アフリカ大陸最南端にある国。略称南ア共和国。北西はナミビア、北はボツワナ、ジンバブエ、北東はモザンビーク、エスワティニ(旧、スワジランド)と接し、東部にレソトがある。面積121万9090平方キロメートル(2001センサス)、人口4481万9778(2001センサス)、4932万0500(2009推計)。西ケープ州、東ケープ州、北ケープ州(以上3州は1993年まではケープ州)、自由州(1993年までオレンジ自由国州)、クワズールー・ナタール州(1993年までナタール州)、ハウテン州、ムプマランガ州、リンポポ州(以上3州は1993年まではトランスバール州)、北西州(1993年まではケープ、トランスバール両州の一部)の9州からなり、首都は行政府のあるプレトリア。立法府はケープ・タウン、司法府はブルームフォンテーンに置かれている。白人が極端な人種差別政策により非白人を支配する「アパルトヘイト」の国として知られたが、人種差別関連法は1991年までに全廃された。
[林 晃史]
国土は、内陸の広大な台地および台地と海岸線との間にある周縁地帯に二分される。両者は大断崖(だんがい)をなす分水界で明確に分けられ、この大断崖は東半部でもっとも高くなり、標高3000メートル以上の高峰をいくつも連ねるドラケンスベルク山脈を形成している。国土の大半を占める内陸台地は標高平均1200~1800メートルで、北西にはカラハリ砂漠の一部が広がる。一方、周縁地帯は東部のドラケンスベルク山脈とインド洋の間では斜面が比較的単調に低下し、沿岸に平均標高300メートルの平地がある。これに対して南部には数条の山列が走り、ランゲベルク山脈以北に小乾燥地帯であるリトル・カルー高原(平均標高460メートル)、その北のスワルトベルク山脈とヌーヘフェルト山脈の間に大乾燥地帯であるグレート・カルー高原(平均標高600~900メートル)がある。また西部はナミブ砂漠の延長部にあたっている。広大な国土に比して大河川は少なく、おもなものはドラケンスベルク山脈から西に流れて大西洋に注ぐオレンジ川とその支流バール川、同山脈からクワズールー・ナタール州を貫流してインド洋に注ぐトゥゲラ川、北部国境を流れてインド洋に注ぐリンポポ川である。
[林 晃史]
国土が南緯22~35度に位置するため、気候は一般に温暖で日照時間が長い。ただ海岸部以外は高地であるため、同緯度の国に比べると気温は概して低くなっている。内陸高地の冬の夜間気温は0℃以下になることもあり、ドラケンスベルク山脈では降雪もある。海岸部のうち東岸は高度も低く、暖流のモザンビーク海流が流れているため暖かい。一方西岸は寒流のベンゲラ海流の影響を受け気温はそれほど上がらない。
降雨も東西では著しく異なる。国土の東半分は季節風の影響で夏雨型であるが、南西岸部はいわゆる地中海性気候で、移動性低気圧により冬に雨が多い。また降水量は東側から西側に行くにしたがって少なくなる。東部海岸地域では年降水量は1000ミリメートルを超え、内陸高地でも380~750ミリメートルであるが、西部のナミブ砂漠延長部では125ミリメートル以下である。北部内陸のプレトリアの年平均気温は18.4℃、年降水量は699.1ミリメートル、南西岸部ケープ・タウンの年平均気温は16.4℃、年降水量は539ミリメートルとなっている。
[林 晃史]
この国の先住民は、もともと狩猟・採集民のサン人と牧畜民のコイ人であった。やがて農耕民のバントゥー系住民がしだいに南下してくるようになり、15世紀には全土に広く定着した。
[林 晃史]
15世紀末、最初のヨーロッパ人としてポルトガル人が渡来したが、アンゴラ、モザンビークを貿易の拠点としたため、この地は放置された。1652年オランダ東インド会社が東洋貿易の補給基地をつくるため、現在のケープ・タウンに上陸し、ケープ植民地を開設した。続いてオランダ本国からの移民が先住民から土地を略奪し、彼らを労働力として農場を経営し、主として東部に入植地を拡大していった。18世紀末から19世紀初めにかけて、イギリスはケープ植民地がフランスのナポレオンの手に落ちることを恐れ二度にわたり占領した。ナポレオン敗北以後の1814年、同植民地は正式にイギリス領となった。このためオランダ系白人(ブーア人またはアフリカーナー)はイギリスの支配を避けて、牛車によって後背地に移住(グレート・トレック)し、東海岸にナタール共和国を、内陸にトランスバール共和国とオレンジ自由国を建国した。ナタール共和国は1843年イギリスとの戦いに敗れて併合されたが、他の2国については1852年と1854年、それぞれ自治が認められた。1867年オレンジ自由国のキンバリーでダイヤモンドの富鉱が発見されると、イギリスはグリクァランド・ウェストの割譲を要求し、1871年これを実現した。イギリスはさらに1877年トランスバール共和国も併合したが、同共和国は第一次ブーア戦争(1880~81)で勝利を収め自治を回復した。1886年ウィトワーテルスランドで大金鉱が発見されると、イギリスはふたたび支配に乗り出した。トランスバール共和国はオレンジ自由国と結んで第二次ブーア戦争(1899~1902)を戦ったが敗れ、両国はイギリス植民地となった。ブーア戦争後イギリスはブーア人と和解を図り、1910年ケープ、ナタール、トランスバール、オレンジ自由国の4州が統合され、南アフリカ連邦が発足した。
