デジタル大辞泉
「元町」の意味・読み・例文・類語
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もとまち【元町】
- [ 一 ] 北海道函館市の地名。函館山の北東麓にあたる。長年行政の中心地で、歴史的建造物が多い。
- [ 二 ] 東京都、伊豆大島西岸の地名。大島支庁・大島町役場がある中心地。
- [ 三 ] 横浜市中区の地名。横浜開港以来、横浜村の移住者により商店街として発展、ハイカラな町として知られる。
- [ 四 ] 神戸市中央区にある地名。神戸開港後、外人居留地と神戸駅の間に約一キロにわたって発達した商店街。
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
元町
もとまち
[現在地名]延岡市祇園町・紺屋町
延岡城の北東、五ヶ瀬川の北岸沿いの東西道に沿う両側町。北町と結ぶ板田橋(百間橋)からの南北道沿いに横町がある。西は武家屋敷町の北小路、東は紺屋町。紺屋町との接点から直角に北方に博労町がある。延岡城下七町の一。南・中・北の三町では狭隘であったので、元和元年(一六一五)に岡富村内を町割して形成された(延陵世鑑)。正徳三年(一七一三)の御城并町在所々覚書(内藤家文書)によれば、町の長さ東西六〇間・道幅二間、横町の長さ南北二〇間・道幅二間半。延享四年(一七四七)頃の延岡町中竈数人高等寄帳(同文書)によれば軒数四〇(本竈・店借とも)・人数一六三、医師二、酒株の酒屋二軒。文政一一年(一八二八)の宗門人別改帳(同文書)によれば人数一三〇。
元町
もとまち
[現在地名]大分市元町・上野丘東など
府内城の南東、町組松末町の東新町の南にある。町組千手堂町のうち当町だけが門外町であるが、実質は町域を形成しない。上野丘台地東端の六坊村の崖下から大分川にかけての平地部に位置し、南は古国府村。延享元年(一七四四)八月の大雨では大分川の水位が一丈八尺ほども上っている(府内藩日記)。明治元年(一八六八)の田畑高出入覚帳(県立大分図書館蔵)によると、去年高二斗余が砂入地になったことが当町庄屋によって報告されている。
元町
もとまち
[現在地名]函館市元町
明治六年(一八七三)の町名町域再整理の際に成立した町。会所町の山手側に位置し、成立時には南東は汐見町など、北西は愛宕町などであった。近世には箱館奉行所が置かれていた。万延元年(一八六〇)箱館全図によると、奉行所のほかに仙台藩や松前藩の留守居所などがのちの当町域にあり、奉行所の東隣には船玉社(現船魂神社)が祀られている。明治二年奉行所跡に開拓使函館出張所が設置された(同四年函館出張開拓使庁、翌五年函館支庁と改称)。同九年の現住戸口は七〇戸・三六九人(函館支庁管内村町別戸口表)。同一四年七月に上汐見町・下汐見町を編入した。同三〇年の戸数二〇八・人口七二一(伊藤鋳之助文書)。
元町
もとまち
[現在地名]黒石市元町
黒石陣屋の西方にあたり、東は上町、西は境松村に接する。境松は弘前藩領なので、元町の西端には柵が設けられていた(「黒石御絵図」市立弘前図書館蔵)。元町は藤崎(現南津軽郡藤崎町)に通ずる街道筋の町並で、黒石最古の町でもあり、造酒屋や商家が軒を並べていた。享保(一七一六―三六)頃の黒石府家之図(浅瀬石川郷誌)では、元町の北側は「下町」と記され一〇軒、元町二四軒とある。「新撰陸奥国誌」によれば明治初年には「長五丁十二間三尺幅五尺、家数百四十八軒」で、大板町之小路、同西之小路、後大工町之小路、黒石村之小路、同西小路があった。
元町
もとまち
昭和三年(一九二八)一月に成立した現在の苫小牧市の町名。町名は明治一二年(一八七九)以降中央院から苫小牧橋(現在の浜町二丁目と幸町一丁目の間にあった橋)にかけて発展し、市街地の始まりとの意味で命名。昭和三年に苫小牧町大字元町が誕生、現在の矢代町・新富町の一部を含む(「町名設定地番改正調書」苫小牧市立中央図書館蔵)。同一九年の大字廃止字名改称により苫小牧町元町となった(「苫小牧町字地番整理調書」同館蔵)。同二三年市制施行により苫小牧市元町となり、同四六年の住居表示実施で一―三丁目を設定し、一部を矢代町一―二丁目・新富町一―二丁目に移し、西町の一部(現在の元町三丁目)を編入した(住居表示新旧対照表)。
