改訂新版 世界大百科事典 「松平氏」の意味・わかりやすい解説
松平氏 (まつだいらうじ)
中世後期の三河国の有力武士で,惣領家は1566年(永禄9)徳川と改姓して江戸時代の将軍家となり,一族は大名,旗本となった。
松平氏の発祥
江戸幕府公認の松平氏発祥譚では,清和源氏新田氏の庶家徳川氏の末裔は,足利氏の迫害のため,本貫の地上野国新田郡徳川郷を退去して時宗の僧となって諸国を流浪し,親氏(ちかうじ)の代に三河国加茂郡松平郷の土豪松平氏の娘婿となったのが,源姓松平氏のはじまりで,9代の後裔家康の代に〈復姓〉したという。この親氏より家康の父広忠までの8代を〈松平八代〉として,徳川将軍家の直接の祖先としているが,これは徳川氏が源氏であることの証明を親氏に求めたものである。源氏の末裔云々については後世の付会であるが,14世紀後葉に一遍歴僧が土豪松平信重の娘婿となり,還俗して親氏と称したことは,一応事実とみてよいであろう。
親氏の舅松平信重は父の信盛以来加茂郡9村,額田郡6村に所領を有した富者と地域の伝承は伝えるが,領主的地位などは明らかではない。親氏と,その弟とも子ともいう泰親の2代の事跡は不明のことが多いが,泰親は額田(ぬかた)郡山間の中山荘を入手し,15世紀初頭には中根大膳を倒して岩津に進出した。3代信光は西三河の3分の1を所領とし(《三河物語》),松平氏は大きく発展した。信光は1465年(寛正6)には室町幕府政所執事伊勢貞親の被官であったが,被官衆は伊勢氏管理の将軍直轄領(御料所)代官に任じられる例も多く,松平氏の発展といわれるものは,伊勢氏被官としての活動の結果とみてよいであろう。さらに信光は65年の額田郡牢人一揆鎮圧の戦功により,闕所地を給付されて所領を拡大したと推測され,また応仁・文明の乱では貞親に従って東軍に属し,動乱に乗じて岡崎,安城(あんじよう)などの西三河諸城を入手し,庶子に分与したものと思われる。このころ岡崎(光重),安城(親忠),能見(のうみ)(光親),長沢(親則),形原(かたのはら)(与副),竹谷(たけのや)(守家),五井(ごい)(忠景)らの庶家が成立したが,形原以下の宝飯(ほい)郡西部に分立した庶家が信光の子であった確証は見られない。信光のあとは長子親長(岩津家)がついだとみられるが,岩津松平一族は1506-08年(永正3-5)の今川氏との戦闘で滅び,後裔や系譜は不明である。
戦国大名への道
岩津家に代わって松平氏の惣領となるのは,信光三男という親忠を初代とする安城家である。はじめ親忠は,後に菩提寺大樹寺が創建される鴨田(現,岡崎市鴨田町)を分与されたらしいが,応仁・文明の乱後安城に移った。親忠は1493年(明応2)幕府奉公衆で加茂郡高橋荘地頭の中条氏との戦いに勝利し,碧海郡の国人,小領主を服属させるなどして勢力を拡大し,大給(おぎゆう)(乗元),滝脇(乗清),桜井(親房),矢田(張忠)に庶子を分立させた。もっともこの段階の松平氏には,一族一揆ともいうべき血縁的関係を基盤にした結合がみられ,惣領の圧倒的優位が確立してはいなかった。1496年ころ家督をついだ長親(文書では長忠,道閲)は1506年(永正3)からの今川氏の侵入をよく防ぎ,長く実権を掌握していたらしい。庶家は桜井家をついだ信定をはじめ,福釜(ふかま)(親盛),青野(義春),藤井(利長)が分出したが,長親は嫡子信忠よりは信定を愛し,信忠が暗愚と伝えられる面もあって,一族・被官は2派に分かれて内紛がおこった。結局信忠は1520年代初めに家督を松平清康に譲り,三木(信孝),浅井(康孝)を分立させて隠居した。
13歳で家をついだ清康は,岡崎へ移って連年のごとく合戦を続け,三河統一をめざした。彼の積極的な軍事行動は,駿遠の今川氏親・氏輝父子,尾張の織田信秀らの動向と軌を一にするもので,戦国大名への道の第一歩であった。31年(享禄4)より清康は新田源氏一族の世良田の姓を称したが,これは三河の諸領主層とは区別され,足利一門の今川,吉良,斯波ら三河や周辺の守護,奉公衆に対抗しうる名家であることを強調しようとしたのであろう。清康時代までに徐々にではあるが,庶家の家臣化や後の三譜代(安城,山中,岡崎)の原型である譜代家臣団の形成が進み,直轄領の農民支配機構の整備も進められた。しかし三河における松平氏の覇権は,35年(天文4)12月の清康の突然の死(〈守山崩れ〉)で中断した。
