イエスキリスト

精選版 日本国語大辞典 「イエスキリスト」の意味・読み・例文・類語

イエス‐キリスト

(Iēsūs Khristos 「イエス」は神の救いの意のヘブライ語「イェホシューア」または「ヨシュア」のギリシア語音訳「イエスース」にあたり、「キリスト」はヘブライ語「メシア(救世主)」のギリシア語音訳「クリストス」から) キリスト教の創始者。その生誕年が西暦紀元とされるが、実際には差があると考えられている。「新約聖書」の四福音書によれば、ナザレ村の大工ヨセフの許嫁、処女マリアが聖霊によって身ごもり、ベツレヘムの廐の中で生まれた。少年時代をナザレで過ごし、三〇歳頃洗礼者ヨハネから洗礼を受け、荒野で四〇日間サタンと戦ってこれに打ち勝つ。のち、ガリラヤの野で多くの奇跡を行ない、神の国の近いことを説き、悔い改めて福音を信ぜよとすすめ、ユダヤ教の学者やパリサイ人(びと)を激しく非難する。のちエルサレムに入城した時、一二人の使徒のひとりイスカリオテのユダに裏切られ、ゴルゴダの丘で十字架にかけられた。しかし、預言通り死後三日目に復活し、四〇日を経て弟子たちの面前で昇天した。耶蘇(やそ)。イエズス。エス。

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デジタル大辞泉 「イエスキリスト」の意味・読み・例文・類語

イエス‐キリスト(Jesus Christ)

[前4ころ~30ころ]キリスト教の始祖。パレスチナナザレの大工ヨセフと妻マリアの子として生まれた。30歳ごろバプテスマのヨハネから洗礼を受け、ガリラヤ神の国の近いことを訴え、宣教を始めた。ペテロなど12人の弟子と活動を続けたが、ユダヤ人に捕らえられローマ総督により十字架刑に処せられた。その死後3日目に復活したと確信した弟子たちはイエスをメシア(救世主)と信じ、ここにキリスト教が始まった。イエズス。キリスト。ジーザスクライスト
[補説]「イエス」は、神は救いである、の意のヘブライ語のギリシャ語形「イエスース」から。「キリスト」は、ヘブライ語で油を注がれた者の意の「メシア」にあたるギリシャ語「クリストス」からで、元来はイスラエルの王をいう称号であるが、当時は待望する救世主をも意味していた。

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改訂新版 世界大百科事典 「イエスキリスト」の意味・わかりやすい解説

イエス・キリスト
Jesus Christ

一般にキリストはイエスの別名のように考えられている。実際,新約聖書の中でもパウロの手紙などではキリストとイエスとが区別されていない場合もあるし,古代ローマの歴史家たち(タキトゥススエトニウスなど)は,多くの場合キリストを固有名詞と思っていた。しかし,〈キリスト〉は元来普通名詞で,〈油を注がれた者〉を意味していた。具体的に言えば,それは,旧約聖書の時代,イスラエルの預言者たちによって頭に〈油を注がれて王位についた人物〉,すなわち〈王〉を意味するものであった。前1000年ころ,ダビデは油を注がれて,イスラエルの王位についている。

 ところで,イエス時代のユダヤ教徒は,この世の終末のときにダビデ王の子孫からメシアが現れて,イスラエルを中心に〈神の国〉をもたらすと信じていた。このヘブライ語の〈メシア〉,正確には〈マーシアハ〉がギリシア語で〈キリスト〉(正確には〈クリストスChristos〉)と呼ばれ,日本では一般的に〈救世主〉と訳されているものである。

