大工町
だいくまち
[現在地名]米子市大工町・愛宕町・祇園町一―二丁目
米子城の南東、外堀の南側出口に沿う。城南の搦手深浦の御船手曲輪に近く、出雲街道の両側にある町人町。国境陰田番所を経て北上してきた出雲街道は当町から米子城下に入り、伯耆街道と重なって北西へと延びて塩町・茶町・日野町・道笑町・糀町・博労町を通る。南は大谷村。総間数一一〇間半。町の南の外堀支流に円応院小橋、西に曲がると三十人鉄砲町から外堀を渡る感応寺橋(竹中橋)が架かる。円応院小路は橋まで一七間(明治二年「町々間数等書上」米子市史)。元禄八年(一六九五)の米子町中竈之覚(同書)では家持四五軒・借家二五軒。町割形成時は大工・左官など職人が集住した地区で、侍屋敷へ出入りする者も多かったとされる。当町居住の瓦師松原氏は播磨時代から池田氏に仕え、寛永年間(一六二四―四四)池田光仲の鳥取入部後米子に移住したと伝える。
大工町
だいくまち
[現在地名]中央区大手門一―二丁目
福岡城下六丁筋の町。東西に延びる通りの両側町で、北側に浄土宗西山派浄念寺(現西山浄土宗)、真宗西派徳永寺(現浄土真宗本願寺派徳栄寺)があり、西は簀子町、南は大名町堀端、東は本町、北は博多湾に臨む(福岡博多近隣古図など)。「続風土記附録」には「町内小名八百屋丁 横町なり」とある。町名は町立てが行われた際に大工が居住していたことにちなみ、浄念寺より東は那珂郡、西は早良郡の所属という(続風土記)。このため産土神は那珂郡部が薬院の警固宮、早良郡部が西町の鳥飼八幡宮であった(続風土記附録)。寛永一五年(一六三八)に大工は新大工町に移住(続風土記附録)、これによって商人町となった。
大工町
だいくまち
[現在地名]長岡市日赤町一―三丁目・春日一―二丁目
文化二年(一八〇五)写延宝年中(一六七三―八一)の長岡町割絵図(安禅寺文書)によると、信濃川右岸辺りにあり、上田町の西を内川の橋を渡ると当町に入る。幅六間の道を中にして南側に九軒・一〇軒・四軒・五軒・五軒、北側に九軒・一〇軒・八軒・八軒の各々小路で区画される家並が連なる。南に山本町が続く。元和(一六一五―二四)以来の御大工組と称する四八軒と町家が交じる。同八年の町割では長岡町一八ヵ町のほかに大工屋敷四町歩とされている(温古之栞)。
大工町
だいくまち
[現在地名]甲府市武田一―二丁目
元連雀町の北に続く町人地で、上府中二六町の一町。元城屋町二丁目の西に並行する南北の通りで、北は横田町と元緑町の間で交差するまでの小規模の町。町の中ほどを三ノ堀が横断している。「甲陽軍鑑」が記す番匠小路であるといい(甲斐国志)、町名は寛文二年(一六六二)の古府中町数家数間数改帳(県立図書館蔵)にみえ、大工職の居住に由来する。大工役引屋敷八軒と記される職人町で(元禄六年「諸職人御役引屋敷改帳」同館蔵)、城下役引七町の一つ。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(同館蔵)によると東側四九間半・西側四八間半。
大工町
だいくまち
[現在地名]金沢市大工町・片町一丁目
犀川にほぼ直角に東西に延びる通りの片側町で地子町。竪町の西にあり、西は犀川中川除町に続く。北は河原町、南方は通りを挟み池田町・十三間町。もとは河原町の一部。寛永八年(一六三一)四月の火災により今町・中町・修理谷坂近辺の御大工衆の拝領居屋敷が類焼、犀川大工町・出大工町・浅野川観音大工町(観音町)に代替地を拝領したとされるが(金沢古蹟志)、当該地域に御用大工を集住させ成立した町が大工町・出大工町・浅野川観音大工町と称されるようになったと考えられる。はじめ大工職のみを居住させたが、断絶した大工、あるいは没落して退去した者の宅地を藩が地子地とし、大工職以外も混住するようになった。
大工町
だいくちよう
下京区七条通大宮東入
東西に通る七条通(旧七条大路)を挟む両側町。町の南は下魚棚通にも面する。
平安京の条坊では左京七条二坊二保四町及び同八条二坊一保一町北側、平安中期以降は七条猪熊小路の地。
