなかたちで提起された。フィヒテ,ヤーン,アルントによって代表されるドイツ人意識は,その否定的な対極としてユダヤ民族観を内包していたし,またナポレオンはユダヤ教徒を国民国家に解消されえない独自の集団とみなした。すなわち,国民国家を構成する多数者集団のなかの少数者集団としての〈ユダヤ人〉という観念は,このときに形成された。しかし,19世紀ヨーロッパにおける時代の支配的傾向は,ユダヤ教徒の解放そして究極的には同化すなわち消失という過程を進めることにあった。
ヨーロッパのユダヤ教徒に呈示されたこの新たな道は,彼らに衝撃的な作用を及ぼした。M.メンデルスゾーンを先駆とし,ユダヤ教徒の側から積極的に近代ヨーロッパ文化を吸収しようとするユダヤ教徒啓蒙運動は,ここに一気にその花を開き,数世紀にわたり伝統的なラビの支配のもとにあったユダヤ教徒を,近代ヨーロッパの社会と文化のいぶきに触れさせ,彼らの貪欲なまでの知識欲を刺激した。ユダヤ教改革の運動が起こると同時に,それまでユダヤ教徒に対し,宗教,教育,裁判における独占権を確保してきたラビは,それだけいっそうかたくなに伝統的な教義に固執しようとした。にもかかわらずキリスト教徒との婚姻,キリスト教への改宗あるいは宗教的無関心がおしとどめがたい傾向となった。こうして19世紀は,解放されたユダヤ教徒が,西ヨーロッパ諸国において自由主義を謳歌しつつ,政治,経済,学問,文化のあらゆる分野に急速に分散し進出していく時代となった。そしてそれは同時に,彼らがユダヤ教徒としての一定の連帯感は保持しながらも,より強くはそれぞれが居住する国民国家に忠誠を誓った市民としてみずから意識するようになる過程でもあった。つまり彼らは何よりもたとえばフランス人でありプロイセン人なのであって,他の同胞とはただ信仰においてのみ異なる人びととなりつつあったのである。
ロシア,ポーランドなど東ヨーロッパ諸地域にも多くのユダヤ教徒が居住していた。その一部はスペインでの迫害を逃れて移住した人びとであったが,他のかなりの部分は,ハザル王国(ハザル族)の滅亡とともに各地に離散したユダヤ教徒であった。彼らはポーランドなどでは一部で都市商人層を形成していたが,その大部分は農村に住む零細商人で,ハシディズムの影響のもとに,近代にいたっても伝統的な信仰と風俗習慣に固執し続け,イディッシュ語を独自の言語としてもつ民族集団を形成していた。彼らは19世紀後半に帝政ロシアの迫害と貧困を逃れるため大量に西ヨーロッパ諸国,さらにはアメリカへと移住した。アシュケナジムと呼ばれるこれらのユダヤ教徒は,セファルディムと称され,西ヨーロッパ社会に同化しつつあったユダヤ教徒たちからも蔑視され差別された。彼ら自身やがては西ヨーロッパ社会に同化していくのであるが,その存在は近代ヨーロッパで新たにユダヤ人観が形成されていくとき,これに重大な影響を与えた。
中世以来,〈ユダヤ人〉といえば第一義的には,モーセの教えを信じる人びと,つまりユダヤ教徒であり,副次的に〈アブラハムの子孫〉という出生に基づく規定が付け加えられることはあったものの,近代国民国家においては後者の規定はユダヤ教徒の側からも,また国家の側からも原理的に否定されるようになった。ところが19世紀末にいたってこの〈ユダヤ人〉規定をくつがえし,これをもっぱら出生すなわち血に基づく〈人種〉集団としてみようとする考え方が現れた。直接には1870年代の大不況の影響のもとで没落の危機感にとらえられた中部ヨーロッパの中間層の間で,資本主義社会の矛盾をあげて〈ユダヤ人〉=セム人に帰そうとする反ユダヤ主義者のこの主張は強い吸引力を発揮し,とくにドイツ,オーストリア,フランスでこの人種論的反ユダヤ主義(アンチ・セミティズム)は急速な広がりをみせた。ここにユダヤ教徒であるかどうかとは無関係におよそひとたびその血をうけた者は,信仰のいかんにかかわらずつねに〈ユダヤ人〉であり続けるという観念が成立したのである。社会ダーウィニズムの影響のもとに科学的なよそおいをまとって登場したこの〈ユダヤ人〉観念は,しかし,実際には中世以来のユダヤ教徒に対する差別観が,資本主義社会と近代文明に対する批判と,そのなかでのとくに中間層の経済的・思想的不安とによって増幅して復活され,憎しみ,そねみその他さまざまな情念の吐き出される対象を見いだすためのものであった。