 これに対して〈イエス〉(正確には〈イェースースIēsous〉)は,ヘブライ語の〈イェーシュア〉のギリシア語読みである。そしてこの〈イェーシュア〉は,例えば旧約聖書《ヨシュア記》の主人公〈ヨシュア〉(正確には〈イェホーシューア〉)の短縮形であり,これは〈ヤハウェ(神)は救い〉を意味して,ユダヤ人の間で広く採用されていたごく普通の人名である。もっとも,2世紀以後のユダヤ教のラビ文献(いわゆる〈タルムード〉)でナザレ出身のイエスは〈イェーシュ〉と呼ばれている。この呼称は,ギリシア語の〈イェースース〉のアラム語(イエス時代の日常語)読みであると想定する学者たちが多い。しかし他方,考古学的知見から,むしろこれがイエスの名のガリラヤ地方(ナザレはこの地方の町)の発音であると主張する学者たちもいる。

 このイエスの呼びかけに応じ,彼に従った人々が,とくにイエスの死後,彼を〈キリスト〉と信じた。これらの人々によって,いわゆるキリスト教が成立する。だから,キリスト教の側から見れば,キリストは当然イエスのことである。しかし歴史的には,キリストとイエスとは区別されなければならない。現に,ユダヤ教徒はイエスをキリストと認めてはおらず,今でもこの世の終りにメシア,つまりキリストが来臨すると信じている。そのうえ,新約聖書の福音書においてさえ,イエスは一度も自分をキリストであると主張してはいない。とすれば,われわれは歴史上のイエスとキリスト教徒の信仰の対象としてのキリストとを一応区別したうえで,イエスとキリストとの関係を問うていかなければならないことになる。

イエスに関する資料の中でその歴史性を比較的に信頼できるのは,新約聖書の冒頭に収められているマルコ,マタイ,ルカ,ヨハネの四福音書と,最近発見された《トマス福音書》である。しかし,これらの福音書もイエスをキリストと信じるキリスト教徒によって著作されたものであるから,これらの中に書かれている記事をすべて史実と判断するわけにいかない。しかしわれわれはこれらを,とくに最初の三つの福音書(いわゆる共観福音書)を文献批判的に比較検討することによって,イエスの生涯については,少なくとも次の三つの段階があったことを推定することはできる。(1)バプテスマヨハネの弟子。(2)ガリラヤにおける宣教。(3)エルサレムにおける処刑。

 イエスはおそらく,ヘロデ大王(前4没)の晩年にガリラヤのナザレで生まれ,後28年ころにヨルダン川でヨハネから洗礼を受け,彼によって創始された洗礼運動に入った。ヨハネはヨルダン河畔の荒野で〈神の国〉の接近を宣(の)べ伝え,人々に悔い改めを迫って,罪のゆるしに至る洗礼を授けていた。われわれは〈悔い改めよ〉と言われると,何か道徳的な意味で改心を迫られているように感ずる。しかし,ヨハネが求めた悔い改めは,むしろ人間の生活上の価値基準を180度転換すること,すなわち文字通りの〈回心〉にあった。当時ユダヤの支配者たち,とくに政治的・宗教的エリートたち(サドカイ派,とりわけパリサイ派の人々)は,彼らの生活の価値基準を,彼らが神から与えられたと信じていた律法に置いていた。彼らによれば,律法を守って倫理的に正しい生活をした人々がその功績によって終末のときに〈神の国〉に入れられ,律法を守らない人々は〈神の国〉から閉め出されると確信していたのである。しかしヨハネは,過去における律法の業を誇り,それを基準にして,律法を守らない人々,あるいはむしろ,貧しさのゆえにそれを守ろうとしても守りえない人々を差別する人間の心のありようそのものを〈罪〉と見た。人間は過去(自分の属する民族や社会層や学歴や宗教的敬虔や性別)にではなく,むしろいっさい白紙の将来に価値の基準を転換すべきである。こうして人間が将来から迫り来る〈神の支配領域〉としての〈神の国〉にすべての価値の基準を置けば,律法を守りうる者も守りえない者も同じ地平において神の前に立たざるをえない。ここではむしろ,過去における律法の業を誇る者が神による審判の対象となり,律法の業を誇ろうにも誇り得ない者が神による救済の対象となる。要は,このような意味において悔い改め,その悔い改めにふさわしい実を結ぶこと,すなわち倫理的生活を実践することが,ヨハネの求めるところであった。このようなヨハネの呼びかけに応じて彼のもとに参集した人々の中にガリラヤのイエスもいたのである。