当町の北部は、平安京の官営市場である東市の内町、そして南部には外町があった(拾芥抄)。「東寺執行日記」貞治二年(一三六三)六月一七日条によると、石清水八幡宮神人等が、祇園社馬上役のことにより、神輿を奉じて入洛した際の記録に「今日辰剋男山神輿一基二宮云々、御入洛、即為武家沙汰、奉入当寺、安置鎮守拝殿、以中沢掃部大夫、相触子細於寺家訖、於七条猪熊辺振捨去了」とあり、七条猪熊辺りに振捨てて去っている。
大工町
だいくちよう
[現在地名]宇都宮市大通り一―二丁目
東は上河原町、南は大町、西は千手町、北は新宿町・寺町。東西に長い平坦な裏町。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)にみえる町人町。天保一四年(一八四三)の申上書(高田雅夫文書)に「永禄年中大工町へ穀座十六軒御定下し置かる、慶長年中蒲生飛騨守様御奉行小泉小兵衛、米穀点検し残らず城内へ御引取の処、その後、米穀相場大工町・石町両町へ仰付られ御代々二ケ町より市毎に相場書差上奉候」とあり、当町でも穀商売をしていた。
大工町
だいくまち
[現在地名]八戸市大工町
八戸城下の南端付近に位置する町人町。東は鷹匠小路、西は鳥屋部町、南は鍛冶町、北は寺横町に接する。文久年間(一八六一―六四)の八戸御城下略図に大工町とあり、町家とされる。大工の住む職人町としてつくられた町で、元禄二年(一六八九)鍛冶町とともに町奉行の支配下に入り、城下へ編入された(「八戸藩日記」同年一二月二一日条)。
大工町
だいくちよう
[現在地名]近江八幡市大工町
新左衛門町・鍛冶屋町の北に位置し、西は八幡堀、北・東は薬師町。いわゆる多賀村六ヵ町の一。元禄町絵図では東端に順応寺(現真宗大谷派)が描かれる。「輿地志略」にも大工町一町とある。元禄期(一六八八―一七〇四)以降の畑屋敷高は九石余(「八幡町屋敷畑高覚帳」近江八幡市共有文書)。宝永四年(一七〇七)頃には三三軒が蚊帳の製造内職にあたっていた(「織屋組合帳」西川文書)。江戸時代中期以降、各商人仲間に加入していたのは当町で木綿古手屋二、材木屋・紺屋・搗米屋・蚊帳屋・油屋・道具屋各一(八幡町史)。
大工町
だいくまち
[現在地名]鶴岡市陽光町・新海町
坂ノ上の西端、新町との間を南に入り、さらに西へ折れる温海街道沿いにある御抱大工職の町。大工は給人に含まれるから鶴ヶ岡町大庄屋支配下には入らなかった。町割の時期は不明だが、元和八年(一六二二)酒井氏入部以後であろう。延宝六年(一六七八)の城下絵図に大工町八五間とあり、南側小路奥に日蓮宗蓮昌(乗)寺がみえる。同寺は宝永六―七年(一七〇九―一〇)に最上町へ移転、跡地は安国寺へ下された(大泉掌故)。
大工町
だいくまち
[現在地名]城端町 大工町
善徳寺門前の西上町・東上町から南へ延び、新町に通じる。町域には西側裏通りの今町と東野下町の一部、東側裏道の坡場も含まれる(「城端絵図」城端図書館蔵)。慶長一〇年(一六〇五)の検地目録(川合家文書)には御大工町として一町六反半四四歩が記されている。町奉行支配下では小物成に各町の役家高に応じて賦課されるものがあったが、当町は無役地の取扱を受けている。
大工町
だいくまち
[現在地名]七尾市橘町
中小池町北側の東西に延びる通りの両側町で、北の通りは作事町、西は大手町、東は東地子町の飛地(所口地図)。元和二年(一六一六)の所之口町絵図に「大工町どをり」とある。大工が多く居住した町と考えられ、町肝煎が大工肝煎を兼任した(嘉永四年「諸役人勤申年数等書上帳」山崎文書)。宝永二年(一七〇五)の熊淵村仏前観音堂額に大工町三郎左衛門弟半兵衛作と彫られる。元和二年伝馬役銀制が施行されたとき当町に割付はなく(七尾市史)、承応三年(一六五四)の町夫割符の際も割付はなかったが(「夫役上納高調理帳」山崎文書)、明暦二年(一六五六)に町夫一一二人と定められた(「町夫割符之覚」七尾町旧記)。
大工町
だいくまち
[現在地名]相馬市中野 北反町
