漆の樹液の優れた性質である塗装や接着性を生かした工芸技術で、実用、かつ装飾的に漆の施された器具、器物、道具などをいう。ヒマラヤから東アジア地域(照葉樹林帯)、すなわちミャンマー(ビルマ)、タイ、ベトナム、カンボジア、ラオス、台湾、朝鮮、中国、日本などの民族の生活によく溶け込んで、個性ある漆器がつくられている。とくに日本の漆器は近世、西欧に盛んに輸出され、ヨーロッパでは漆器を日本国名のjapanで表すことから、漆器が日本を代表する産物としてみられたことを物語っている。
[郷家忠臣]
採取されたままの漆液は灰白色で、生漆(きうるし)という。これは漆下地(うるししたじ)、麦漆(むぎうるし)(小麦粉を混入したもの)、拭漆(ふきうるし)などに用いる。しかし、それ自体は乾燥が早すぎて光沢も悪いので、均一な質にするために「なやし」つまりよくかき混ぜる作業と、水分を蒸発させる「くろめ」という2工程によって精製漆すなわち透漆(すきうるし)をつくる。これに油や各種の顔料や薬品を混ぜてそれぞれの用途に応じた各様の色漆(彩漆)(いろうるし)をつくる。黒色のものは鉄分や油煙などを混ぜてつくるが、黒漆には無油の蝋色(ろいろ)漆と有油の塗立(ぬりたて)漆とがある。白色には塩化蒼鉛(そうえん)、リトポン、塩化第一水銀などを用いるが、この白漆は明治期になって発明されている。赤色の色漆は朱やべんがら(弁柄)、青緑色は紺青、クロム緑、フタロシアニンなど、黄色は石黄(せきおう)、黄鉛、雌黄(しおう)などを用いてつくっている。
漆器をつくる場合、漆液という状態なので、まず器形を他の材質によって成形する。この成形の段階のものを素地(きじ)といい、さらにこれを塗り、そして加飾をする3工程に分けられる。素地には木材、竹、紙、皮革、麻布、金属(金、銀、銅など)、陶磁、練り物、合成樹脂など各種にわたり、素材を各種の成形技術によってつくる。なかでも木材は多く利用され、ヒノキ、ケヤキ、サクラ、スギ、カエデ、キリなどを板物(いたもの)(指物(さしもの))、刳物(くりもの)、挽物(ひきもの)、曲物(まげもの)などの方法でつくる。また竹の表皮を除いて、適当な幅にして編んだものを籃胎(らんたい)とよび、タイやミャンマー(ビルマ)の蒟醤(きんま)の素地がこれであり、高松漆器にも用いられている。紙による素地は一閑張(いっかんばり)、紙胎といい、木または石膏(せっこう)、陶土で原型をつくり、これに水張りで貼(は)り付け、この上に糊漆(のりうるし)で数枚を貼り重ねて乾かし、適当の厚さにして原型から抜いたものである。また木の素地の上に貼ったり、「こより」によった紐(ひも)を編組みした素地につくったものもある。皮革はなま乾きの状態のとき、木型にあてて成形し、漆を塗ったもので、漆皮(しっぴ)とよばれ、奈良時代の文献に記載され、遺品もある。麻布は原型の上に漆で数枚重ねて成形するが、中国では漢(かん)時代以前から製作が行われてきたと思われ、とくに唐時代に流行し、日本では仏像製作や古墳期の漆棺によくみられるが、中国では夾紵(きょうちょ)とよび、日本では(そく)、即(そく)とよび、近代では乾漆(かんしつ)という。原型を取り除いた脱活(だっかつ)乾漆と、内部を木製の枠の骨組みの構造体で支えた木骨夾紵、また木彫の上に施した木心乾漆とがあり、原型も石膏、こんにゃく、ゴムを利用する方法が近代になって行われた。陶磁は縄文晩期の是川(これかわ)遺跡の土器に施工したものがみられ、高台寺の薬味壺(つぼ)や江戸末期の豊助楽焼(とよすけらくやき)などがある。しかし、ショックに弱く、器物として重いのであまり残っていない。金属を溶解して成形する鋳造法と、板金を金槌(かなづち)で加工する鍛金技術と、金型と機械によってプレスする量産技術には、材料として鉄、銅、青銅、真鍮(しんちゅう)、アルミニウム、アルミ合金、亜鉛合金、錫(すず)などの卑金属や金、銀の貴金属が使用されている。とくに鉄に漆を塗る防錆(ぼうせい)法が古くから行われ、焼塗法という直火(じかび)で漆を焼き付けて塗装した。現代では合成高分子工業の急速な発展から各種のプラスチック製品が開発され、量産化されている。