 イエスはまもなくヨハネから独立し,ガリラヤ湖畔を中心に一人宣教活動を開始する。その際イエスはヨハネの立場を批判的に継承したと見てよいであろう。イエスの思想と行動の特色をヨハネの場合と比較して挙げてみると,次の3点になる。第1に,ヨハネは悔い改めにふさわしい生活形態として,世俗から離れた一つの禁欲生活共同体を形成した(これは,当時のユダヤ教非主流派の一つエッセネ派が帰属した〈クムラン教団〉と類似している。ヨハネはこの教団の出自であったかもしれない)。しかし,イエスはむしろ世俗世界に入り込んできわめて自由にふるまい,洗礼も授けず,断食も勧めていない。イエスに敵対したユダヤの指導者たちは,彼について〈大飯くらいで大酒飲み,取税人や罪人の仲間だ〉と非難しているほどである(マタイ11:19,ルカ7:34)。第2に,ヨハネは〈神の国〉の接近に基づいて人々に悔い改めを迫ったが,イエスは〈神の国〉がすでにこの世の中に実現されつつあると告知した(マルコ1:14,ルカ17:21)。イエスにとって重要なのは,人間が自分の民族的・社会的・倫理的有能さに価値の基準を置き,自己中心的に他人の価値を判断しようとする態度を放棄し,神信仰によってむしろ自己を相対化して,みずからあえて民族的・社会的・倫理的に〈弱い者〉の位置に立つことであった。人がもしこのような意味において〈弱者〉の位置に立つことを決意するならば,そこに〈神の国〉は実現されつつある,とイエスは見たのである(マタイ11:2~19,ルカ7:18~35)。〈貧しい者は幸いだ〉(ルカ6:20,マタイ5:3),〈汝の敵を愛せよ〉(マタイ5:44),〈まことに汝らに告ぐ,取税人や遊女は汝らよりも先に神の国に入る〉(マタイ21:31)などの有名な言葉は,実際に〈弱者〉の位置に立ちつくしたイエスによって語られたことを,われわれは忘れてはならない。第3に,ヨハネとイエスとの相違点は,イエスについて多くの奇跡物語が言い伝えられていることである。イエスは実際に病気をいやす能力を持っていたのかもしれない。そしてそれが,当時の〈奇跡物語〉という文学形式の中で高められ,この物語は最終的に,彼の超人的(〈キリスト〉〈神の子〉としての)力を誇示するために用いられたことは事実である。しかしわれわれにとって重要なのは,イエスが,当時政治的・宗教的指導者たちにより〈地の民〉あるいは〈罪人〉として差別され,交わることを法によって禁じられていた身体障害者や病人たち,とくに精神病者やハンセン病患者と,法を犯してまでも立ち交わり,みずからがいわば彼らの一人となることによって障害や病気をいやそうとした事実である(マルコ3:28その他)。当時,これらの人々にとってイエスはまさに〈奇跡の人〉であっただろう。

 やがてイエスはエルサレムに上り,これまでガリラヤで示した彼のふるまいの象徴的行動の一つとして,激しくユダヤ教の神殿に批判を加えた(マルコ11:15~18)。当時エルサレムの神殿は,ローマの属州でありながらある程度の自治を許されていたユダヤ国家の政治的・経済的・宗教的拠点であった。ユダヤの支配者たちは,おそらくこのようなイエスの行動を直接のきっかけとして,イエスをローマ当局に王位(つまりキリスト)僭称者として訴え出,イエスはローマのユダヤ総督ピラトにより政治的反逆者と認定されて,十字架刑に処せられた。当時イエスは30歳を超えたばかり,彼がヨハネから独立して公に行動した期間は2年足らずであった。

