地蔵院(読み)じぞういん

日本歴史地名大系 「地蔵院」の解説

地蔵院
じぞういん

[現在地名]西京区山田北ノ町

西芳寺さいほうじ川南岸の衣笠きぬがさ山麓にあり、東方に京都盆地を望む。山号は衣笠山。俗に谷の地蔵と称され、また竹の寺ともいう。臨済系単立寺院。本尊は地蔵菩薩

〈京都・山城寺院神社大事典〉

〔創建〕

開山の碧潭周皎は北条氏の末裔で、初め密教を学び灌頂大阿闍梨となったが、のち臨済禅の夢窓疎石の門に入り、康永元年(一三四二)西芳寺(現西京区)住持となる(宗鏡禅師伝)。禅密兼学の人で公武の敬信を得たが、西芳寺檀越の室町幕府評定衆摂津能直の紹介で、管領細川頼之も深く周皎に帰依した。衣笠山はもと衣笠内大臣とよばれた近衛家良(藤原基実の孫)の別荘地だが、応安元年(一三六八)一〇月七日、頼之は当時尼妙性の私領であった衣笠敷地(山林付き)を三〇貫文で買取り(「妙性家地売券」地蔵院文書)、工事を開始し、地蔵院と命名した(笠山会要誌)。周皎は先師疎石を勧請開山とし、自らは第二世を称している。近隣の土豪も土地を寄進、松尾まつお(現西京区)神主秦相季は応安五年一二月七日に仁倉林にくらばやし西在家にしざいけの家地を、翌年九月に仁倉林内山大路の屋敷一所を当院に施入している(「秦相季寄進状」地蔵院文書)

地蔵院
じぞういん

[現在地名]北区大将軍川端町

天神てんじん川の西側にある。浄土宗、昆陽山と号し、本尊阿弥陀如来。寺伝は神亀三年(七二六)行基の開創で、明徳二年(一三九一)内野合戦の兵火で焼失、足利義満が北山きたやま殿(現北区鹿苑寺)造営の折、その余材で再建したという。「山州名跡志」に「在平野南紙屋河西、寺門北向、宗旨浄土、本尊阿弥陀仏五劫思唯像座像二尺五六寸、作未考、地蔵菩薩、観世音、安仏殿南小堂、地蔵立像五尺許、作行基、此像初安摂州昆陽寺、彼寺即行基所開也、有故移此寺、聖観世音立像六尺許作慈覚大師、初安置南都、因霊告当寺洛陽三十三所順礼第三十一番」とみえ、また山号の昆陽山は、小堂に安置された地蔵菩薩が摂津国昆陽こや(現兵庫県伊丹市)から移されたことにちなむことが知られる。

地蔵院
じぞういん

[現在地名]関町新所町

しろ山の東にあたり、九関山宝蔵ほうぞう寺と号し、真言宗御室派。本尊は地蔵菩薩坐像。通称せきの地蔵。元禄八年(一六九五)の地蔵院略縁起(当院蔵)によれば、天平一三年(七四一)創建と伝えるが不詳。平安初期に大日如来寺院に関係する地蔵院などの寺や坊舎が付近にあったといい、これらの総称を地蔵院略縁起にみえる久冠山宝蔵寺と称し、それ以後地蔵院が創建されたと考えられる(関町史)。享保三年(一七一八)の関地蔵菩薩瑞像記(当院蔵)には、最澄の弟子が当寺に住し、大同元年(八〇六)山号を久冠山、寺号を宝蔵寺と名付け、地蔵堂を東海道近くに建て、最澄を招いて落慶法要を営んだと伝える。

地蔵院
じぞういん

[現在地名]益子町上大羽

大羽おおば川上流の山間地にあり、高館たかだて山の東方に谷を隔てて位置する。隣接してつな神社、大倉おおくら神社、宇都宮家の墓所がある。大羽山と号し、真言宗智山派、本尊は阿弥陀如来。境内に山門と本堂・観音堂がある。地蔵院本堂は、建久五年(一一九四)に流罪となった宇都宮朝綱が赦免後尾羽おば山に地蔵院を創建した際、その阿弥陀堂として建てられたものと伝える。宇都宮正統系図(高橋英文書)に朝綱は「尾州入道」と号したとあり、宇都宮系図(下野国誌)には朝綱は孫頼綱に家督を譲って、芳賀郡尾羽山の麓に一宇を草創して自ら開山となり遁世した。

地蔵院
じぞういん

[現在地名]山陽町上仁保

上地山と号し、真言宗大覚寺派、本尊地蔵菩薩。天平年中(七二九―七四九)創建と伝える(備陽国誌)。寺蔵の縁起によるとかつて現在地より四、五町峰側にあったが、寿永年中(一一八二―八五)領主葛城左京進が移したという。地蔵院の宝物に天正六年(一五七八)銘の鬼瓦がある。文禄四年(一五九五)一二月の備前国四拾八ヶ寺領并分国中大社領目録写(金山寺文書)によると上地山は一〇石の寺領を認められている。元禄元年(一六八八)から同四年にかけて堂の修理をしている(前掲縁起)。「備前記」によると真言宗、上地山と号し寺号万楽まんらく寺、寺領七石余。

地蔵院
じぞういん

[現在地名]京北町大字上黒田

上黒田春日かみくろだかすが神社の東にある。曹洞宗、山号宝鏡山、本尊地蔵菩薩。明治維新までは春日神社の神宮寺であった。

万治元年(一六五八)に恕珍が上黒田村の惣庵として開いたと伝える。本山は越前の永平寺で、船井郡小山おやま(現園部町)徳雲とくうん寺および塩田しおた永林えいりん末寺でもあった。

