改訂新版 世界大百科事典 「アルゼンチン」の意味・わかりやすい解説
アルゼンチン
Argentine
基本情報
正式名称=アルゼンチン共和国República Argentina
面積=278万0400km2
人口(2010)=4052万人
首都=ブエノス・アイレスBuenos Aires(日本との時差=-12時間)
主要言語=スペイン語
通貨=アルゼンチン・ペソArgentine Peso
南アメリカ大陸の南東部に位置する連邦制共和国。新大陸の探検時代に到来したスペイン人が,当地に住む原住民の銀の装身具にちなんで国土の中央部を流れる大河をラ・プラタ(スペイン語で〈銀〉の意)川と命名,同川流域一帯はラ・プラタ地方と呼ばれるようになった。スペインからの独立後はラ・プラタと同義のラテン語起源のアルヘンティーナ(英語でアルゼンチン)が国名として採用され,1826年憲法でアルゼンチン共和国の名が初めて正式に用いられた後,60年正称と決定された。国土面積は日本の約7.5倍でブラジルに次ぐラテン・アメリカ第2位,世界第8位の広さを有するが,人口は日本の約1/4にすぎず,人口密度は12.5人/km2(1996)である。日本から見てほぼ地球の反対側にあり,季節も日本とは逆になっている。
自然,地誌
国土は南北の長さ3694km,東西の最大幅1420kmである。国境は東・北側がラ・プラタ川およびその支流によってウルグアイ,ブラジル,パラグアイ,ボリビアと,西・南側はアンデス山脈によりチリと接し,東・南側は大西洋と南極の海に臨んでいる。
西側に第三紀の褶曲山地であるアンデス山脈が走り,東方に広大な平原パンパが広がる。アンデス山地,ブラジル高原に源を発するウルグアイ,パラナ,パラグアイ,サラド川などの支流を合わせてパンパを貫流するラ・プラタ川は,豊かな水資源と交通の便を提供する。ほかにコロラド,ネグロ,チュブ川などの主要河川がある。地勢上は北部のメソポタミア平原,チャコ低地,西部のアンデス山脈,中央部のパンパ,南部のパタゴニアの五つに区分される。メソポタミア平原はパラナ川とウルグアイ川にはさまれ,ラテライト,チェルノーゼムなど肥沃な土壌に恵まれている。チャコ低地はパラグアイ国境に近い亜熱帯の低湿地帯で,草原,密林,氾濫原,沼沢などが続く。アンデス山脈地帯の主要部分は標高4000mから5000mの山稜をなし,アコンカグア(6960m),トゥプンガト(6800m)などの巨峰がそびえ立つ。南部へ行くに従い高度は低下するが高緯度積雪地帯となる。パンパは標高200m以下の60万km2に及ぶ大平原で,チェルノーゼムと栗色土から成る厚い肥沃な土壌に恵まれている。コロラド川以南のパタゴニアはパタゴニア台地,アンデス前山脈低地,パタゴニア山脈から成り,第四紀の大氷河期にできた盆地や湖が点在,アルゼンチン湖水地方,ナウエル・ウアピ湖などの氷河は世界有数の美観を呈している。
気候は亜熱帯,温帯,乾燥帯,寒冷帯の四つに大別される。降雨量はアンデス東山麓とパタゴニア地方で年間250mm以下,パンパ地方で500~1000mm,北東部のミシオネス州の一部では1700mmを超える。また,アルゼンチンは自然・経済条件に従い通常五つに地域区分される。北東部(ミシオネス,コリエンテス,フォルモサ,チャコ各州とサンタ・フェ州の一部),北西部(サルタ,フフイ,トゥクマン,カタマルカ,サンチアゴ・デル・エステロ各州とコルドバ州の一部),クーヨ(サン・フアン,メンドサ,ラ・リオハ,サン・ルイス各州),パンパ(ブエノス・アイレス,サンタ・フェ,エントレ・リオス,コルドバ,ラ・パンパ各州),パタゴニア(ネウケン,リオ・ネグロ,チュブ,サンタ・クルス各州とフエゴ島)である。
執筆者:今井 圭子
住民,社会
