翻訳|America
西半球において太平洋と大西洋を分ける大陸。南・北アメリカ大陸と西インド諸島の総称。アメリカという名称は,中部および南アメリカを探検したイタリアの航海・探検家アメリゴ・ベスプッチの名にちなむといわれ,1507年に発行されたワルトゼーミュラーMartin Waldseemüllerの《世界誌入門》に用いられたのが最初である。当初はコロンブスの発見した地域(西インド諸島と南アメリカ大陸)を指すことばであったが,のちに西半球の大陸全体を意味するようになった。アメリカ大陸は,北は北極海から南はドレーク海峡に至る一続きの大陸である。この大陸はパナマ地峡によって北アメリカ大陸と南アメリカ大陸に分けられる。面積は約4200万km2で,そのうち北アメリカが約2400万km2,南アメリカが約1800万km2である。一般にグアテマラからパナマまでを中央アメリカCentral America,中央アメリカとメキシコとカリブ海諸島とを中部アメリカMiddle Americaと呼ぶこともある。また,文化史的観点から,アングロ・サクソン民族の文化的伝統が強いアメリカ合衆国以北のアングロ・アメリカと,スペイン,ポルトガルのそれが強いメキシコ以南のラテン・アメリカとに区分することもある。
パナマ地峡で結ばれた北アメリカ・南アメリカ大陸は,太平洋側に新期造山帯のコルディレラ山系,大西洋側に古い地塊,中央部に構造平野的な低地が配列しており,地形の概要は南北ほぼ類似している。環太平洋造山帯の一部を構成するコルディレラ山系が北アメリカ大陸北部のアラスカから南アメリカ大陸南端のフエゴ島まで続き,両大陸の西部山地の骨格を形成している。北アメリカ大陸のコルディレラ山系はロッキー山脈,カスケード山脈,コースト・レーンジズ(海岸山脈)などの数列の山脈から構成され,これらの山脈の間にはコロンビア高原,コロラド高原,グレート・ベースン(大盆地)などの山間高原がある。この山系は第三紀の褶曲山地であり,自然美に富み,イェローストーン,ヨセミテ,グランド・キャニオンなど多くの国立公園がある。また,この山系は鉱物資源が豊かであり,石油,石炭,銅,亜鉛,鉄鉱,金,銀などが埋蔵されている。
南アメリカ大陸のコルディレラ山系はベネズエラからチリ南端まで約8500kmも続くアンデス山脈と,それに並行する小規模な山脈から構成されている。この山系は第三紀の褶曲以降の盛んな火山活動によって溶岩が流出し,また地下では火山岩の進入によって水成岩とのあいだに接触変質が行われ,豊富な鉱物資源が形成された。チチカカ湖を含むペルー,ボリビア地域ではアンデス山脈の幅は約600kmにも達し,広い高原を含んでひろがっている。
北アメリカ・南アメリカ大陸の東部にはローレンシア楯状地,ギアナ高地,ブラジル高原などの古い山地があり,その基盤は古い結晶岩や結晶片岩で構成されている。ローレンシア楯状地は北アメリカ大陸北部のラブラドルからハドソン湾を囲むように広がり,五大湖北部をへて北極海諸島に至る。この地域は北アメリカ大陸の北半分を占めた大陸氷河の活動の中心であったので,氷河地形が多く,とくに大小の湖が散在する。
また,北アメリカ大陸東部にはカナダのニューファンドランド州からアメリカ合衆国のニューイングランド諸州をへてアラバマ州まで達するアパラチア山脈がある。アパラチア山脈は古生代の褶曲山地が準平原化し,それが再び隆起したもので,標高は最高約2000mを示すにすぎないが,アメリカの開拓時代に西部への植民にとって大きな障害となった。アパラチア山脈は,(1)準平原化したピードモント(山麓)台地,(2)ブルー・リッジ,グレート・スモーキー山脈,(3)リッジ・アンド・バレー(連嶺と縦谷)地区,(4)アパラチア高原に区分される。ピードモント台地と東のコースタル・プレーン(海岸平野)のあいだには岩石の浸食抵抗の違いにより,滝や早瀬が形成され,その境界線は滝線と呼ばれている。滝線は大西洋に流れこむ河川の遡行の終点でもあり,この滝線に沿って河川交通時代に成立した都市(滝線都市)が並んでいる。アパラチア高原は水平な堆積層からなる。この地区の石炭紀層の地層には莫大な石炭が埋蔵され,100年以上にわたって北アメリカ採炭量の約3分の2を供給してきた。
南アメリカ大陸東部にはギアナ高地,ブラジル高原がある。これらは地質時代の浸食作用を受けて準平原化されており,標高は平均1000~2000mで,最高でも3000m以下である。ブラジル高原は南東部の海岸に向かって高度が上がり,内陸に向かって下がる。ギアナ高地はブラジル高原に比較して規模が小さく,おもに砂岩の広い小卓状地からなる。
北アメリカ・南アメリカ大陸の中央部には中央平原(北アメリカ)とアマゾン低地(南アメリカ)がある。中央平原はローレンシア楯状地とアパラチア山脈およびロッキー山脈のあいだに広がる広大な平原で,一般に東部の中央低地と西部のグレート・プレーンズ(大平原)に分けられる。オハイオ川とミズーリ川以北の中央低地は大陸氷河の影響を受けた地域で,湖沼や小丘陵が多い。グレート・プレーンズは西に行くにつれて高度を増し,ロッキー山麓では約1500mに達する。カナダの北部,西部には中央低地に相当するところはなく,グレート・プレーンズが広がっている。
南アメリカ大陸のアマゾン低地を主体とする平原は,アンデス山脈とブラジル高原とのあいだの構造平野であり,標高が200mを超えることはまれである。アマゾン川流域は南アメリカ大陸のほぼ40%を占めるが,全体としては盆地状であり,源流部を除いて大部分は台地が広がり,本支流に沿う沖積低地は全流域の10%程度を占めるにすぎない。オリノコ川,ラ・プラタ川流域にも平野が広がる。オリノコ平原はその長草植生からリャノと呼ばれている。ラ・プラタ平原は南緯15°から40°に広がり,その北部は熱帯草原のグラン・チャコである。アマゾン川,ラ・プラタ川とも河川の勾配はきわめてゆるやかで,アマゾン川では河口から約750kmのオビドス付近まで潮感地域となっている。