イエスの死後,かつてイエスに従いながらイエスの逮捕とともに彼を見捨てた弟子たちが,復活したイエスに出会うといういわゆる顕現体験により,イエスは今も神によって生かされていると信じ,このイエスを〈キリスト〉と同一化して,このイエス・キリストを信仰と宣教の対象としていった。こうして,原始キリスト教が成立する。ここでキリスト教徒は,とりわけイエスの死を,人間の罪を贖(あがな)う犠牲行為と信じ,このいわゆる贖罪信仰をキリスト教の教理の中心に据えている。われわれはこのように意味づけられたイエスの死の背後に,〈罪人〉の〈罪〉を不問に付して彼らとともに生きたイエスの生があったことを忘れてはなるまい。
原始キリスト教
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イエス・キリストの図像表現に関しては,何よりもまず図像表現が可か否かという問題がある。キリストは神性と人性とを兼ね備えるものというのが正統的な考え方だが,これには異説があり,キリストは神であって人としての姿は仮のものであるという立場,キリストは人間であって洗礼ないし修徳によって神性を獲得したとする立場などがある。それらのいかなる立場をとるかによって,キリストを人間の形として表現するか否かが分かれる。そこで,ときとしてキリストを記号的・象徴的表現にとどめることにもなる。また人像としての表現を容認するとしても,いかにしてその神性を表すかが問題となる。さらに,人間という罪にけがれた死すべき者が絵具や木,石といった物質的手段によって至聖なる者を表現しうるのかという問題がある。

 聖書には神像を作って拝んではならぬと繰り返して記されているため,初期キリスト教時代には,キリストは原則として象徴によって間接的に表現されるにとどまった。迫害時代ゆえの配慮もあったのであろう。その象徴には数種ある。まず文字によるもので,キリストのギリシア語綴りの最初の2文字であるX(キー)とP(ロー)の組合せ文字,キリストが初めであり終りであることを示すA(アルフア)とΩ(オメガ)などがある(クリスモン)。また中世末期から用いられたJHS(イエススJHESUSの略)もこれに類する。

 次に,抽象文としてふつうに見られるものは,十字,十字架,およびそれらのさまざまな変化,すなわちまんじ,アンクankh(上に輪のついたT字形十字で,エジプト古来の象徴),ギリシア語のT(タウ)などで,また具象的なものには錨(十字架に似た形でまた信徒の舟を守る意),魚(〈神の子,救い主,イエス・キリスト〉を表すギリシア語Iēsous Christos,Theou Hyios,Sōtērの頭文字の組合せが魚ichthysとなるところからであると説明されるが,他の説明もある),羊(犠牲の獣)などがあり,中世盛期になってさらに獅子,ペリカン,フェニックス,鷲,一角獣(ユニコーン)などが加わる。植物象徴としてブドウ,ヤシなどが用いられる。人の形をとった象徴として,初期キリスト教時代に,善き羊飼い,漁夫,オルフェウスなどが用いられた。以上の多くは,異教世界で聖なる象徴としてすでに広く用いられていたものである。このような象徴的表現法は,後世になっても聖像表現を否定する立場(例えば8~9世紀の東方のイコノクラスト(イコノクラスム)や西方近世のプロテスタント各派など)がこれを踏襲し続けた。4世紀からキリストを直接表現したものが,石棺浮彫や壁面装飾(壁画やモザイク)に現れ始めるが,それを不可とする否定論がなお強かった。そこでキリスト像を正当化するために,人の手で作られたものではないと言われるキリスト像が数種伝わった。いわゆるアケイロポイエトスacheiropoiētos像である。その主要なものは〈聖顔〉で,これに2系統がある。その一つはエデッサのマンデュリオンmandylion(手巾)と称するもので,キリストが顔をぬぐった布にキリストの容貌が写ったものをエデッサ王が得て,これを後世に伝え,それがさらに模写されたといわれる。第2は,ゴルゴタの丘で十字架を負うキリストをベロニカがぬぐったときにその顔が布に写されたという。またルカが写生を始め天使がこれを完成させたと伝えられるキリスト像,キリストの昇天後ニコデモが作ったといわれる磔刑像などがあり,いずれもその信憑性が主張され,後世多くの模写模刻を生み,キリスト像の基準となった。