[林 晃史]
南アフリカ連邦初代の首相となったL・ボータは、1911年白人鉱山労働者を黒人との競合から保護するため、最初の人種差別法といわれる「鉱山・労働法」を制定した。また1913年には「原住民土地法」を立法化し、黒人の居住地を全国の9%(1936年13%に修正)に限定した(原住民指定地)。第一次世界大戦が起こるとイギリスからの輸入が閉ざされ工業化が進んだが、1924年に成立したヘルツォークの国民党・労働党連立政府は、ブーア人労働者(プア・ホワイト)を保護するため文明化労働政策(シビライズド・レイバー・ポリシー)のもとに「産業調停法」「賃金法」などさまざまな差別法を成立させた。これらの政策に対し黒人は、1912年には最初の民族組織であるアフリカ民族会議(ANC)を結成、1919年には労働組合の工商組合(ICU)を組織して反対運動を展開した。
第二次世界大戦後、アジア・アフリカ各地で反植民地闘争が激化し、国内でも黒人民族運動が高揚した。1948年の総選挙に際し、国民党のマランは白人の危機とアパルトヘイト(人種隔離)の必要性を訴え、圧勝して同党単独政権を発足させた。彼は公約に基づいて異なる人種の結婚を禁止する「雑婚禁止法」、人種区別を定める「人口登録法」、人種別に居住区を定める「集団地域法」など人種差別を強化する法律を次々と制定した。また「共産主義弾圧法」を定め反政府運動を厳しく取り締まった。一方、第二次世界大戦後の工業化の発展に伴い半熟練・熟練部門へ黒人が進出し始めると、政府は1956年、人種に基づく職種制限(ジョブ・リザベーション)を導入し、白人労働者を保護した。1950年代になると、全国の13%に限定された黒人地域で、人口増から土地不足への不満が高まった。政府は調査委員会の勧告を受けて1959年「バントゥー自治促進法」を制定し、従来の地域的隔離から分離発展(セパレート・デベロップメント)への方針転換を明らかにした。これは、部族別の黒人居住地であるバントゥスタン(後のホームランド)を10か所につくり、最初は一定限度の自治を許し、ついで「独立」を付与しようというものである。しかし実際のねらいは黒人を「外国人労働者」とする点にあり、絶対的不平等が前提であった。
[林 晃史]
1960年、反アパルトヘイト集会への警官の発砲で69名の死者を出したシャープビル事件が起こると、南アフリカ連邦は本国イギリスをはじめ世界各国の非難を浴びるようになった。このため同連邦は翌1961年イギリス連邦を脱退し、共和国へ移行した。事件後、アフリカ民族会議(ANC)、パン・アフリカニスト会議(汎(はん)アフリカ人会議、PAC)は非合法化されたものの、かわって学生、教会を中心とする反政府運動が盛んになった。1975年のモザンビークとアンゴラの独立、ナミビアにおける解放闘争の激化、1976年のソウェト(ヨハネスバーグ郊外の黒人居住区)での住民蜂起(ほうき)は、政府に政策の再考を迫った。1978年国民党偏狭派(フルクランプテ)のフォルスターにかわって開明派(フルリフテ)のP・W・ボータが政権につくと、人種差別政策の緩和が行われた。その一環として1984年、白人の特権であった参政権がカラード(混血)とインド人(1860年代より移入)にも与えられ、人種別三院制議会が導入された。
これを契機に黒人の反アパルトヘイト運動は高揚し、統一民主戦線(UDF)が結成され、都市近郊の黒人居住区(タウンシップ)を拠点に反政府闘争を展開した。これに対し政府は、1985年7月非常事態宣言を発令して弾圧を強化した。このため国際社会の非難は高まり、多くの国が1986年以降、対南ア経済制裁を実施していった。大統領ボータは1985年4月に「雑婚禁止法」「背徳法」、1986年4月には「パス法」を廃止、アパルトヘイト政策を一部緩和したが、このことが逆に白人右翼の反感を高めた。
[林 晃史]
1989年ボータが病で倒れたあとデクラークが大統領に就任し、黒人との話合いによって南アフリカの将来を決めてゆくという対話路線を打ち出した。デクラークはANC、PAC、南ア共産党を合法化するとともに、1990年2月には黒人解放運動指導者N・マンデラを釈放した。さらに同年5月と8月にはANCと予備交渉を行い、1991年6月には残されたアパルトヘイト法である「人口登録法」「土地法」「集団地域法」を全廃した。これを受けて1991年12月と翌1992年5月に、19政党・組織が出席した「民主南アフリカ会議(CODESA(コデサ))」が開かれた。この間、ANC系組織とインカタ(クワズールー・ホームランドの首相ブテレジを党首とする非白人合法政党)との武力衝突がたびたび起こり、交渉は中断され、死者は2万人を超えた。しかし、その後交渉は再開され、1993年4月と7月に26政党・組織が参加した「多党交渉フォーラム」が開催され、選挙までの移行期の政体として、暫定執行評議会(TEC)と暫定憲法が制定された。