ラテン・アメリカのなかでは例外的に白人の比率が高く,総人口の圧倒的多くは白人系で,インディオ系は1960年から70年にかけて実施された先住民人口調査では約50万ほどであった。黒人人口はさらに少なく,1万人以下と推定されている。こうした独特の人種構成が形成された第1の要因は,スペイン人の渡来前からこの地域にはインディオ人口が少なかったことである。インディオ文明はおもに山間の高地に発展し,パンパのような低地は,少数の遊牧・採集民が散在するだけだった。第2に,スペインの植民地時代に貴金属を産出せず,砂糖などの熱帯農業もあまり発展しなかったアルゼンチンでは,インディオや黒人の労働力に依存することが少なかった。第3の要因は,こうした状況の下で19世紀後半以降,イタリア,スペインなどから大量の移民が流入したことである。1861年から1960年までに国内に定着した外国移民は約520万に達し,全人口に占める外国人の比率は1914年には29.9%となり,同年ブエノス・アイレス市では49.3%だった。19世紀後半以降のこの急激なヨーロッパ移民の到来が,今日見るような白人中心の人種構成を生み出している最大の要因といえよう。インディオ人口のうち,パタゴニア地方では,社会との接触が少なく,自給自足的な生活を営む部族も少なくないが,フフイ,サルタ,フォルモサ,チャコのように,北西部の諸州では農業労働者として,農場に雇用されている人も多く,南部よりも社会的同化が進んでいる。言語はスペイン語だが,スペイン本国の文法とはやや異なり,たとえば2人称にtúではなく,vosを使っている。
上述したヨーロッパ移民の大量流入は,社会構造や文化のあり方を少なからず規定してきた。外国移民の多くが都市部に定着したので,早くも1914年に都市人口は53%に達し,現在(1991)でも87%弱に及んでいる。また,外国移民は上方移動志向が高く,実際に下積みから中産階級へと上昇するケースが少なくなかったので,アルゼンチンはラテン・アメリカのなかでは,早くから中産階級の比率が高くなり,すでに1914年に33%ほどに達していた。近年は,失業率の高騰といった厳しい経済状況が中産階級を直撃し,その比率が若干低下しているが,それでも1990年代の半ばで,中産階級がなお,人口の4割ほどを占めていると推測されている。また,外国移民の多くが上方移動を果たしてきたことは,社会的流動性を高め,今日でも下層から中産階級への移動は,比較的容易である。ただし,その反面,中産階級から上層への移動は難しく,ここに社会的流動性の限界がある。
文化の面でもヨーロッパ移民の影響は大きく,社会全体に西欧的雰囲気が顕著である。宗教の面でも西欧のカトリシズムがそのまま受容され,他のラテン・アメリカ諸国に多いインディオの土着宗教やアフリカの宗教とのシンクレティズム(混淆)は,あまり見られない。教育水準も比較的高く,識字率は1995年には96.2%と,ラテン・アメリカではトップクラスにある。大学進学率も高く,1991年には11.4%だった。ブエノス・アイレス大学やコルドバ大学などは,以前は南米の学問をリードする立場にあったが,近年は財政危機などで教育・研究予算が減少し,ブラジルやチリの追い上げを受けている。なお芸術分野については〈ラテン・アメリカ音楽〉〈ラテン・アメリカ美術〉〈ラテン・アメリカ文学〉の各項を参照されたい。
政治
1853年憲法に基づき,アメリカ合衆国に似た大統領制,二院制議会,三権分立,連邦制をたてまえとしているが,実際には行政府に権力が集中しており,また中央政府が州政府に頻繁に介入している点でアメリカよりも中央集権的である。1853年憲法が大統領に広範な権限を賦与したのは,強力な行政府の存在が政治の安定には不可欠とみなされたからであり,同憲法の下で1862年から1930年までは近隣諸国の追随を許さぬ政治的安定が保たれてきた。ところが,1930年のクーデタを機に,軍の政治介入が頻発し,近年は慢性的政情不安に陥っている。こうした政情不安の原因としては,軍部とペロニスモとの角逐,経済停滞に伴う社会的矛盾の激化,大衆の参加意識の高揚,などが指摘される。軍政下では議会が閉鎖され,政党活動が禁止されることが多いため,政治は政党よりもむしろ利益集団によって動かされがちである。