漆を塗る法は古く髹漆(きゅうしつ)法といい、工程は下地(したじ)と上塗りに分けられる。下地は素地の成形、堅牢(けんろう)化、上塗りをしやすくするために行われるが、木材素地の下地でもっともよいのは漆下地である。本堅地(ほんかたじ)塗りと本地(ほんじ)塗りとがあって三十数回に及ぶ工程を経て完成させる。より簡易な方法に蒔地(まきじ)があり、漆を塗って地の粉(こ)、砥(と)の粉を蒔(ま)き、素地に吸着させて下地とする方法である。また乾漆も下地としてみられる。漆を使用する以外の下地を総称して、代用下地といい、糊地(のじ)、万造(まんぞう)下地、渋(しぶ)下地、膠(にかわ)下地、化学製品によるカゼイン下地、カシュー下地、ベークライトの下地などがある。塗りには花塗りと蝋色塗りとがあり、前者を塗立て、溜(ため)塗りともいい、油分を含んでいる上塗り漆を塗るので、そのままでも光沢を発する。後者は油分のない上塗り漆を塗って乾かし、木炭で研いで摺(すり)漆をし、さらに種油と角粉(つのこ)をつけて磨く。素地を美しくみせるために、淡い色で染め透明な漆を塗る春慶塗、また単調な色調を破り、大いに変化をつける変(かわり)塗りがある。これは別名鞘(さや)塗りとよび、江戸時代の刀鞘の塗装で、今日まで津軽塗、若狭(わかさ)塗などにその技が伝えられている。
[郷家忠臣]
製作環境としての工房は、下地部屋、漆部屋ともに直射日光を避けて常温状態とするが、前者は空気の流通があり、後者は塵埃(じんあい)が絶対に入らないよう空気の流通を止める。塗った漆液を乾固するために、漆風呂(ぶろ)とよぶ一種の戸棚を設け、内部を水で湿し、密閉して外部へ蒸発させないようにする。また必要に応じて水で湿らせない風呂を用いることもあるが、これを空(から)風呂という。
定盤(じょうばん)は引出し付きの箱形で、上面を水平な面にし、ここで漆を調合するので、下地用と上塗り用を別に設ける。漆を調合する「へら」は、主として檜の柾目(まさめ)材を削ってつくり、別に練りべら用として檀(まゆみ)、槙(まき)などの材でつくる。漆液を浸して塗る刷毛(はけ)は、やはり2種別があって、上塗り刷毛のほうが上質である。ともに人の毛髪を用い、取っ手に予備の部分を入れ、切り出して加減しながら使用する。塗りの研ぎ用に砥石と研炭(とぎずみ)とを必要とする。砥石は仕上げ砥石、中砥石(青砥石)、大村砥石、金剛砥石(荒砥石)など粗密3工程用の砥石を必要とするほか、へら削りに用いる塗師(ぬし)刀の刃を研ぐ砥石や、下地研ぎに用いるための地研ぎ砥石、研炭を研ぐ砥石も必要である。研炭は漆塗りの面を平滑に研ぐために用い、硬くて粗質の朴炭(ほおずみ)、赤身のエノキの駿河(するが)炭、やや硬く、質が密な椿(つばき)炭、軟らかく質にむらのない蝋色炭を用いるが、仕上げ研ぎ用として、チシャノキかサルスベリの炭を用い、これらを用途に応じて適当な形状にする。そのほかに、下地用に混入する地の粉は素焼の粉末、より細かい粉として用いる砥の粉は特殊な土を焼いてつくる。下地漆に混入するのは木屎(こくそ)で、綿状の繊維屑(くず)と木粉の鋸(のこ)屑からなる。上塗りのつや出しに角粉を用いるが、これはシカの角を白く焼いた粉である。筆や刷毛の洗いや研磨に種油(たねあぶら)が用いられ、漆の溶剤として、樟脳(しょうのう)油、片脳油、テレビン油、工業用アルコール、石油などが用いられる。前述した顔料や漆液を濾過(ろか)して余分なものを除去するため、濾(こ)し紙が必要で、吉野紙と山形産あざぶ紙がある。
[郷家忠臣]