この交渉の過程で、中央集権的国家を主張するANC、国民党(NP)に対して、地方分権主義のインカタ自由党(IFP)や民族自決を要求する保守党(CP)などの白人右翼は、選挙に反対した。ANC、NPは説得につとめ、右翼の一部は分裂し、自由戦線党(FF)として選挙に合意、IFPも選挙直前に態度を変えた。
制憲議会選挙は1994年4月26~29日の間実施され、右翼の妨害活動にもかかわらず無事終了した。投票率は約80%で、得票率はANC62.6%、国民党20.4%、IFP10.5%、FF2.2%、民主党(DP)1.7%、PAC1.2%で、ANCが最大得票率を獲得した。その結果を受けて、大統領にはANC党主マンデラが選出された。
[林 晃史]
マンデラは、政治面では民族和解・協調を掲げ、アパルトヘイト期の白人と黒人の対立、黒人間の対立の解消に努めた。その重要な一環として、アパルトヘイト体制下で行われた政治的抑圧や人権侵害の真相を明らかにし、被害者の復権を目ざす真実和解委員会(TRC)を1994年12月に発足させた。同委員会の委員長には大司教のデズモンド・ツツが任命された。TRC設置に対し、かつてのアパルトヘイトの推進者であった国民党から強い批判が出された。第1回公聴会は1996年4月にイースト・ロンドンで開かれ、引き続き各地で行われ、多くの証言がなされた。デクラークは国民党擁護の証言を行ったが、P・W・ボータは病気を理由に出席を拒否した。3500ページからなる最終報告書は1998年10月に公表され、人権侵害を行った人物・団体を指摘し、加害者には刑事訴追が行われた。
経済政策でマンデラは、経済成長と配分を同時に達成しようとする復興開発計画(RDP)を公表した。RDPは元来、ANCが選挙前に出した党の選挙公約であったが、国民統合政府の下で1994年9月にRDP白書として正式なものとなった。同計画の骨子はアパルトヘイトを一掃し、民主的で、人種差別、性差別のない未来を建設するために国民と資源を動員することを目的とした。
このためアパルトヘイト体制下で生じた黒人の貧困の解消が最大の目的であるとし、以下の具体的目標を掲げた。
(1)公共事業を通じた失業問題の解消
(2)土地改革による不平等な土地配分の解決
(3)住宅問題の解消(5年間に毎年30万戸以上建設)
(4)上下水道などの衛生施設の完備
(5)2000年までに250万世帯を電化する
同時にアパルトヘイト期の不平等で非民主的な教育を改革し、10年間の義務教育制度の実施、女性への機会の拡大をあげた。
一方、経済建設では、アパルトヘイト政策による構造的不均衡として次の9点をあげ、その解消を目標とした。
(1)白人・黒人の経済格差
(2)ホームランド政策による地域的不均衡
(3)保護政策下で発展してきた国際競争力のない輸入代替指向産業
(4)白人所有の大企業による集中・寡占化と黒人中小企業の未発達
(5)黒人の技術修得のむずかしさと熟練労働力不足
(6)農村での白人大土地所有と食糧自給もできない黒人小農の存在
(7)公社の非効率性
(8)慢性的赤字財政
(9)経済制裁下での外国資本逃避による国際収支の悪化
[林 晃史]
しかし、この目標は達成されず、失業は増大し、社会犯罪は激化した。このような状況下で副大統領のムベキThabo Mbeki(1942― )は1996年6月にマクロ経済成長戦略(GEAR)を発表し、2000年までに年率6%の経済成長率の達成、年間40万人の雇用創出など、経済成長重視の政策に転換した。この政策転換に対し、白人の南ア財界は積極的に賛成したが、ANCの重要な支持基盤である南アフリカ労働組合会議(COSATU)は批判し、政府との対立が生じた。
1997年12月、第50回ANC党大会が開催され、かねてから政界引退を表明していたマンデラにかわってムベキがANC党首に選出された。この間、政界の再編も行われ、野党国民党(NP)の党首デクラークは引退し、かわって若手のスコクルベイクが党首となり、きたるべき総選挙に備えて党名も新国民党(NNP)と改名した。一方、R・メイヤー国民党書記長は脱党してANCのB・ホロミサ(前環境副大臣)とともに統一民主運動(UDM)を結成した。
総選挙は1999年6月2日に実施された。選挙結果(得票率)はANC66.35%、民主党(DP)9.56%、IFP8.58%、NNP6.87%、UDM3.42%ほかとなり、ANCが最大得票率を得たのに対し、NNP、UDMは惨敗した。一方、前回選挙で惨敗した中道のDPは著しく票を伸ばした。この結果、ムベキが新大統領に就任した。
