和歌の一つの形式で、五・七・五・七・七の5
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( ②について ) 「古今和歌集」の諸本で、巻第一九雑体の始めにある長歌に「短歌」と記されている。古今集を絶対視する考えから、これを正しいものとして、中世歌学では長歌を短歌、短歌を長歌と呼ぶ説が行なわれたもの。
ほぼ7世紀ころから現在までつくられ続け味わわれ続けている、各句五または七音節で五七五七七の五句からなる、日本固有の叙情詩形。
[藤平春男]
短歌は「和歌」に含まれるが、量質ともに和歌の中心をなしており、和歌史はほとんど短歌史といいかえてもいいほどである。短歌定型が成立したとき、それは類型的で非個性的な歌謡から脱皮して、かなり純粋な個人的心情の表現形式となったが、同時に、短詩形であるがゆえに、それが理解される場に依存しつつ詠まれ味わわれる度合いが大きかった。多くの場合その場とは、生活のなかに成り立つさまざまの共同体であって、具体的には各時代の社会構造に応じて変化があるが、歴史的な変化に応じる質的変容を示しながら、短歌は長く日本人の生活のなかに生き続け、現実生活との接触あるいは融合によって生命力をよみがえらせてきている。もちろん、ときには芸術的な純粋化を強く志向した時期もあるが、それが様式的固定化によって成長力を失ったとき、現実生活に根ざして歌うことによって新たな詩的生命を育てている。そのように短歌は日本人の生活と結び付きながら消長を繰り返してきており、多くの人に親しまれるとともに、またしばしば他のジャンルにも影響を及ぼした。連歌(れんが)や俳諧(はいかい)を分化させていくとともに、物語や日記などの散文文学における心情表現や自然描写にその表現方法が吸収されているし、巧緻(こうち)な修辞法はそのままに能の詞章に取り込まれもした。実用性を強めたときには呪歌(じゅか)的機能をもって歌われたり、あるいは道歌や教訓歌などともなったりしている。古典化しすぎたときには、「たはぶれ歌」や「狂歌」として日常生活に密着した笑いによって現代性を回復する試みもしている。日本文学史を貫いて生き続けた唯一のジャンルは短歌であり、それは短詩形ながら多面的な性格をつくりだしえたことによっているといえよう。
[藤平春男]
古代歌謡は非定型が多く、それが定型として固定していくには、文字による書記化が行われ始めたことが媒介となっているであろうが、定型が成立していくなかで最初から優勢だったのは短歌形式であった。定型化は長歌と短歌とが併行しつつ進行しており、定型長歌の末尾五句が独立して短歌定型が生まれたという説は事実に即していないと思われる。古代歌謡における非定型から定型への傾斜のなかに、すでに短歌と長歌との分化は生じていたのであった。定型に共通する問題は、なぜ五音節句と七音節句とが単位になっていくかということであり、短歌については、なぜ五句でまとまるのかであるが、五音節句と七音節句とに固定していく理由は、日本語の拍の特性に基づく音楽的根拠をあげる説が有力と思われる(具体的にはそのなかで諸説が分かれる)。また、五句でまとまるのは、その短歌定型が、焦点をもって凝集した心情を表現する叙情の形式として適しているためだといえる。五・七の繰り返しは単純ながら音数律をつくるが、奇数の五句になるのは、古代歌謡のなかの短歌(完全な定型でないものも含む)にみられるように、物象あるいは事象の表現が偶数句でなされていたところへ叙情部分(しばしば末句に置かれる)が加わって一首を形成するからで、事物に即して生じた心情の凝集は最短の五句体がもっとも純粋に表現するのである。短歌定型は、叙情詩が求められるようになったとき、具体的な事物に結び付いて生じた心情を凝集した形で表現しうる形式であったために、広く行われるようになった、と考えてよいであろう。五句構成の内在的文脈は多様で、さまざまの表現法を生み出している。
[藤平春男]
『古事記』『日本書紀』などの歌にはかなり短歌形式と認めうるものがあるが、すべて説話伝承と結び付けられており、表現も発想も集団の場に根ざして類型的である。『万葉集』の舒明(じょめい)朝(629~641)以前と伝えられる歌も同様に詠作時期や作者自体が説話性をもっているので、所伝の作者をほぼ信じうるようになるのは7世紀前半の舒明朝以降である。『万葉集』所収歌は、その舒明朝以降を四期に分ける。