伊勢,遠江と流浪を余儀なくされた嗣子松平広忠は,今川義元の後援により37年6月に岡崎へ復帰し,一度は内訌は収拾されたが,西からの織田氏の圧力が強まると松平一族は再度分裂,広忠は今川氏への従属の度合を強め,松平氏の勢威は衰退の一途をたどった。49年3月に広忠が家臣に殺されると,松平領国は完全に崩壊した。当主不在となった松平領国には今川勢が進駐し,岡崎城は今川家臣が城代として管理するようになった。大給,形原,竹谷らの松平一族と上層家臣は今川直臣とされ,本領安堵のうえ駿府に出仕するなど,松平家臣団の今川家臣化が進められた。49年11月広忠の嗣子竹千代(徳川家康)は駿府へ送られて,義元の庇護下におかれた。三河一国は今川領国と化し,検地などの戦国大名今川氏の諸施策が行われ,支配体制の改編が進行した。55年(弘治1)14歳の竹千代は元服して松平次郎三郎元信と名のり,57年には義元の姪(関口氏,後称築山殿)をめとる。
家康と以後の松平氏
1560年(永禄3)5月19日の桶狭間の戦で今川義元が戦死すると,松平氏は今川氏から独立する。岡崎を回復した家康は,今川家臣化していた一族や譜代家臣を糾合して領国再建をすすめ,62年には織田信長と同盟して背後の安全を確保した。家康はまず西三河を平定し,63年秋から64年春にかけて三河一向一揆鎮定に成功,信長分国化していた旧高橋荘を除く三河一国を支配下におさめた。66年暮に家康は松平姓を徳川に改めるが,これは先述のごとく虚構の伝承にもとづいたものである。しかしこの〈復姓〉が三河統一のほぼ実現した時点であり,同時に従五位下,三河守に叙任されたことをあわせ考えれば,家康は名実ともに三河の支配者たることを内外に示し,名家の末裔を強調することで領国支配を確実化しようとした策略といえよう。これによって,松平一族においては家康の家系が惣領家であり,庶家はその家臣として明確に位置づけられることになったのである。60年代末に成立した徳川氏の三備(そなえ)の軍制において,庶家は石川家成,酒井忠次という譜代宿老を旗頭とする西,東に三河を2分した2組に編入された。以後松平一族には家督争いはおこらず,庶家は家康部将として各地を転戦し,戦功によって近世の譜代大名,旗本へと区分されていった。
江戸幕府成立後は,家康以前に分出し〈十四松平〉と総称された三河譜代の庶家のほかに,新しい松平一族が出現した。十四松平とは3代信光系の竹谷,形原,大草(岡崎),五井,深溝(ふこうず)(五井の庶家),能見,長沢,4代親忠系の大給,滝脇,5代長親系の福釜,桜井,東条,藤井,6代信忠系の三木の計14家であり,ほかに松平郷松平のごとく14家に数えられないものも幾家かあった。またこれらの庶家の庶流には,譜代大名の家臣化したものもみられた。三河時代には〈岩津の庶家〉と〈安城の庶家の頭〉の桜井家が序列の上位をしめたが,近世において大名となったのは形原,深溝,能見,大給,滝脇,桜井,藤井の7家であった。
新しい松平一族とは,家康の次男結城秀康の子孫(越前家)と三家の庶家(連枝),秀忠以後の歴代将軍の庶子や姻戚(保科,鷹司,越智(おち)),家康の異父弟久松氏系といった将軍の血縁グループ(家門)と,非血縁グループである。後者は松平姓を与えられた家臣(奥平,大須賀,戸田,松井,依田,柳沢)と,将軍の息女を正室に迎えた外様大名(13家)という擬制的一族である。これは豊臣秀吉による豊臣,羽柴姓下付にならったものであるが,一代限りの場合と,黒田,鍋島,蜂須賀家のごとく,代々継続して幕末にいたったものとがあった。
執筆者:新行 紀一
越前家
初代将軍徳川家康の次男秀康の子孫をいう。秀康は豊臣秀吉の養子となり,ついで関東の名族結城晴朝の養子となって結城氏を称した。1600年(慶長5)関ヶ原の戦後越前国67万石を領有して北ノ庄(福井)城に住し,2代将軍秀忠の代には将軍の兄として特別の待遇を受けた。2代忠直は松平氏を称し,暴政を行ったという理由で23年(元和9)配流され,秀康次男忠昌が福井52万5000石をついで3代となる。忠昌の子孫は領地高の変遷はあるが福井に住し,1818年(文政1)以降32万石を領有した(福井藩)。一方忠直の長男光長は,父配流のとき越後高田25万石を与えられたが,越後騒動の結果1681年(天和1)所領を没収された。養子宣富の代98年(元禄11)美作津山10万石に封ぜられ,以後津山松平家と呼ばれる(津山藩)。