アメリカ大陸は南北に長く延び,北アメリカ大陸は北緯45~50°の位置で幅が広くなり,南アメリカ大陸は南緯5°付近で幅が最大である。したがって,北アメリカ大陸は冷帯気候の占める面積が広く,南アメリカ大陸では熱帯気候の占める面積が広い。北アメリカ・南アメリカ両大陸の気候は,南北に並んだ地形の影響を受けて,大陸の西部では太平洋の海岸線にほぼ平行する気候区となって現れ,大陸の東部では高い山脈がないので,気候区はおもに緯度の差によって東西に長く延びる地帯となって現れる。
北アメリカ大陸は,寒帯から熱帯までまたがっているため,多様な気候がみられる。北端部に氷雪気候,その南に亜寒帯・冷帯気候,大陸の南東部に湿潤温暖気候,コルディレラ山系南部に乾燥気候,太平洋岸に地中海式気候などがある。氷雪気候は年中氷に覆われたグリーンランドにみられる。ツンドラ気候は,短い夏のあいだだけ表面の凍土層が溶け,蘚苔類や地衣類が生える北アメリカ大陸北部に広がる。この南は亜寒帯気候となり,針葉樹林地帯となる。その南側の地帯は冷帯気候で,東部は酪農,西部は春小麦地帯となっている。アメリカ合衆国の東半分は湿潤温暖気候で,合衆国の主要農業地帯となっている。合衆国の太平洋岸南部はカリフォルニア海流(寒流)の影響で夏の気温が高くならず,季節風の影響も少ないため,冬の気温も温和で,年間を通じて温和な地中海式気候を示す。カリフォルニア州北部からアラスカ南部の太平洋岸は北太平洋海流と偏西風の影響を受けて降水量が増加し,高緯度にもかかわらず冬が比較的温暖な西岸海洋性気候となる。コルディレラ山系中の山間盆地は乾燥しているが,これはカスケード,シエラ・ネバダ,コースト・レーンジズなどの山脈が西風をさえぎり,東斜面の降水量を少なくするためである。
メキシコと中央アメリカは,中央部の山地と高原を除くとほとんど熱帯気候になる。メキシコ以南のカリブ海側では一年中降雨のある熱帯雨林気候,メキシコと中央アメリカの太平洋側は雨季(5~10月)と乾季(11~4月)のあるサバンナ気候となっている。
南アメリカ大陸も各種の気候区に分けられるが,熱帯気候が広大な面積を覆っている。アマゾン川流域とブラジル東部海岸は熱帯雨林気候で,その植生はセルバと呼ばれる。セルバは上・中・下の3層からなる常緑樹林で構成される。アマゾン川流域のセルバの北と南には熱帯草原のサバンナが分布し,オリノコ川流域ではリャノ,ブラジル高原ではカンポと呼ばれる。また,ボリビア南東部,パラグアイ北西部,アルゼンチン北部にかけて熱帯灌木林地帯が広がり,グラン・チャコと呼ばれる。ブラジル南部,アルゼンチン東部,ウルグアイ,チリ中部は温帯の湿潤温暖気候で,アルゼンチン東部からウルグアイにかけては,パンパと呼ばれる温帯草原が分布し,南アメリカ大陸最大の小麦・牧牛地帯である。この南部のパタゴニアもステップであるが,パンパよりもさらに乾燥・寒冷となり,環境もきびしい。ペルー南部からチリ中部にかけては,沖合のペルー海流(寒流)の影響を受けてアタカマ砂漠が発達している。
南アメリカ大陸のアンデス山脈では,山麓から山頂部に至る気候の垂直的変化と,それに対応する植生の垂直的変化が典型的にみられる。とくに熱帯のコロンビア,エクアドルなどで著しい。ここでは,一般に,標高約1000mまでは高温地帯(ティエラ・カリエンテ)で,熱帯植物で覆われる。その上方,標高約2300mまでは温暖地帯(ティエラ・テンプラダ)で,コーヒーなどの栽培に適し,さらに上方,標高約3300mまでは冷涼地帯(ティエラ・フリア)で,低い所は広葉樹林帯,高い所は低木帯や草原に移行し,小麦,トウモロコシ,ジャガイモなどが栽培される。さらに上方の標高約4300mまでは寒冷地帯(プーナ)と呼ばれ,大麦,ジャガイモが植えられる。これより上方の雪原までは不毛の荒地(パラモス)で,地衣類等ツンドラの生える斜面が点在している。
執筆者:菅野 峰明
南・北両アメリカ大陸の楯状地をつくる岩層中には,30億年ほど前の形成によるものがあり,それを中心に何回もの地殻変動を繰り返しながら大陸が成長してきたことがわかる。北アメリカ東岸や極圏カナダ北部の造山帯は古生代中期までに付け加わったものであり,その東方延長は,それぞれカレドニア山地,グリーンランド北部にまでのびている。北アメリカ大陸は,中生代後期の白亜紀ころまではヨーロッパ,グリーンランドの大陸部と一続きの超大陸ローラシアを形成していた。同じころ,南アメリカ大陸は,アフリカ大陸,南極大陸などと一連の超大陸ゴンドワナをなしていた。両超大陸の間には,古生代~中生代を通じてテチス海と呼ぶ広い海が開いていたが,それ以前は両者は西端で合体し,パンゲアという超大陸をつくりあげていた。
白亜紀ころから大西洋が開きはじめ,北アメリカ大陸はユーラシア大陸から離れて西進し,また南アメリカ大陸もアフリカと切れて西に向かって移動し始めた。このため,太平洋の東半分の海洋プレートと南・北両アメリカプレートとが衝突し,その間に,コルディレラ-アンデスを中軸とする褶曲山地をつくりあげた。北アメリカプレートの西進により,太平洋の形成センターである東太平洋海膨は北アメリカ大陸の下に覆いかくされてしまっている。この部分が,地表ではバハカリフォルニアの深い湾からソルトン湖,デス・バレーを通ってソルト・レークにのびる地溝帯として表現されている。レーニア山,イェローストーン,セント・ヘレンズ山など北アメリカ西部の火山群は,北アメリカプレートの下に沈下した太平洋プレートとの相互作用によるものと理解されている。