それがとくにドイツで顕著な政治運動として展開されるまでになったのは,ここでの広範な中間層の存在のほかに,国家的統合を強化するために国民意識を文化と伝統,さらには血の同一性により一義的に規定しようとする傾向が強く求められたこと,また,実数は主張されるほど大きくはなかったにせよ,東ヨーロッパからの〈東方ユダヤ人〉の流入がその特異な文化により異質性をとくに鮮明に印象づけることに寄与したことが指摘できる。しかし,フランスにおいても,ドレフュス事件にもみられるように,反ユダヤ主義の激しさはドイツに劣らなかった。ただここでは,政治的帰属と宗教的あるいは文化的帰属とを区別し,国民国家への所属を,たとえば〈ゲルマン人〉といった一義的な規定に求めることを拒否する考え方がドイツなどよりも強く,これが有効に働いて反ユダヤ主義に対する抵抗力を増したのである。とはいえ,ドイツでも第1次世界大戦前の時期には,一般には反ユダヤ主義運動は一時的な高揚ののち衰退し,圧倒的なユダヤ教徒市民は愛国心あるドイツ帝国公民としてみずから意識し,またそのような人びととして一般に受け入れられてはいた。第1次大戦勃発に際してユダヤ教徒がそれぞれの国家への熱烈な忠誠を表明したことにも,これはうかがえる。
19世紀末に出発しユダヤ人国家の建設を目ざすシオニズム運動は,第1次大戦中に急速に発展し,バルフォア宣言により彼らの目標達成に決定的な前進をとげることになるが,それぞれの居住国を祖国とみなしその勝利を願うという点では,参戦各国のシオニストにしても同様であった。解放→同化→消滅というユダヤ教徒解放の論理を否定し,同化によっては反ユダヤ主義は克服できず,むしろ〈ユダヤ人〉の民族としての独自性に基づく彼ら自身の国家の創設によってのみその克服は可能であるとする彼らの考え方の根底には,ユダヤ教徒=ユダヤ人という基本的には反ユダヤ主義者のそれと合致するユダヤ人観があり,したがってまた彼らの努力の目標も独自の国民国家の建設という19世紀ヨーロッパ・ナショナリズムの延長として構想されることになった。そして祖国としての居住国への忠誠とユダヤ人国家への献身という二重の義務に対し,シオニストは,祖国の帝国主義的な利益追求さらには広くヨーロッパ植民地主義の拡大・強化の方向に沿うものとしてユダヤ人国家を位置づけることにより整合性を与えようとした。こうしてシオニズムは,ヨーロッパ社会がその胎内から生み出したユダヤ人問題になんらかの解決を見いだすというよりは,未解決のまま問題をヨーロッパ以外の地域に輸出することにより,むしろこれを拡大し複雑化してしまったといえる。
ユダヤ教徒解放をめぐる論議に触発されて《ユダヤ人問題によせて》を著したマルクスは〈ユダヤ教徒の社会的解放はユダヤ教からの社会の解放である〉という論理を提示し,やがてそこからプロレタリアートの解放こそが普遍的・人間的解放であるとの立場に移行することになる。そこでは,ヨーロッパ啓蒙思想に内在し,ヘーゲル左派のB.バウアーによって明示されたユダヤ教徒解放否定の論理,すなわちキリスト教より低い発展段階にあるユダヤ教徒はそのままではついに解放されえないし,解放されうるとすれば彼らのキリスト教徒への改宗を通じてであるという議論はなお完全に克服されるにはいたっていない。その結果,19世紀末から20世紀初頭のマルクス主義的社会主義運動は,資本主義体制への批判と社会改革の要求を掲げる反ユダヤ主義運動を〈自動的社会主義〉(エンゲルス)あるいは〈愚者の社会主義〉と嘲笑的に批判するにとどまり,資本主義の発展が貫徹するとともに同化が進み,これに応じて古くさい偏見に基づく反ユダヤ主義もまた消滅するであろうと楽天的な見方を捨てなかった。またシオニズムに対しても,階級的解放の理念に反するものとしてほとんど関心を払うことがなかった。