利益集団のなかで最も古い歴史をもつのは1866年に大地主を主要メンバーとして設立された農牧協会である。国の経済に占める農牧畜業の高い比重を反映して強い政治的影響力を有し,歴代の農業大臣は協会員から選出されることが永らく慣例となっていた。1910年に成立したロケ・サエンス・ペーニャRoque Saenz Peña政府では,正副大統領をはじめ閣僚8名のうち6名が協会員で占められたほどであった。工業化の進展で近年その政治力は低下しつつあるが,今日なお経済政策の決定に隠然たる影響力を保持している。工業企業家の組織には1887年設立の工業連合と1952年に設置された経済総連合(CGE)などがあり,前者は大企業を中心とした連合体で外資の導入に積極的なのに対し,後者は,中小企業を多数擁していることもあり,民族主義的で外資に対してより批判的である。CGEはペロニスタ政権の庇護を受けて発足したことから,ペロニスモとの結びつきが強く,反ペロニスタ政権の下ではたびたび活動を禁止されてきた。アルゼンチンの政治の重要な特色は企業家連合よりもむしろ労働組合の政治力の方が強大なことであり,その中核をなしているのが労働総同盟(CGT)である。1930年に設立された当時は,メンバーは10万程度であったが,ペロン大統領時代(1946-55)に急成長を遂げ,50年代には300万近くに達した。以来CGTはペロニスモの強い影響下におかれ,CGTの指令するゼネストや工場占拠を含む実力行使は,たびたび歴代の反ペロニスタ派政府を窮地に陥れてきた。76年3月大統領に就任したビデラは,CGTの政治力の削減に腐心し,79年11月新労働組合法を制定して労働組合の政治活動を禁止し,CGTを解体させた。しかし翌年9月CGTが新しい形で再発足し,83年現在は,穏健派でブエノス・アイレス市内のアソパルド街に本拠をもつCGTアソパルド派と,事務局をブラジル通りにもつCGTブラジル派とに二分されている。
こららの諸組織は特定の経済利益を代弁する圧力団体であるが,これに対し,より広範な社会層の利益を集約化する機能を果たしているのが,軍部や教会,政党などである。軍部は19世紀後半から専門化が進み,1901年には徴兵制が施行され,永らく政治非介入政策を採ってきたが,ファシズムなどの影響を受けて政治への関心を高め,30年9月クーデタに踏み切った。これ以後軍部は,直接・間接に影響力を政治に行使しており,とくに近年の著しい特徴は,軍制が長期化しつつあることである。これは文民派のテクノクラートの支持を得た軍部が,上から強権的に経済や政治の変革を企図しているからであり,この体制はたびたび〈官僚主義的権威主義〉とも呼称されている。アルゼンチンの軍部は一般に保守的傾向が強く,大土地所有層が軍政の主要な支持基盤となる場合が多いが,労働者階級の政治力の強大化に危惧を抱く中産階級も,ペロニスタ政権よりは軍政を選好する傾向にある。軍部と同様にカトリック教会も一般に保守的だが,1960年代から70年代初めにかけ司教団の一部は社会変革を唱える第三世界運動に身を投じ,76年の軍政出現後は,教会全体が軍政下での過酷な人権抑圧に反対し,民主化を強く求めた。
政党運動は古い歴史をもち,19世紀末から1930年までは地主層をバックとする保守党と中産階級を支持基盤とする急進党との二大政党体制が採られ,少数党ながら社会党が一部の労働者の支持を得ていた。ペロニスモの出現後,こうした状況には大きな変化が生じ,保守党が退潮する一方,急進党が保守派の一部の支持を得てペロニスモに対抗しうるほとんど唯一の勢力となった。ペロニスモは労働者階級の支持をバックに,一部の上・中流階級からも支援され,今日なお国内最大の政党といえるが,内部ではさまざまなグループに分裂している。73年3月の大統領選では,ペロニスモを中心とする選挙連合(正道党解放戦線)が国民投票の49.56%を獲得し,急進党が21.29%であった。