新大統領のムベキは経済面ではGEARを押し進めるとともに、外交面ではアフリカの再生を図るアフリカン・ルネサンス構想を打ち出した。同構想の骨子は、「現在、アフリカ大陸は冷戦の終結に伴い、先進諸国の関心が薄れ、援助が減少し、『周縁化』現象が起こり、アフロ・ペシミズムが蔓延(まんえん)している。これを覆すために、アフリカ統一機構(2002年発展的に改組しアフリカ連合となった)による紛争の自力解決・予防と平和創出、政治的民主化の推進、従来の援助依存から民間投資を中心とする経済建設とそのための環境づくりを通して21世紀にはアフリカの再生を目ざす」というものである。また、2001年にアフリカ統一機構で定められたアフリカ自身の開発目標プログラム「アフリカ開発のための新パートナーシップ(NEPAD)」の実現に貢献した。
2004年4月、民主化後3回目となる総選挙が実施され、ANCが約70%の279議席を獲得、ムベキ大統領も再任された。また、NNPは解党した。2008年9月、ANCの内部対立によりムベキが大統領を辞任、国民議会(下院)でANC副議長のモトランテが暫定大統領に選出された。2009年4月に実施された総選挙でANCは65.89%の得票率で264議席を獲得したが、1994年の民主化以来、初めて国民議会で議席数を減らした。総選挙後2009年5月に開かれた国民議会でANC党首のズマJacob Gedleyihlekisa Zuma(1942― )が新大統領に選出された。
[林 晃史]
1994年5月10日、新生南アフリカの初代大統領には、最大得票率を獲得したアフリカ民族会議(ANC)党首N・マンデラが就任。当時の暫定憲法(1993年成立)で定められたとおり複数副大統領制をとり、第一副大統領にムベキ(ANC)、第二副大統領に前大統領のデクラーク(国民党、NP)が就任した。
90人からなる上院は、新たに制定された九つの州から任命される各10人ずつの代表によって構成され、各州の代表は州議会選挙での得票率に応じて各政党が任命した。一方、400名からなる下院は全国区200人、地方区200人に分けられ、それぞれの候補者リストに基づいて選出された。
内閣に関しては、これも暫定憲法で定められたとおり、5%以上の得票率を獲得した政党から、下院の議席数に応じて閣僚が任命された。
1996年5月には、暫定憲法の規定によって2年以内に策定されなければならない新憲法(南ア新憲法)が、制憲議会を通過し、1997年2月に発効した。暫定憲法との相違点は、
(1)上院の廃止と全国州評議会の導入
(2)政党の強制的権力分与条項の廃止
(3)財産権の保護
などであり、NPは(2)に反対して6月、国民統合政府を離脱、副大統領デクラークも辞任した。NPの占めていた閣僚ポストはすべてANCが占めた。
大統領は国民議会(下院)の過半数の賛成で選出される。任期は5年で3選は禁止されている。議会は下院400議席で比例代表制で選出、新憲法施行で導入された全国州評議会(上院)は90議席でともに任期は5年。内閣は大統領が任免し、首相職はない。地方は九つの州に分かれ、それぞれ州政府、州議会が置かれている。
主要政党は以下のとおりである。
与党ANC(アフリカ民族会議)は最大議席をもち、党首は1991年7月以来、N・マンデラが務めていたが1997年12月T・ムベキに交代した。後にJ・ズマが党首に就任している。創立は1912年、アパルトヘイト体制に反対し、非暴力主義をとってきた。しかし1960年のシャープビル事件後非合法化され、本部をザンビアの首都ルサカに移し、1961年軍事部門「民族の槍(やり)(MK)」をつくりゲリラ活動を開始した。合法化後、デクラーク政権と一連の交渉を行い、1994年4月の制憲議会選挙を実現させた。
アパルトヘイト政策を続けてきたNP(国民党)は、1994年の選挙後、国民統合政府(GNU)に参加し、党主であったデクラークは第二副大統領となった。しかし、1996年5月の新憲法採択とともにGNUを離脱し、野党第一党となった。1997年8月、デクラークは政界から引退し、スコルクベイクが新党首となった。1999年選挙に備えて、党のイメージ刷新のためNNP(新国民党)と改称し、選挙に臨んだが、得票率6.87%(前回20.39%)、議席数28(前回82)と惨敗した。2000年にDP(民主党)と合併しDA(民主連合)を結成したが2001年に離脱。2005年に解党、消滅した。
DA(民主連合)はイギリス系白人中間層を基盤とする「進歩連邦党(PFP)」と、NP(国民党)を離党して結成された「国民民主運動」および「独立党」が1989年合体してできたDP(民主党)が前身で、多人種協調を掲げた。1994年選挙では得票率わずか1.73%、議席数3と惨敗したが、1999年選挙ではおのおの9.56%、38議席と躍進した。2000年に、NP(国民党)が改称したNNP(新国民党)と合併し、DAとなったが、2001年にNNPが離脱した。
ズールー人を基盤とするIFP(インカタ自由党)は、選挙前ANC系組織と対立し、黒人間で武力衝突を繰り返し、多くの死傷者を出した。選挙には反対してきたが、最終段階で態度を変え選挙に参加、10.54%の得票率で43議席を獲得し、選挙後は国民統合政府(GNU)に加わり、党首ブテレジは内相に就任した。1999年選挙ではおのおの8.58%、34議席と減少したものの、GNUにとどまった。