ボリシェビキは,ツァーリズムのもとでのユダヤ教徒に対する差別立法と迫害(ポグロム)に反対し,革命後ただちに差別立法をすべて廃止し反ユダヤ主義を厳しく抑えた。しかし彼らは同時にスターリンによって定式化されていたその民族理論に基づき,ユダヤ教徒を独自の民族ではなく宗教集団とみなし,宗教批判の立場からユダヤ教についてはこれを抑圧した。その一方,ソビエト政府は1928年以降シベリアにエフレイ(ユダヤ人)自治州を設け古い宗教文化に固執するユダヤ教徒の再教育を図ったが,はかばかしい成果はあげられなかった。スターリン体制のもとでは,シオニズムに対する批判,すなわち人種論に基づく集団的帝国主義と祖国をもたないコスモポリタン主義のイデオロギーという批判がユダヤ系市民に対する迫害と結びつき,革命以来活躍してきたユダヤ系共産党員,市民の多くがその犠牲となった。
これまでにみてきたところから明らかなように反ユダヤ主義は決してナチス独自のイデオロギーではない。それどころかいわゆるユダヤ人の物理的抹殺をもって〈ユダヤ人問題の最終解決〉と称する表現さえ19世紀末のドイツに見いだすことができる。第1次世界大戦における敗北後のドイツでは,しばらくの間潜在化していた反ユダヤ主義が再び新たな勢いで激しく噴出した。ワイマール共和制下のドイツで右翼反共和派のほとんどすべてが反ユダヤ主義者であった。彼らにとって,1918年ドイツ革命によって体制として確立され,あるいは新たに力を得たすべての思想と勢力がユダヤ人であり,ワイマール共和国とはまさしくユダヤ人共和国なのであった。ユダヤ人とは自由主義者,列強協調論者,議会政治家,マルクス主義者,ボリシェビキ,都市インテリ,大資本・大商人,国際的金融資本,西欧帝国主義者であり,ドイツ国民に敗戦と過酷な賠償による塗炭の苦しみと底知れぬ屈辱を味わわせている張本人であった。ヒトラーはこのような反ユダヤ主義のデマゴギーを中間層,農民,労働者の獲得と動員のために徹底的に利用した。とくに彼は広範な社会層にみられた資本主義に対する批判,議会制民主主義への失望を,〈ユダヤ人資本家〉〈ユダヤ人議会政治家〉に対する攻撃によってとらえ,同時にドイツ的国民社会主義すなわちナチズムを,〈ユダヤ的〉国際主義的社会主義と対置することにより民衆の社会主義への志向をすくい取ろうとした。
1933年ナチスの権力掌握後,第三帝国政府は35年いわゆるニュルンベルク法を制定し,ユダヤ教徒だけではなく,たとえユダヤ教を捨てていてもその祖父母4人のうち3人がユダヤ教徒であった者は〈完全ユダヤ人〉とみなすという〈血の理論〉に基づいて〈ユダヤ人〉を設定し,彼らから市民権を奪い,彼らの市民生活さらに私生活にあらゆる制限を加え,38年11月にはポーランド人青年による在パリ・ドイツ大使館員狙撃事件を口実に,〈ユダヤ人〉に対する大規模な迫害・略奪を行った。同時に〈ユダヤ人〉政策の主要推進力となったSS(ナチス親衛隊)は,〈ユダヤ人〉の国外追放を進めた。シオニスト団体はこの間SSと協力してドイツおよびハンガリーなどの諸国からの〈ユダヤ人〉のパレスティナへの移住の組織にあたった。第2次世界大戦中42年1月ワンゼー会議で決定された〈最終解決〉に基づき,ナチス・ドイツ軍占領下のヨーロッパ諸地域,とくにポーランド,ソ連邦で〈ユダヤ人〉に対して行われた大量虐殺が,いっさいの目的合理性を欠いた狂気の自己運動であったのか,あるいは侵略戦争遂行の上で一定の政治的・経済的・軍事的役割を担った政策の結果であったのか,これを見きわめることは今なお困難である。ただ大量のユダヤ人囚人を使い捨ての安あがりの労働力として文字通り死ぬまで酷使し,しかもその死体までも利用し尽くし,これらをすべて経営上の収支決算として計算していたIG(イーゲー)ファルベンなどの独占資本があったことは指摘しておかなければならない。いずれにせよ,1933年に50万弱を数えたドイツの〈ユダヤ人〉の大多数をはじめ,ヨーロッパ全域で510万人から650万人と推定される人びとが殺害された。このホロコーストholocaustが,単にナチスの非人道性,戦争下の狂気などに帰せられるべきものではなく,ヨーロッパがその胎内から生み出したユダヤ教徒,そして〈ユダヤ人〉に対する対応のひとつの帰路であったと言えるであろう。ただし,こう言うことは,それが必然的・不可避的な帰結であったと考えることではないし,またいかなる意味でもナチスとその支持者の免罪を意味するものでもない。