執筆者:松下 洋
経済,産業
貴金属や熱帯産品を産出しないアルゼンチンは,植民地時代,スペインの新大陸支配において周辺的な位置におかれていた。独立後半世紀に及ぶ自由貿易主義と保護貿易主義の対立を経て,1853年共和国憲法に自由経済路線が盛られ,アルゼンチンは国際分業の一環を担い農畜産物輸出経済を育成していった。その間資本,技術,工業製品,労働力が広くヨーロッパに求められた。イギリスをおもな出資国とする外国資本のかなりの部分は,鉄道など社会的間接資本の建設に投下され,57年アルゼンチン初の鉄道が開通,その後ブエノス・アイレス港をかなめとする放射線状の鉄道網がパンパを中心に拡大されていった。積極的な移民受入政策によりイタリア,スペインなどヨーロッパからの移民が大量に入国し,おもにパンパの農牧業に従事した。この間総人口は1869年の189万7000人から1914年の816万2000人に急増した。生産・輸送面でヨーロッパからの技術導入が進み,農牧業生産技術の普及をめざす農牧協会が1866年に創設された。80年代の冷凍船(フリゴリフィコ)の実用化は,従来の乾肉にかわって冷凍肉の輸出を可能にした。小麦,トウモロコシ,亜麻,食肉,羊毛を主とする輸出の急増はこの国を世界の食糧庫にかえ,農牧業は〈パンパの革命〉と形容されるほど急激な成長を遂げた。農畜産品の輸出競争力は土地の粗放的経営に支えられ,大土地所有制度が広範囲に拡大していった。その過程で自作農への道を閉ざされた人々は,借地農や農牧業労働者として農村にとどまる一方,他方では農村から都市へ流出し,また19世紀末ごろからは出稼ぎ型のヨーロッパ移民ゴロンドリーナ(季節労働者)も増加していった。
農畜産品輸出に依拠したアルゼンチン経済は,1929年恐慌の到来で大きな試練にさらされることになった。世界経済のブロック化が進む中で,輸出市場の狭隘化に見舞われたアルゼンチンは,一方で33年ロカ=ランシマン協定を締結してイギリス市場の確保に努めると同時に,他方では外貨節約のため輸入代替の工業化を推進した。さらに資源ナショナリズムの萌芽として1922年に創設された国営石油公社を中心に,国内資本による石油開発が進められた。35年には金融制度の整備をめざして中央銀行が創設された。
第2次世界大戦中および直後のアルゼンチンは,食糧供給国として多額の貿易黒字を累積した。46年に発足したペロン政権はアルゼンチン史上まれにみる経済的好条件に支えられ,ナショナリズム色の濃い政治路線を導入,第1次(1947-51),第2次(1953-55,中断)五ヵ年計画を実施した。〈政治主権,経済的独立,社会正義〉の実現をスローガンに,外国資産の国有化,工業育成,国家主導型経済建設が経済政策の三大支柱とされた。イギリス系鉄道会社,アメリカ系電信電話会社など外国資産が国有化され,社会的間接資本,エネルギー,重工業部門の国営企業が強化され,また手厚い工業保護政策がとられた。
しかし,こうした工業偏重政策の実施により農牧業の不振,輸出の伸び悩みを招いたペロン政権は,有効な経済政策を提示できないまま55年のクーデタで失脚,その後は軍政と民政の交替があい次いだ。経済自由主義路線が導入された軍政期に対して,民政下ではナショナリズム路線が志向され,とくに急進党出身のイリヤ政権(1963-66),ペロニスタ政権(1973-76)下でその傾向が強まった。ペロニスタ政権は統治力の弱体化と経済政策の失敗から深刻な政情不安と経済問題を抱え,76年3月軍事クーデタで失脚,その後に登場した軍政は経済自由主義に転換した。