漆器に技術によって装飾を施すことで、基本的には漆を使用しながら、他の物質を用いる。他の物質を混入して塗るか、描くか、または接着性を利用して、漆で描いたのち、他の物質を蒔いたり、貼ったりする。また漆地面を彫り、他の物質を嵌(は)めるという技法がなされ、絵画的表現法、彫塑的表現法、嵌装貼付(がんそうはりつけ)法に三分化される。塗ること、描くことは漆器の加飾のもっとも基本となることだが、塗りでは前述の色漆で塗装する朱漆塗り、根来(ねごろ)塗のほか、素地に弁柄や黄蘗(きはだ)を塗り染めてから透漆を塗る春慶塗、蘇芳(すおう)(赤い染料)で素地を染める赤漆塗りがあげられる。描く加飾は色漆で模様を描く漆絵で、古くは法隆寺玉虫厨子(ずし)にみられるほか、生活用具の盆や椀(わん)にも中世以前から行われた。また金銀泥絵は、金や銀の粉末をにかわで溶いた絵の具で漆面に描いた。さらに、油色(ゆしょく)や密陀絵(みつだえ)があり、顔料をにかわで溶いて図様を描くが、その上に薄く荏油(えのあぶら)を塗って被膜を覆うのが油色、油の中に乾燥剤の密陀僧(一酸化鉛)を入れるのが密陀絵である。この技法は漆絵では発色しない白色を出せるのが特色で、奈良時代に盛んにつくられたが、以後、桃山時代までとぎれた。蒔く技法は、加飾技法において主流的位置を占める。細長い穂先の蒔絵筆に漆液を含ませて図様を描き、乾かないうちに接着性を利用して金、銀、錫、銅などの金属粉や、色漆を乾燥して粉末化したものを蒔いたのが蒔絵で、いろいろと複合化して多様な技術が展開され、かつ精巧なものへと進んだ。基本的には、平蒔絵、研出(とぎだし)蒔絵、高蒔絵があげられる。彫る加飾技法は、線条による表現と浮彫りによる表現の2法に分けられる。前者には沈金(ちんきん)、蒟醤(きんま)があげられる。刀(とう)によって形状を輪郭線で表し、その線痕(せんこん)内部に漆液を摺(す)り込み、そのうえに金箔(きんぱく)か銀箔を置き、綿で押し込んで線中に付着させたのが沈金であり、色漆を線中に充填(じゅうてん)したのが蒟醤である。これに対し、浮彫り状の表現となるものに、色漆を積み重ねた重層面に図様を彫刻した彫漆(ちょうしつ)があり、そのなかで朱漆を塗り重ねたのを堆朱(ついしゅ)、黒漆の場合を堆黒(ついこく)・堆烏(ついう)、黄漆は堆黄(ついこう)とよぶ。また、各色の色漆を交互に塗り重ね、模様をそれぞれの色彩にあたるように彫り分けた紅花緑葉(こうかろくよう)がある。素地に図様を彫刻して色漆を塗ったものに鎌倉彫、彫り根来(ねごろ)、村上木彫堆朱、烏城(うじょう)彫、香川漆器、高岡漆器などがあげられる。貼る技法には、金、銀、鉛、錫などの金属薄板を文様に切り、貼って図様化した平文(ひょうもん)(平脱(へいだつ))があり、近世は金貝(かながい)とよぶ。夜久(やく)貝、蝶(ちょう)貝、鮑(あわび)貝の真珠質の部分を文様に切り、貼ったり嵌めたりする技法に螺鈿(らでん)がある。近世に象牙(ぞうげ)や貴石、珍石を嵌入(かんにゅう)した芝山細工がある。
[郷家忠臣]
漆器に長い歴史のあったことは、中国において、約7000年近くさかのぼる新石器時代の浙江(せっこう/チョーチヤン)省余姚(よよう)県河姆渡(かぼと)遺跡からの出土文物のなかに紅漆を塗った素地の椀があったことによって知られる。日本列島においても、縄文時代前期の福井県若狭(わかさ)町鳥浜貝塚出土の赤色漆塗りの櫛(くし)と盆状容器などが1975年(昭和50)に発見され、その歴史の非常に古いことが立証された。中国漢(かん)代に優れた漆器が製作されたことは、湖南(こなん/フーナン)省長沙(ちょうさ/チャンシャー)の馬王堆(まおうたい)漢墓の副葬品から知られ、漆器は180個の多量のもので、食器や調度類、また棺に及んでいる。保存もよく、また新品で埋葬したことから、その財産が豊かであったと推測される。当時の漆器の価格を記している『塩鉄論』に、1口の漆杯が10口の銅杯と同価値があったとあることからもわかる。漢王朝の植民地である朝鮮の楽浪(らくろう)や外モンゴルのノイン・ウラで出土した漆器の銘文から官営の製作所が四川(しせん)地方を中心にあったことがわかり、年月、官職や職種が記され、工人が専門的官工として確立していたと思われる。