ヨーロッパが試みた〈ユダヤ人問題〉の暴力的解決の試みと問題のヨーロッパ以外への輸出によって,ヨーロッパにおけるユダヤ人人口は激減した。代わって,現在ではイスラエルとならんでアメリカ合衆国が,600万以上と推定される〈ユダヤ人〉を擁して一大中心となっている。彼らのうちの大きな部分を占める,東ヨーロッパ出身の人びとのなかには〈東方ユダヤ人〉の宗教文化,イディッシュ語文化を継承,発展させていこうとする努力があり,独自の思想的・文化的寄与を果たしている。しかし彼らはあくまでアメリカ合衆国市民なのであり,そのユダヤ人意識は宗教的ないし文化的アイデンティティなのである。もちろんホロコーストのなまなましい体験は〈ユダヤ人〉とされた人びとの間に強い連帯の意識をつくり出し,いわゆるユダヤ系市民がイスラエルの運命に切実な関心を寄せ続けていることは当然である。しかしだからといってこれらすべての人びとを〈ユダヤ人〉とみなし,またイスラエル人と同一視するわけにはいかない。逆にイスラエルは,決して〈ユダヤ人〉のみにより構成されている国家ではないし,またそうではありえないことはパレスティナのアラブ(ユダヤ教徒もイスラム教徒も含む)の存在が証明している。これらの多様で錯綜した諸関係を冷静に見きわめることを怠ると,たとえばアメリカ合衆国の政治,経済,社会にユダヤ系市民がしばしば有力な地位を占めていることから,〈ユダヤ人による世界支配の陰謀〉などという,20世紀初頭に出現した偽書《シオンの議定書》の焼直しともいうべきグロテスクで危険な誤解が復活することにもなる。他方,1980年代末まで存続したソ連邦や東欧の社会主義諸国でも潜在的な反ユダヤ主義が十分克服されるにいたっておらず,シオニズム批判の名のもとにしばしば〈ユダヤ人〉に対する差別・抑圧が行われていたとの指摘は,イスラム世界についての同様な批判とともに,ユダヤ人問題が今日なお未解決のまま残されており,さまざまな差別・抑圧からの解放という現代世界における重要課題とともに,この問題がたえずわれわれに解決を迫るであろうし,またその限り〈ユダヤ人〉が新たに絶えず生み出されてくるであろうことを示唆している。
執筆者:下村 由一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
セム語族に属するが、早くからヘブライ人とカナーン人とが混血した民族。元来はヘブライ語を用いていたが、紀元前6世紀以後アラム語にかわった。ユダヤの名称は『旧約聖書』中の太祖ヤコブの子ユダの子孫であることに由来するが、バビロン捕囚ののちはイスラエル人(ヘブライ人)の総称となった。現在の総人口は約1300万。イスラエル国のほか、アメリカ合衆国、旧ソ連地域、ヨーロッパ諸国に散在している。
[漆原隆一]
『旧約聖書』によれば、メソポタミアのウルからの移住者がアブラハムに率いられて、カナーンの地に入ったが、ヤコブの一族はさらにエジプトに移住した。やがてファラオの圧制を受けたため、前1230年ころモーセに率いられて、「出エジプト」を敢行した。カナーンに戻る途中、シナイ山で「十戒」を中心として神との間に契約を結んだことは、12部族が宗教共同体としてのイスラエル(ユダヤ)民族として成立する画期となった。原住のペリシテ人と抗争しつつカナーンに定着し、前1000年ころサウルのもとで王制を敷いた。ヘブライ王国は、エルサレムを都と定めたダビデや、神殿を建設したソロモンによって全盛期を迎えたが、ソロモンの死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂した。その後イスラエル王国は前722年にアッシリアに、ユダ王国は前586年に新バビロニアに滅ぼされた。ユダ王国滅亡の際、多くの住民がバビロン捕囚の身となったが、前538年にアケメネス朝ペルシアのキロス2世によって帰還を許され、再建された神殿を中心としたユダヤ教団の成立をみた。ペルシアにかわったアレクサンドロス帝国ののち、セレウコス朝シリア王国の支配下に置かれたが、シリア王アンティオコス4世の迫害に対してマカベア戦争を起こし、前141年にハスモン朝の祭司王国として独立を回復した。やがてローマが台頭すると、前63年その属領とされた。