北アメリカ五大湖周辺に露出する先カンブリア時代の地層のうち,ガンフリント含鉄鉱層は,約20億年前のバクテリアや単細胞藻類の微化石を含むことでよく研究されている。
顕生代に入ってからのアメリカ大陸の地史は,常に大陸の基本構造である楯状地と,その縁辺部に位置する造山帯との対照性がよく出ている。古生代前半には,地形的に起伏の少なかった陸地中央部にも広く海水が浸入し,単調で連続性の強い地層を形成した。シルル紀~デボン紀には五大湖を中心に,外洋側に礁性堆積物,内陸側盆地に厚い蒸発岩類と赤色岩層が堆積した。デボン紀最後期に広く含ウラン黒色ケツ岩層が発達し,石炭紀(ミシシッピ紀とペンシルベニア紀)に入ると,各所に沼沢地が形成され,多くの石炭層ができた。二畳紀にはテチス型のフズリナ類が北アメリカ西岸,南アメリカ南西部等にも見いだされるようになり,ゴンドワナ系の南アメリカ大陸にもテチス海の影響が残されている。大西洋の形成が始まった白亜紀ころ以降は,南・北アメリカ大陸とヨーロッパ,アフリカとは異質の新大陸としての地史をもつことになり,ゾウ類で代表されるように,アジア要素は新生代になってアラスカ側を経由して再びアメリカ大陸に流入してくる。南アメリカで独自の発展をしていたオオナマケモノ-オオアルマジロ生物群は,これら北方要素の侵入後滅び,有袋類-ダチョウ群にみられるオーストラリアとのわずかな関連要素のみが残っている。第四紀の氷河期には北アメリカでも五大湖南方まで氷域が繰り返し広がり,内陸の大部分が氷河性環境に置かれたことが,モレーンなどの氷河堆積物や地形に残されている。
執筆者:浜田 隆士
北アメリカはほぼ動物地理区上の新北区に相当し,いくつかの固有種がいるが,ユーラシア大陸を中心とする旧北区と多くの点で共通する動物相をもつため,両者を併せて全北区とされることが多く,植物区系上は全北区として扱われている。
北アメリカはアラスカのツンドラからフロリダ半島の亜熱帯性の湿地帯まで,その環境はきわめて多様である。かつては中央部の大草原地帯(プレーリー)の雨量の比較的多い(年間約1000mm)草原の東部には,人間の背丈よりも高いイネ科の草が茂り,西へ行き雨量が少なく(年間500mm以下)なるにつれて,丈の低い草が密生していた。アメリカバイソンの大群と,独特な角をもつプロングホーンの群れが毎年移動して行ったこの大草原は,地下に複雑なトンネルを掘るプレーリードッグと,彼らを狩るクロアシイタチやソウゲンハヤブサの生活の場であり,コヨーテが徘徊し,ライチョウ類が奇妙な求愛の踊りを舞う舞台だった。この壮大な大草原地帯の様相は,各地に残る国立公園や野生生物保護区に小規模ながら今も残されている。
大草原地帯の東側(五大湖からメキシコ湾岸の平原まで)は,かつては広大な落葉樹林帯であった。カシ,クリ,ブナ,カエデなど約130種の樹木から成る森である。オジロジカと野生のシチメンチョウが数多く生息し,オオカミ,ピューマ,ボブキャット,スカンクなどが生息したが,今ではアパラチア山脈の山奥でさえアメリカクロクマを除くと,大型の肉食獣は見られない。樹上にはハイイロリスが巣を造り,アメリカムシクイ類,ドングリキツツキなどが樹間を飛び,この森は鳥たちの楽園であった。
大草原地帯の北側には湿地の散在する針葉樹林帯が約800kmの幅をもって帯状に広がり,その北にはトナカイやジャコウウシ,ホッキョクグマのすむツンドラがある。針葉樹林を構成する樹種はトウヒ,バルサムモミ,シロマツなどで,種数は少ないが数は多い。ここにはカンジキウサギとその捕食者のオオヤマネコ,ヘラジカ(ムース)とオオカミ,アカリスやシジュウカラ類とアメリカテンといったものたちが生存競争をくりひろげている。林床部にはシマリス(チップマンク)やヤチネズミ類,トガリネズミ類などの小型哺乳類が多く,それらを捕食するオオワシミミズクなどのフクロウ類も生息する。水辺にはカバノキやヤナギ類などの落葉樹が生育するが,それらを利用するビーバーをはじめ,マスクラットなどの水生哺乳類とアメリカヤマセミ,アビなどの水鳥類が生活し,サケ・マス類の魚類が冷たい急流をのぼってくる。
大草原の西側には北アメリカの分水嶺ロッキー山脈と太平洋岸にのびるコースト・レーンジズが横たわっている。この地域は現在も最もよく自然状態が保たれている。北部ではトウヒ類が多く,南へ下るにつれてダグラス・ファーやセコイアとなり,ついには熱帯植物が生い茂りメキシコにまで達する。樹林帯にはヒグマやハイイログマ,アメリカクロクマが生息し,ミュールジカやオジロジカも見られる。高山帯の岩場をオオツノヒツジやシロイワヤギが巧みに渡り,岩の上ではマーモットやロッキーナキウサギが日光浴を楽しんでいるが,上空から攻撃してくるイヌワシやアカオノスリなどを常に警戒している。
大草原の南西部は砂漠地帯である。リュウゼツランやサボテン類,アザミ類がまばらに生育し,多くの動物たちに隠れ家と食物を提供している。動物たちはいずれも乾燥によく適応している。カンガルーネズミやツノトカゲなどを捕らえるキットギツネ,サボテンに巣穴をつくるサボテンフクロウや動物の捨てた地中の穴にすむアナフクロウなどは,砂漠にすむ数少ない捕食者である。独特の歩行をするガラガラヘビ類やアナホリガメやヨアソビトカゲといった爬虫類も見られる。デス・バレー周辺には小さな湖が残存するが,そこには42℃の水中で生活するメダカ類(キプリノドン)が知られている。
