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ドイツ・オーストリア音楽 ドイツ・オーストリアおんがく

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ドイツ・オーストリア音楽
ドイツ・オーストリアおんがく

中世のドイツではグレゴリオ聖歌パラフレーズ (補足的な言い換え) したトロープスが多数作られ,またミンネジンガーマイスタージンガーの世俗音楽が盛んであった。 15世紀にはフランドル楽派の H.イザークらが多くポリフォニー音楽を書いたが,一方ルターの宗教改革によりコラールが生れ,その後のドイツ音楽の基礎となった。バロック時代のシュッツ,バッハに続いて,マンハイム楽派や北ドイツ楽派が古典派の扉を開き,ハイドン,モーツァルト,ベートーベンにより頂点に達した。さらにシューベルト,シューマン,リスト,ワーグナー,ブラームスらのドイツ・ロマン派音楽が開花し,シュトラウスを経て,20世紀においてもシェーンベルクらの 12音音楽,P.ヒンデミットらの新古典主義,K.シュトックハウゼンらの電子音楽など,常に指導的な地位を占めている。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ドイツ・オーストリア音楽
どいつおーすとりあおんがく

ドイツとオーストリアという観念は、その本来の意味はさておき、まず国民国家体制以後のドイツ帝国(共和国)とオーストリア帝国(共和国)を第一に連想させる。人間は国籍を有するという観念や、文化と国民を結び付けてとらえる観念もまた、世界政治が国民国家体制を前提するようになったところからくる。文化をそのようにとらえるのは一面的ではあるが、音楽文化が言語的表現と一体となって形成されてきた以上は、国民語と結び付けた音楽文化のくくり方もありえる。しかし、ただ「ドイツ音楽」としたのでは、ドイツ語の使用が国民国家としてのドイツに限られるわけではないために大きな欠落が生じる。この意味に限るのならば「ドイツ語圏の音楽」という表現もありえよう(この場合にはドイツ語を公用語のひとつにしているスイスの一部地域も含まれることになる)。ただし、文化には歴史性があり、国民とか公用語といった概念が成立する以前からの文化的伝統を含めて考察しなければならないとすれば、これまた一面的となる。このことは、たとえば、ボンに生まれウィーンで生涯を終えたベートーベンが何人かという問いがナンセンスであり、オペラや教会音楽(キリスト教音楽)の長い伝統も国民語の枠内では抜け落ちてしまう、などといったことから理解できよう。また19世紀から20世紀前半のナショナリズムの時代に特有の概念である「大ドイツ主義」的に、すなわち「ドイツ民族」の一体性を前提として音楽文化をくくることのイデオロギー性にも注意しなければならない。いずれにせよ、どのような表現によっても完全にはとらえきれないという意味で本項目の立項は妥協的なものであるが、その記述範囲は、「現在、ドイツおよびオーストリアとされている地域の過去と現在の音楽」としよう。[大崎滋生]

ドイツ・オーストリア音楽の範囲

かりにドイツ・オーストリア音楽という単位で過去の音楽文化を考えてみようとすれば、カロリング朝の成立(751)以来のその地域における、(1)ラテン語・フランス語・イタリア語を含む、宮廷社会で通用していたあらゆる言語、(2)その地域に生きた人々が使用したあらゆる言語、(3)やがて公用語となったドイツ語が結び付き、またそれらの言語を通して思考された、ハイ・カルチャーとしての音楽文化というくくりであろう。ここにエスニックなロー・カルチャーを含めないのは、それを「ドイツ・オーストリア音楽」という、国民・国家・民族をくくるナショナルな概念で覆ってしまうわけにはいかないからである。