5世紀ごろから,キリストの図像はかなり自由に作られるようになる。それに2種あり,一つは教義的図像,他は説話的図像である。前者は例えば〈聖母子〉(いくつもの類型がある),〈教師キリスト〉(右手で祝福のしぐさをし,左手に聖書を持ち,単独で,あるいは弟子たちに囲まれて教えを説く姿),〈磔刑のキリスト〉(受難ないし贖罪の教義を示す。聖母とヨハネその他を伴うこともある),〈勝利者キリスト〉(悪の象徴を踏まえる姿),〈審判者キリスト〉〈栄光のキリスト〉(《ヨハネの黙示録》に記された四つの生き物--天使,獅子,牡牛,鷲--あるいは天使を伴う),〈デエシスdeēsis〉(罪人たちの祈りのとりなしをする聖母とバプテスマのヨハネを左右に伴ったキリスト),〈空の御座またはエティマシアetimasia(ヘトイマシアhetoimasia)〉(〈最後の審判〉の到来を待つ場面)などである。これらは聖堂の祭室半円蓋,主円蓋,入口上部を飾る半円形のティンパヌムなど,教会の最も重要な場所を占めて,信徒に教義の重要なものを視覚的に理解させる役割を果たした。それはほとんどが左右相称の構図で,キリストはとくに大きく表現力豊かに表された。

 他方,説話的図像は,〈四福音書〉あるいはその欠を補う多数の〈外典〉に記されているキリストの生涯を図解するものである。生涯を追って分類すれば5時期に分けられる。第1期はキリストの幼時で,〈聖告(受胎告知)〉に始まり,〈聖母のエリザベツ訪問〉〈キリストの降誕〉〈牧者の礼拝〉〈マギの礼拝〉(三博士の参拝),〈神殿奉献〉〈エジプトへの避難〉などである。第2期はキリストの公生活に関するもので,〈キリストの洗礼〉に始まり,〈キリストの試み〉,種々の〈教え〉と〈奇跡〉(〈ラザロの復活〉がとくに重要)である。第3期は〈受難〉の諸場面で,〈エルサレム入城(枝の主日)〉に始まり〈最後の晩餐〉〈ゲッセマネの園での苦悩〉〈ユダの裏切り〉〈ピラトの審判〉〈笞打ち〉〈磔刑〉〈十字架降下〉〈聖母の嘆き〉〈納墓〉などである。第4期はキリストの栄光に関するもので,〈リンボへの降下〉〈復活〉〈昇天〉〈聖霊降臨〉など,そして第5期は〈最後の審判〉である。以上の諸場面は,時代の宗教感情によってときには省略され,ときには細分化されて,それぞれの時代の様式で聖堂の壁面(壁画,浮彫など),写本あるいは典礼用具などを舞台に多彩な表現を見た。