第一期は、舒明朝以降、壬申(じんしん)の乱(672)までで、初期万葉と称され、代表歌人に額田王(ぬかたのおおきみ)がいるが、「熟田津(にきたつ)に舟乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕(こ)ぎ出(い)でな」(巻1)のように宮廷儀礼などの集団的な行事の場で口誦(こうしょう)された歌が多く、まだ呪詞(じゅし)性も濃厚である。第二期は、奈良に都の定まる710年(和銅3)までで、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の時代ともいえる。政治機構の整備も進んで、人麻呂の作品には、中国詩を媒介としての詩的表現への意識が明確に現れ、口誦性を脱皮しての文学的深まりを鮮やかに認めうる。「近江(あふみ)の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」(巻3)などである。第3期は、733年(天平5)までで、大伴旅人(おおとものたびと)と山上憶良(やまのうえのおくら)との接触がそれぞれの異質性を開花させ、宮廷歌人山部赤人(やまべのあかひと)・笠金村(かさのかなむら)らは、とくに赤人の自然観照に独自の達成を示し、高橋虫麻呂には叙事性と浪漫(ろうまん)性とがみられるなど、個性的な叙情が多彩に結実した。第4期は、『万葉集』所収歌の終末期までで、奈良時代中・後期であるが、中心的存在の大伴家持(やかもち)の叙情は「わが苑(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れくるかも」(巻5)のようにより繊細なものがみられるものの、主要歌人は家持周辺の人々であり、私的な発想の場で詩的生命力の衰退を免れていない。ほかに、民謡性をもつ東歌(あずまうた)や家持の集めた防人(さきもり)歌、また類型的表現が顕著だが集所収歌の半数近い作者不詳歌群など、『万葉集』の世界は多面的であって、和歌史を通じてもっとも豊かな内容をもつのは『万葉集』だといっても過言でない。
[藤平春男]
平安時代初期は国風暗黒時代と称され、漢文学全盛であったといわれるが、個人の私的生活や芸能の場などに潜んで口誦されていたようである。平安中期の初頭の905年(延喜5)に『古今和歌集』が最初の勅撰(ちょくせん)集として撰進され、短歌が宮廷詩として展開していくことになるが、その叙情表現の方法には前代までの技法が吸収されているし、発想が現実生活に根ざしていて、『万葉集』との連続性も指摘できる。しかし、感動をおこす対象としての事物よりも対象に向かう心の姿を表現しようとし、言語技巧によって意味表現を明確にしながら美的観念の拡充を求めるところに『古今集』(以下集名の「和歌」を略記)の創造があり、後出の『後撰集』(955~958成立)、『拾遺(しゅうい)集』(1005~07成立)を加えて拡充深化されていった美的観念は、様式的に固定化しつつ貴族生活に浸透していったのである。『古今集』の代表歌人紀貫之(きのつらゆき)は「さくら花散りぬる風のなごりには水なき空に浪(なみ)ぞ立ちける」(古今集・巻2)と詠んでいるが、その美意識は、平安時代中期に開花した散文の仮名文学によってより多彩に展開し、その美の伝統は次の時代に明確な伝統意識によって受け止められて、後代の芸術全般に大きな影響を与えることになった。
[藤平春男]
「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづるたまかとぞ見る」(後(ご)拾遺集・巻20)と詠んだ和泉式部(いずみしきぶ)は、短歌が貴族生活に溶け込んで社交語的役割を果たすようになった平安時代中期の歌人であるが、そのぬぐいえない個性的な叙情の深さは次代になって評価されるようになった。彼女の時代に成立した『拾遺集』から次の『後拾遺集』までの間には80年の勅撰集空白期があるが、その空白は、勅撰を下命する天皇や上皇が権力を独占する摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)の保護下に置かれていた結果である。実は空白期は短歌の量的拡大期で、そのかわり叙情の深さを失い、芸術的創造性に乏しくなっていった。それが、後三条(ごさんじょう)天皇(在位1068~72)の即位前後から摂関の権力が衰え、社会の深部に生じている変化に対応する院政が始まるころから、後宮中心の社交界とは異なる官人や遁世(とんせい)者あるいは受領(ずりょう)層の間に、短歌に新たな芸術的生命力を与えようとする試みが生じる。『後拾遺集』(1086成立)が久しぶりに撰進され、以下『金葉集』(1124~26成立)、『詞花(しか)集』(1151成立)、『千載(せんざい)集』(1188成立)と続き、鎌倉時代の初頭に入って、『新古今集』(1205成立)が『古今集』の伝統を受け止めながら『万葉集』とも『古今集』とも異質の短歌を創造するのであるが、それは映像交感による複雑微妙な情趣表現の芸術的創造であった。その新古今への道筋を開いたのは藤原俊成(しゅんぜい)であるが、新たな芸術的生命を探って苦闘した先人源俊頼(としより)は、中世への傾斜の道を歩んだ院政期歌人の象徴ともいえる。『新古今集』は、俊成指導下の藤原定家(ていか)らの新風達成を後鳥羽(ごとば)院が評価し、俊成と同時代の優れた叙情歌人西行(さいぎょう)の作品をも包み込んで結集させた成果であった。定家の「しろたへの袖(そで)の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く」(新古今集・巻15)にみられるように、美の伝統の世界のなかで自由に詩的想像力を働かせている点で、三代集までの古代詩とは異なる中世詩がそこに誕生した。