とはいえ、グレゴリオ聖歌がこの地に伝播(でんぱ)してくるのは神聖ローマ帝国成立(962)前後のことと思われ、それ以前のこの地における音楽について論ずるのは音楽考古学の今後の課題の一つであろう。ナポレオン戦争によって1806年に解体するまでの神聖ローマ帝国の長い歴史と絶えず変動するその広大な版図は、単一的な文化圏を形成するにはあまりにも複雑な成り立ちと実質をもっていたので、音楽文化に関しても、それを過去から現在まで一貫した一つの考察単位として設定することは不可能である。むしろ、ここでその理由を歴史的流れに沿って、簡略化して説明したほうが目的にかなうであろう。[大崎滋生]

両地域音楽の成り立ち

この地域の支配権力の実質は、皇帝にはなく、しだいに各領邦君主に収斂(しゅうれん)されていったのであり、そして各君主間の緊張関係のなかでハイ・カルチャーは展開されたわけだから、本質的にそれは地域的特性が強いものであった。そのなかで相互影響は、領主の婚姻関係や外交関係により、またその宗旨により、大きく左右された。音楽文化関連でいえば、とられた政策ですべてが方向づけられたし、そのことに伴う楽師の移動や雇用関係の発生、楽器や楽譜の伝播、などによって決定づけられた。たとえば、オペラが早くも17世紀序盤にザルツブルクやウィーンに広まっていくのに対し、中・北部地域の宮廷へのその浸透は半世紀以上の時間的ずれがあるし、またイタリア出身の后妃の存命中だけであったりする(18世紀初頭のベルリンにおけるオペラ導入など)。そして遠方では上演組織全体を一括して移植ということにはなりにくく、たとえば1678年に開始されたハンブルク・オペラ劇場がいちはやくドイツ語オペラに取り組んだように、自文化化に向かいがちである。それに対して近接の南部地域(ウィーン、ザルツブルク、ミュンヘンなど)では、宮廷楽師の重要な面々の過半が長くイタリア人であり続け、イタリア・オペラの隆盛は18世紀終盤まで続く。あるいは、宮廷社会における音楽文化の絶対的価値に従って、オペラ団はイタリア楽師担当、器楽団はフランス・イタリア・ドイツ楽師の混合編成(18世紀前半のドレスデンなど)ということにもなる。18世紀まで、とりわけドイツ・オーストリア地域では、文化は基本的にローカル性が強かったことは、たとえば、19世紀以降にしだいに世界的な盛名となっていくJ・S・バッハ(1685―1750)の音楽が、同時代にはライプツィヒ周辺地域以外ではほとんど知られていなかったことを考えてみれば、よく理解できよう。
 このように経過していくなかで、この地域全体が大きく二分される、すなわち二つの方向に収斂されていく、過程がおきる。一つは、ハプスブルク家による南部地域(オーストリア)の支配とその影響力の強まりである。その端緒は1278年にルドルフ1世がドイツ・ローマ王としてボヘミア王を破ったときにあるが、神聖ローマ帝国皇帝がハプスブルク家の独占となるのは1508年にマクシミリアン1世が選出されたとき以来のことで、その際に皇帝の権威は教皇権からも離脱して、同家はこの地域全体に強い権力基盤を確立した。楽譜の形で残されている高級音楽文化がウィーンのハプスブルク宮廷を一つの中心に展開されるようになるのも、同皇帝が宮廷楽団を創設して以後のことである。
 二つめは、1517年のルターによる宗教改革を発端とするものである。ここにプロテスタントによる文化統一が始まるが、それは音楽文化に関してさらに二つの異なった次元で特筆しなければならない。第一点は、広範な意義を有するものであるが、聖書のドイツ語訳出版(1522)はドイツ語が記述言語としての地位を確立することにつながって、やがてそれは国民語となって高級文化の局面でもラテン語を駆逐し、さらにそれを通して国民意識が形成されていったことである。ドイツ語を歌詞とする音楽が地域特有の性格を確立しただけではなく、国民音楽という概念そのものを生んだのである。