[漆原隆一]
前1世紀後半にはローマの庇護(ひご)のもとで、ヘロデ大王が強圧的統治を行った。ローマからは総督が派遣されたが、ポンシオ・ピラトのもとでイエス・キリストの処刑が行われたことは有名である。ユダヤ人のなかには「熱心党」とよばれる過激な国粋主義者がおり、これが中心となって第一次ユダヤ戦争を起こしたが、紀元後70年にローマに敗れ、エルサレムは征服されて神殿も焼かれた。さらに135年にも第二次ユダヤ戦争に敗れ、ユダヤの地はついに廃墟(はいきょ)と化し、その結果ユダヤ人は世界中に離散する身となり、これをディアスポラ(離散)とよんでいる。神殿を失ったのち、貴族、祭司は力を失い、ユダヤ人の指導者となったのは律法学者(ラビ)であり、彼らの研究成果として聖書解釈の体系である「タルムード」がバビロンとパレスチナで編集されたことは、ユダヤの伝統の集大成としてきわめて重要である。
[漆原隆一]
中世ヨーロッパ諸国のユダヤ人に対する態度は一定していないが、一般的にはユダヤ人はキリスト教世界の社会機構から締め出されていた。土地所有は認められず、ギルドからも排斥された。必然的に、キリスト教徒には禁じられている金融業、高利貸業などに進出せざるをえなかったこともあり、人々の憎悪の対象となった。12世紀の後半、異端問題が深刻化するに伴い、迫害はユダヤ人にも及ぶようになり、キリスト教徒がユダヤ人に雇われることや、同居することなどが厳禁された。13世紀初めにはユダヤ人に差別バッジをつけさせる制度が始まった。さらに富裕なユダヤ人は王にとっての財貨の源泉とみなされたため、追放と財産没収とが繰り返された。十字軍時代には、大衆のユダヤ人への偏見、迷信などが増幅され、ヨーロッパ各地で大量虐殺が行われた。ユダヤ人を厚い壁で隔離するゲットー(ユダヤ人居住地区)は16世紀後半以後本格化し、イタリアから始まってフランス、ドイツ、ポーランド、ボヘミアなどで行われた。
[漆原隆一]
やがて市民革命と自由主義の潮流に伴ってユダヤ人解放も実現していった。アメリカ独立革命、フランス革命、ドイツ統一などが顕著な例であり、立憲主義に基づいて平等な市民権を獲得していった。しかし史上最大の迫害は20世紀になってナチス・ドイツ政府によって行われた。1933年に政権を握ったヒトラーは反セム主義を掲げ、ユダヤ人の公職からの追放、すべての職業からの排斥などの政策を推進、第二次世界大戦が開始されると、東ヨーロッパの特別区にユダヤ人を強制的に送り込み、ついにはアウシュウィッツ、マイダネク、ベルツェクなどの強制収容所で射殺、注射、毒ガスなどによるユダヤ人根絶の挙に出、その結果四百数十万人が殺害されたとされる。一方、第一次世界大戦に際しユダヤ人が連合国側を支援したのに対して、イギリスは「バルフォア宣言」によってパレスチナにユダヤ人の国家を建設することを承認、シオニズム運動も進展した結果、第二次世界大戦後の1948年イスラエル国が建設されたが、アラブ人との間にいわゆる「パレスチナ問題」が生じ、深刻な国際問題になっている。
[漆原隆一]
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セム語族に属し,ユダヤ教を信じ,世界中に散在する民族。みずからはイスラエル人と称し,他民族からはヘブライ人と呼ばれ,バビロン捕囚以後ユダヤ人という呼称が広まった。祖先は前1500年頃メソポタミアからカナーン(パレスチナ)に移住してきた。エジプトへのさらなる移住と帰還(「出エジプト」)をへてカナーンに定住,前1000年頃民族王国を建設したが,ソロモン王の死(前922年頃)後王国は南北に分裂,それぞれアッシリアとバビロニアに滅ぼされた(前721年,前586年)。バビロン捕囚から帰還したユダヤ人は,以後主にユダヤ教によって宗教的に結ばれることになる。前63年ローマの支配下に入り,紀元後30年頃総督ピラトのもとでイエスの処刑が行われた。その後ローマの支配に対する2度のユダヤ戦争(66~70年,132~135年)に敗れ,首都イェルサレムも廃墟と化した。