宇多川に架かる宇多川大橋の南端から、浜街道の中村城下南出入口にあたる枡形までの南北七〇間の通りで、工人町(木工町)・西町ともよばれた。かつて両側に木匠が居住していたのが町名の由来とされるが、幕末には大工のほか鋳工・石工・染工・商人・魚屋・洗湯屋・銃工・鍛工などが住む典型的な職人町となった。家数は幕末に二九戸を数えるが、貸家などもあって明確でない(以上「奥相志」など)。宇多川南岸は中野村に属したが、近世には当町や鍛冶町などの職人町が形成されるとともに、北反町から染師前にかけては多くの業種の職人が居住し、中村城下の一部をなしていた。
大工町
だいくまち
[現在地名]相川町大工町
鉱山に近い町部山側の高台に立地。東は諏訪町、下方西側は新五郎町。元禄七年(一六九四)の検地帳(相川郷土博物館蔵)では屋敷一町七反余。年不詳の相川町々書上帳(舟崎文庫蔵)では、町の長さ一六五間余。鉱石を掘る坑夫を古くは大工といい、「佐渡相川志」によると、慶長(一五九六―一六一五)より寛永(一六二四―四四)の頃まで、ここに銀山銀穿の大工が多く住んだという。
大工町
だいくまち
[現在地名]高松市大工町
桶屋町の西、同町と同じ筋にある両側町。西は丸亀町、北は西百間町。東西約一〇〇間・南北約四〇間(天保一五年城下図)。生駒氏時代屋敷割図では百間町の南側に並行して大工町があるが、享保期(一七一六―三六)までに東半分が西から桶屋町、野方町となって町区は半減している(享保年間城下図)。南側の東端には元文三年(一七三八)寺町の東光寺に移されたという太子堂があったと伝える(讃岐国名勝図会・高松市史)。文化年間(一八〇四―一八)大坂から当町に来住した山川元輔は、文政一〇年(一八二七)その居宅で明善館を開き、儒学・算数を教え、その孫山川波次は明善高等女学校の初代校長となった(高松市史)。
大工町
だいくまち
[現在地名]徳島市東大工町一―三丁目・新町橋二丁目・西大工町一―二丁目・紺屋町
西新町・東新町の南に並行する東西の通りに沿った町人地。交差する新町橋筋より北を西大工町、南を大工町、その南東を南大工町と称した(阿波志)。大工町・南大工町は土佐街道筋となっていた。貞享二年(一六八五)の市中町数並家数(民政資料)によると、これら三町を合せた大工町筋は東西の町数三町四七間半、家数一二三軒。町名は徳島城下町の建設にあたって中心的役割を担った大工職が住したことに由来し、諸職人が集住した東新町界隈は当町を中心に配置されたとみられる。貞享五年一月二六日夜に当町から出た火事は西船場へ延焼し、二六一軒を焼失した(阿淡年表秘録)。
大工町
だいくちよう
[現在地名]小田原市栄町一―二丁目
南の台宿町と北の須藤町を鉤の手につなぐ甲州道沿いの脇町。戦国時代の成立とみられ、町名は大工職人町であったことによると伝えるが、貞享二年(一六八五)の小田原町明細書上(県史九)によれば、大工頭は新宿町に住しており、近世は職人町といえず、宿場町として地人足役二四軒分を負担した。中島村地続きに持添新田の字渋取があり、その住人与助は、天正一八年(一五九〇)徳川家康の府内巡見を案内し、名字笹井を許され、渋取支配を命ぜられ、また渋取は後に侍屋敷になったという(風土記稿)。
大工町
だいくまち
[現在地名]村上市大工町
寺町の南側家並中ほどから南に向かって一町一間延び、安良町通と接し細工町口との十字路になる。寛永一二年(一六三五)の村上惣町並銘々軒付帳(本間喜千郎氏蔵)には「大工町桶屋・大工無諸役之家」とみえ、家数一九。うち役家は四軒のみで残り一五軒は無役であった。大工・桶屋・大金引が住していた。元治元年(一八六四)には三八軒となり、うち大工一八軒・桶屋一〇軒であった(「家別明細帳」板垣功氏蔵)。明治期になり料理屋や芸者置屋が急増し、第二次世界大戦まで賑った。
大工町
だいくまち
[現在地名]秋田市大町一丁目・保戸野通町の各一部