大草原の南東部にあたるメキシコ湾岸には湿地帯が広がっている。高台にはカシ類やヒッコリー,野火に強いエリオットマツなどが茂り,海岸近くになるとサルオガセモドキがびっしりと着生したモクレンやカシが優勢となり,真の湿地帯ではヌマスギやチュペロゴムなどの樹木が生い茂り,周辺はマングローブで囲まれている。浮島が多く,そこにはスゲやイグサなどをはじめ,イネ科の草も密生している。
湿地は鳥類,爬虫・両生類,魚類の王国である。鳥類ではアメリカヘビウ,サギ類,浮草の上を歩くアメリカセイケイ,美しいフラミンゴなどの水鳥がおもだが,カンムリキツツキやニシクイトビなども分布する。ワニ類が大型の爬虫類で,ほかにアメリカヌマガメやヌママムシが生息する。ヒョウガエルなどのカエル類は多いが,アンヒューマやサイレンなどはこの地域に独特の両生類である。魚類では古代魚として知られるガーパイクが生息し,ハイレンなども代表的なものであろう。
メキシコ以南の中央アメリカを含めた南アメリカは,動・植物相ともに生物地理区上の新熱帯区に含まれ,動物では新生代第三紀に他の大陸から隔離されていたために,広鼻猿類,貧歯類,有袋類,ハチドリ類などの仲間の特徴的なものが分布している。植物では旧熱帯区と共通のものも多いが,サボテン科,カンナ科,リュウゼツラン属,キミガヨラン属などの固有種がみられる。
地形的には北アメリカと似てアンデス山脈が背骨のように連なり,山脈の東側は広大で湿潤であるが,西側は狭長で乾燥している。しかし,大陸の北半分ほどはアマゾン流域の熱帯降雨林で覆われている。そして南に行くにつれ耐乾性樹林から成るサバンナ的な地域が出現する。オオアリクイやアルマジロ類が生息し,アメリカダチョウの異名をもつレア,カマドドリやシギダチョウ類がみられる。
さらに南へ下るとチャコ,パンパ,パタゴニアステップと呼ばれる温帯ないし寒帯性の草原となる。タテガミオオカミやハイイロギツネなどの食肉類,ウサギのようなマーラやプレーリードッグに似たビスカチャなどの齧歯類,南アメリカでは数少ない大型草食獣であるパンパスジカがすみ,ダーウィンレアやアナフクロウの生息地でもある。
アンデス山脈とその西側の地域では低木を交えた山地草原と荒地,あるいは砂漠が点在し,南部ではナンキョクブナ地帯もある。この南部以南は植物区系上,周南極区として扱われる。この地域にはメガネグマ,ビクーナやラマ,チンチラなどの哺乳類,大型のアンデスコンドル,急流にのみ生息するホオグロヤマガモなどの鳥類が知られる。
ときおり起こった中央アメリカ地域の陸橋化は,両大陸に共通の動物をも生み出し,またアンティル諸島に独特の動物を残した。比較的最近になって北から南へ移住してきた哺乳類の代表はピューマであり,逆に南から北へ移住したものは,キタオポッサム,アルマジロ,キノボリヤマアラシ,そしてジャガーである。
西インド諸島に渡りすんだものは,食虫類のソレノドンや齧歯類のフーティアなどの哺乳類,胸部をふくらませ独特の威嚇誇示をするアノールトカゲ類,ガラパゴス諸島のリクイグアナともわずかに類縁性がみられるサイイグアナなどの爬虫類,美しいボウシインコ類やコビトドリなどの鳥類,両生類ではキューバミツユビガエルがおもなものである。
執筆者:今泉 忠明
アメリカ大陸では,新人以外の化石人骨は発見されていないので,人間居住は洪積世以後であり,渡来地についてはポリネシア説,アフリカ説等もあるが,現在もっとも可能性が高いと考えられているのはアジア説である。アメリカ大陸原住民とアジアのモンゴロイド人種の間には,毛髪,眼の色,蒙古ひだ,乳幼児にあらわれる蒙古斑など,形質的な類似が少なくない。おそらく洪積世末期の氷河時代に,海面のたび重なる降下によって生じたベーリング陸橋を通って,旧石器文化段階の東北アジアの狩猟民が徐々に北アメリカ大陸北部に進入し,やがて南下して南アメリカ大陸南端まで到達したものであろう。モリス・スウォディッシュによれば,アメリカ大陸の原住民言語はいくつかの大言語族に分類することができ,そのそれぞれが異なった歴史的深度を持つという。また,石器のうえから見ても,原始的なチョッパー,スクレーパー,ハンマーなどを中心とした古い伝統と,同じ打製ではあるが一定の様式のもとに綿密な加工が施された飛道具用の尖頭器によって代表される新しい伝統が画然と分かれ,しかもそれぞれの伝統の細分が可能である。いずれにしても,アジアから渡来した最初のアメリカ人たちが,等質の集団ではなく,何万年かにわたる自然環境の変動の間隙をぬって少しずつ渡来,定着していった文化的に多様な数多くの集団から成り立っていたことは確かだろう。
これら初期アメリカ人が,南・北アメリカのさまざまな自然環境に適応してゆくうちに,前7千年紀ごろから,メキシコおよび中央アンデスにおいて植物栽培の試みが始まり,前者においてはトウモロコシ,後者においてはトウモロコシおよびジャガイモを主要作物とする集約農耕が,遅くとも前1500年ごろまでに確立し,農村共同体が各地に出現した。メキシコにおける農耕文化は,北に向かっては現在の合衆国南西部,ミシシッピ川流域地方,南東部等に波及し,南に向かっては中央アメリカから南アメリカ最北部にまで伝播した。また中央アンデスの農耕文化も,北アンデス,南アンデスの諸地方まで及んだ。南アメリカ大陸のアマゾン,オリノコ低地においては,それとは別系統のマニオク等の根菜栽培に基礎をおく熱帯焼畑農耕が発達した。農耕地帯の中で,メキシコおよびそれ以南の中央アメリカの一部を含むいわゆるメソアメリカと,中央アンデスにおいては,前1000年前後から大きな宗教文明が興り,大神殿を中心に多数の農村共同体が結合される大規模社会が出現した。メソアメリカ地域においては後1千年紀の間に,メキシコのテオティワカン,エル・タヒン,モンテ・アルバンおよびマヤの諸神殿のような祭祀センターが成立し,中央アンデスにおいても,ペルーのモチェ,ナスカ文化,ボリビアのティアワナコ文化などの文明が興った。1000年以後には両地域からはいくつもの地方国家が生まれ,その最終段階において,メキシコ盆地に拠るメシカ(アステカ)国家,ペルー,クスコ盆地に拠るインカ国家(タワンティンスーユ)が軍事征服を行って広領域にわたる政治社会を建設した。以上述べた農耕の及ばなかった地方,すなわち北アメリカの大部分や南アメリカのパンパ,パタゴニア地方などは,ヨーロッパ人の到着まで狩猟採集民の小集団が点在する人口密度の低い地域にとどまった。