[藤平春男]
鎌倉時代から室町時代中期にかけて勅撰集は第9番目『新勅撰集』から第21番目『新続(しんしょく)古今集』までの十三代集が生まれ、準勅撰集に南朝による『新葉(しんよう)集』がある。室町時代に入っての終末期の4集は足利(あしかが)将軍の発起によるが、将軍の権力衰退とともに命脈を絶つ。勅撰集のなかで『玉葉(ぎょくよう)集』『風雅(ふうが)集』の2集だけ京極(きょうごく)派中心で、印象的な叙景歌や心理描写的な恋歌など、鎌倉時代中・末期に伝統の殻を破った新しい短歌美を示した。室町時代中期には正徹(しょうてつ)が出て、定家に心酔しつつ幻想美を追求する独自性を発揮したが、鎌倉・室町時代から江戸時代初期にかけて正統の二条派を中心として『古今集』回帰の傾向が顕著で、京極派や正徹は異端であった。短歌は連歌とともに古典学を伴いつつしだいに武家階級に広がり、それも上層から中下層へ、都から地方へと拡大していったから、その存在意義は、量的拡大による広範な階層への浸透や他の文学ジャンルとの交流にあるともいえる。日本人の美意識の共通性は室町時代に形成されたともみられるのである。
[藤平春男]
いわゆる古今伝授(こきんでんじゅ)は、和歌・連歌が随伴した古典解釈学なのであるが、それが学問的合理性を失って神秘化されたために、江戸時代中期以後鋭い批判にさらされた。江戸時代に伝えたのは細川幽斎(ゆうさい)だが、後水尾(ごみずのお)院中心の堂上(どうじょう)歌人らが中世歌学を継承し、江戸初期には中院(なかのいん)家や烏丸家などが栄え、中期以降も堂上和歌は根強く生き残っている。しかし、同じく幽斎の流れではあるが地下(じげ)歌人にやや新鮮な表現がみられ、やがて中期以降は、武士や神官・僧侶(そうりょ)また町人などから歌人が輩出して和歌の生命力をよみがえらせた。大きな流れは二つで、まず国学が盛んになるとともに古典和歌(そこではしばしば長歌も尊重された)を再認識して、叙情の源流をそこに認めようとするもので、とくに『万葉集』に回帰しようとする賀茂真淵(かもまぶち)の県居(あがたい)門が大きな流派をなし、万葉主義はことに地方歌人に個性的な実情歌を生み出さしめた。幕末の橘曙覧(たちばなあけみ)などは近代の享受に堪える作品を示している。もう一つの流れは、堂上和歌の流れを引く都会人的感覚を示す短歌で、これも大きな流派となった香川景樹(かげき)の桂園(けいえん)派が江戸末期に隆盛となって、明治時代にまで受け継がれている。
[藤平春男]
明治10年(1877)ごろまでの短歌は、江戸時代末期の諸派がそのまま存在し、形骸(けいがい)化し因襲化した旧来の風雅優美な美意識による題詠の作が行われていた。明治維新とともに急激に輸入された西欧文化や制度・文物のなかで、動き始めた散文の世界からも遅れたままの状態だった。ようやく『開化新題歌集』(1878)などによって新制度、外来の事物、風俗などを新題として詠む歌、歴史上の人物を詠む詠史歌にも西欧の人物が登場するなど、新奇な題材に動きをみせるが、内実は旧来のままだった。『新体詩抄』(1882)は、西欧の詩を手本とし、用語の現代化を図り、短小な短歌には複雑な思想は盛り込めない、長大な新体詩をつくるべきだという、短歌否定論でもあった。明治20年代になると、欧化主義的な思潮から素朴な国粋的な風潮がおこり、小中村義象・萩野由之(はぎのよしゆき)合著『国学和歌改良論』(1887)で、由之が題材・歌体など具体的に短歌そのものの改良論を提出し、しばらく多くの短歌改良論が書かれる。落合直文(おちあいなおぶみ)があさ香(か)社を結成(1893)し、鮎貝槐園(あゆかいかいえん)、与謝野鉄幹(よさのてっかん)、久保猪之吉(いのきち)、服部躬治(はっとりもとはる)、尾上柴舟(おのえさいしゅう)、金子薫園(くんえん)らの新鋭が集まった。「緋緘の鎧(ひおどしのよろい)をつけて太刀(たち)はきて見ばやとぞ思ふ山桜花」の作のように、直文は折衷派とよばれる旧派的美意識を付きまとわせるが、ようやく傘下の新鋭は自由に羽ばたこうとする。
[武川忠一]
1894年(明治27)鉄幹は「亡国の音(おん)」を書き、激しく旧派歌人を攻撃し、『東西南北』(1894)で「尾上にはいたくも虎の吼(とらのほ)ゆるかな夕(ゆふべ)は風にならむとすらむ」のような国士的慷慨(こうがい)調の作をなし、日清(にっしん)戦争後の国粋的な状況のなかで青年たちの共感を得る。「誰の糟粕(そうこう)を嘗(な)むる」のではなく「小生の詩」であるという革新への自負は、『明星』創刊(1900)によって「自我の詩」主張となり、『明星』は詩歌に心を寄せる青年たちを集め、与謝野晶子(あきこ)、窪田空穂(くぼたうつぼ)、山川登美子(とみこ)、茅野雅子(ちのまさこ)、平出修(ひらいでしゅう)、平野万里(ばんり)、相馬御風(そうまぎょふう)、水野葉舟(ようしゅう)、高村砕雨(さいう)(光太郎)、立野花子らがここから出発し、のちには吉井勇(いさむ)、北原白秋(はくしゅう)、石川啄木(たくぼく)らも参加する。『明星』は晶子の『みだれ髪』(1901)の「やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君」のような激しい恋の歌をはじめ、優婉(ゆうえん)な、夢幻的な、唯美的な空想とあこがれなどを歌い、『文学界』以来の浪漫主義時代を華やかに開花させた。