通町筋の西側、西端を画する六道の辻の西は保戸野鉄砲町。「梅津政景日記」には大工町の名はみえない。しかし、同書元和三年(一六一七)四月九日条に「我等指南之足軽五兵衛と申者、番匠町弥蔵所へ参」とあり、元和五年一月二日条に「大名衆其外根小屋町・両屋地町・菊ノ町・三丁堀川町・長町・六郷町・番匠町・細工人町まて礼仕候」ともある。番匠は大工で当初大工町を番匠町といい、大工の住む職人町であった。
通町とともに市の利潤を得ていたようで、寛延二年(一七四九)に常市の特権を与えられたが、町勢は振るわず、文化期(一八〇四―一八)の「久保田惣町家数軒数并御町寺々湊町惣町家数神社仏閣小間等之覚手控」(県立秋田図書館蔵)には「下ノ町」とある。
大工町
だいくまち
[現在地名]高岡市白金町
白銀町の南に続く両側町で、南は大工中町。もとの射水郡下関村にあたる。地子町で、町名は瑞龍寺の堂宇を建立する際、大工小屋が設けられ、以後大工が居住したことによるという。地子地歩数は二千九八〇歩で(明和五年「町会所御印初」高岡市立中央図書館蔵、「不歩記」)、明治六年(一八七三)の地子地三千七一二坪一合(沽券調総計帳)。天明五年(一七八五)の家数五二(家数書上帳)、明治五年の家数六七(高岡史料)。文政一二年(一八二九)矢木屋理助などが岐阜縞の製造を許された(高岡市史)。
大工町
だいくまち
[現在地名]平戸市職人町 大工町
平戸城の南西、白銀町の南に位置する。職人町五ヵ町の一つで、町名は大工の集住に由来する。元禄一〇年(一六九七)当時の諸職は家大工一八・主持大工六・染屋一のほか、諸色振売小商人二・御蔵仲仕一であった(町方年鑑次第)。同一六年には懸年寄が近藤市郎左衛門、頭料が安武弥左衛門であった(「役所手鑑」谷村家文書)。
大工町
だいくまち
[現在地名]浜松市大工町・元魚町
利町の南に位置する脇町。南北に延び、南は本魚町(井上氏時代城下絵図)。延宝五年(一六七七)の浜松町村家数高間尺帳によれば町の長さ三町二三間、家数六三。浜松各町書上によると町並は東側八二間・西側八九間、町幅二間三尺。横町として南小路(南側・北側とも長さ五七間)、北小路(南側三七間・北側四一間三尺)がある。本役家屋敷四二、総家数一〇五、うち借屋三二。本魚町境に鯉沢板橋があった。宝暦九年(一七五九)には当町の伝右衛門が大工頭で、大工役のうち本役が三二人、素人役が三六人、水役が一人に課されていた。
大工町
だいくまち
[現在地名]酒田市中町一丁目
東は桶屋町、西は上中町。東西に連なる両側町で、慶長―元和年間(一五九六―一六二四)中町三丁目として町割された(→中町)。御神宿帳甲乙全書(下日枝神社蔵)に慶安二年(一六四九)大工長左衛門がみえる。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)では中町三丁目として町の長さ五六間・屋敷二一軒。中町三丁目は大工町とも称しており、のち中町から分離した。天和三年(一六八三)の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)では町域は一町、家数三八・人数二四四。元禄一〇年(一六九七)の亀ヶ崎城下大絵図によると豪商鐙屋惣右衛門など二九軒があり、うち大工は二〇。
大工町
だいくちよう
[現在地名]盛岡市本町通一―二丁目
本町と八日町の北に位置し、北側東は油町、同西は花屋町に接する。内史略本「盛岡砂子」によれば町の長さ四町、「寛永図に、皆大工斗にて入口々々には其小頭をおかしめたり、本丁裏を上大工丁と云、八日丁裏を下と云也」と記される。寛永城下図に町名がみえ、奥州街道に並行して東西に延びる通りの両側町。中央を南北に寺町横町が通り、東は油町横町、西は三戸町(のちの日影門外小路)に接する。元文城下図では、当町の東は上大工町、西は下大工町と記される。寛永城下図での上大工町地域の屋敷数は北側一七・南側一四、油町横町に接する北と南の二軒は大工とみえる。
大工町
だいくちよう
[現在地名]岡山市東中央町