日本における漆塗りの祖は、『本朝事始』に床石足尼(とこばえのすくね)が漆部(ぬりべ)官になったとある。また『先代旧事本紀(くじほんぎ)』に三見宿禰命(みつみのすくねのみこと)が漆部連(ぬりべのむらじ)の姓(かばね)を与えられ、漆工の祖と説明しているが、これらは伝説的である。『日本書紀』には用明(ようめい)天皇2年(587)に漆部造兄(ぬりべのみやつこあに)が物部守屋(もののべのもりや)の使で蘇我馬子(そがのうまこ)のもとへ行っていることから、漆器の製作者集団である漆部とその管理者がいたことが知られる。大宝律令(たいほうりつりょう)(701)に、大蔵省管下に漆部司(つかさ)、漆部が設けられたとあり、また、「正倉院文書」にそれぞれの地方にも漆部があったと記されている。6世紀の仏教文化の伝来とともに朝鮮・中国から渡来した工人によって漆工技術はいっそう高度化した。この期を代表するのは、法隆寺の玉虫厨子で、台座四面に描かれた漆絵や、ところどころを装飾する文様にみることができる。8世紀の奈良時代天平(てんぴょう)期には盛唐期文化が大いに影響し、そのことがとくに漆器の遺品に現れている。これら遺品は法隆寺や正倉院に多く現存し、漆器の加飾技法や表現意匠に特色がみいだされる。素地は木材のほか、皮革や乾漆がみられ、唐時代に流行した素地が伝来したことを表している。加飾技法は平文(中国名は平脱)、螺鈿、金銀絵、末金鏤(まっきんる)などの多種多様にわたっている。とくに末金鏤は蒔絵の原点とでもいうべきものである。法隆寺や正倉院に残る漆器は、主として仏教関係の宗教用具であるが、琵琶(びわ)、琴、阮咸(げんかん)などの楽器、双六(すごろく)盤、棊盤(ごばん)などの遊戯具、大刀(たち)、刀子(とうす)などの刀装具、調度品である鏡の背面や鏡箱、そして箱類や櫃(ひつ)など、多様な品に加飾を施している。平安時代には、蒔絵が漆器加飾で目覚ましい発展をみせ、『竹取物語』(9世紀)に「まきえ」ということばで室内装飾を施工したとある。蒔絵は朝廷の高官の儀式用としてもなくてはならないものになる。たとえば『延喜式(えんぎしき)』に蒔絵平塵剣(へいじんけん)を着用のこととある。明確な文献の裏づけのある最古の作品は、仁和寺(にんなじ)の宝相華迦陵頻伽蒔絵冊子箱(ほっそうげかりょうびんがまきえそくさっしばこ)(国宝)で、『醍醐(だいご)天皇御記』により919年(延喜19)に製作されたことが知られる。その図様は唐風であるが、箱の形態は曲線的構造であり、唐風に比し柔らかな感じを示し、国風化が進んだことが認められる。
この国風化がいっそうよく現れるのは平安後期においてであり、日本の景観や器物を題材に取り上げるようになり、また技法においても蒔絵と螺鈿の併用が流行した。その代表的作品は金剛峯寺(こんごうぶじ)の沢千鳥螺鈿蒔絵小唐櫃(こからびつ)(国宝)、東京国立博物館の片輪車螺鈿蒔絵手箱(国宝)があげられる。仏教関係においても、浄土教流行により阿弥陀堂(あみだどう)が建立され、堂内装飾に漆塗装が施され、現存する宇治平等院鳳凰堂(ほうおうどう)や中尊寺金色堂のような壮麗さによって漆技が想像され、その堂内具の豪華さも知られる。一般的に漆器が価値あるものであったことは、藤原氏の氏(うじ)長者の象徴として、いわば天皇家の神器にあたる伝家の重宝が朱器台盤であったことからもわかる。朱器台盤の朱器とは、大饗(たいきょう)に使用する朱塗りの酒器、食器で、台盤とは朱器を置く脚付きの台である。当時の朱塗り漆器の有名な塗り物は、紀州根来寺(ねごろじ)で仏具をはじめ日常生活雑器まで製作した根来塗であるが、当時の根来塗の確かな作品は知られていない。