UDM(統一民主運動)は、NPから脱党したR・メイヤーと、同じくANCを除名されたB・ホロミサがつくった政党で、白人と黒人の協調をスローガンに選挙に臨んだが、得票率3.42%、議席数14とふるわなかった。
ACDP(アフリカ・キリスト教民主党)は1994年4月選挙を目的につくられた宗教政党。1999年選挙の得票率1.43%、議席数6。
白人右翼政党FF(自由戦線党)はCP(保守党)から分裂したものだが、体制内改革により、アフリカーナーの民族自決とアフリカーナー国家の建設を目ざす。1999年選挙で得票率0.8%、議席数はわずかに3。
PAC(パン・アフリカニスト会議)は1959年、ANCの非暴力主義に反対して分裂した組織で、1960年のシャープビル事件後非合法化され、「ポコ(唯一人)」という軍事部門をつくり、ゲリラ闘争を行った。1989年合法化されたが、政府との交渉を最後まで拒否。しかし選挙には参加した。黒人中心主義を目ざすPACは1999年選挙でもふるわず、得票率わずか0.71%、議席数3であった。
その他政党として主要なものに、PAC出身のデ・リリーが2003年に設立したID(独立民主党)、2008年のANCの内部対立からANCを離脱した前国防相レコタらが設立したCOPE(国民会議)がある。
2009年4月に行われた総選挙の主要政党の得票率および獲得議席数は、ANC65.89%・264議席、DA(民主連合)16.66%・67議席、COPE(国民会議)7.41%・30議席、IFP(インカタ自由党)4.54%・18議席、ID(独立民主党)0.92%・4議席、UDM(統一民主運動)0.84%・4議席などとなっている。
[林 晃史]
マンデラ政権の誕生とともに、アパルトヘイト体制下で正式の外交関係が断たれた国々との外交関係を再開し、また国際機関に復帰・加盟した。1994年5月にはアフリカ統一機構(現アフリカ連合)、非同盟諸国会議に加盟し、またイギリス連邦、国際労働機関(ILO)、国際連合にも復帰した。
マンデラ政権の外交の最重点地域は南部アフリカ地域にあり、このため1994年8月南部アフリカ10か国が構成する「南部アフリカ開発共同体(SADC、2008年現在加盟14か国)」に加盟し、周辺諸国との平等・互恵の原則に立ち、地域協力を進めている。南部アフリカ開発共同体は、1980年に南部アフリカ9か国が結成した南部アフリカ開発調整会議が、1992年に、より緊密な共同市場を目ざして改組されたものである。
軍事面では、1994年の選挙前から、旧政府軍(SADF)と反政府武装組織(アフリカ民族会議ANCの「民族の槍(やり)MK」、パン・アフリカニスト会議PACの軍事部門、「アザニア人民解放軍APLA」)、それに四つの「独立」ホームランド軍隊の統合が進められ、1994年5月新南ア国軍(SANDF)がつくられた。兵力数は常備軍6万2334、内訳は陸軍4万1350、海軍5801、空軍9183、医療部6000である。2007年の国防予算は38億4000万ドルである。
[林 晃史]
南アフリカ共和国は世界第一級の鉱産国であるとともにアフリカ最大の工業国である。鉱産物の採掘や工業化に必要な資本、技術は西側先進諸国、とくに第二次世界大戦後はアメリカから投下されたため、これら先進諸国は人種差別に加担しているとして国際社会で非難された。さらに1984年9月の人種別三院制議会の発足以来高まった対南ア経済制裁により、生産の停滞、資本の逃避、外資の流出、通貨の低落などが生じ、政府の経済運営にも大きな支障が生じた。しかし、1991年のアパルトヘイト法全廃宣言を受けて、ヨーロッパ、アメリカ、日本と各国の経済制裁が解除された結果、1993年以降経済成長率はプラスに転じた。国内総生産(GDP)に占める割合でみると製造工業20%、鉱業7%(1998)とそれぞれ高い値を示した。それでも1980年代に比べるとその割合は低下し、かわって金融(18%)、商業(14%)の割合が高くなった。次に国民の生活の状態をみると、白人の生活水準はきわめて高く欧米なみであるが、非白人とくに黒人は低い水準の生活に甘んじている。たとえば製造工業での月別賃金は白人374ランドに対し黒人67ランド、鉱業では白人399ランドに対し黒人はわずか22ランドであった。
2007年の国内総生産(GDP)は2775億ドル、1人当り国民総所得(GNI)は5760ドルで経済成長率は4.8%を記録している。失業率は2003年の31%から2008年には22.9%と改善しつつあり、白人と黒人の所得格差も狭まりつつあるが、黒人間での所得格差拡大の傾向がみられる。
[林 晃史]