“過度”の保護政策を除去し,工業生産の効率化を目ざした軍政は,工業の衰退を主因とする経済不況,超高率インフレ,国際収支の悪化,対外債務累積など経済の悪化を招いた。さらに82年4月から6月までのフォークランド(マルビナス)諸島に関するイギリスとの軍事衝突の結果,その戦後処理の問題が加わり,経済面の再建はますます困難さを増した。そして83年12月,ついに民政移管が実現,アルフォンシン急進党政権は経済再建をめざして,85年6月アウストラル・プランを実施に移した。この政策も長期的なインフレ抑制を達成することができず,超高率インフレを再燃させてしまった。
執筆者:今井 圭子
歴史
1516年スペイン人として初めてソリスJuan Diaz de Solisがラ・プラタ川周辺を探検した当時,今日のアルゼンチン地域には約33万のインディオが居住していたと推定される。その多くは文化水準の低い,好戦的な遊牧民で,ソリス自身も原住民に殺害され,36年メンドサPedro de Mendozaによって建設されたブエノス・アイレス市も,原住民との抗争から5年後に放棄されている。市の再建は80年のガライJuan de Garayによる遠征を待たねばならなかった。この間ペルーやチリからの移住者の手で北西部と西部の開発が進み,1553年には最古の定住都市としてサンチアゴ・デル・エステロ市が建設された。しかしながら,反抗的なインディオに加えて,貴金属に乏しかったことや本国の厳しい貿易統制などが重なり,16~17世紀を通じて今日のアルゼンチンは比較的開発の遅れた地域にとどまっていた。わずかに牛皮の生産を主軸とする牧畜業が細々と営まれただけであった。
ラ・プラタ副王領と独立
ところが1776年に今日のアルゼンチンを中心に,ボリビア,パラグアイ,ウルグアイを含む広大な地域がリオ・デ・ラ・プラタ副王領として組織化された頃から地域の経済はにわかに活況を呈し始めた。なかでも副王領首都となったブエノス・アイレス市の港が本国との交易に開港されたことから,ヨーロッパ産品とパンパ畜産品との中継港として急成長を遂げた。しかし廉価な外国商品の流入により大打撃を受けた内陸部では港への反感が高まっていた。こうした地域間の対立が深まるなかで副王領内では啓蒙思想などの影響を受け,独立への志向がしだいに芽生え,とくに1806-07年にかけ副王領東部に対して試みられたイギリスの侵略を現地軍が打破したことは自治意識を著しく高めた。そしてナポレオンの侵略に伴う母国の混乱に乗じて10年5月25日,ブエノス・アイレス市の市議会は副王を廃し自治委員会の設置に踏み切った。だが,首都への反感などから,今日のパラグアイ,ウルグアイ,ボリビアの諸地域は委員会の権威を認めず,自治政府と戦端を開いた。この戦争が結果的に上述の諸地域をアルゼンチンから分離・独立させることになるのだが,副王領内の多くの州は16年7月9日トゥクマン市で開かれた議会でリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合の独立を宣言し,独立戦争の遂行をサン・マルティンJosé de San Martín将軍にゆだねた。サン・マルティンは18年にチリ,21年にペルーをスペイン支配から解放するが,その間にアルゼンチンでは,中央集権派と連邦派の対立が激化し,20年後者の勝利は統一的な中央政府を瓦解させた。以後ブラジルとの交戦期(1826-28)を除き永らく中央政府不在の状態が続くが,連邦派のブエノス・アイレス州知事ロサスJuan Manuel de Rosas(在職1829-32,35-52)は,軍事力を背景に州内外の中央集権派を弾圧して事実上の国家統一を達成した。また同政府の打倒を目指した40年代の英仏両国による軍事干渉にも頑強に抵抗して撤兵をよぎなくさせた。しかしロサスの過酷な独裁政治には国民の批判が絶えず,52年ウルキサJusto José de Urquizaとの戦闘に敗れ失脚した。