キリストを直接表現するようになって,最も早い時期のキリスト像は,美しい若者の姿(ヘレニスティック型またはギリシア型)と,長髪で髯をはやした壮年の姿(シリア型)に区別される。その後シリア型の方が支配的となり,東方の諸教会およびロマネスク時代以降の西方の美術におけるキリスト像の類型の原則となる。ただし西方では,カロリング朝,オットー朝およびルネサンスに,前者の型が見られないではない。有髯のキリストの表現は,いかにも権威に満ちた神の姿であり,東方においてはビザンティン中期以降その半身像が,いわゆるパントクラトルpantokratōr(全能者)像としてとくに発達し,ときにはイコンとして,あるいは祭室半円蓋,とくに主円蓋の中央に,これが表現されることとなる。これに対して西方では,祭室半円蓋の壁や入口のティンパヌムに表現されるときは,玉座に座った姿勢である。丸彫像についていえば,東方ではキリスト像が丸彫の形式をとることはないが,西方ではカロリング朝以降とくに磔刑像としてしだいに発達した。この磔刑像は,もともと6世紀ごろから東方のシリア方面で原像として現れたもので,それらに見られるキリストはいずれも着衣のままで目を見開き,苦痛の情を表現することはない。この着衣のキリスト像は西方に入って丸彫像になるが(とくにルッカLuccaのボルト・サントVolto Santo像とその系統の像),他方裸体の磔刑像で苦痛の情を表現した丸彫像も並行して発達,とくに中世末期になって,この苦痛の表現が極度に強調された。このような表現は,キリストの受難ないし贖罪の意味を強く打ち出したものであるが,これに対して,苦痛を表さないキリスト像--多くは目を大きく開き,ときには王冠を頂く--は,死に対するキリストの勝利--つまり復活--を示すものである。このような磔刑像とは別に,聖母に抱かれた幼児キリストの像が西方では11世紀以降に発達し,東方ではイコンとしての聖母子像が6世紀以降発達を見た(聖母子)。祭室の半円蓋に表現されるキリストは,西方でも東方でも十二使徒,黙示録の四つの生き物(四福音記者の象徴となる)などを伴っているが,聖堂西壁では,〈最後の審判〉の大場面を支配する審判者として権威に満ちた姿で表現されることが多い。とくに西欧のロマネスク聖堂の西入口のティンパヌムを占める〈最後の審判〉はその典型的な例である(オータンのサン・ラザール大聖堂など)。次のゴシック時代になると,ティンパヌムの審判者キリストに代わって入口中央扉の中柱の前に位置するキリスト立像が主役を務めることになる。〈美しい神〉と呼ばれるこの像は,ゴシック時代特有の慈愛に満ちた表情をとる(アミアン大聖堂など)。ルネサンス以降になると,キリスト像は一般に神的権威を失って通常の人間像以上の性格を示さなくなる。ただ十字架を付加した光輪その他の外的特色によって,あるいは雲に乗るといった特殊な状況の描写によって,特定の人像がキリストであることを示すにすぎない。東方で描かれたイコンのキリスト像も,西方の近代写実主義の影響のもとに宗教的性格を失い俗化した。近世以降,19世紀に,ナザレ派やラファエル前派がキリストを主題に採り上げたが,注目すべきキリスト像を描いたほとんど唯一の作家は20世紀のルオーであろう。彼は〈聖顔〉を何点も描き,そこには受難の苦悩が強く影を落としながら,なお慈愛の情をたたえた救世主の姿が感じられる。
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世界大百科事典(旧版)内のイエスキリストの言及

【神の子】より

…古代オリエントと旧約聖書(《サムエル記》下7:14,《詩篇》2:7)では王を指す尊称。新約聖書ではイエス・キリストに最も多く冠せられる尊称の一つ。イエス自身が実際に自己をそう表示したわけではなく,生前に神を〈父〉(《マルコによる福音書》14:36)と呼びかけた彼の権威を彼の死後の原始キリスト教団が言い表したもの。…

【キリスト教】より


〔キリスト教の本質〕

【キリスト教とは何か】
 この問いの背後には,かつてイエス・キリスト自身が弟子たちに投げかけた問い〈人々はわたしを何者だと言っているか……あなたたちは,わたしを何者だというのか?〉(《マタイによる福音書》16:13~20,《マルコによる福音書》8:27~30,《ルカによる福音書》9:18~21,《ヨハネによる福音書》6:67~71)がひそんでいる。この後者に答えることが,前者に対する根本的な答えである。…

【原始キリスト教】より

…その上限は,イエスをキリストと信ずる信徒たちを成員とする共同体が成立した時期であるが,これが〈教会〉という形をとるのはイエスの死後,後30年代に当たる。
[原始教会の成立]
 最初の教会(いわゆる〈原始教会〉)は,《使徒行伝》の著者ルカによれば,聖霊の降臨にあずかった十二使徒を中心としてエルサレムに成立し,ペテロに代表される彼らの宣教内容はイエス・キリストの復活にあった。キリスト信仰の成立に,かつてのイエスの弟子たちの有した,復活のイエスの顕現体験に基づく復活信仰が大きな役割を果たしたことは事実である。…