上黒田には中世以来名主の持庵が幾つかあったが、吹上家の持庵は江戸初期に本山徳雲寺に願って光善こうぜん寺の寺号を付与されていた。その後吹上吉左衛門が、上黒田村民すべてを光善寺の檀家に付けようとし、寛文一二年(一六七二)一月、地蔵院の住職孤心は代官五味藤九郎に訴え出た(「地蔵院孤心訴状」吹上家文書)。代官は庄屋加右衛門・年寄作左衛門・同三郎右衛門・被告人吉左衛門に返答書を要求したが、返答書は存在しないので、おそらく和解が成立し地蔵院が村の檀那寺と認められたのであろう。

地蔵院
じぞういん

[現在地名]熱田区田中町

金宝山と号し、真言宗豊山派。本尊地蔵菩薩。文保元年(一三一七)、熱田社の祭主牧権太夫奉忠の後家勝仏が旗屋はたやに一宇を建立し、全海を請じて開山となし、金宝山亀命寺と号した。「雑志」所引の地蔵院文書に、文安四年(一四四七)のこととして、「幡屋玉井地蔵院」とあるので、当初建立されたという旗屋は、後世のたま町であったようである。諸社縁起文書(内閣文庫蔵)のうちの尾張国熱田太神宮縁起の奥書に、

<資料は省略されています>

とあって、南田嶋ともみえている。

地蔵院
じぞういん

[現在地名]熊本市南坪井町

もとの新坪井魚屋しんつぼいうおや町の南側にあり、延命山と号し、曹洞宗、本尊は地蔵菩薩坐像。「国誌」によれば、慶長五年(一六〇〇)宗岳そうがく寺開山玄雪の開基、寺地は口五間・入一三間の年貢地。本尊の地蔵は野中地蔵、あるいは草分地蔵と称され、「往昔小松山叢林ノ中ニアリシト云伝フ、以前湿地ニ在リテ常ニ汚水ニ溺ルヽニヨリ高阜ニ移セリ、即チ今ノ寺地ナリト云、按スルニ子養村ノ内ニアリシヤ未詳」と記される。現在の仏堂は北向きだが、地蔵は仏堂左側に西向きに安置され、武士が当院前を乗馬のまま通り過ぎようとして落馬したため、霊験を恐れて横向きにしたといわれる。

地蔵院
じぞういん

[現在地名]福井市安原町

安原やすはらを東西に走る通りの北側にある。曹洞宗。金剛山と号し、本尊は梅宮うめのみや大社(現京都市右京区)の祭神四座の中の一座酒解子さかとけのみこ(垂迹木花開耶姫)の本地仏十一面観音。もと真言宗滝谷たきだん(現福井県三国町)末で、金剛山那蘭陀尼ならんだに寺と称し、「越前国寺庵」にも真言宗に「東郷奈良谷寺」とみえる。

地蔵院
じぞういん

[現在地名]黒石市山形町

山形やまがた町の中ほど南側にあり、愛宕山と号し、真言宗醍醐派。本尊勝軍地蔵。寺伝によれば、承応三年(一六五四)僧日蔵が開山、元禄一〇年(一六九七)黒石領三代領主津軽政が祈願所として以来、黒石津軽家代々の祈願所となったという(新撰陸奥国誌)。本尊の勝軍地蔵は津軽為信が慶長年間(一五九六―一六一五)寄進したといわれ(「五山縁起」浅瀬石川郷土誌)、その頃愛宕山地蔵院は愛宕権現といわれ浅瀬石あせいしにあったという(「愛宕山地蔵院先祖書」浅瀬石川郷土誌)

地蔵院
じぞういん

[現在地名]高野町高野山

遍照光へんじようこう院の東にある。準別格本山。本尊地蔵菩薩。開基は尊海(地蔵坊仁済)で、鎌倉時代の信堅院号帳に「尊海阿闍梨之持仏堂也、改名仁済地蔵房云々」とある。もとは東の蓮華れんげ谷の万福まんぷく院の地にあり、万福院は当地にあったが、元禄年中(一六八八―一七〇四)替地をしたという。江戸時代は学侶方に属し、境内には本堂のほか護摩堂・鑁池ばんち院があり、院領三五石、室下は鑁池院を含めて五寺、末寺は四寺あった(続風土記)

地蔵院
じぞういん

[現在地名]岩井市小山

小山おやま城跡の南方に所在。医王山佐々木ささき寺と号し真言宗智山派。本尊阿弥陀如来。本堂・観音堂・薬師堂がある。宝永三年(一七〇六)の村明細帳(長野監治文書)に「真言宗薬師堂、本寺神田山村延命院、地蔵院、外に宮五社・堂一ケ所」とある。入口の石碑には「当院法流開基法印来正塔、医王山、佐々木寺、享保七年建立」とあり、「安政四丁巳光明真言供養塔、医王山、佐々木寺、寛忠代」の碑もある。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「地蔵院」の意味・わかりやすい解説

地蔵院
じぞういん

岩手県平泉町にある天台宗中尊寺の塔頭 (たっちゅう) 。建長2 (1250) 年作の金銅『孔雀文磬』 (国宝) ,中尊寺建立当時のものとみられる金銅『千手観音像』 (重要文化財) を所蔵する。

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デジタル大辞泉プラス 「地蔵院」の解説

地蔵院〔鳥取県〕

鳥取県倉吉市関金町にある真言宗御室派の寺院。山号は大滝山、本尊は大日如来。行基による開創と伝わる。木造地蔵菩薩半跏は国の重要文化財。

地蔵院〔栃木県〕

栃木県芳賀郡益子町にある寺院。本堂は1542年頃に建てられたとされ、国の重要文化財に指定されている。

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