世界大百科事典(旧版)内の洛陽の言及
【京都[市]】より
…10世紀後半に書かれた慶滋保胤の《池亭記》にも,右京は人が去ってさびれ,左京の方に人口の集中したようすが記されている。嵯峨天皇の時,唐の都城名をかりて左京を洛陽(城),右京を長安(城)と名付けたことから,衰微した右京にかわり,左京の洛陽が平安京の代名詞ともなった。9世紀の段階における平安京の人口については決め手の史料を欠くが,宅地を班給されて京中に住んだ貴族をはじめ,課税が他地域に比して軽かった一般庶民,地方から徴発された課役民などをあわせ,10万人から15万人までの間であったろう。…
【平安京】より
…10世紀後半の成立になる慶滋保胤(よししげのやすたね)の《池亭記》は,右京には去る者はあっても来る者はなく,左京に人口が集中していると指摘している。平安初期に嵯峨天皇が唐の都の名をとって,左京を洛陽城,右京を長安城と名づけたが,右京の衰微により左京の洛陽が平安京の代名詞となった。また平安後期には朱雀大路ないし大宮大路が,ほぼ市街地の西辺となり,西朱雀(路)の名が生まれている。…
※「洛陽」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」