一方正岡子規(まさおかしき)は『歌よみに与ふる書』(1898)によって、桂園派源流の『古今集』を否定し、『万葉集』をよりどころとし、写生・写実を方法とする革新論を提出し、旧派への批判は鉄幹と同じく痛烈をきわめた。晩年の「いちはつの花咲きいでて我目(わがめ)には今年(ことし)ばかりの春ゆかんとす」など描写も自在で心情のにじむ作を残した。その門下から伊藤左千夫(さちお)、長塚節(たかし)、古泉千樫(ちかし)、島木赤彦(あかひこ)、斎藤茂吉(もきち)らの秀英が活躍するのはやや後のことである。また別に佐佐木信綱(のぶつな)は『心の花』(1898)を創刊し、徐々に新派的な歌風に接近していった。
[武川忠一]
小説を中心に自然主義がおこり、詩歌にも、空虚な夢幻的な世界よりも現実感のあるものが求められ、窪田空穂、若山牧水(ぼくすい)、前田夕暮(ゆうぐれ)、石川啄木、土岐哀果(ときあいか)(善麿(ぜんまろ))らはその影響を受け、心情の内実を歌い、自己告白や日常の生活感情の表白に新生面を開拓する。散文優位の時代のなかで、短小な定型詩の限界をつく柴舟の「短歌滅亡私論」(1910)なども書かれ、哀果・啄木の3行書きによる社会意識を歌う歌は生活派の源流となる。また北原白秋、吉井勇らは、自然主義を意識しながら、耽美(たんび)的・頽唐(たいとう)的な世界に自我を陶酔させようとする。子規の系統からは『アララギ』(1908)が創刊され、赤彦、茂吉、千樫、中村憲吉(けんきち)、土屋文明(ぶんめい)らの多くは前記のような動向のなかで、擬古的な作からの脱出が始まり、とくに頽唐派的なものとの交流のあとをみせる時期をくぐる。この明治40年代から大正初期の歌壇の蕩揺(とうよう)期に、『一握(いちあく)の砂』(啄木)、『赤光(しゃっこう)』(茂吉)、『桐(きり)の花』(白秋)など多くの近代短歌の名歌集が残された。
幾山河(いくやまかは)越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく 牧水
襟垢(えりあか)のつきし袷(あはせ)と古帽子宿をいでゆくさびしき男 夕暮
はたらけど/はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る 啄木
手の白き労働者こそ哀(かな)しけれ。/国禁の書を、涙して読めり。 哀果
手にとれば桐(きり)の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ 白秋
赤茄子(あかなす)の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 茂吉
信濃(しなの)路はいつ春にならむ夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ 赤彦
其(その)子等に捕えられむと母が魂(たま)蛍となりて夜を来たるらし 空穂
[武川忠一]
大正初期には、明治期からの短歌誌『心の花』(信綱)、『創作』(牧水)、『アララギ』、『詩歌』(夕暮)のほか、『生活と芸術』(哀果)、『水甕(みずがめ)』(柴舟系)、『国民文学』(空穂)、『地上巡礼』(白秋)、『潮音』(太田水穂)と、次々に歌誌創刊が始まり、いわゆる流派による結社が分立し、自然主義的傾向を推し進めた境涯詠(空穂)、生活派(哀果)、口語歌運動、象徴(水穂)から、木下利玄(りげん)のような44調の作など種々な傾向に分かれつつ、『アララギ』の写生論深化と歌壇の制覇を明確にし、中期以後はそれぞれの結社に閉じこもり、沈静な作へ推移する。この傾向から自由な窓を開けるべく『日光』(1924)に白秋、夕暮、善麿、釈迢空(しゃくちょうくう)らの中堅歌人が集まった。反アララギとみなされたが大きな運動体にはならなかった。
[武川忠一]
昭和初期には、既成歌壇に抗して、プロレタリア短歌運動がおこり、口語短歌運動を巻き込み、「新興歌人連盟」(1928)が結成される。離合集散を重ねながら、既成歌壇に与えた影響は小さくなかった。この新興短歌運動から、渡辺順三(じゅんぞう)はプロレタリア文学運動を、前川佐美雄(さみお)は芸術派、坪野哲久(つぼのてっきゅう)は芸術派的でありながら思想を根底に置く方向へ進む。自由律短歌の流行は夕暮などにも及び、経済不況や満州事変などの社会的不安から現実そのものをみつめて歌う「散文化」の傾向、さらにそれに反対する新浪漫主義、新幽玄体を提唱する白秋の『多磨』(1935)の創刊があり、『新風十人』(1940)に参加した佐藤佐太郎、佐美雄らの世代が台頭するが、戦争の暗黒期を迎える。
[武川忠一]