元町
もとまち
[現在地名]佐賀市呉服元町
長崎街道を東から牛島町・柳町・蓮池町・呉服町と通り、北へ曲がるとさらに西へ折れて元町に至る。さらに北へ折れると勢屯町を経て白山町へ出る。元町は街道に沿っているが短いこともあって嘉永七年(一八五四)の竈帳でも実竈数は四八である。人口は男一三二人、女一二四人で計二五六人。職業構成に特色はなく、身分構成は町人一五竈、足軽一五竈、徒士六竈、被官六竈などである。
元町
もとまち
[現在地名]中区元町一―五丁目
東流する堀川を隔てて山下町に対し、東と南は山手町に接する。万延元年(一八六〇)三月一日に神奈川奉行堀利熙らと各国領事との交渉で懸案となっていた横浜居留地設置が確定したことにより、居留地予定地内の住民が強制移転させられて形成された町。すでに二月上旬に大家がなく移住に手数を要しないとみなされた村民に地所貸渡が命ぜられ(「神奈川奉行并神奈川在勤目付伺書」幕末外国関係文書)、二月二四日に住民は移転を承知した(「横浜町役人総代請証文」同文書)。代替地は元町と称した。横浜町名主見習半右衛門が名主となり、組頭五名、百姓代二名が置かれた。
元町
もとまち
[現在地名]関宿町元町
江戸町・台町の南に位置する町人町。西を江戸川が流れる。村方としても扱われた点は台町・江戸町に同じ。正保城絵図(内閣文庫)では江戸川に沿って北部に町場、南部に足軽屋敷があり、畠地も点在している。元禄年中(一六八八―一七〇四)以降のものと思われる城絵図(浅野文庫蔵)では「本宿」と記される。寛文四年(一六六四)の板倉重常領知目録(寛文朱印留)には元町村とあり、元禄一三年頃の下総国各村級分では元町とみえ、高三一五石余。
元町
もとまち
[現在地名]烏山町中央一丁目
仲町四つ辻より西へ延びる両側町で、北・西は郭内。並行する田町とは西端から南へ延びる横町で結ばれる。町の長さは八四間で、仲町境に中木戸、中央西寄り北側に城内に入る登城口もあった。正徳期(一七一一―一六)と推定される町絵図(烏山町郷土資料館蔵)では家数四四、享保一六年(一七三一)の人数一七一(「宗門人別帳」同館蔵)。同一一年の明細帳(同館蔵)では農外渡世の者として桶屋一・鍛冶屋一がみえる。
元町
もとまち
[現在地名]岩見沢市元町一条東・元町二条東・元町三条東・元町一条西・元町二条西
明治一五年(一八八二)以降、市街化した地域。同年に置かれた旧岩見沢駅北側から幾春別川までの地域を称した。地名は岩見沢の発祥地にちなむという。同一七年勧業課派出所を設置し、士族移住取扱規則に基づく士族の移住に備えた。岩見沢村成立に伴い、戸長役場・警察派出所・病院などが置かれ、同二〇年頃までには商店街も形成された(岩見沢市史)。
元町
もとまち
[現在地名]金沢市長土塀二丁目
南と西は神谷町、北と東は武家地。高儀町北端より東に折れ、善照坊北側通りに沿う片側および善照坊西側の前通り、同坊南側の通りに沿う町。文政六年(一八二三)それまで公儀町(高儀町)の一部であった善照坊北側通りと神谷町の一部より分立(「又新斎日録」加賀藩史料)。
元町
もとまち
船場町の北西にある。昭和二四年(一九四九)大字留萌村字トイヨイ、優別(マサリベツ)ほか一四の字名を包括して区画、一丁目から五丁目まで設置。近世からアイヌコタンがあった地で、留萌の元ともなったことに由来する町名という。同二五年の戸口は五四五戸・二千六八三人(留萌市統計書)。同三三年五月二三日二丁目北船荘から出火、一八一棟・二五二戸が灰燼に帰し、二二五世帯・一千二三五人が焼出された(「留萌タイムス」一九五八年五月二四日・同二五日付)。
元町
もとちよう
東山区古門前通大和大路東入