ヨーロッパの白人種が大西洋を渡ってアメリカ大陸に到着したのは,11世紀初めスカンジナビアのバイキングが,ニューファンドランドおよびその近接地にいたったのが最初であったが,本格的・系統的な植民運動が始まったのは,1492年のコロンブスの航海以後である。コロンブスは第1回航海でバハマ諸島,キューバ,イスパニオラ島を発見し,98年の第3回航海で南アメリカ大陸本土に接触している。彼はアメリカをインディアス(アジア)と信じ,南アメリカ大陸の存在を知ったときにも,それが東アジアの既知の部分すなわちカタイ(中国)に接続する新しい大陸と考えた。コロンブスのインディアスが実はアジア,ヨーロッパ,アフリカ以外の第4の大陸であると認識し,それをアメリカと命名したのは,アメリゴ・ベスプッチの航海記にもとづいて世界地図に初めて新大陸を書き加えたマルティン・ワルトゼーミュラーであった(1507)が,その後もアメリカとアジアの地形的関係については,1世紀以上も,さまざまの誤解や誤謬が尾を引いた。アメリカという名称は,16世紀後半までにヨーロッパ各国で一般に用いられるようになったが,スペインにおいてはインディアスという呼称が19世紀初めまで好んで用いられた。
コロンブスの第1回航海の2年後,すなわち1494年に,スペイン,ポルトガル両国間にトルデシーリャス条約が結ばれ,ベルデ岬諸島の西370レグアの地点を走る経線を境界線として,その東・西をそれぞれポルトガル,スペインの権利保有地と定められた。この条約にしたがってポルトガルは東インド各地の領土と貿易の経営に努力する一方,南アメリカにおけるブラジル植民を開始した。南・北アメリカのそれ以外の地域はスペインの所領と帰し,カスティリャの王室はメキシコとリマに副王領首都を設けて植民地経営に乗り出した(副王制)。理論上,パナマ地峡を境に,ヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王領とペルー副王領が設けられたわけだが,それぞれの首都以外にもアウディエンシアと称する高等司法・行政機関が各地に設けられて直接統治にたずさわったので,それをもとに各地域の行政区画がおのずと成立し,19世紀独立期の共和国成立の基礎条件をかたちづくった。
トルデシーリャス条約成立の時点においては,海外活動に国力を傾けたのはポルトガル,スペイン両国のみであり,フランスのジャック・カルティエのカナダ航海(1534,1535,1541),イギリスのヘンリー7世派遣のジョン・カボットの北アメリカ航海(1497,1498)等を除けば,16世紀前半は,ヨーロッパ諸国は概してアメリカ大陸に対して関心が薄かった。しかし16世紀後半になると,政治的統一期に入ったイギリス,フランス,すこし遅れてオランダなどが,イベリア両国の海外事業に全世界的な干渉を加えるようになり,それらの諸国のアメリカ大陸およびカリブ海地域への割りこみが始まった。まず,ポルトガル領ブラジルに対しては,フランスのビルガニョンの侵入があり(1555),4年間リオ・デ・ジャネイロを占拠した。オランダは,1621年に西インド会社をつくって,24年ブラジル北東部のバイアを占領,30年にはペルナンブコの主都オリンダを占領した。オランダ人は54年に完全撤退するまで,ブラジル北東部を事実上支配した。スペイン領のカリブ海諸地域に対しては,イギリス,フランス,オランダの私掠船の活動が16世紀後半からはげしくなり,1655年イギリス人はジャマイカを占領して,サトウキビ栽培を始めると同時に,メキシコ沿岸および大・小アンティル諸島への攻撃と密貿易の基地にした。スペインは60年にイギリスの同島保有を承認した。オランダは1634年,現ベネズエラ沖のクラサオ島を占領し,海賊と密貿易の基地とした。フランスは,イギリスのジャマイカ占領の後まもなく,イスパニオラ島の西部を占拠し,カリブ海の略奪と密貿易に加わった。
スペインの北アメリカにおける勢力は,メキシコ中央部以南に限られ,H.deソト(1498?-1542)のミシシッピ地方探検,カベサ・デ・バカ(1490?-1557)のフロリダからメキシコまでの陸路横断,F.V.deコロナドの南西部探検等のあとには継続的な移民が行われず,現アメリカ合衆国の大部分は名目的な領土にすぎなかった。ニューメキシコのサンタ・フェは1610年に建設されたが,70年後プエブロ族の蜂起のためスペイン人はエル・パソに退き,サンタ・フェが回復されたのは90年代である。カリフォルニアも,コルテスのメキシコ征服後ただちにスペイン人の探検するところとなったが,軍隊と修道会の力によって組織的な植民が始まったのは18世紀の後半だった。スペイン人のフロリダから西部に向かう動き,およびメキシコから合衆国のテキサス方面に向かう動きは,北アメリカ東部海岸に進出する英仏勢力に対抗するものであった。早くも1562年に,ユグノーのジャン・リボー(1520?-65)はフロリダ半島の北岸に上陸し,現サウス・カロライナ地方に植民地を建設しようとした。スペインは65年セント・オーガスティン湾に砦を建ててこれをけん制し,撤退させることに成功した。しかしフランス人は,その後もミシシッピ川を下ってテキサス湾岸に砦を築き,1718年にはニューオーリンズを建設した。スペインは,このルイジアナ植民地を制圧するため同じ18年にテキサスのサン・アントニオを建設したが,七年戦争の結果,63年のパリ条約においてミシシッピ以西のルイジアナの地とニューオーリンズの領有を認められた。