農牧業の発展
ウルキサは翌年憲法を制定して近代的統一国家の実現を目指したが,ブエノス・アイレス州の離反にあって果たせず,62年同州知事ミトレが大統領に就任することでようやく全国的な統一国家が誕生した。ミトレに始まる歴代政府は外国移民の誘致と外資導入,教育の拡充を骨子とした開放的な近代化政策を採り,サルミエント大統領(在職1868-74)は教育の普及に功績をあげ,次のアベジャネーダN.Avellaneda(在職1874-80)は彼の名を冠した土地法を制定して外国移民の土地取得を容易にする一方,パンパからインディオを追放して農牧地を飛躍的に拡大した。80年ブエノス・アイレス市が正式に連邦の首都とされたことで,積年の地域間の対立には終止符が打たれ,この頃よりイタリア,スペインなどからの移民が急増し,大量のイギリス資本が鉄道や食肉加工業などに導入された。労働力と資本,輸送手段を得た農牧業はめざましい発展を遂げ,20世紀初葉には世界屈指の農畜産物輸出国に成長した。この未曾有の発展は地主層の経済的支配権と政治力を高めた反面,彼らによる政治の独占に反対する中産階級の台頭を促し,中産階級の一部は選挙制度の改革を唱えて政治の民主化を要求し始めた。1891年にはこうした主張を掲げた急進市民同盟(急進党)が産声をあげ,93年と1905年の2度に及んだその武装蜂起は保守支配層を震撼させた。このため,保守派も譲歩して12年には民主的な選挙法(ロケ・サエンス・ペーニャ法)が制定され,同法の下で実施された16年の最初の大統領選では急進党のイリゴージェンが勝利を収めた。イリゴージェンは22年に国家石油公社(YPF)を設立して経済的民族主義の方向を打ち出したほか,労働者のための年金制度の拡充や大学制度の改革を行ったが,28年発足した彼の第2期政権は世界恐慌によって引き起こされた経済混乱に敏速に対応できず,30年9月6日ウリブルJ.F.Uriburu将軍のクーデタにより崩壊した。
ファシスト体制の樹立を目ざしたウリブル軍政が短命に終わったあと32年には保守派主導の民政が復活する。30年代の保守支配層は選挙を不正に操作して国民の政治参加を抑制し,経済的にはイギリスとの結び付きを一層深めていった。なかでも33年のロカ=ランシマン協定は,冷凍肉の対英輸出量の保障と引換えにイギリス資本に特恵待遇を約していたため,植民地化につながるとして国民の間から激しい批判を浴びた。
ペロン大統領の登場
民族主義的自覚が高まり,選挙不正に対する国民の批判が強まるなかで,43年6月4日軍のクーデタが勃発した。このクーデタの主謀者格の一人だったペロン大佐は,同年10月労働局長(のちに労働福祉庁長官)に就任すると,保守支配体制の下で抑圧されていた労働者の諸要求を次々と実現し,彼らの支持をバックに軍事政府随一の実力者にのし上がった。また第2次大戦中に軍事政府の採った中立的外交がアメリカとの対立を深めると,アメリカの圧力に抗する民族主義者として自らを国民にアピールした。こうした一連の政策は彼の人気を高め,46年2月の大統領選で大勝を博した。大統領時代(1946-55)のペロンは工業化,鉄道などの国有化,自主外交,労働者保護など独自の政策を展開したが,農牧業の停滞から経済政策で行き詰まり,加えて54年末カトリック教会と全面的な対立関係に入ったことが命取りとなり,55年9月軍の蜂起に接し国外に亡命した。
ペロン派と反ペロン派の対立