第二点は、より狭い意味をもつものであるが、シュッツ(1585―1672)らの音楽を嚆矢(こうし)として、プロテスタント固有の音楽が生まれて、カトリックのままに残った南部地域とはさしあたって鋭く対立する音楽文化が北部に形成されたことである。それは、宗教対立が経済対立や時代の新旧の対立などと絡んで激化した結果としての三十年戦争(1618~1648)によって、いっそう鮮明なものとなった。住民の3分の2近くを失った北部地域において、復興した教会での典礼として教会カンタータが、民衆のプロテスタント・コラールを織りなして、成立した。南部地域のカトリック教会音楽がミサ曲を中心として壮麗さを増していくのと好対照である。オペラの北部への進出を阻んだ要因には、物理的、また経済的・政治的ばかりか、宗教的理由も大きく絡んでいる。16世紀以降の音楽文化は、オルガン音楽なども含めた教会音楽はもとより、宮廷での器楽曲などにも南北の違いは鮮明である。南部はイタリアの、北部はフランスの、影響を受けやすかったという事情もみておくべきであろう。[大崎滋生]
18・19世紀
しかし18世紀に入ると、三十年戦争の荒廃から立ち直ったドイツ・オーストリア地域の宮廷では競い合うように、宮殿の建設後に常設の宮廷楽団が設置され、専属の楽師が雇われて、宮廷生活が音楽で飾られるようになった。廷内のコンサートで演奏されたのがイタリア由来のシンフォニー(交響曲)であり、宮廷劇場では同じくイタリア由来のオペラとフランス由来の宮廷バレエが上演され、ドイツ各地の宮廷音楽は周囲の文化を吸収したヨーロッパ音楽のるつぼの観を呈した。当時の論議において「混合趣味」とよばれる一種の総合がこの地ならではで成立した。そしてそれは、平準化されていたヨーロッパ各地の宮廷生活および宮廷周辺の音楽生活に強い影響を及ぼし、とりわけハイドン(1732―1809)に代表されるウィーン古典派様式に集約されている。
 だが、18世紀後半以後のイギリスにおける産業革命と資本主義の興隆、18世紀末から19世紀初めにかけてのフランス革命とそれに続くナポレオン戦争は、この構図に決定的な打撃を与えることとなる。それは神聖ローマ帝国の解体とオーストリア帝国の成立につながったばかりか、貴族社会そのものの没落と市民階級の台頭も鮮明にさせ、市民的ナショナリズムが登場する。そして19世紀における国民国家の形成過程においては、ハプスブルク家の皇帝による支配がなお続いたオーストリアとその他のドイツ諸領邦との主導権争いも絡む。しかし音楽の創作活動の局面ではむしろ、早くは1778年にヨーゼフ2世によってウィーンにドイツ国民劇場が創設されたり、ベートーベンのシンフォニーの継承発展にドイツ全域の音楽家が取り組んだように、すでに文化的一体感は醸成されていたといえる。それと同時に、オペラは脇に置きシンフォニーを頂点に据えた器楽中心の音楽生活、プログラムを読み身じろぎせずに黙って耳を傾け理解しようとする聴取を要求するコンサート制度、そこで演奏されるのは過去の音楽、そしてドイツ音楽中心のレパートリー、といった現在までのクラシック音楽のあり方の根幹が19世紀前半のドイツ文化圏で成立しつつあった。19世紀後半以降はしだいにそれがほかの国々に浸透していく。シンフォニーや弦楽四重奏曲を作曲するのはドイツ人だけではなくなるし、またドイツの音楽学校はそのような作曲技法を学びにくる留学生を迎えるようになる。ドイツ、オーストリアの人々が「音楽の民」として音楽文化に強いアイデンティティをもつに至ったのは国民意識の醸成と平行していたが、経済・科学・実利のイギリス、啓蒙(けいもう)思想・合理主義・美術のフランスとの対抗のなかで、それは強化された。[大崎滋生]
過去の音楽の復興