越前家では,福井城主の忠昌系と,その兄忠直系の津山家との間で本家争いがある。そのほか秀康の子で大名となったのは,三男直政,四男直基,六男直良である。直政は1638年(寛永15)出雲松江18万6000石に入封,子孫も同地を領有した(松江藩)。直基は結城氏の名跡を継ぐが松平を称し,48年(慶安1)播磨姫路15万石,子孫は各地に転封され,5代朝矩の1767年(明和4)武蔵川越に入封(川越藩),のち17万石となり1867年(慶応3)11代直克のとき上野前橋に居城を移した(前橋藩)。直良は1644年(正保1)越前大野5万石,2代直明の代82年(天和2)播磨明石6万石に移封(明石藩),9代斉宣は1840年(天保11)2万石加増されて8万石となるが,将軍家斉の子だったため10万石の格式を与えられた。以上の5家のほか,福井松平家4代光通の長男直堅を祖とし,直堅の孫直之が1717年(享保2)越後糸魚川1万石に入封した糸魚川松平家,さらに松江松平家祖直政次男近栄,同じく三男隆政を祖として1666年(寛文6)創立された出雲広瀬松平家(3万石)と出雲母里(もり)松平家(1万石)があり,合わせて8大名が存在した。
その他の大名家
松平氏を称する大名は大別して3種類ある。(1)家康以前の三河松平氏時代に分立した家,(2)家康の子孫の家,(3)松平の苗字を与えられた家である。
(1)家康以前に分立した松平氏は,三河時代の所領の地名をつけて呼ぶが,幕末まで存続したのは11家である。三河松平氏5代長親の三男信定を祖とする桜井松平氏には,摂津尼崎藩4万石の大名があり,同じく長親五男利長を祖とする藤井松平氏には,出羽上山(かみのやま)藩3万石と信濃上田藩5万3000石の大名がある。次に4代親忠の次男乗元を祖とする大給松平氏には,三河西尾藩6万石,美濃岩村藩3万石,信濃竜岡藩1万6000石,豊後府内藩2万1200石の4大名家がある。親忠の九男乗清を祖とする滝脇松平氏には駿河小島藩1万石の大名がある。さらに3代信光の四男与副を祖とする形原松平氏には丹波亀山藩5万石,信光七男忠定を祖とする深溝松平氏には,肥前島原藩6万5900石余,信光の八男光親を祖とする能見松平氏には豊後杵築藩3万2000石の大名がある。
(2)家康の子孫で松平氏を称し幕末まで存続したのは18家であるが,家康次男秀康系の越前家8家は先述した。残る10家は次のとおりである。6代将軍家宣の弟清武を祖とする石見浜田藩6万1000石の浜田松平氏(越智松平氏ともいう),3代将軍家光の弟保科正之を祖とする会津藩28万石の会津松平氏(保科松平氏ともいう),三家尾張家の分家で美濃高須藩3万石を領有した高須松平氏,紀州家の分家で伊予西条藩3万石を領した西条松平氏,水戸家の分家で讃岐高松藩12万石,陸奥守山藩2万石,常陸府中(石岡)藩2万石,常陸宍戸藩1万石を領した高松,守山,石岡,宍戸の各松平氏のほか,奥平信昌の四男(家康外孫)で家康の養子となって松平を称した忠明を祖とする家には,武蔵忍(おし)藩10万石と上野小幡(おばた)藩2万石の大名がある。三河松平氏の分流が譜代大名であるのに対し,家康の子孫は親藩大名と分類できる。
(3)松平姓を与えられた大名は,親藩では3代将軍家光の夫人の実家であり,紀州家と姻戚になる鷹司氏(上野矢田1万石)がある。譜代では家康の異父同母弟になる久松氏(伊予松山15万石,伊勢桑名11万石,伊予今治3万5000石,下総多古1万2000石の4家)のほか,松井氏(武蔵川越8万石余),戸田氏(信濃松本6万石),柳沢氏(大和郡山15万石余),本庄氏(丹後宮津7万石)の8家がある。外様では前田氏(金沢,富山,大聖寺の3家),薩摩島津氏,仙台伊達氏,福岡黒田氏,広島浅野氏とその内証分家,長州毛利氏,佐賀鍋島氏,池田氏(岡山,鳥取,鹿奴,若桜(わかさ)の4家),徳島蜂須賀氏,高知山内氏の16家があり,松平姓を与えられた大名は幕末では25家に達したが,1868年(明治1)新政府は本姓に復させた。以上のほか,大河内氏より松平氏に養子に行きながら,系図は大河内氏の分流のままにした大河内松平氏3家(上総大多喜2万石,三河吉田7万石,上野高崎8万石余)が譜代大名として存在する。
執筆者:上野 秀治
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