パレスチナはその後ビザンツ帝国,イスラーム教徒などに次々と支配され,ユダヤ人はその間世界各地に離散(「ディアスポラ」),西はイベリア半島,東は中国まで移住した。移住先のユダヤ人は多くの場合異教徒として差別的な扱いを受け,特に十字軍の時代のヨーロッパで激しい迫害を受けた。彼らは土地所有を認められなかったため,職業は金融,商業に偏り,それがまた攻撃の口実になった。啓蒙思想とともにユダヤ人解放思想が生まれ,フランス革命以後,19世紀のヨーロッパ各国でユダヤ人(ユダヤ教徒)にも公民権が与えられるようになったが,反面,民族的反ユダヤ主義(反セム主義)の運動も現れ,ロシアでは「ポグロム」と呼ばれる迫害が繰り返された。しかし史上最大のユダヤ人迫害は,反ユダヤを国是としたナチス・ドイツによって行われ,500~600万のユダヤ人が強制収容所などで殺された(「ホロコースト」)。この間アメリカに移住するユダヤ人も多く,またパレスチナにユダヤ人国家を建設する運動(シオニズム)も起こり,1948年イスラエル国が建国されたが,アラブ諸国やパレスチナ人との紛争が絶えず続いている。2000年現在,全世界で推定1400~1500万のユダヤ人のうちイスラエルに約500万,アメリカ合衆国に約600万が在住している。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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(高橋和夫 放送大学助教授 / 2007年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
…字義どおりには反セム人主義であるが,一般にはひろく反ユダヤ主義の意味で用いられ,またとくに19世紀末以降ドイツ,フランスなどユダヤ教徒解放が一応完了した諸国に起こり,中世以来の伝統的なユダヤ教徒差別とは性格を異にする近代反ユダヤ主義をさすことも多い。18世紀末までのヨーロッパでは,ユダヤ人とはもっぱらユダヤ教徒のことであり,ユダヤ教団への所属によって規定される身分であった。近代に入って社会の世俗化と身分制原理の崩壊がすすむにつれ,ユダヤ教徒への市民的権利の賦与,すなわちユダヤ教徒解放がおこなわれた。…
…正式名称=イスラエル国Medinat Yisrael∥State of Israel面積=2万0325km2―ヨルダン川西岸,ガザ,東エルサレム,ゴラン高原を除く人口(1996)=548万人―ヨルダン川西岸,ガザのイスラエル人および東エルサレム,ゴラン高原の人口を含む首都=エルサレムal‐Quds∥Jerusalem―ただし国際的承認はえられていない(日本との時差=-7時間)主要言語=ヘブライ語,アラビア語通貨=シュケルShekel西アジアの地中海東岸に位置するユダヤ人の建設した共和国。
【歴史】
19世紀の後半,主としてロシアおよび東ヨーロッパに居住していたユダヤ人の間から,前1000年ころから西暦1世紀にユダヤ教徒の王国があったパレスティナに移住し,ユダヤ人の独立国家を建設しようという運動(シオニズム運動)が興り,その後数十年間にわたって移住と建国のための運動が続けられた結果,1948年5月14日にイスラエル国の独立が宣言されるにいたったものである。…
…しかし強制収容所が政治支配の手段として重要な意味をもったのは,ファシズム国家とスターリン主義的社会主義体制のもとにおいてであり,戦争と革命・反革命が広く生じた20世紀の現代国家における統治の方法として注目すべき現象といえる。強制収容所は,国内における特定の社会層,たとえばナチス・ドイツではユダヤ人や少数民族,宗教者,コミュニストや左翼,またスターリン時代にはクラークやインテリ,旧メンシェビキ,トロツキストといった政治的反対者,さらに古参ボリシェビキや少数民族を政治的に隔離するだけでなく,強制的に労働力として利用する目的をもつものであった。これらの現象は制度ではなくテロルや暴力による統治が重要な意味をもつファシズム国家や革命国家において顕著であるが,民主主義国家においても,第2次世界大戦中のアメリカで日系人収容所の例があり(日系アメリカ人),また政治犯の強制収容の例もみられる。…