敗戦後、日本の伝統的文化への批判、短歌否定論、決別論が行われるなかで、茂吉、空穂、迢空らは優れた達成をみせ、続く世代の木俣修(きまたおさむ)、柴生田稔(しぼうたみのる)、窪田(くぼた)章一郎らも、新しく広い文学的視野のなかで短歌に立ち向かおうとする。続く世代の近藤芳美(よしみ)は戦争体験を踏まえた現実と思想に立ち向かい、宮柊二(しゅうじ)は同じ基盤のもとに人間の孤独に分け入って一時期を画した。さらに昭和20年代後半には、反写実的な美学による虚構を方法とする鋭い文明批評の作をもって登場する塚本邦雄(くにお)、その影響による岡井隆(たかし)らのいわゆる前衛短歌の時代を迎える。
みづからの行為はすべて逃(のが)る無し行きて名を記す平和宣言に 芳美
焼跡に溜(たま)れる水と帚草(はうきぐさ)そを囲(めぐ)りつつただよふ不安 柊二
馬を洗はば馬のたましひ冴(さ)ゆるまで人恋はば人あやむるこころ 邦雄
海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ 隆
このころから、写実を基底とする近代短歌の方法はようやく変貌(へんぼう)あるいは深化し、いわゆる前衛短歌に批判的である人々も、問題意識を深め、現代短歌のあり方を自覚的にしていった。現在は多様な方法による個性的な開花の時期のなかにある。また、結社誌、同人誌は500を超えるといわれ、新聞歌壇等の盛況など、短歌人口はかつてない膨大な数になり、とくに女性の進出が著しい。これは、長い伝統詩型である短歌の根の深さを示しており、現実の変貌とともに、それら層の厚い作者の作も動きをみせている。
[武川忠一]
『和歌文学会編『和歌文学講座』全12巻(1969~70/再版・1984・桜楓社)』▽『久松潜一・実方清編『日本歌人講座』全7冊(1961~62/増補版・1968・弘文堂)』▽『久松潜一著『和歌史』全5巻(1960~70・東京堂出版)』▽『島津忠夫他著『和歌史』(1985・和泉書院)』▽『木俣修著『大正短歌史』(1971・明治書院)』▽『木俣修著『昭和短歌史』(1964・明治書院)』▽『篠弘著『現代短歌史1』(1983・短歌研究社)』▽『『人と作品――正岡子規』以下24巻(1980~82・桜楓社)』▽『窪田章一郎・藤平春男・山路平四郎編『和歌鑑賞辞典』(1970・東京堂出版)』▽『窪田章一郎・武川忠一編『現代短歌鑑賞辞典』(1978・東京堂出版)』
短歌雑誌。1954年(昭和29)1月創刊、現在に至る。角川(かどかわ)書店発行。短歌の総合誌として、創刊時には第二次世界大戦後の「第二芸術論」の余波に抗して、釈迢空(しゃくちょうくう)、斎藤茂吉(もきち)、土屋文明(ぶんめい)、北原白秋、窪田空穂(くぼたうつぼ)などの特集とともに、とくに宮柊二(しゅうじ)、近藤芳美(よしみ)らの世代の活躍、やがて昭和30年代のいわゆる前衛派といわれる塚本邦雄(くにお)、岡井隆(たかし)らの運動を推進させるジャーナリズムの機能を発揮する。以後、昭和40年代には戦中派、50年代にはその後の新世代の登場を促すなど、研究・評論の充実とともに、結社中心の歌壇からの変質に寄与するところが大きい。1955年に角川短歌賞を設定。年1回発行の『短歌年鑑』は各年度の歌壇動向を示す。
[武川忠一]
俳句とともに日本の伝統的詩歌を代表する5拍7拍5拍7拍7拍の,5句31拍からなる詩。7世紀に成立し,1300年を経た今日もなお多くの支持を得ているきわめて長命な詩である。連歌,俳句を生み出しただけではなく,仏教とも深くかかわりを持ち,さらに謡曲,歌舞伎などにも深い影響を及ぼした。その意味で,文学史の中だけではなく,文化史,芸能史などへも広く深く影響を及ぼした独自な歴史を持つ。
〈短歌〉は,31拍からなるために俗に〈三十一文字(みそひともじ)〉とも称せられ,〈みじかうた〉と呼ばれることもあった。さらに〈敷島(しきしま)の道も盛りにおこりにおこりて〉(《千載集》序)とあるように〈敷島の道〉と呼ばれもした。ここでの〈敷島〉は〈敷島の大和〉の意味で,古くからの日本の道といった意味での呼称である。また,〈和歌〉あるいは,ただ単に〈うた〉と呼ばれることもある。短歌は,長歌,旋頭歌(せどうか)などとともに和歌の歌体の一つであったが,他が時代とともにすたれていったのに対して,短歌だけが持続的に支持を得てきた。そこで〈和歌〉といえば短歌をさすことになり,〈うた〉とだけいっても歌の代表である短歌をさすことになったようである。さらに,これは特殊なケースであるが,長歌を〈短歌〉と呼んでいた例もある。〈次に短歌といへるものあり。それは五文字・七文字とつづけて,わがいはまほしき事のある限りはいくらとも定めずいひつづけて,はてに七文字を例の歌のやうに二つつづくるなり〉(《俊頼髄脳》)などがその例である。ここで〈短歌〉と呼んでいるのは長歌のことであり,〈例の歌〉と呼んでいるのが5・7・5・7・7の〈短歌〉のことである。ちなみに《俊頼髄脳(としよりずいのう)》では,短歌を〈反歌〉〈例の歌〉〈例の三十一字の歌〉などと呼んでいる。こうなったのは,《古今集》巻十九の雑体部が,長歌の分類項目を〈短歌〉と誤記したためである。中世の歌論書には,この例のように,長歌を〈短歌〉と称する場合があるので注意されたい。