なお後世その模倣品がよくつくられるようになった。高度に進んだ蒔絵・螺鈿の製品は宋(そう)へ渡り、朝鮮の高麗(こうらい)朝の螺鈿器とともに歓迎されたことが『宋史』に記録されている。平安後期から鎌倉時代には金一色に蒔かれた沃懸地(いかけじ)が好まれ、とくに螺鈿で文様を配置した作品は、春日(かすが)大社の金地螺鈿毛抜形太刀(けぬきがたたち)(国宝)や鶴岡八幡宮(つるがおかはちまんぐう)の籬菊螺鈿蒔絵硯箱(まがきにきくらでんまきえすずりばこ)、太刀(銘正恒)、沃懸地杏葉螺鈿平胡籙(ぎょうようらでんひらやなぐい)(いずれも国宝)、東京国立博物館の沃懸地獅子螺鈿鞍(ししらでんくら)(重文)、サントリー美術館の浮線綾(ふせんりょう)螺鈿蒔絵手箱(国宝)などがあげられる。日光輪王寺の蒔絵手筥(てばこ)(重文)は1228年(安貞2)に寄進されたと記されているが、その図は和歌「住よしの松のひまより見る時は月落かかる淡路島山」の意を蒔絵で表現した、いわゆる歌絵である。そのほか漢詩から取材し、図中に文字を挿入している手箱が多くみられる。この伝統は後世の室町・東山時代に製作された硯箱に受け継がれて、名高い硯箱が数々現存しているが、江戸初頭の本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)も優れた作品を製作している。
鎌倉時代になると、蒔絵の技法上では高く浮彫り風に肉づけした高蒔絵が主流となり、表現上では絵画的に表すようになった。一方、中国漆器の剔紅(てきこう)(日本名は堆朱)をまねて木彫で図様を表し、その表面に朱漆を塗る鎌倉彫が現れ唐物(からもの)趣味の反映で、禅宗の仏具である香合(こうごう)などに名品が残る。また沈金も中国の鎗金(そうきん)の模倣で、この技術が日本の作品に現れたのは室町時代に入ってからである。室町時代中期、8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)が東山山荘(慈照寺銀閣)に応仁(おうにん)の乱を逃避して、独特の文化(東山文化)を形成し、蒔絵史上とくに重要な時期である。義政の近習(きんじゅう)(同朋衆(どうぼうしゅう))として仕えた幸阿弥道長(こうあみみちなが)と五十嵐信斎(いがらししんさい)が出現し、いわゆる大名物として、支配階級の調度品を製作する家系が出発したからである。とくに幸阿弥家は、足利幕府以後、織田信長、豊臣(とよとみ)秀吉、そして徳川幕府の御抱え蒔絵師として、天皇即位の蒔絵調度類、将軍・大名家の婚礼蒔絵調度類の製作を担当した。桃山時代には、華やかで明快な意匠が工芸品の装飾に現れたが、漆器の加飾には、豊臣秀吉夫妻が生前に使用した蒔絵調度類が菩提寺(ぼだいじ)の高台寺に伝わり、その意匠性と技法を代表する。一方、西欧人との交流により南蛮人、南蛮の道具類などを題材にしたり、また、聖職者が用いる龕(がん)、聖餅箱(せいべいばこ)などや、一般人用の櫃などの漆器も製作された。これらを南蛮漆芸とよんでいるが、非常に多くの製品が西欧へ輸出された。また、海外の影響は朝鮮・李朝(りちょう)螺鈿から受け、南蛮漆芸や本阿弥光悦の指導のもとにつくられた漆器にそれがみられる。光悦は平安王朝文化をもとにした題材で、独創的な発想から生じた大胆な意匠に特色があり、代表作として東京国立博物館の舟橋蒔絵硯箱(国宝)があげられる。江戸時代には武家と町人との文化が対照的に出現したが、徳川将軍家御抱え蒔絵師は幸阿弥家を中核に古満(こま)家、梶川(かじかわ)家が江戸を舞台に活躍し、寛永(かんえい)年間(1624~1644)の日光造営に従事した。とくに、5代将軍綱吉の時代を蒔絵史上、常憲院(じょうけんいん)時代といって、大名物の最盛期とみるが、代表的蒔絵師に幸阿弥長救(ながやす)があげられる。このほか、山田常嘉(じょうか)も徳川家の印籠(いんろう)蒔絵師として腕を振るった。