イギリスの北アメリカ植民は,16世紀後半におけるロアノーク植民の失敗後,しばらく間をおいて,1607年のバージニア,ジェームズタウンの建設以後本格化した。20年にはピューリタンをのせたメーフラワー号がプリマスに到着し,ニューイングランドの植民が始まった。また34年にはメリーランド植民地が開かれた。イギリス人は,カナダからミシシッピ流域地方に進出していたフランス人と対立するにいたり,七年戦争の始まる1年前から,原住民諸部族と連合したフランス軍と交戦状態に入った(フレンチ・インディアン戦争)。そして1761年モントリオールを攻略し,七年戦争末のパリ条約において,カナダからフロリダに至る広大な領土を手に入れ,北アメリカのフランス勢力を完全に駆逐することに成功した。
イギリス人の確保した北アメリカ植民地が,本国に反乱を起こして1776年に独立を宣言し,戦争ののち83年にイギリスから独立を承認されると,ルイジアナ購入(1803),フロリダ購入(1819),テキサス併合(1845),カリフォルニア,ニューメキシコ,アリゾナ等の購入(1848)等によって,アメリカ合衆国は大西洋岸から太平洋岸に至る大国家に成長した。その間中南米における植民地体制も,本国スペイン,ポルトガルに対するナポレオン軍の侵入(1808)を契機に崩壊して,多くの共和国が分立した。ブラジルだけは初め帝国として独立し,やがて1889年共和制に移行した。北のアメリカ合衆国が1861-65年の南北戦争の終結後産業資本主義体制が主導権をにぎって近代国家への道を歩み出したのに対して,旧スペイン,ポルトガル領のラテン・アメリカの国々は,半封建的な大土地所有制と非能率的な大農園制(アシエンダ,ファゼンダ)の生産様式を改めなかったため,少数の土地貴族に支持されたカウディーリョ(政治ボス)が大衆を支配するピラミッド型の専制政治が一般的となった。北アメリカのヨーロッパ植民者は多く家族移民であり,また先住民族もメキシコやペルーにおけるような進んだ文明を持たず,人口も比較的少なかったので,彼らをヨーロッパ人のための労働力として利用することは不可能だった。したがって白人移民と先住民族の日常生活における接触は少なく,また合衆国の西部進出がさかんになると,白人と先住民族との間に紛争が絶え間なく起こり,武力によって前者が後者を制圧して保留地reservationに追いこんだから,隔離segregationが白人と原住民の関係における基本原理となった。南部の黒人は,綿花の大農園の生産のためにアフリカから輸入された,人間以下の劣った存在とみなされていたから,そこではさらにきびしい隔離が行われた。南北戦争後の奴隷の解放も,この事態を基本的には変えず,それまでの奴隷はシェアクロッパーとして社会の最下層に生きることを強いられた。以上のような隔離の原理によって,ヨーロッパ系白人,先住アメリカ人,アフリカ系黒人が,それぞれ基本的に混血せず,別個の社会集団をかたちづくっているところがアングロ・アメリカの特色である。
それに対して,中南米では,大規模な血の混合が起こり,白人,先住民,黒人の間に,メスティソ,カボクロ,ムラト,サンボ等の名で呼ばれる混血者が生まれて,現在ではその数が先住民族を圧し,社会的にも重要な役割を担う中間層として成長しつつある。植民地時代ブラジルの家父長的な大農園生活におけるポルトガル人と黒人奴隷の関係は,アメリカ合衆国南部の大農園における白人と奴隷の関係とはひじょうに異なっていた。またもともと先住民の人口の多かったメソアメリカや中央アンデス地方では,スペイン人植民者が,王室の許可のもとに割当てをうけた先住民農民の労働力を利用して大農園を形成したから,そこでも白人と原住民の接触は日常的であり,むしろ少数のスペイン系人が多数の原住民にかこまれて生活する,というのが実態であった。
アングロ・アメリカとラテン・アメリカの間には,以上のような,構成民族集団間の関係のちがいのほか,言語,習慣,宗教,文化,価値観等多くの側面にわたって対照的な特質を指摘できる。経済においても高度に発達した産業資本主義体制と低開発の差があり,政治においては,模範的な議会民主主義と,しばしば軍人によって支えられた権威主義体制の差が,両地域を画然と分けている。と同時に見落としてはならないのは,アメリカ合衆国が,20世紀においてラテン・アメリカに対して強い経済的・政治的影響力を持ち,その動向を支配している事実である。もともとラテン・アメリカ諸国の独立を背後から援助したのは,19世紀初頭,産業革命を経て帝国主義時代にはいっていたイギリスであり,彼らはスペイン,ポルトガル王室が独占していた中南米を世界市場のために開放させようとしたのであった。したがってラテン・アメリカ各国の独立後,イギリス人はそれらの国々の資源の開発のために巨額の投資を行い,大きな利潤を得た。一次産品を国際市場のために輸出するイギリス人たちと密接に結びついていたのが,各国における土地貴族であった。低賃金や過酷な小作人制度によって経営される大農園の生産と,先進国の資本主義経済が癒着して,ラテン・アメリカの経済・政治体制が維持されていたのである。そして,第1次世界大戦後のイギリスの勢力後退に際して,それに代わる支配的な勢力として登場してきたのがアメリカ合衆国であった。アメリカ合衆国は,環カリブ海地域の諸国の政治に必要とあらば武力を用いて介入し,経済的な支配を行うと同時に,南アメリカの産業や金融にも巨大な影響力を発揮してきた。ラテン・アメリカの古い体制が崩壊しつつある現在,アメリカ合衆国との諸関係がどのように変化,推移するかがアメリカ大陸全体の未来を大きく左右してゆくだろう。