〈短歌〉という呼称は古く,《万葉集》に早くも登場する。名称の由来は,長歌に対するもののようである。《万葉集》では,このほか短歌を呼ぶのに〈反歌〉という呼び方も広く行われている。長歌に付される歌を〈反歌〉と呼ぶが,その大部分が短歌(旋頭歌が1例あるだけで,ほかはすべて短歌)であるために,そう呼ばれたのであろう。
また,自作の短歌を謙遜して〈腰折れ〉という場合もある。5・7・5・7・7の第3句目の〈5〉を腰句と呼ぶが,中心となるこの句の出来の可否が作品的価値を左右するところから,腰句が折れた短歌,下手な短歌という意味になるのである。ついでに,各句の呼び方も記しておこう。5・7・5・7・7を上3句(5・7・5)と下2句(7・7)とに分け,前者を〈上句(かみのく)〉,後者を〈下句(しものく)〉と呼ぶ。第1句(5)を初句,頭句,起句,第2句(7)を胸句,第3句(5)を腰句,第5句を結句,尾句,落句などと呼んでいる。5句31拍に合わない作を〈破調〉といい,長すぎるものを〈字あまり〉,短いものを〈字足らず〉と呼ぶ。また〈首(しゆ)〉という単位を用いて,1首,2首というふうに数える。《万葉集》以来の数え方である。
短歌形式の成立事情は,今日までの研究ではまだ分明ではない。《古今集》の序文に〈素戔嗚(すさのお)尊よりぞ,三十文字(みそもじ)あまり一文字(ひともじ)はよみける〉として,〈八雲たつ出雲八重垣妻ごめに八重垣つくるその八重垣を〉の一首を最初の〈短歌〉の例としているが,にわかには信じがたい。今日のおおよその了解では,〈短歌〉が定着したのは舒明朝(629-641),成立はそれをさかのぼるやや以前とみなされ,成立への道筋としては次の三つが考えられている。(1)長歌の末尾5句が独立して短歌となった。(2)5・7・7からなる片歌(かたうた)による唱和・問答のうちから短歌が成立した。(3)5・7・7・5・7・7という旋頭歌の第3句目が脱落して短歌となった。この三つが有力視されている。なお,なぜ5・7・5・7・7がとくに選びとられたかについても,日本語の音節,漢詩の影響,息づかいの問題等々がその理由の候補に挙げられているが,これに関しても定説はない。ただ,いずれにしても,8世紀に成立した《万葉集》全作品約4500首の9割強が短歌である事実は,5・7・5・7・7という形式が選ばれたのが単なる偶然の結果ではないことを語っていよう。以下,1300年にわたる短歌の歴史を概観してみよう。
奈良時代以前の時代,具体的には記紀歌謡から《万葉集》の時代を古代とする。記紀の時代の〈短歌〉は,短歌形式の短い歌謡と見るべき作がほとんどで,〈短歌〉のいわば胎生期とみなすことができる。そうした歌謡の中からしだいに個人の歌声が聞こえるようになって,万葉時代へと入ってゆくのである。記紀の時代の最末期,万葉時代の最初期に当たる斉明天皇,額田王(ぬかたのおおきみ)の作は,その数はごく少数ながら短歌胎生期の様相を示すものとして短歌史上注目されるのである。〈今城(いまき)なる小山(おむれ)が上に雲だにも著(しる)くし立たば何か嘆かむ〉(斉明天皇)。これは早世した孫建王(たけるのみこ)への挽歌(ばんか)である。万葉時代第2期に入ると柿本人麻呂という偉大な才能が登場して,短歌史は一挙に前進した。人麻呂は持統天皇の宮廷に仕えた人物と考えられているが,専門意識をもった最初の歌人として意欲的に作歌にとり組んだ。文字どおり短い短歌作品に作者の個性を刻印するという困難をなし遂げたのだった。〈小竹(ささ)の葉はみ山もさやにさやげどもわれは妹思ふ別れ来ぬれば〉(柿本人麻呂)。旅の歌のみを残した高市黒人(たけちのくろひと),戯笑歌という宴席歌に優れた長意吉麻呂(ながのおきまろ)も第2期の歌人である。万葉第3期,奈良時代に入ると,多様な個性を持った歌人たちが出現した。〈酒を讃むる歌十三首〉の短歌連作がある大伴旅人は人生を深く見透す大人の歌を,〈田子(たご)の浦ゆうち出でて見ればま白にぞ不尽(ふじ)の高嶺(たかね)に雪は降りける〉で知られる山部赤人は自然をうたって卓抜な作を残した。儒教思想を体しつつ独自な社会詠を残した山上憶良,伝説歌人として知られる高橋虫麻呂の2人は,むしろ長歌を得意としたが,短歌史の上でもやはり忘れることはできない。第4期に入ると,孤独や疎外感,美や季節の移りをうたってデリケートな抒情世界を確立した大伴家持が登場する。〈うらうらと照れる春日に雲雀(ひばり)あがり情(こころ)悲しも独りし思へば〉(大伴家持)。このほか,個性的相聞歌を残した笠女郎(かさのいらつめ),万葉女流中一番数多くの作を残した大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の2女流の存在も忘れられない。なお,〈東歌(あずまうた)〉〈防人歌(さきもりうた)〉は,都人たちの作とは内容・用語ともに異なる東国人独自の歌声を短歌によって伝えている。この時代の短歌には,5・7/5・7/7というかたちで2,4句で切れるいわゆる五七調の歌が比較的多い。