ドイツ、オーストリアのナショナル意識が将来の主導権と絡んで輻輳(ふくそう)するのは、過去の音楽の復興においてである。古楽譜の収集活動や国民的合唱運動、あるいは音楽史書や大作曲家伝の執筆活動がしばしば官吏に担われていたように、そうした活動自体が国民意識の覚醒(かくせい)と深く関連していた。音楽伝統の強調には、ドイツ(語)文化圏の外に向けられた対抗意識だけではなく、国民国家をどのように形成していくかという、内に対する覇権意識も一方で強く働いた。バッハの復興運動はプロイセン王国の人々の主導によるもので、その延長線上にあるバッハ研究にオーストリアの学者が加わることは現在まであまりないし、モーツァルトはあくまでザルツブルクとウィーンの街と結び付けてとらえられる。それに対し、ドイツ・オペラは19世紀以来今日まで、モーツァルトの作品を除き、ウィーンとは離れてウェーバーやワーグナー等々の脈絡のなかで語られる。こうしたドイツとオーストリアの対抗意識は当時において、1866年のプロイセン・オーストリア戦争で頂点に達する。その結果、オーストリアを除外する小ドイツ主義が勝利して、1871年にプロイセンの主導で国民国家としてのドイツの統一が達成される。以後は政治・経済・文化のあらゆる局面での対立が、ドイツ帝国とオーストリア帝国という国家的次元で生じることになる。
 その点で対抗的な音楽文化意識をあらわにしているのが、19世紀末に刊行が始まった音楽文化財の出版運動であった。1893年に『ドイツ音楽芸術の記念碑』(略称DDT)が政府任命刊行委員会によって発刊され、1931年までにドイツ帝国の国民的高級音楽文化財が65巻のスコア譜で刊行された。その第2シリーズとして1900~38年には『バイエルン音楽芸術の記念碑』(略称DTB)全38巻が出版された。それと対抗する形で1894年に『オーストリア音楽芸術の記念碑』(略称DTO)が国家出版局から刊行され、これは戦争中・後の中断を経て、2001年現在200巻を超える規模となっている。これらの実際の編集にあたったのがそれぞれベルリン大学とウィーン大学の音楽学研究所であり、過去の自国の音楽を復興する息の長い仕事は、音楽学という新しい学問をさしあたってドイツ、オーストリアで飛躍させ、また多くの研究者を育成した。[大崎滋生]
20世紀以降
1923年に十二音技法に到達したシェーンベルク(1874―1951)が「これでドイツ音楽の100年の優位が保証された」と誇らしげに語ったとき、ドイツ音楽とは自明の概念であった。それがウィーンに在住するユダヤ人音楽家の語ったことばであったというばかりか、国民意識という対立的イデオロギーが音楽語法のレベルにさえ立ち現れるという現実があったことに対して、感慨深いものがある。
 1918年に第一次世界大戦が終結して、世界は大きく変わった。6世紀半に及んだ、ハプスブルク家を中心とする貴族支配が終焉(しゅうえん)し、オーストリアはドイツ民族の居住する小さな共和国として独立して、かつてハプスブルク家が支配していた他の諸地域はそれぞれ国民国家を樹立した。一方、同じく皇帝が退位したドイツでは、続くワイマール共和国の時代にその国際主義的政策はかえって支持されず、ドイツ性の純化とその勢力拡大が思想的、政治的に追求された。さらにナチスの政権掌握後はそれが狂信的、暴力的に遂行されるに及んで、国内でも破綻(はたん)をきたす。ドイツは音楽の中心地として、周辺の国々からも第一級の音楽家を引き寄せ、彼らの活躍によって音楽文化はいっそう多彩なものになっていたが、たとえばバルトークは奮然と闘い、そして見限った。ユダヤ人のみならず、ヒンデミットなど国際的な名声のある多くの音楽家も亡命した。しかしフルトベングラーのように、ドイツから音楽伝統の火を消すまいとあらゆる妥協を忍んだ人々もいた。