→ラテン・アメリカ
執筆者:増田 義郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
北アメリカ大陸と南アメリカ大陸を含む、いわゆる新大陸の総称。ヨーロッパ、アジア、アフリカの旧世界に対して、新世界ともいわれる。
新大陸に最初に到達した人類は、少なくとも2万5000年から3万年前に、シベリアとアラスカがまだ陸続きであったころ、この陸橋を通ってアジア大陸からやって来たアメリカ・インディアンの祖先たちであるとされている。また11世紀初頭ごろ、北欧のビーキング(バイキング)のなかには、アイスランドやグリーンランドから、新大陸のラブラドル半島やノバ・スコシア半島方面に達したものがあり、彼らが最初に新大陸に到達したヨーロッパ人であるとされる。しかしその存在が西欧社会に広く知られるようになったのは、著名な探検家クリストファー・コロンブスが東洋(インド)の航路を発見すべく大西洋を西へ向かい、1492年10月12日バハマ諸島のサン・サルバドル島(ワットリングス島)に到達して以来で、500年ほど前のことである。その後、コロンブスの友人でイタリアの探検家アメリゴ・ベスプッチが数回の航海を行い、その手記類が1504年に出版された。ドイツの地理学者マルチン・ワルトゼーミューラーMartin Waldseemüller(1470―1520)が1507年に『世界地誌概説』Cosmographiae Introductioを書いたとき、その手記によって「新大陸はベスプッチによって発見された」とし、新大陸を彼の名にちなんでアメリカと名づけることを提案した。この本が広く流布され、「アメリカ」の名称が一般に用いられるようになった。
アメリカを一つの大陸とみて、他のアジア、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニアの4大陸と比較すると、面積では4207万平方キロメートル(グリーンランドを含む)で、全陸地(南極大陸を除く)の31%にあたり、アジアよりわずかに少ない。人口では8億9200万人(2005年国連推計)で、全人口の約14%にあたり、アジアに次いで2番目となっている。人口増加率は世界全体の1.2%に対し北アメリカ0.9%、中央アメリカ1.5%、南アメリカ1.4%(いずれも2005年推計)となっている。人口密度では1平方キロメートル当り21人でヨーロッパ、アジアに次いで3番目となる。面積は広いが人口密度が低く、将来の全地球的な人口問題や、資源問題、食糧問題に対して今後の開発が期待されている頼もしい陸地である。その意味では、ベスプッチが新世界Mundus Novusとよんだ名称はいまも生きているといえよう。
[伊藤達雄]
北は北極海から南は南氷洋の流氷限界に接するホーン岬まで、南北1万5000キロメートルにも及ぶ細長い大陸であるが、その形状は大きく三つに分けられる。ともに逆三角形をした北アメリカと南アメリカの両大陸と、その間を結ぶ中央アメリカの陸橋およびアンティル諸島の島列である。アメリカを南北に二分する場合は、地形的にはパナマ地峡が境とされるが、人種、文化など人文社会的特性からはリオ・グランデ川を境として、アメリカ合衆国・カナダ区域とメキシコ以南との差異が明瞭(めいりょう)である。前者はアングロ・アメリカ、後者はラテンアメリカとよばれる。面積では、北アメリカ2151万平方キロメートル(51%)、南アメリカ1782万平方キロメートル(42%)、中央アメリカ274万平方キロメートル(7%)である。
地形、地質の配置や構造は、大きくみると南北アメリカともよく似ている。大陸の東側から中央にかけて、地球上でもっとも古い先カンブリア界の安定陸塊が高原状に大きな面積を占める。北アメリカのカナダ楯状地(たてじょうち)、南アメリカのギアナ高地、ブラジル高原などがそれである。その周囲を古生界、中世界の地質が取り囲むように分布する。これに対して、太平洋に面する大陸西側には新期造山帯に属するコルディエラ山系が迫り、北アメリカのロッキー山脈、南アメリカのアンデス山脈がその主軸で火山も存在する。大陸の中央は低平で、ミシシッピ川、アマゾン川、ラ・プラタ川などが流れ、下流に豊かな沖積平野を形成している。北アメリカの北東部は高緯度に位置するため、氷河時代は大陸氷河に覆われ、氷河湖や堆石(たいせき)丘などの氷河地形が豊富で、多くの湖が針葉樹林のなかに点在する美しい自然が展開する。中央アメリカの陸橋部とアンティル諸島はコルディエラ山系の続きで、その間にメキシコ湾とカリブ海を抱いている。
気候と植生については、この大陸が南北両半球のほとんど全緯度にわたるので、地球上のあらゆる気候と植生がみられる。しかし、北アメリカは主要部が寒帯と温帯に位置するのに対して、南アメリカはもっとも広い部分が熱帯に属し、温帯の部分が少ない。とくにアマゾン川流域は熱帯雨林に厚く覆われ、未開の地が広く残されている。このため南北アメリカでは気候景観や植物相に大きな違いが生じ、土地利用や経済発達の相違の理由の一つとなっている。
[伊藤達雄]
