南アフリカ共和国(読み)ミナミアフリカキョウワコク(英語表記)Republic of South Africa

デジタル大辞泉 「南アフリカ共和国」の意味・読み・例文・類語

みなみアフリカ‐きょうわこく【南アフリカ共和国】

アフリカ大陸南端部の共和国。行政上の首都はプレトリア立法府ケープタウン、司法府はブルームフォンテーン。金・ダイヤモンドウランなどの世界的な産出国。1652年オランダがケープ植民地を開設して入植。1814年に英国領となり、のちトランスバール・オレンジ・ナタールが建国されたが、英国植民地に併合。1910年4州として統合し、自治領南アフリカ連邦が発足。1961年英連邦を脱退して共和国となった。白人による有色人種差別隔離政策(アパルトヘイト)をとったが、1991年にその基幹法を撤廃。1994年、全人種参加の選挙が行われ、国民統合政府が成立した。人口6014万(2021)。なんア。

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精選版 日本国語大辞典 「南アフリカ共和国」の意味・読み・例文・類語

みなみアフリカ‐きょうわこく【南アフリカ共和国】

  1. アフリカ大陸の南端にある共和国。南アフリカ連邦が、一九六一年イギリス連邦から脱退し独立して誕生した。建国以前から、白人による有色人権差別・隔離政策(アパルトヘイト)が行なわれてきたが、国内外の激しい非難を浴び、一九九一年に法的に差別は廃止された。九四年に全人種参加の選挙が行なわれ、国民統合政府が成立。金・ウラニウム・ダイヤモンドの世界的産出国。首都はプレトリア。南アフリカ。南阿

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知恵蔵 「南アフリカ共和国」の解説

南アフリカ共和国

アフリカ大陸南端の国。行政上の首都はプレトリアだが、商業・文化の中心は国内最大都市ヨハネスブルクである。立法府はケープタウン、司法府はブルームフォンテーンにおかれている。面積は122万平方キロ、人口は約4千970万人(2008年)。黒人が79%、白人が9.6%、カラード(混血)が8.9%、アジア系が2.5%を占める。アジア系はインド人が最も多いが、今世紀になって商用目的の中国人が急増し、ヨハネスブルクを中心に中国人街を形成している。公用語には、英語、アフリカーンス語の他、ズールー語、コサ語、ソト語など11の言語が指定されている。キリスト教徒が人口の約8割を占めるが、インド系を中心にヒンズー教やイスラム教の信者も多い。国際社会から厳しい批判を浴びた人種隔離政策(アパルトヘイト)は1991年に廃止され、近年は、金・ダイヤモンド・各種レアメタルなどの豊富な資源を基に、著しい経済発展を遂げ、BRICsの最後の「s」として語られるようになった。通貨はランド。
白人による支配は、1652年のオランダ東インド会社の入植に始まる。オランダ系ボーア人が現在のケープタウンに植民地を開き、その後東部へと進出していった。18世紀末、イギリスが勢力を強め、1814年にはボーア人からケープ地区を奪って英国領とした。追われたボーア人は、内陸にトランスバール共和国・オレンジ自由国、東岸にナタール共和国を建国。しかし、次々とイギリスの支配下におかれ、1910年にはケープとすべて統合されて、南アフリカ連邦となった。
第2次世界大戦後、アジア・アフリカ各国で民族主義のうねりが高まる中、南アフリカ連邦も英連邦から脱退し、61年に南アフリカ共和国として独立を果たした。しかし、少数の白人による支配は強まり、異人種間の結婚・性的交渉を禁じた「雑婚禁止法」や「背徳法」、人種ごとの居住地や公的施設の使用区分を定めた「集団地域法」や「隔離施設利用法」など、一連のアパルトヘイト関連の諸法が制定されていった。
アパルトヘイトは国際社会の非難の的となり、とくに80年代後半に先進諸国の経済制裁を受けてからは、急速に差別緩和政策がとられるようになった。徐々に法律の改正・撤廃が進められ、91年にはアパルトヘイト関連の基幹法が全廃された。94年には初めての民主的総選挙が実施され、アフリカ民族会議(ANC)のネルソンマンデラが史上初の黒人大統領に選出された。マンデラは人種・民族の融和をかかげ、「虹の国」の建設を宣言。その後もANC政権が続き、99年に就任した同党のムベキ大統領は、黒人の経済参入・雇用拡大を目的としたBEE(ブラック・エコノミック・エンパワーメント)政策を進めた。この黒人優遇政策は、消費意欲の強い黒人中間層を生み出したが、同時に貧富の差を拡大させてしまった。2009年に就任したズマ大統領には、経済・雇用の安定とともに、治安の改善やエイズ禍の防止等、解決すべき課題が山積している。10年6月には、アフリカ大陸では初となるサッカーワールドカップが開催される。

(大迫秀樹  フリー編集者 / 2010年)

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「南アフリカ共和国」の解説

南アフリカ共和国(みなみアフリカきょうわこく)
Republic of South Africa

アフリカ大陸南端の共和国。首都プレトリア。住民の約68%がアフリカ人で,オランダ系やイギリス系の白人18%。カラード10%,アジア人3%。ポルトガルの喜望峰発見の後,1652年にオランダ東インド会社が補給基地(のちのケープタウン)を築いた。その後入植地として発展したが,ナポレオン戦争でイギリスが占領(1814年)。先住白人(主としてオランダ系の通称ブール人,のちにアフリカーナーと自称)の多くはイギリス支配を嫌って奥地に移住し,トランスヴァール共和国オレンジ自由国などの国を建てたが,最終的には南アフリカ戦争でイギリスにより征服された。1910年イギリス連邦内の自治領として南アフリカ連邦が発足するが,アフリカーナー勢力の政治的影響力がしだいに強まり,61年イギリス連邦から脱退し共和国となった(94年復帰)。またアフリカ人を隔離,管理するアパルトヘイトを強行し,76年のソウェト(ヨハネスブルグ黒人居住区)蜂起に象徴される抗議運動を引き起こし,国際政治でも孤立した。だが内外の圧力に抗しきれず,94年史上初の全人種参加選挙が行われ,アフリカ人民族会議(ANC)が勝利し,党首マンデラが大統領に就任した。

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旺文社世界史事典 三訂版 「南アフリカ共和国」の解説

南アフリカ共和国
みなみアフリカきょうわこく
Republic of South Africa

アフリカ大陸の最南端にある共和国。首都プレトリア
1961年5月31日,イギリス連邦内の自治領を脱して共和国を宣言し,独立した。黒人70%,白人20%(そのうち,オランダ系60%,イギリス系40%),他はインド人・混血人と人種構成が複雑なうえ,徹底したアパルトヘイト(人種差別・隔離)体制をとってきた。1972年以来,黒人労働者のストライキが続き,国際的な批判も高まるなか,89年大統領となったデクラークは黒人との対話をすすめ,91年6月,人口登録法・集団地域法・先住民土地法を廃止し,法的にはアパルトヘイト体制が終了した。また,27年間投獄されていた反アパルトヘイト運動の指導者マンデラが1990年に釈放され,94年の全人種による憲法制定議会選挙の結果,大統領に就任した。その後,1999年の選挙でムベキが大統領に選出された。

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世界大百科事典(旧版)内の南アフリカ共和国の言及

【トランスバール共和国】より

…1910年の南アフリカ連邦成立以前のボーア人共和国の一つ。正称は南アフリカ共和国。現在は南ア共和国北東部のトランスバールTransvaal州となっている。…

※「南アフリカ共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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