ペロンの退陣後,ペロン派(ペロニスタ)と反ペロン派との間で熾烈な対立が生まれ,政情は極端に不安定となった。58年にペロニスタの支持を得て民選されたフロンディシArturo Frondizi大統領はペロン派の勢力拡大を恐れる軍部の手で62年に打倒され,66年にはイリヤArturo Illia大統領がほぼ同様な理由から失脚し,オンガニアJuan Carlos Onganía将軍の率いる軍政にとって代わられた。この軍政は,労働者とペロニスタを徹底的に弾圧し,インフレの克服と経済開発を図ったが,部分的にしか成功を収めず,軍政に対する国民の批判が高まるなかで,73年3月民政移管のための選挙が行われた。この選挙でペロニスタのカンポラHéctor José Cámporaが当選するが,彼の急進主義は党内外の批判を浴び,73年9月の再選挙を通じてペロンが18年ぶりに政権の座に返り咲いた。しかし,インフレとゲリラの暗躍に苦悩する祖国を再建するめども立たぬまま74年7月急逝し,夫人のイサベル・ペロンMaría Isabel Martínez de Perónが大統領に昇格した。政治に不慣れなイサベルは数々の失政を重ね,事態を憂慮した軍部は76年3月蜂起してビデラJorge Rafael Videla将軍が大統領に就任した。この軍政は人権抑圧の非難を国際的に浴びたが,厳しい弾圧政策によってゲリラ運動をほぼ壊滅させた。しかしインフレをはじめとする経済問題を克服するにいたらず,国民の不満は高じるばかりであった。82年4月ガルチエリLeopoldo Fortunato Galtieri大統領はフォークランド(マルビナス)諸島をイギリスから奪還することで国民の不満をかわそうとしたが失敗し,逆に国民の軍政批判を一挙に噴出させる結果となった。82年6月大統領に就任したビニョーネReynaldo Benito Bignone将軍は,民政移管の作業を急ぎ,83年10月大統領選の実施にこぎつけた。この選挙で勝利を収めた急進党のアルフォンシンRaúl Alfonsínは同年12月大統領に就任し,7年ぶりに民政が復活した。アルフォンシン政府は,激しいインフレや累積債務といった重荷を背負って苦しいスタートを切ったが,85年6月にはインフレ克服のために物価と賃金の凍結を含む厳しい安定政策(アウストラル・プラン)の実施に踏み切った。この政策は当初物価の鎮静化にある程度の成果をあげたが,のちに未曾有の物価上昇を招いて失敗に終わった。89年5月の総選挙では,ペロニスタのメネムが勝利し,インフレの克服に成功するが,引締めを基調とするその政策は失業率を著しく高めたことなどからしだいに国民の批判を浴び,97年10月の下院議員選挙では12議席を失った。
執筆者:松下 洋
日本との関係
両国の外交関係は1898年の日亜修好通商条約の締結をもって始まった。日露戦争時アルゼンチンは軍艦2隻を日本に移譲,同軍艦は〈日進〉〈春日〉として多大の戦力を発揮した。1913年日本からアルゼンチンへ直接渡航が開始され,35年農商業部門の外務省実習生派遣制度が始まった。第2次世界大戦前の日本人移住者は約5400人。アルゼンチンは第2次世界大戦中長い間中立外交を堅持したが,連合国側からの圧力の下,ついに44年1月枢軸国に対して国交断絶,45年3月には宣戦布告に踏み切った。終戦後両国は52年4月に国交を回復,61年フロンディシ大統領訪日の際,移住協定が結ばれた。現在の同国在住日系人は3万人強,日本国籍保持の移民が1万5000人とされ,うち沖縄出身者が7割。おもな就業分野は洗染業,花卉栽培,商業など。貿易・投資関係は従来から希薄であったが,70年代に入りやや前進がみられる。日本からのおもな輸出品は輸送機器,光学機器など。また輸入品は穀物,魚介類,アルミニウム,木材など。その他電力,鉄道,電信電話,漁業,畜産,保健・医療,環境・衛生などの分野で両国間の経済協力が進んでいる。日本からの政府開発援助は技術協力が中心で,日本はイタリア,ドイツ,スペインに次ぐ主要援助国である。
執筆者:今井 圭子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報