南アフリカ共和国は石油を除くほとんどあらゆる種類の鉱産資源を有する。とくに金鉱は生産量において全世界の11.1%(2006)を占め、埋蔵量においても世界第1位を誇る。そのほか埋蔵量が世界第1位の鉱産物にマンガン、バナジウム、プラチナ、クロム、蛍石(ほたるいし)、アンダルサイト(紅柱石)、第2位のものに蛭石(ひるいし)、ダイヤモンド、ウラン、第3位のものにアンチモン、燐(りん)鉱石、チタンがある。これらの鉱産物は、従来イギリス系の鉱業会社によって採掘されてきたが、1980年ごろからは南ア共和国系の会社の比重が増している。石油は人種差別政策によりアラブ産油国から輸出ボイコットを受け、イランからのみ輸入していたが、イラン革命後はそれも停止された。政府はスポット買いによって備蓄を図るほか、石炭石油ガス公社が国内で豊富に産する石炭を液化して、内需の約半分を生産した。
工業は、第二次世界大戦後、輸入制限、保護関税措置、それに伴う外国資本の流入で急速に発展した。工業生産高は1946年の8.9億ランドから1975年には13.6億ランド、1994年には25.3億ランドと上昇し、就業人口もおのおの49万から135万、141万へと増加した。1995年の製造業の国内総生産高は1061億8000万ランドであったが、2005年には2549億9300万ランドに達した。製造業の就業人口比率は13.6%(2006)となっている。
業種は重工業から軽工業までほとんどあらゆる分野にわたっているが、そのうち石炭液化、燐酸肥料、鉄鋼、電力(原子力発電を含む)、兵器製造など重要部門は政府主導型の公社によって営まれた。これは、アパルトヘイト政策により国際的孤立化が深まるなか、国内での自給自足体制の確立と国防を目ざす開発戦略がとられてきたためである。工業開発計画としては1960年代初めより隣接地域工業計画(その後、工業分散化計画とよばれた)が実施された。この計画は黒人に対する分離発展政策の一環で、既存の工業都市への黒人の流入を阻止する意図をもっていた。すなわち、ホームランドに隣接する白人地域に工業をおこし、昼間のみ黒人を労働力として使い、夜間はホームランドに帰すというものである。その後、1993年の暫定憲法によりホームランドは廃止され、新たにつくられた9州にそれぞれ吸収された。1994年に成立した新政府は復興開発計画(RDP、ついでマクロ経済成長戦略=GEAR)により、各州がおのおの独自に工業化を進める政策を打ち出したが、ハウテン州や西ケープ州のような既存の工業中心地をかかえる州とそれ以外の州との州間格差は大きい。この格差を是正するため、政府は開発回廊計画(SDI)を進め、州間にまたがる回廊の沿線開発計画を重視している。また従来の白人の大企業に対し、黒人の中小企業育成に力を注ぎ、これによって失業問題の解決を図ろうとしている。
[林 晃史]
農牧業は、鉱工業の発展により、今日では林業、漁業を含めても国内総生産(GDP)の2.4%(2005)を占めるにすぎない。しかしもともと農業に適する気候であるため、白人が大農場経営方式で栽培するトウモロコシや小麦は、国内需要を完全に満たし、さらに輸出されている。これらの穀物生産のほかにクワズールー・ナタール州ではサトウキビとタバコの栽培、旧ケープ州(現西ケープ州など3州と北西州の一部)では果物栽培とぶどう酒製造、カルー高原では牧羊が盛んで、生産品の輸出が行われている。しかし旧ホームランドにおける農業は、土地に対する人口圧が高く、穀物すら自給できない状態で、黒人は白人地域に出稼ぎに出て生計をたてざるをえなかった。1994年以降、アパルトヘイト期の分離発展政策による白人・黒人の土地の不平等配分を是正するため、政府は土地改革を進めているが、進捗(しんちょく)状況は遅い。
漁業は、プランクトンの豊富なベンゲラ海流が西海岸を洗い、アガラス岬沖合いに広い大陸棚が発達するという好条件に恵まれている。そのため第二次世界大戦後積極的に開発が進められ、1968年には漁獲高が200万トンを超える世界第8位の水産国に成長した。しかし1970年以降は低迷し、1992年の漁獲高は61万トンに低下した。2006年の漁獲高は62万4000トンとなっている。魚の種類はニシン、アンチョビー、サバ、マグロ、エビなどである。
[林 晃史]
南アフリカ共和国の輸出総額は金を加えると輸入額を大幅に上回るが、金を除くと大幅に下回る。すなわち、金輸出が国際収支上大きな役割を果たし、金を除く貿易収支の赤字と、さらにサービス収支の赤字を補填(ほてん)しているのである。輸出品は金を中心に鉱産物、農産物など一次産品が主であるが、1980年代以降、加工品の輸出も急速に増えている。輸入品は機械類、自動車、金属製品など資本財、工業用原材料が中心である。2008年の貿易額は輸出861億ドル、輸入905億ドル。貿易相手国は輸出入ともに先進国の占める割合が高い。おもな輸出相手国は日本、アメリカ、ドイツ、イギリス、中国、輸入相手国はドイツ、中国、アメリカ、サウジアラビア、日本である(2008)。アフリカ諸国ではザンビア、ジンバブエ、モザンビーク、アンゴラ、ナイジェリアがおもな貿易相手国である。資本収支は、これまでEC(ヨーロッパ共同体、現ヨーロッパ連合=EU)、アメリカからの長期資本流入が安定的に続いていたが、国際的な非難の高まりのなか、1986年ECは南ア共和国への新規投資の禁止を決定し、アメリカも新規融資禁止を決めた。その後1991年2月、当時の大統領デクラークのアパルトヘイト法全廃宣言を受けて、国際社会は制裁緩和に動き出した。まず、ECが4月に制裁解除、7月にはアメリカ、10月には日本が全制裁を解除した。残るイギリス連邦は1993年12月の暫定執行評議会(TEC)発足とともに解除した。