外堀の南西部に接する郭外職人町。南北の道を挟む両側町。東は外堀、南は瀬尾町、西は細堀を隔て大雲寺町と尾上町・桜町、北は大雲寺町。寛永城下絵図には町名の記載はなく、慶安城下絵図に大工町とみえる。宇喜多氏時代には成立していたと考えられる。貞享元年(一六八四)の岡山町中御検地畝高地子帳によれば町域は一町九畝余で、御免地の亀田古斎屋敷二畝余・普現寺屋敷一反余・馬方頭太郎大夫屋敷一畝余・惣代万右衛門屋敷三畝余・御左官又兵衛屋敷二畝・台屋藤三郎屋敷一畝余を除いた残り八反八畝余で、徳米一〇石五斗余・口米二斗余。
大工町
だいくまち
[現在地名]人吉市大工町
人吉城の北に広がる町人町のほぼ中央に位置し、北は鍛冶屋町、東は大村・二日町、南は二日町・九日町、西は紺屋町・鍛冶屋町に接する。明治時代の「熊風土記」によれば、文禄三年(一五九四)諸郷より職人を集め計画的に立てられた町。寛政元年(一七八九)の私領御巡見教令(相良家近世文書)によれば「大工町五拾七間半、道幅弐間四尺、横町五拾三間半、合壱町五拾壱間、但屋敷数五拾五軒」とあり、うち五軒が借屋で、町別当は惣助であった。同四年の飢饉に際しては最高一二七人分の米が用意されているが(人吉市史)、実人口はもっと多かったと思われる。
大工町
だいくまち
[現在地名]青森市橋本一丁目・堤町一丁目・本町五丁目・青柳二丁目の各一部
鍛冶町の東、松森町の西にある。
「青森市沿革史」は鍛冶町と同じ寛文一一年(一六七一)の町割とするが、「新撰陸奥国誌」は明暦二年(一六五六)に町ができたとする。貞享四年(一六八七)の検地では、二二人の町人が記される(青森市沿革史)。享保一〇年(一七二五)の青森町惣家別相改帳(八木橋文庫蔵)によれば、大工町の北側に一九人、南側に二一人、計四〇人の町人が数えられる。
大工町
だいくまち
[現在地名]福井市宝永四丁目・春山一丁目
北は神明町に接し、東は西子安町、西は祝町に続く。大工職人の住む町で、正徳三年(一七一三)町絵図出来の際調書(「福井市史」所収)には「六軒無役御扶持人大工、六十五軒職役内、大工彦兵衛大工庄屋並木挽庄屋共ニ相勤申」と記す。明治五年(一八七二)の調査でも大工一二・指物職一〇・塗師四を数えた(福井市史)。
大工町
だいくちよう
[現在地名]岐阜市大工町
中新町の西に位置する東西に延びる両側町。西は下新町に続き、町西端を南に折れると甚右横町。岐阜町四四町の一。織田信長による岐阜町建設のとき大工が呼寄せられて成立したとされ、明治の中頃まで大工職人が多かった。承応町絵図に大工丁とみえ、町西端を北に折れると「メクラヨコ丁」、南に折れると「甚右ヨコ丁」がある。岐阜由緒書(小林文書)では地子免許地反別六反四畝余。
大工町
だいくまち
[現在地名]黒石市甲大工町・乙大工町
黒石陣屋の西にあたる侍町。北は元町、南は境堰、東は陣屋に接する。享保(一七一六―三六)頃の黒石府家之図(浅瀬石川郷土誌)では、大工町の北側半分は前町とあり、大工町一〇軒、前町五軒とある。文化三年(一八〇三)の黒石火消組五ケ組(浅瀬石川郷土誌)では上町組に属した。元治元年(一八六四)の半右衛門火事は、大工町の黒石藩家中川村半右衛門方より出火してひろがった開町以来の大火で、大工町など一四町を焼失した(「分銅組若者日誌」黒石地方誌)。
大工町
だいくちよう
[現在地名]館林市本町一―二丁目
館林城の西、連雀町から南に入ったところにあり、東は片町、南は鍛冶町へ続く。延宝二年(一六七四)の城下町図に町名がみえる。寛文―延宝(一六六一―八一)頃と推定される館林町先規之次第覚書(館林市立図書館旧蔵)によると、当町一八戸中一七戸は大工職でこれらは一ヵ年一七〇工の職役に従事、その他の一戸は無役とある。
大工町
だいくまち
[現在地名]松山市住吉二丁目・三津三丁目・神田町の各一部
三津町西部を南北に貫く町筋。東西に通じる惣名広場と交差する。南端には松山藩の三津御茶屋があり、北端には藩の水軍根拠地御船場があった。藩主が城下から御茶屋へ赴く時の本筋道、御茶屋(藩主が乗・下船の場合の休憩所)から西海岸の御召船乗降場へ行く通り筋となっていた。