これに対して、京都を舞台に、山本春正(しゅんしょう)、千家十職の一人の中村宗哲の家系が現代まで続いている。元禄(げんろく)(1688~1704)ころには田付(たつけ)長衛、塩見政誠(まさなり)の名工が現れ、雅(みや)びた味のある京漆器が製作された。江戸で多彩な芸術活動をした尾形光琳(こうりん)も漆器の名品を残し、東京国立博物館の八橋(やつはし)蒔絵螺鈿硯箱(国宝)の意匠は様式美を極め、芸術性の高い作品に仕上げている。また、陶片、堆朱、鉛、貝、牙角(がかく)などを嵌装(がんそう)し、蒔絵とともに飾った破笠(はりつ)細工の小川破笠も活躍した。江戸後期の明和(めいわ)・安永(あんえい)(1764~1781)ころに江戸で古満巨柳(こりゅう)、飯塚桃葉(とうよう)、京都で西村宗忠(そうちゅう)(象彦)、化政(かせい)期(1804~1830)には江戸で古満寛哉(かんさい)、原羊遊斎(はらようゆうさい)、京都で佐野長寛が豪商を対象として、町人の趣好にあった装身具の印籠や根付(ねつけ)を大いに製作し、とくに江戸にあった蒔絵師は「いき」を作意としていた。地方の漆器製作は、諸藩が産業奨励・保護政策として振興を図り、日常生活の用具の産業として発達し、地方色豊かな漆器が伝統工芸として現代に至っている。幕末に高松藩では玉楮象谷(たまかじぞうこく)を重用し、その多様な漆技による漆器を製作せしめ、今日の香川漆器に至っている。18世紀初頭、津軽藩主が青海(せいかい)源兵衛に命じて会得させた漆塗りが津軽塗で、今日では伝統的工芸品産業振興法の指定を受け、変塗りの多様な塗装で座卓から膳(ぜん)、椀などの生活用具を製作している。こういった例は、会津塗、村上木彫堆朱、若狭(わかさ)塗、輪島(わじま)塗、川連(かわづら)漆器、城端(じょうはな)塗、飛騨(ひだ)春慶塗、能代(のしろ)春慶塗などにみられるところである。また、独特な漆器としてあげられる琉球(りゅうきゅう)漆器の起源は明確でないが、室町時代にさかのぼり、とくに堆錦(ついきん)の技法が江戸前期に発明され、独自の漆器として発展し、現代においても地場産業として特色ある伝統工芸となっている。
しかし、近年、手作りのよさ、自然材の味が見直されて漆器は再認識されてきた。戦後、政府の漆器に対する保護政策には、文化財保護法のもと、伝統技術の伝承を図る面と、伝統的工芸品産業振興法において地場産業としての漆器生産が図られた。作家活動としては、明治期に柴田是真(しばたぜしん)、白山松哉(しらやましょうさい)など、大正期に赤塚自得、六角(ろっかく)紫水などが活躍した。1927年(昭和2)の第8回帝展から第四部に美術工芸が設置され、今日の日展に継承し、新しい美を創造する作品を製作態度とした。これに対して、伝統技術を尊重する日本工芸会が活躍している。昭和期を代表する作家に、前者では山崎覚太郎、後者では松田権六(ごんろく)があげられる。
[郷家忠臣]
『松田権六著『うるしの話』(岩波新書)』▽『谷川徹三・松田権六他著『日本の工芸2 漆』(1965・淡交新社)』
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…器物に漆を塗り,その上に蒔絵や漆絵などの加飾をほどこした工芸。漆器は日本,中国,朝鮮,台湾,タイなどで産出し,その国の風土に適した技法が発達した。とくに日本の漆工芸は中国の強い影響を受けながら独自の発達をし,国際的にも認められ,西洋ではジャパニングの名でも呼ばれている。…
…漆器の加飾技法の一つ。器形を構成する素地(きじ)(胎)は,一般に木材を用いる場合が多いが,金属胎や磁胎,乾漆胎もある。…
※「漆器」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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