財政支出規模は5296億1300万ランドで国内総生産(GDP)の30.4%(2006)に相当し、財政収支は赤字が続いている。支出のうち大きいのは教育、社会福祉で、軍事・警察費は大幅に削減された。赤字を補填するための借款を行い、対外債務残高は2008年で総額808億6990万ドル(対GDP比29.3%)となっている。南アフリカへのおもな援助国はフランス(1億5877万ドル)、アメリカ(1億4050万ドル)、オランダ(5323万ドル)、ドイツ(4053万ドル)、デンマーク(2542万ドル)などとなっている(2006)。
[林 晃史]
南アフリカ共和国はアフリカ諸国のなかではずば抜けた近代的輸送体系をもつ。鉄道は総延長2万1220キロメートル(2005)で、港湾と内陸を結ぶ大動脈として大きな役割を果たしている。またボツワナ、ジンバブエなどとも国際線連絡を行っており、周辺のとくに内陸諸国にとっても南ア共和国の鉄道輸送路は欠くことができないものである。自動車保有台数は乗用車約718万台(2006)に達し、アフリカ諸国のなかでも高い所有率を占めている。海運はダーバン、ケープ・タウン、ポート・エリザベス、イースト・ロンドンの四大貿易港があるほか、鉄鉱積出し港としてサルダーニャ港が、石炭積出し港としてリチャーズ・ベイが開港された。航空は国営の南アフリカ航空が1993年に民営化され、4航空会社が国際線をはじめ隣接国の主要都市を結ぶ地方線、国内線を運営している。1986年10月、国際民間航空機関(ICAO(イカオ))の総会で民間機の南ア共和国乗り入れ禁止が決議されたが、1991年アパルトヘイト法廃止とともに解除された。
[林 晃史]
住民は大別して4集団からなり、白人9.2%(2008、以下同)、黒人79.2%、カラード(混血)9%、インド・アジア系2.6%により構成されている。白人はオランダ系白人(ブーア人またはアフリカーナーとよばれる)が60%、イギリス系白人が35%を占め、その他が5%である。オランダ系白人は国民党(NP)を基盤に政治を支配し、一方イギリス系白人は経済を牛耳(ぎゅうじ)ってきた。カラードはオランダからの初期移民と先住民のコイ人およびマレー系移入奴隷との混血の子孫である。大半が西ケープ州に住み、同州ではカラードは黒人より多く最多数を占める。インド人は1860年代ナタールのサトウキビ農場に契約労働者として移入された人々の子孫が多い。黒人はほとんどバントゥー系で、ズールー人、コーサ人、北ソト人、南ソト人などからなる。
公用語は、英語とアフリカーンス語(オランダ語を基にブーア人がつくりあげた人造語)のほか9部族語の合計11言語であるが、黒人は各部族語を話している。
宗教は、キリスト教徒が人口の約80%を占め、多くの宗派に分かれている。白人の間ではブーア人の信仰するオランダ改革教会派が150万と最多数を占め、そのほかイギリス国教会40万、メソジスト36万、カトリック21万などがある。オランダ改革教会派の信仰のなかには選民思想が根強く、これがアパルトヘイトを支える土台となってきたが、1986年12月、会派内主流派は全国宗教者会議で「アパルトヘイトは誤り」との決定を下した。非白人の間では独立教会派280万がもっとも多く、メソジスト190万、カトリック160万である。このほかヒンドゥー教、イスラム教、ユダヤ教、伝統宗教の教徒が居住する。
[林 晃史]
かつて教育制度も基本的に人種別に分けられてきた。白人に対しては初等・中等12年間の無料の義務教育があり、カラード、インド人には初等のみ6年間の義務教育があった。これに対して黒人には義務教育制度がなかった。しかし、1994年の新政権の発足とともに、制度上は教育に関する差別は廃止され、全人種に対し10年間(7~16歳)の義務教育が適用された。初等・中等学校数は2万9000で生徒数は1500万(2006)。高等教育では、総合大学が22校あり(2002)学生数は約44万9000、テクニコン(職業訓練専門高等教育機関)学生数約21万6500、その他の高等教育機関学生数約35万6000(2003)となっている。識字率は88%(2007)であるが、若者識字率は95.4%(2007)である。2006年の国内総生産(GDP)に対する公的教育の支出割合は5.4%となっている。