…質屋の息子だった西鶴の《日本永代蔵》《西鶴織留》《世間胸算用》には,勘定高い厳しさと相互依存の温かさの共存する質屋と質置主の人間的な関係が活写されている。質【斉藤 博】
[ヨーロッパの質屋]
西ヨーロッパにおける職業としての質屋の起源は中世にあり,徴利禁止法の適用を受けなかったユダヤ人を中心とする私的なもの,都市当局などの公的機関が救貧活動の一環として行ったもの,教会が主体となったものの三つの系譜が認められる。のちに質屋の看板として一般化する金色の三つ球は,イタリアのロンバルディア出身のユダヤ人の質屋が用いはじめたものであり,徴利行為に対する厳しい批判をうちだした1179年の第3ラテラノ公会議以後,ユダヤ人と質屋ないし高利貸のイメージとが重なりあっていったことを示している。…
… インド・ヨーロッパ語族に属する言語をもつ民族には,前記のロシア人,ウクライナ人,白ロシア人(ベラルーシ人)のほかに,バルト海沿岸にリトアニア人とラトビア人,ウクライナの南に,ルーマニア人と言語・文化の面で近いモルダビア(モルドバ)人がいる。また極東地方にはユダヤ人もいる。 なおユダヤ人はソ連で人口が減少している例外的な民族(1970年から27万人減)で,その原因は国外移住である。…
…そしてこの人種政策は戦時中ポーランドなどで過酷なまでに遂行されていった。さらにユダヤ人はヒトラーにとって健康な肉体をむしばむ病原体にほかならず,〈絶滅〉の対象でしかなかった。そのため,戦時中〈最終的解決〉の名のもとにユダヤ人は虐殺されていった。…
…すなわち,ベルガを祖とする南イタリアのベリズモとトリエステを中心とする心理主義の文学であり,両者はいわば辺境の文学である。 海港トリエステはユーゴスラビア,オーストリアとの国境に近く,政治的に東西両世界のはざまにあるため,ユダヤ人をはじめとして多種類の人種が生活し,文化的にはイタリア,スラブ,ドイツの3圏の交点に位置する。このためトリエステの文学は中欧の文学と結びつき,フロイトの精神分析を取り入れるなど,早くから心理主義的傾向をみせ,同時にイタリア文学を近代ヨーロッパの文学に結びつけた。…
… 民族国家形成以後は,これらの問題はいわゆるマイノリティ(少数民族)問題として論じられるようになった。現在マイノリティ問題として論じられる多くは,ユーゴスラビアのコソボのアルバニア人の場合のように,隣接国家の民族が自国内ではマイノリティとして存在する場合であるが,このほかに,バルカンに母国をもたないユダヤ人やジプシー(ロマ。現在ヨーロッパで最もロマ人口が多いのは旧ユーゴスラビア,その次がルーマニアだと推定されている)の問題がある。…
…イブリーを種族名とする見解も絶えないが,起源的にはパレスティナの貧窮した住民層を広く指していたとの想定が比較的妥当であろう。後代この語は《ヨナ書》におけるように,イスラエル人(びと)の意味で用いられるようになり(1:9),ユダヤ教時代にはユダヤ人の栄誉ある名称となり,彼らの古い言語をこの名で呼ぶようになった。新約聖書では,キリスト教に改宗したパレスティナのユダヤ人とのかかわりで用いられている。…
…このため政治的・宗教的信条の相違から迫害を受けたりする場合,他国に逃れてみずからを保護する必要が生じてくる。16世紀フランスで反新教徒による迫害から国外へ逃れたユグノー,17世紀イギリスからアメリカ大陸に移住したピルグリム・ファーザーズ,フランス革命期にみられた王侯貴族の亡命(亡命貴族émigré),ドイツの48年革命(三月革命)の際の自由主義者の亡命,1917年ロシア革命後,ソビエト体制に反対して国外に逃れたいわゆる白系ロシア人,ナチス・ドイツの迫害によって生じたユダヤ人や社会主義者,知識人の亡命など,戦争,革命,動乱,クーデタ,独裁政権などが発生する際に大量の亡命者を生みだしている。 亡命者(避難民)の問題を国際的に取り上げたのは国際連盟であった。…
※「ユダヤ人」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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