 結局、第二次世界大戦は過去の文化的伝統とその版図を遮断する結果を招来した。ドイツ、オーストリアの音楽伝統の重要な一部は、ことに演奏と研究については少なからず、アメリカやイギリスに移植されて、ドイツ性というナショナルな強調を乗り越えた、新たな発展の礎(いしずえ)となった。分断国家となることを余儀なくされたドイツでは東西でまったく異なった方向をとり、とりわけ西ドイツでは伝統とナショナリズムの極度の強調に対する反省に立って、シュトックハウゼンらによる国際的前衛音楽の積極的な推進がみられた。また大戦で失われた過去の音楽文化の再生は世界共通の課題となったが、ドイツ音楽学はその先頭に立った。オーストリアもまた、1938年のナチスによる併合を歓迎した経験の反省に立って、ドイツとは距離を置きつつ、かつてのヨーロッパ随一の国際都市ウィーンに旧支配地域その他から国際的な音楽家(たとえばリゲティ)を受け入れるなど、国家主義的傾向と決別した。
 21世紀に入ってグローバリゼーションが進展し、その反動もまたあるとしても、高級音楽文化の創作活動の局面では、もはやドイツ・オーストリア音楽というくくりは有効性を完全に失ったといえる。しかし、過去の音楽が現在の音楽生活に生き続ける限りは、その復興がナショナリズムと結び付いたものであったこと、また往時の音楽文化活動そのものもときとしてその傾向をもっていたことは、つねに想起されなければならないであろう。[大崎滋生]

歴史的変遷

ドイツとオーストリアは、確かに緊密な関係で結ばれているとはいえ、それぞれ固有な音楽文化を誇っている、といわなければならない。以下、音楽史上におけるドイツ、オーストリアの際だった貢献を、時代順に列挙しよう。[中野博詞]
中世からルネサンス時代
グレゴリオ聖歌の受容など、ドイツ、オーストリアは、古代・中世以来豊かな音楽文化を育成しているが、その特質を鮮明に打ち出すのは、ドイツ語による世俗歌曲の先駆けとなる12~14世紀の貴族的なミンネゼンガーの歌曲と、15~16世紀の市民的なマイスタージンガー(工匠歌人)の歌曲である。
 ルネサンス時代には、オーストリアでは、外国出身の作曲家イザーク(1450―1517)、ゼンフル(1486ころ―1543ころ)らとともに、自国のホーフハイマーPaul Hofhaimer(1459―1537)も活躍したマクシミリアン1世の宮廷をはじめ、ハプスブルク家の歴代の宮廷音楽がとくに注目される。ドイツでは、前述のプロテスタント教会音楽が開発された。[中野博詞]
バロック時代
バロック時代においては、音楽に関する先進国はイタリアであるが、やがてドイツ、オーストリアは音楽史の前面に登場してくる。ドイツにおいては、シュッツ(1585―1672)、J・S・バッハらに代表されるプロテスタント教会音楽が全盛を迎えるとともに、器楽も急速に発展する。オルガン音楽では、「前奏曲とフーガ」などの自由楽曲とコラール編曲という二つの楽種が確立され、チェンバロあるいは器楽合奏のための組曲も生み出された。ドイツ語によるオペラの成立には、1678年開設されたハンブルクの公開歌劇場で活躍した作曲家たちが貢献している。一方、オーストリアにおいては、バロック時代のハプスブルク家の宮廷楽長の大半がイタリア人であり、オーストリア人の楽長がシュメルツァーJohann Heinrich Schmelzer(1623ころ―1680)とフックスJohann Joseph Fux(1660―1741)のみであったように、イタリア音楽が支配的であった。しかし、オーストリアのバロック音楽を締めくくるフックスは、イタリアの伝統的な対位法様式を土台にして、自国の民族的要素やフランス音楽の特質を加味したオーストリアならではの国際的な様式を築き上げた。[中野博詞]
古典派時代
ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの古典派音楽がウィーンに開花したように、18世紀後半から19世紀初頭に至る音楽史では、オーストリアが頂点にたった。とくに、前古典派のあらゆる器楽形式を実験しながら、古典派器楽の基本形式としての多楽章からなるソナタの形式を案出したハイドンの存在が注目される。ハイドンは単にモーツァルト、ベートーベンの先駆者であるばかりでなく、形式や様式のさまざまな試みと成果の豊かさにより、自身まさに古典派を代表する大作曲家であった。[中野博詞]