コロンブス以前のアメリカ大陸の住民は、極北のエスキモーと全土に分布していたアメリカ・インディアンで、ともにアジア系人種であった。その後、北アメリカは主としてイギリス、フランス、ロシアによって、中央・南アメリカはスペイン、ポルトガルによって、それぞれ探検、開拓がなされ、さらに、アジア人やアフリカ人も加わって今日ではあらゆる人種のるつぼとなっている。しかし、その構成は南北アメリカの間で、また国によってもかなりの差異がある。たとえばアメリカ合衆国は白人の比率が約75%であるのに、メキシコでは白人は約15%にすぎず、インディオ約25%、メスティソ(インディオとスペイン系白人との混血)約60%である(2005)。今日、北アメリカには合衆国とカナダの2国があるのみであるが、中央・南アメリカは30余の独立国に分かれている。それぞれの国で人種、民族が異なり、発展の歴史も一様でなく、自然環境にも違いがあり、そのことが経済、社会の進歩や政治体制にも影響を与えてきた。「発見」後まだ500年ほどの新世界であるが、ここには実に多様な国家とその形成過程をみることができる。
[伊藤達雄]
コロンブスの最初の大西洋航海よりやや遅れてアメリカ大陸沿岸を探検したアメリゴ・ヴェスプッチは,それがアジアとは別の大陸であると主張したので,この大陸は彼の名をとってアメリカと名づけられた。アメリカはメキシコ以北が北アメリカ,地狭地帯およびカリブ諸島を中央アメリカ,その南を南アメリカと区分される。文化的にはヨーロッパのどの国が支配したかにより異なった言語・宗教圏に分かれ,アメリカ合衆国とカナダはアングロアメリカ,メキシコ以南はラテンアメリカに大別でき,前者ではプロテスタント,後者ではカトリック教徒が主流であるが,カナダにはフランス語文化圏があり,英仏二言語を公用語としており,アメリカ合衆国でも近年スペイン語人口が増大している。政治経済的にはアメリカ合衆国とカナダは民主政治が発達し,経済的にも先進地域である。特にアメリカ合衆国は植民者が最も多く来住した北アメリカのイギリス13植民地が独立して発展した国で,20世紀前半にイギリスに代わって世界の中心国となった。他方メキシコ以南の国々は経済的にはいぜん途上国で,民主政治は概して不安定である。アメリカ諸国は近世にヨーロッパ人が征服者,植民者として来住し,先住民は排除されるかその支配下に取り込まれたという共通の歴史を持ち,北アメリカ,カリブ地域,ブラジルには白人植民者がアフリカ人奴隷を導入した歴史があり,アメリカ合衆国では奴隷制の廃止には南北戦争という内戦が必要であった。独立後の移民の受容は,西半球の国は移民に対して開放的で,特に経済先進国であるアメリカとカナダとは多数の移民を受け入れてきた歴史を持ち,現在も受け入れている。移民の流入は,いろいろな意味で両国の社会,文化の特性をつくりあげてきた。移民自身が「アメリカ人」「カナダ人」となる過程,流入する移民に対する受け入れ側の意識の変化,その意識を反映する政府の移民政策など,すべてが両国の特質となっている。18世紀に入国した移民は北・西ヨーロッパ出身者が多かったが,19世紀後半には南・東ヨーロッパからの移民が増加し,20世紀後半以降はアジアからの移民が急増している。入国する移民の変化に従い,両国の社会,文化も重要な変化をみせている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…40代半ばから50歳ごろにかけて作曲家としての最盛期を迎え,《スラブ舞曲》第2集(1887),《ピアノ五重奏曲イ長調》(1887),《交響曲第8番》(1889),ピアノ三重奏曲《ドゥムキー》(1891)などが次々と生まれた。92‐95年ニューヨーク国民音楽院の院長に招かれて渡米し,その間に最後の交響曲となった《交響曲第9番(新世界から)》(1893),《弦楽四重奏曲第12番(アメリカ)》(1893),《チェロ協奏曲ロ短調》(1895)など,アメリカの黒人の音楽語法とチェコの民俗音楽の語法とを同居させた親しみやすい名曲を書いた。帰国後1901年にプラハ音楽院の院長とオーストリアの終身上院議員になり,独立回復前のチェコの芸術家としては最高の栄誉を受けた。…
… 12年8月フェリーツェ・バウアーFelice Bauerに出あい,老いた父親に突然溺死の刑を宣告される短編《判決》を9月の一夜に書きあげて,独自の文学世界への突破口を開いた。若い布地販売員グレゴールが巨大な虫に変身し,しだいに家族にうとまれて死ぬ著名な作品《変身》も同年末に完成,カール少年のアメリカ放浪記,長編《アメリカ》も書きすすめられたが,書くことと結婚への願望は両立し得ず,フェリーツェとは以後の5年間に2度婚約と解消をくりかえし,大部の手紙が残された。こうした懊悩を基底にして14年には《審判Der Prozess》の大部分が執筆され,短編《流刑地にて》も完成。…
…正式名称=アメリカ合衆国United States of America面積=936万3123km2(本国のみ)人口(1995)=2億6303万人首都=ワシントン Washington,D.C.(日本との時差=-14時間)主要言語=英語通貨=ドルdollar略称USA。たんに合衆国とも,また米国,アメリカとも通称する。…
…15世紀から16世紀にかけてヨーロッパ人(とくにスペイン人)が発見した現在の南北アメリカ,カリブ海諸島の呼称。この言葉は1502年から04年ころにパリで発行されたとされるアメリゴ・ベスプッチの書簡体の小冊子《新世界Mundus novus》で初めて用いられた。…
※「アメリカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
個々の企業が新事業を始める場合に、なんらかの規制に該当するかどうかを事前に確認できる制度。2014年(平成26)施行の産業競争力強化法に基づき導入された。企業ごとに事業所管省庁へ申請し、関係省庁と調整...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新