【魚】より

…とくに魚の図像は,古代ローマのカタコンベ(地下墓所)の壁画や地中海沿岸各地の石棺ないし墓碑の浮彫などに数多く発見され,最古のものは2世紀にさかのぼる。初期キリスト教徒が魚をキリストの象徴として使用したのは,ギリシア語で〈魚〉を意味する〈イクテュスichthys〉が,〈イエス・キリスト,神の子・救い主〉を意味するギリシア語〈Iēsous Christos,Theou Hyios Sōtēr〉の五つの頭文字の組合せと一致していることと関係があると説明されているが,歴史的な由来は定かではない。ただし,このイクテュスということばが,イエスに対する信仰の告白の一つの様式であったことは確かであり,この種の例は,初期キリスト教文学,たとえばエウセビオスの《コンスタンティヌス伝》やアウグスティヌスの《神の国》などにみることができる。…

【死】より


[孔子,仏陀,キリスト]
 ところで,中国の孔子は〈われいまだ生を知らず,いわんや死においておや〉といって,死を未経験の領域に位置づけているが,インドの仏陀は死を涅槃(ねはん)ととらえ,永遠の生命にいたるための出発点と考えた。これに対してイエス・キリストは十字架上で犠牲になり,死んでよみがえった。すなわち,おおづかみにいって,孔子は死を不可知の対象ととらえ,仏陀はそれを生の充実と考えた。…

【受難】より

…福音書(《マタイによる福音書》21~27章,《マルコによる福音書》11~15章,《ルカによる福音書》19~23章,《ヨハネによる福音書》12~19章)の記述によると,宣教の旅の最後にエルサレムに至ったイエス・キリストは,そこで逮捕されて裁かれ,虐待を受けた後,十字架上で刑死した。キリスト教では,この間にイエスが受けた苦難を〈受難〉と呼び,これによって人間の原罪をイエスが贖(あがな)ったと考える。…

【処女懐胎】より

…いわゆる〈丹塗り矢式〉の神婚説話として広く分布する伝承であるが,石田英一郎によると,こうした各地に流布する説話伝承の背後には,すでに消滅しかけた処女懐胎の古信仰があるという(《桃太郎の母》)。感精伝説
[処女マリアとイエスの誕生]
 キリスト教世界では,処女懐胎の伝承は,もっぱら神の子イエス・キリストの誕生物語(処女降誕)として伝えられている。マリアには,許婚者のヨセフがいたが,結婚する前に天使の御告げ(聖告)を聞き,聖霊によってみごもり,ベツレヘムで男子を出産したというのである。…

【信仰治療】より

…これが手当て,按手の意味である。イエス・キリストも〈病人に手をおけばいやされる〉(《マルコによる福音書》16:18)と述べ,かつ病める者もまた進んでイエスの身に触れようとした。〈それからイエスは,ペテロの家にはいっていかれ,そのしゅうとめが熱病で,床についているのをごらんになった。…

【聖遺物】より

…例えば南イタリアのモンテガルガノには,大天使ミカエルが巌頭に残したという真紅のマントがあった。イエス・キリストやマリアについても同様だが,キリストのへその緒だけは地上に残されたはずと信じられた。十字軍が始まると東方から大量の聖遺物が流入する。…

【聖書】より

…聖書はイスラムの聖典コーランのような一人物を通しての天啓の書物とは異なって,古代イスラエル民族と原始キリスト教の長い歴史の流れの中で多くの人々の手になった多様な文書を収めている。聖書は旧約聖書Old Testamentと新約聖書New Testamentから構成されているが,この区別と名称は2世紀になって初期の教会が福音書や書簡などを,イエス・キリストによる〈新しい契約〉を啓示する書物の意味で新約聖書と呼び,ユダヤ教から継承した聖典をこれと区別して〈古い契約〉(《コリント人への第2の手紙》3:14)の意味で旧約聖書と呼ぶようになったことに由来する。イエスをメシア(救世主)とは認めないユダヤ教では,キリスト教会によって旧約聖書と名づけられた文書が唯一の聖典である。…