10世紀初頭に《古今和歌集》が成立して短歌史の流れは大きく変わる。勅撰集の時代に入るのである。この後,21代目の勅撰集となる《新続古今和歌集》までの約500年間にわたって勅撰集の時代がつづくが,その前半約300年が中古の時代となる。政治史でいえば平安時代と重なる。その劈頭(へきとう)を飾って中古の短歌全体の性格を決定づけたのは,《古今集》であった。《古今集》といっても多様な側面がある。時代的に早い在原業平,小野小町,僧正遍昭らのいわゆる六歌仙の歌風は,優美典雅な王朝的豊麗さをたたえた世界であった。そして,紀貫之,紀友則ら選者たちの時代の短歌は,鮮明かつ明確さを求めた表現世界であった。規範性をもって後の時代に広く影響を及ぼしたのは,選者たちの歌風である。〈袖ひちてむすびし水の凍れるを春たつ今日の風やとくらむ〉(紀貫之)。自然および社会の秩序に絶対的な信頼をよせる明快な世界観および明晰な言語観は,その切れ味のよい理知性とともに以後の短歌の規範とされたのであった。その後,《後撰和歌集》《拾遺和歌集》以下次々と勅撰集が出され,曾禰好忠(そねのよしただ),源経信,源俊頼らが用語,素材などにおいて革新的な立場をとって保守派と対立することで歌壇は活気づいたが,やがて藤原俊成が登場して新旧両派の歌風を統一,中世短歌の土台を築くのであった。なお,中古の時代に入って,上句(5・7・5)と下句(7・7)とが分離する傾向が見えはじめ,いわゆる七五調が優勢になってくる。
中世のはじまりは,ふつう政治史と重ねて鎌倉幕府の開幕を起点とするが,実質的な意味での短歌史における中世は,その少し前からすでに始発している。勅撰集でいえば《千載和歌集》(1188成立),歌人でいえば藤原俊成,西行がそれで,時代的には平安朝最末期ながら,その内実はいちじるしく中世的な色調をすでに強く帯びていた。中世短歌の特質は,象徴性と哲学性とを基調としつつ内面化の方向を強めた点に認められるが,俊成の歌論の核心をなす幽玄,《山家集》に見られる西行の短歌作品は,はっきりとそうした特質を示しているからである。
《千載集》の次の勅撰集《新古今和歌集》(1205成立)は,上に記したような中世短歌の特質を典型的に体現したもので,選者の一人藤原定家の歌論の中心をなす有心(うしん)は,この方向の極北へ言及したものとみなしてよい。〈見わたせば花ももみぢもなかりけり浦のとまやの秋の夕暮〉(藤原定家)。ほかに,後鳥羽院,藤原良経,式子内親王,慈円,さらには選者の藤原家隆,寂蓮らが《新古今集》の歌人としてその実力を示した。なお,《新古今集》に作品はないが,東国でひとり作歌をつづけて《金槐(きんかい)和歌集》を残した源実朝も,中世初頭を飾る歌人として忘れられない。その後,《玉葉和歌集》(1312成立),《風雅和歌集》(1349成立)といった特色ある勅撰集が出現し,万葉風をとり入れた自然観照に新歌風をひらいた京極為兼,さらに伏見院,永福門院,頓阿,正徹(しようてつ)といった優れた歌人があらわれもしたが,歌壇は,二条,京極,冷泉(れいぜい)3派に分かれて派閥争いをくり返ししだいに沈滞していった。こうした歌壇状況の中から,連歌が広く行われるようになってゆくのである。中古以来,初句切れ,3句切れの歌が多くみられるようになっていたが,その傾向がいっそう強まって,上句と下句の分離度が強まってきてもいた。正徹の弟子であった心敬(しんけい)は短歌作者としても活躍したが,連歌界でも大いに重きをなした。
江戸期は,大局的に見れば短歌の衰退期と見ることができる。俳句がこの時代の詩として隆盛してきたのに対して,短歌は全体的には低調だった。が,個々の歌人にはむろん優れた業績を認めることができる。前期は,豊臣秀吉の一族で家集《挙白(きよはく)集》のある木下長嘯子(ちようしようし),長嘯子の流れをくみ,ともに万葉研究に深い関心を示した下河辺長流(しもこうべちようりゆう)と契沖(けいちゆう)らが短歌史の上でも注目すべき作を残した。中期に入って,《万葉集》の精神,用語を積極的にとり入れることを主張する賀茂真淵が登場して,以後の短歌史に大きな影響を及ぼした。真淵の門流は県居(あがたい)派と呼ばれたが,やがて分派し,〈江戸派〉(加藤千蔭,村田春海ら),〈鈴屋(すずのや)派〉(本居宣長,加納諸平ら)としてともに競い合った。さらに〈ただごと歌〉を主張した小沢蘆庵,〈調べの論〉を提唱した香川景樹の2人は,反真淵の立場を前面に出すことで,自身の作風を鮮明にした。とくに,古今風を標榜(ひようぼう)した景樹の門流は隆盛をきわめ,江戸時代最大の流派〈桂園派〉を形成した。なお幕末にいたって,流派にとらわれることなく,自在な詠風を見せる歌人が登場した。越後の良寛,備前の平賀元義,筑前の大隈言道(ことみち),越前の橘曙覧(あけみ)らである。