古門前通に沿って三吉町の西隣に位置し、さらに西は縄手通(大和大路)にあたる。「坊目誌」は宝永年間(一七〇四―一一)、近傍の他町に先立って開けたのでこの名があるとする。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
元町(横浜市)
もとまち
横浜市中区、山手丘陵の北西を流れる堀川に沿う地区。横浜高速鉄道みなとみらい線が通り、元町・中華街駅がある。横浜でもっとも古くから開け、外国人にもすぐ取扱い商品がわかる横文字看板のハイカラ商店街として知られた。幕末期の横浜開港にあたって横浜村の住民が元村へ集団移住させられて商店街づくりを始めた。この新生商店街の顧客は南東方の山手丘陵に住む外国人で、元村(元町)の商人たちはこれら外国人の好みをいち早く吸収して、ハイカラ好みの町づくりをし、浜っ子のルーツとされている。いまは欧米からの直輸入品を並べる最新ファッションの店や、ステーキやケーキをはじめ海外の新鮮な飲食料品を供する活気あふれる店の多いのが特色である。
[浅香幸雄]
元町(神戸市)
もとまち
神戸市中央区にある商店街。1868年(明治1)の神戸開港後、外人居留地と神戸駅との間に約1キロメートルにわたって発達した通りで、南に神戸港、山側に外人住宅を交えた住宅地があり、神戸第一のショッピング街となった。第二次世界大戦後、元町の東に発達した三宮(さんのみや)商店街が若者向きであるのに比べ、伝統的な専門店に特色がある。東海道本線(JR神戸線)、阪神電鉄、神戸高速鉄道が通じ、また南側を地下鉄海岸線が走る。
[藤岡ひろ子]
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元町【もとまち】
神戸市中央区にある高級商店街。西国街道沿いに古くから発達,三宮(さんのみや)地区に続き,衣服,装飾品などの,港町らしいしゃれた店が多い。北東にJR元町駅がある。
→関連項目神戸[市]
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元町
もとまち
兵庫県神戸市中央区の中心商店街。第2次世界大戦前は東京の銀座,大阪の心斎橋と並称された商店街として有名で,流行は元町からといわれた。神戸港と JR元町 (旧三宮) 駅を最短距離に結ぶ地点にあり,周囲に官公庁街,オフィス街を控え,開港以後,外国人観光客相手のみやげ物店,高級専門店を中心に繁栄。戦後は市の主要施設が三宮駅付近へ集中したため,三宮にその地位を譲った。
元町
もとまち
神奈川県東部,横浜市中区の地区。ビジネス・官庁街の関内と住宅地の山手町にはさまれ,横浜開港後,外国人向けの商店街として形成された。当初は外国人経営の店が多く,現在でもヨーロッパの商店街と提携して家具,食料品,洋品,宝石など高級外国製品を扱う店も多い。東京方面からの買物客でにぎわう。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
世界大百科事典(旧版)内の元町の言及
【大島】より
…おもな集落は西および南側の緩やかな斜面の海岸近く(卓越風の風下)に発達している。約9000年前から人が住み,最も早く開かれたのは,かつて新島村といわれた現在の元町で,この島の西玄関口となり,中心集落でもある。北西端の乳ヶ崎(ちがさき)をはさんで東側には岡田があり,西風の時は岡田港が,東風の時は元町港が利用されている。…
【横浜[市]】より
…港の北西にあたる野毛山(のげやま)は日本人の住宅地として開かれ,南東の山手(やまて)地区の〈港の見える丘〉は外国人のための居住地であり,洋館や教会,女学校が立ち並んだ。これらの丘のふもとには野毛と元町の商店街がある。元町は初め外人のための家具や食器類の店が多かったが,しだいに舶来品を扱うようになり,今日では中国料理店の並ぶ山下町の中華街(南京(ナンキン)町)とともに横浜で最もエキゾティックな町並みとなっている。…
※「元町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」