新聞は、日刊紙が17紙を数える(2003)。アフリカーンス語紙ではケープ・タウンの『デ・ブルヘル』、英語紙ではケープ・タウンの『ケープ・アーガス』、ヨハネスバーグの『ザ・スター』が代表的である。放送は中立性を保つため、2000年に設立された南アフリカ独立通信庁(ICASA)の監督下に、南アフリカ放送公社(SABC)があり、11言語、18局のラジオ放送、それに11言語による3チャンネルのテレビ放送を行っている。商業用のラジオ局は15局、テレビ局は有料放送のM‐Net(1986年放送開始)や無料の民間テレビ局であるe.tv(1998年放送開始)がある。テレビ保有世帯数は708万(2006)、保有世帯率は59%となっている。
2010年には、アフリカ大陸で初めてサッカーのワールドカップが開催された。
[林 晃史]
日本はアパルトヘイト政策に反対して、1985年(昭和60)以来対南アフリカ経済制裁を強化してきた。しかし、制裁下でもアパルトヘイトの犠牲者である黒人に対しては、1990年(平成2)以降、草の根無償資金協力などを実施してきた。1994年5月の新政権の成立とともに、南アの国づくり・人づくりに協力することとなり、同年7月、今後2年間に13億ドル(政府開発援助3億ドル、日本輸出入銀行融資5億ドル、貿易保険5億ドル)の対南ア支援策を実施することを発表した。その後、プロジェクトの選定等に手間どったこともあり、1999年まで延長され、総額では15億ドル程度となった。2007年度までの累計援助実績では、有償資金協力201億4500万円、無償資金協力128億7000万円、技術協力72億2700万円となっている。また、1995年7月には大統領マンデラが国賓として来日し、1996年4月には当時の外相池田行彦(ゆきひこ)が南アを訪問、1998年には副大統領のムベキ(1999年大統領就任)が2回にわたって訪日するなど経済・文化を含めた幅広い交流が行われ始めた。1999年1月には前年まで首相であった橋本龍太郎(りゅうたろう)が南アを訪問、ムベキと会談、日・南ア・パートナーシップ・フォーラムが発足した。2003年には日・南ア科学技術協力協定が結ばれた。
日本との貿易額は輸出81億0500万ドル、輸入49億5100万ドルで日本の輸入超過になっている(2008)。おもな輸出品目はプラチナ、パラジウム、合金鉄、石炭、鉄鋼、金、木材チップなど、輸入は自動車および部品など輸送機械である。2005年末までの日本からの直接投資累計は約18億4700万ドルとなっている。
[林 晃史]
『伊高浩昭著『南アフリカの内側』(1985・サイマル出版会)』▽『林晃史編『南アフリカ・民主化の行方』(1994・アジア経済研究所)』▽『平野克己編『新生国家南アフリカの衝撃』(1999・日本貿易振興会アジア経済研究所)』▽『前川一郎著『イギリス帝国と南アフリカ――南アフリカ連邦の形成1899~1912』(2006・ミネルヴァ書房)』▽『西浦昭雄著『南アフリカ経済論――企業研究からの視座』(2008・日本評論社)』▽『佐藤千鶴子著『南アフリカの土地改革』(2009・日本経済評論社)』▽『リブロ国別情勢研究会編・刊『南アフリカ共和国 経済・貿易・産業報告書2009/10』(2009)』
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(大迫秀樹 フリー編集者 / 2010年)
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アフリカ大陸南端の共和国。首都プレトリア。住民の約68%がアフリカ人で,オランダ系やイギリス系の白人18%。カラード10%,アジア人3%。ポルトガルの喜望峰発見の後,1652年にオランダ東インド会社が補給基地(のちのケープタウン)を築いた。その後入植地として発展したが,ナポレオン戦争でイギリスが占領(1814年)。先住白人(主としてオランダ系の通称ブール人,のちにアフリカーナーと自称)の多くはイギリス支配を嫌って奥地に移住し,トランスヴァール共和国,オレンジ自由国などの国を建てたが,最終的には南アフリカ戦争でイギリスにより征服された。1910年イギリス連邦内の自治領として南アフリカ連邦が発足するが,アフリカーナー勢力の政治的影響力がしだいに強まり,61年イギリス連邦から脱退し共和国となった(94年復帰)。またアフリカ人を隔離,管理するアパルトヘイトを強行し,76年のソウェト(ヨハネスブルグ黒人居住区)蜂起に象徴される抗議運動を引き起こし,国際政治でも孤立した。だが内外の圧力に抗しきれず,94年史上初の全人種参加選挙が行われ,アフリカ人民族会議(ANC)が勝利し,党首マンデラが大統領に就任した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…1910年の南アフリカ連邦成立以前のボーア人共和国の一つ。正称は南アフリカ共和国。現在は南ア共和国北東部のトランスバールTransvaal州となっている。…
※「南アフリカ共和国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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