ロマン派時代
19世紀ロマン派も、ドイツ、オーストリア音楽の時代である。ドイツにおいては、ウェーバー(1786―1826)によってドイツの国民的なオペラが生み出され、やがてワーグナー(1813―1883)の楽劇で頂点に達する。ここでとくに注目すべきは、音楽と他芸術との融合をドイツの作曲家たちが積極的に推し進めたことであろう。総合芸術論を基礎としたワーグナーの楽劇とともに、音楽と他芸術を結び付けた標題音楽、なかでもリスト(1811―1886)が創始した交響詩は、ドイツ音楽の新たな特質となった。一方、オーストリアにおいては、19世紀初頭にランナーJoseph Lanner(1801―1843)とJ・シュトラウス1世(1804―1849)によって確立されたウィンナ・ワルツが、J・シュトラウス2世(1825―1899)の出現によって一世を風靡(ふうび)した。19世紀後半に入ると、ウィンナ・オペレッタがJ・シュトラウス2世などによって作曲され、オーストリア音楽に新たな魅力を加えた。ドイツにおけるワーグナーの楽劇とリストの交響詩は、R・シュトラウス(1864―1949)によってそれぞれ極限にまで発展させられた。一方、オーストリアの作曲家たちも、ワーグナーから大きな影響を受けたとはいえ、ブルックナー(1824―1896)は教会音楽と交響曲に、ウォルフ(1860―1903)は歌曲に、マーラー(1860―1911)は交響曲と歌曲に専心し、ドイツのR・シュトラウスとは異なる道を歩んだのである。
 オペラと交響詩のほか、ロマン派音楽の基調をなすのは歌曲であり、シューベルト(1797―1828)、シューマン(1810―1856)、ブラームス、ウォルフ、マーラー、R・シュトラウスの活動には、多くの場合ドイツとオーストリアが交錯する。ピアノ小品の出発点には、シューベルトとメンデルスゾーン(1809―1847)が位置している。管弦楽あるいはオーケストラ音楽の分野では、メンデルスゾーン、シューマン、リスト、R・シュトラウスのドイツの流れと、シューベルト、ブルックナー、マーラーのオーストリアの流れが対立し、ブラームスは両様式を兼備した。[中野博詞]
20世紀以降
20世紀では、十二音技法を開拓したシェーンベルク(1874―1951)とその弟子たち――ウェーベルン(1883―1945)、ベルク(1885―1935)の新ウィーン楽派が、オーストリアでは際だった存在であった。ドイツでは、新即物主義のヒンデミット(1895―1963)のほか、オルフ(1895―1982)、フォルトナー(1907―87)、オペラの分野で活躍したヘンツェ(1926―2012)、セリー音楽や電子音楽など前衛的な姿勢をとったシュトックハウゼン(1928―2007)が、とくに注目された。
 なお、ドイツとオーストリアは、ともに民俗音楽の宝庫でもあるが、ヨーデル歌唱や、チター、アルペンホルンなどの民族楽器が、とくに広く親しまれている。[中野博詞]
『アリス・M・ハンスン著、喜多尾道冬・稲垣孝博訳『音楽都市ウィーン――その黄金期の光と影』(1988・音楽之友社) ▽渡辺護著『ウィーン音楽文化史』上下(1989・音楽之友社) ▽J・A・スミス著、山本直広訳『新ウィーン楽派の人々』(1995・音楽之友社) ▽フランチェスコ・サルヴィ著、畑舜一郎訳『モーツァルトと古典派音楽』(1997・ヤマハミュージックメディア) ▽音楽之友社編・刊『ドイツ・オペラ』上下(1998~1999) ▽エリック・リーヴィー著、望田幸男監訳、田野大輔・中岡俊介訳『第三帝国の音楽』(2000・名古屋大学出版会) ▽クロード・ロスタン著、吉田秀和訳『ドイツ音楽』(白水社・文庫クセジュ)』

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