円覚寺(読み)えんがくじ

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

円覚寺(神奈川県)
えんがくじ

神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済(りんざい)宗円覚寺派の大本山。山号は瑞鹿山(ずいろくさん)。1282年(弘安5)北条時宗(ときむね)が怨親平等(おんしんびょうどう)の願いにより、元寇(げんこう)(文永(ぶんえい)・弘安(こうあん)の役)の犠牲となった敵味方の兵士の霊を慰めるため、南宋(なんそう)から招いた無学祖元(むがくそげん)(仏光(ぶっこう)国師)を開山として建立したのに始まる。祖元は弘安の役には師として若い時宗を励まし、この大難を切り抜けさせた。1283年、時宗は尾張(おわり)(愛知県)、上総(かずさ)(千葉県)の土地を寄進して幕府の祈願所とし、1308年(延慶1)には定額寺(じょうがくじ)となり、伏見(ふしみ)上皇から「勅諡(ちょくし)仏光禅師」という宸筆(しんぴつ)を下賜(かし)された。北条氏が衰えてからも、夢窓疎石(むそうそせき)らの努力によって円覚寺は衰微を免れ、室町時代には足利(あしかが)将軍家および鎌倉公方(くぼう)の庇護(ひご)によって鎌倉五山第二位とされた。
 円覚寺には開山無学祖元の直接の法系は続いていないが、その後、法系の異同を問わず多くの名僧が住持した。江戸後期には誠拙周樗(せいせつしゅうちょ)が住して妙心関山(みょうしんかんざん)の法流古月派の禅を高揚して僧堂を再興、また、明治時代になってからは白隠(はくいん)系の今北洪川(いまきたこうせん)、釈宗演(しゃくそうえん)などが出て禅の布教に努めた。山内には文和(ぶんな)年中(1352~56)に足利尊氏(たかうじ)が仏満禅師を開祖として創立した続燈庵(ぞくとうあん)、伝衣山(でんえさん)と号し将軍足利義教(よしのり)の遺骨を収める黄梅院(おうばいいん)、もと北条氏の祠堂(しどう)であった仏日(ぶつにち)庵をはじめ、正続(しょうぞく)院、如意(にょい)庵、正伝(しょうでん)庵、寿徳(じゅとく)庵、済蔭(せいいん)庵、松嶺(しょうれい)院、蔵六(ぞうろく)庵、帰源(きげん)院、臥竜(がりゅう)庵、伝宗(でんしゅう)庵、富陽(ふよう)庵、白雲(はくうん)庵、雲頂(うんちょう)庵の16の庵と塔頭(たっちゅう)がある。門外の塔頭寺院としては東慶寺(とうけいじ)、浄智寺(じょうちじ)、瑞泉寺(ずいせんじ)がある。現在、円覚寺派に属する寺院は約200寺ある。山内には専門道場のほか、一般在家信者の修行道場である居士林(こじりん)、女性の参禅のための禅子寮(ぜんこりょう)があり、在家の信者の継続的な参禅が活発に行われている。
 建物はしばしば火災にあったが、1625年(寛永2)に復興した。現在、山門、仏殿、方丈、舎利殿(開山堂)などがある。舎利殿は1563年(永禄6)の大火後に太平尼寺から移建したもので、禅宗様建築の代表として国宝に指定されている。仏殿は1923年(大正12)の関東大震災で倒壊、63年(昭和38)に再興したものであるが、「大光明宝殿」の額は後光厳(ごこうごん)天皇の宸筆(しんぴつ)。山門は江戸中期の作で、江戸形式の傑作といわれる。「瑞鹿山」の額は後光厳天皇(あるいは後小松(ごこまつ)天皇)の宸筆と伝えられる。東方の山上にある梵鐘(ぼんしょう)(国宝)は1301年(正安3)北条貞時(さだとき)がつくったもの。総門の左右の池を白鷺(はくろ)池といい、祖元が来日したとき、八幡(はちまん)大神が白鷺(しらさぎ)の姿で鎌倉まで導き、この池にとどまったという。寺宝には仏涅槃(ぶつねはん)図、張思恭(ちょうしきょう)筆と伝えられる羅漢(らかん)図33幅、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)像・仏光国師像などの絹本着色画像ほか、銅造阿弥陀(あみだ)如来および両脇侍(わきじ)立像、木造仏光国師坐像(ざぞう)、北条時宗の書状など、国の重要文化財指定のものが多数ある。[菅沼 晃]
『荻須純道著『日本中世禅宗史』(1965・木耳社) ▽荻須純道著『京・鎌倉の禅寺』(1963・教育新潮社) ▽『古寺巡礼 東国4 円覚寺』(1982・淡交社)』

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