【ピエタ】より

…死せるイエス・キリストを膝に抱いて嘆き悲しむ聖母マリア像。14世紀初頭にドイツで創出された新しい図像で,埋葬する前にわが子を抱きしめて最後の別れを告げる聖母を,説話の時間的・空間的関係から切り離して独立像に仕立てたもの。…

【ピラト】より

…総督就任の際,ローマ皇帝像を描いた軍旗を掲げてエルサレムに入城したり,水道の建設資金をエルサレム神殿の金庫から流用し,これに抗議する民衆を虐殺するなど,ローマの権力を背景に高圧的な反ユダヤ政策をとった。しかしイエス・キリストの裁判の際には,ユダヤ教徒の圧力に屈して,不本意ながら彼を十字架刑に処した。その後失政を重ねたあげく,36年にサマリアの民衆虐殺事件でローマに召還され,自殺したとも伝えるが,キリスト教徒になったという伝承もあり,コプト教会やエチオピア教会は彼とその妻を聖人としている。…

【ベツレヘム】より

…エルサレムの南10kmにある町。人口約3万2000。ヘブライ語で〈パンの家〉を意味する。アラビア語ではバイト・ラフムBayt Laḥmとよばれる。ダビデ王の生地。後にメシア信仰の象徴となる。イスラエルを救うメシアはダビデの子孫の中から出てくるからである(《ミカ書》5:2)。キリスト教の伝承によれば,イエスの父はダビデ家の子孫であり,イエスはベツレヘムで生まれた。4世紀にコンスタンティヌス大帝が降誕教会を建設,ヒエロニムスのラテン語訳聖書(《ウルガタ》)は,この教会の地下の一室で生まれた。…

【マリア】より

…語源はヘブライ語miryāmまたはアラム語のmaryāmで,〈ふとった女〉(すなわち〈美女〉)の意とされる。旧約聖書にはモーセとアロンの姉妹の名として出てくるし(《出エジプト記》15:20),新約聖書でもマリアの名をもつ人物はマグダラのマリア以下何人もいるが,一般にマリアといえばイエス・キリストの母,いわゆる聖母を指す。東方では4世紀以降,とくに431年のエフェソス公会議以降テオトコス(〈神を生んだ者〉の意)と呼ばれることが多く,他にパナギアPanagia(〈至聖なる女〉の意),メテル・テウMētēr Theou(〈神の母〉の意。…

【幼児虐殺】より

…新約聖書《マタイによる福音書》2章16~18節に見られるイエスの幼児期に関する物語。嬰児(えいじ)虐殺ともいう。ベツレヘムにユダヤ人の王となる救世主が生まれたことを知ったヘロデ大王は,それを確かめるため,東方から来た三博士を遣わす。幼児イエスを拝んだ博士たちは夢のお告げでヘロデの悪意を知ると,彼のもとには戻らずにそのまま故国に帰る。博士たちに裏切られた王は激怒し,ベツレヘムとその周辺地方の2歳以下の男児を一人残らず殺害したが,イエスとその家族は,ヨセフの夢にあらわれた天使のお告げに従い,虐殺の前にエジプトに逃れ,ヘロデが死ぬまでそこにとどまった。…

【善き羊飼い】より

…イエス・キリストの象徴的な呼称および図像。〈善き牧者〉ともいう。…

【リンボへの降下】より

…聖書の正典中には明確に語られていないが,新約外典の《ニコデモによる福音書》に詳述されているイエス・キリスト伝中の説話。キリストは〈埋葬〉と〈復活〉の間に〈リンボ〉に降り,彼が福音をもたらす以前に生きた正しき人々を救い出して,天国に連れのぼる。…

※「イエスキリスト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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