大工町
だいくまち
[現在地名]北区東天満二丁目・天神橋二丁目
農人町の西にある、天神裏門筋の椋橋町から北に延びる両側町で、町名は元禄年間(一六八八―一七〇四)の大坂三郷町絵図にみえる。これ以前はおそらくこの付近には町家が建っていなかったと考えられる。大坂三郷天満組に属し、元禄一三年三郷水帳寄帳では屋敷数七・役数二八役で、うち年寄分一役が無役。
大工町
だいくちよう
下京区土手町通七条上ル
南北に通る土手町通を挟む両側町。北西を河原町通が斜めに通る。
平安京の条坊では左京七条四坊四保九町南側と同一〇町北側にあたり、平安中期以降は左女牛万里小路の南の地。平安初期には、左大臣源融の河原院の地(拾芥抄)。
寛永一四年(一六三七)洛中絵図には「東大工町」とみえ、寛永以後万治以前京都全図、寛文後期洛中洛外之絵図、及び宝永二年(一七〇五)洛中洛外絵図に「大工丁」、「京町鑑」に「大工町 此町西の辻南へ行町も大工町といふ」とみえる。
大工町
だいくまち
[現在地名]福江市大荒町 職人町
福江城の北西に位置する。職人町のうち。寛永一一年(一六三四)の福江直りに伴って町割が行われた町人町の一つで、武家屋敷も置かれたようで、同年の武家屋敷数二(五島編年史)。天明四年(一七八四)城内の大工小屋が焼失(「御系譜雑録下書」同書)。
大工町
だいくまち
[現在地名]大津市中央二丁目
下小唐崎町の北にある横町。両替町とも称していた。元禄八年町絵図に町名がみえ、家数二四のうち借屋一。京極高次の大津城主時代に当町などに俵物商売をする者がいて、辻々に立って米仲のような商いをしていたらしい(「仲職成立次第」村上文書)。
大工町
だいくまち
[現在地名]姫路市紺屋町
姫路城南の外曲輪に位置し東呉服町の南にある町人町。町名は大工職人がいたことに由来するが、もとは亀井町とともに小手屋町と称し、鎧具を作る職人が多くいたという(大正八年刊「姫路市史」)。
大工町
だいくまち
[現在地名]川越市仲町・六軒町・連雀町
松郷の地に成立した町人町。志義町の西から南に折れる南北の通りで、南は中原町へ続く。「川越索麪」によれば、大工職人が町立てした町という。
大工町
だいくまち
[現在地名]高砂市高砂町大工町
高砂町方二八町の一つ。元禄期(一六八八―一七〇四)の高砂町図(船津家蔵)によると、西堀川沿いに寺町から南へ南北に連なる町並。安永二年(一七七三)の棟数四四・竈数六〇・店借二一、人数二五六、うち田地持一〇(「高砂町方明細帳写」船津家文書)。
大工町
だいくまち
[現在地名]水戸市元台町
台町より南へ続き、水戸街道に沿う町。もと吉田村地内であったが寛永二年(一六二五)以後町家となる。吉田大工町ともいう。台町の方から一町目・二町目となる。「水府地名考」は「昔は此町に大工の徒大勢住セしといふ、実に薬王院棟梁の文に、大永天正の比、大工棟梁皆川太郎左衛門なと見へ、今に其子孫連綿此地に住し、世々公家の大工棟梁職を勤むといふ」と記す。
大工町
だいくまち
[現在地名]宇和島市愛宕町一―二丁目
宇和島城の東方、樽屋町の南に続く町。御作事奉行の配下の下士に属する大工が居住したのでこの名が生れた。
大工町・樽屋町・本町通は一本の通りでつながる長い町筋であるが、家中町(侍屋敷)の道路に比較すると道幅が狭い。
大工町
だいくまち
[現在地名]福山市霞町一丁目・昭和町
医者町の東にあり、東西の通りに面する。居住者の職種から町名が生れた。水野時代福山城下地図にはみえないが、阿部初代福山城下地図には載っている。
大工町
だいくまち
[現在地名]八代市西松江城町・本町四丁目
当町は城の西、荒神丁のうち三ヵ所に分散されていた。しかし史料がないため職種については不明である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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