この時代に入って短歌史は大きな展開を遂げる。印刷技術の発達による出版事情の変化,大衆化社会を背景にした歌人層の変遷,小説の時代への対応の仕方等々の新しい状況に対面して,短歌史は新しい局面をむかえたのであった。4回にわたって,いわゆる短歌否定論論議が行われたのも故なしとはしないのである。それは,(1)《新体詩抄》(1882),(2)尾上柴舟《短歌滅亡私論》(1910),(3)釈迢空(しやくちようくう)(折口信夫)《歌の円寂する時》(1926),(4)小田切秀雄《歌の条件》,臼井吉見《短歌への訣別》,桑原武夫《第二芸術》(1946)である。短歌史はここで,大きく次の3点を選び換元を行うことで新しい局面に対応しようとした。(1)は連作(複数の短歌によって一つの主題をうたうこと)を主流に据えたこと。(2)門流組織を排して結社雑誌中心の歌壇を形成したこと。(3)家集から歌集へと作品発表の形態を変えたことである。(1)の例として,正岡子規の藤の花の連作,石川啄木の〈忘れがたき人々〉,斎藤茂吉の〈死にたまふ母〉,長塚節の〈鍼(はり)の如く〉,前田夕暮の〈天然更新の歌〉,釈迢空の〈供養塔〉,木下利玄の〈曼珠沙華(まんじゆしやげ)の歌〉等々の連作短歌をいくつもこの時代の代表的成果として挙げることができる。これらはすべてひとまとまりが数首から数十首によって成る作品である。(2)として,佐佐木信綱の《心の花》(1898),与謝野鉄幹の《明星》(1900),伊藤左千夫の《アララギ》(1908),若山牧水の《創作》(1910),前田夕暮の《詩歌》(1911),尾上柴舟の《水甕(みずがめ)》(1914),窪田空穂の《国民文学》(1914),太田水穂の《潮音》(1915)等々が早く興され,昭和20年代に入ってからも,佐藤佐太郎の《歩道》(1945),窪田章一郎の《まひる野》(1946),近藤芳美の《未来》(1951),宮柊二の《コスモス》(1953)をはじめ数多くの結社雑誌が創刊され,それぞれの主張と個性とを競い合うことになったのである。(3)の例としては,与謝野晶子《みだれ髪》,若山牧水《別離》,石川啄木《一握の砂(いちあくのすな)》,北原白秋《桐の花》,斎藤茂吉《赤光(しやつこう)》,窪田空穂《濁れる川》,前川佐美雄《植物祭》,土屋文明《山谷集》,坪野哲久《桜》,斎藤史《魚歌》,塚本邦雄《水葬物語》等々の多数の名歌集が生み出されている。古典の場合の家集は,一世一代の集大成として作品をまとめるのがふつうであったが,歌集はその時点であるまとまった数の短歌を世に問うものである。したがって,より時代社会の文学状況との的確な対応を強いられることとなる。この期の短歌の特質として,現実との対応関係の切実さが指摘できるが,そうした文学主潮が家集から歌集への選択を決定づけたと見ることもできよう。いずれにしても,この期の短歌は,連作,歌集の問題を抜きにしては語り得ず,歌人については,結社および結社雑誌の問題を抜きにしては語り得ないのである。なお,この期の短歌運動として,口語自由律短歌運動,プロレタリア短歌運動,前衛短歌運動があって,短歌史の推進に貢献したことも忘れられない。
執筆者:佐佐木 幸綱
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和歌の歌体の一つ。長歌に対する語。形式は五七五七七音の5句体,三十一音になるところから,みそひと文字ともいう。5句をわけて,五七五の3句を上の句,七七の2句を下の句とよび,第1・3・5句をそれぞれ初句・腰句・結句などともいう。名称の初見は「万葉集」で,長歌に反歌のともなうことを「短歌を并せたり」と記すのは,反歌が短歌の形式によることを示す。短歌形式の成立については,旋頭歌(せどうか)の第3句が落ちたとする説,五七五七の4句体歌の末尾に1句が加わったとする説,長歌の終りの5句が反復されて,独立した反歌から派生したとする説などがある。平安時代以後,長歌・旋頭歌などほかの歌体が衰えるのにともない,和歌といえば短歌をさすようになった。短詩型としての固有の形態は,感動を凝縮して表現するのに適し,各時代の情趣や感覚を反映する融通性をも備えるなど,今日に至るまで長く文学史の主要なジャンルを占めている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
…朝鮮語ではシジョsijoという。日本の短歌(和歌)に似た面があり,短歌ともいう。形式は郷歌の形式の一部分を短縮したもので,初章[3・3 3・3],中章[3・3 3・3],終章[3・5~9・4~5]。…
…その意味で,文学史の中だけではなく,文化史,芸能史などへも広く深く影響を及ぼした独自な歴史を持つ。
[呼称]
〈短歌〉は,31拍からなるために俗に〈三十一文字(みそひともじ)〉とも称せられ,〈みじかうた〉と呼ばれることもあった。さらに〈敷島(しきしま)の道も盛りにおこりにおこりて〉(《千載集》序)とあるように〈敷島の道〉と呼ばれもした。…
※「短歌」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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