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アルゼンチン アルゼンチン Argentina

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

アルゼンチン
アルゼンチン
Argentina

正式名称 アルゼンチン (スペイン語ではアルヘンティナ) 共和国 República Argentina。面積 278万403km2。人口 4036万5000(2011推計)。首都 ブエノスアイレス

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百科事典マイペディアの解説

アルゼンチン

◎正式名称−アルゼンチン共和国Argentine Republic。◎面積−278万400km2。◎人口−4012万人(2010)。◎首都−ブエノス・アイレスBuenos Aires(289万人,2010)。

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世界大百科事典 第2版の解説

アルゼンチン【Argentine】

正式名称=アルゼンチン共和国República Argentina面積=278万0400km2人口(1996)=3499万5000人首都=ブエノス・アイレスBuenos Aires(日本との時差=-12時間)主要言語=スペイン語通貨=アルゼンチン・ペソArgentine Peso南アメリカ大陸の南東部に位置する連邦制共和国。新大陸の探検時代に到来したスペイン人が,当地に住む原住民の銀の装身具にちなんで国土の中央部を流れる大河をラ・プラタ(スペイン語で〈銀〉の意)川と命名,同川流域一帯はラ・プラタ地方と呼ばれるようになった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

アルゼンチン
あるぜんちん
Argentine

南アメリカ南部の共和国。正式名称はレプブリカ・アルヘンティーナRepblica Argentina。「アルヘンティーナ」は銀を意味するラテン語に由来する。この名称はラ・プラタ(スペイン語で銀の意)川の土地に豊かな鉱産物があると考えられていたことによる。国土は278万0400平方キロメートルに達し、このほかフォークランド諸島(アルゼンチン名ではマルビナス諸島)など南方の諸島、南極大陸の一部などに対しても領有を主張している。人口は3626万0130(2001年センサス)、3810万(2004年推計)。首都はブエノス・アイレス。
 西はアンデス山脈を挟んでチリと国境を接し、東および北はラ・プラタ川とその水系の河川などを境に、ブラジル、ウルグアイ、パラグアイ、ボリビアと国境を接する。1870年代以降の急速なパンパ(中央部の草原地帯)の開発によって、一躍牛肉と小麦の重要な輸出国となり、今日ブラジルに次ぐ南アメリカ第二の大国となっている。[細野昭雄]

自然

アルゼンチンはパンパ地方を中心に、西部(アンデス山脈)、南部(パタゴニア地方)、北東部(チャコ地方、メソポタミア地方)の主要4地域からなる。
 アンデス山脈は第三紀の褶曲(しゅうきょく)山脈で、中央部分は4000ないし5000メートルの山地からなり、南北アメリカの最高峰アコンカグア山(6960メートル)をはじめ、北からユヤイヤコ山(6723メートル)、トゥプンガト山(6800メートル)、マイポ山(5290メートル)などの高山がそびえる。しかし山脈の高さは南下するにしたがって低くなっている。アンデス主脈の東側には一連の支脈が並び、北東部にはボリビアのアルティプラノ高原に連なる高原やプーナとよばれる高原があり、トゥクマンの南からコルドバ山脈の西にかけては乾燥した盆地群が南北に延びる。またアンデス山脈に水源をもつ河川のなすオアシスが、カタマルカ、サン・フアン、メンドサなどのアンデス山脈東麓(とうろく)に連なっている。
 以上のアンデス山脈とその周辺地域からさらに東へは、大西洋岸またはラ・プラタ水系の河川に至る広大な平原または台地が広がる。それらは北からチャコおよびパンパの平原とパタゴニアの台地である。両平原のなかにみられる山地は、パンパ西部の中央パンパ山脈、南部のベンタナ山脈およびタンディル山脈のみにすぎない。主要な河川としては、ブラジル高原に水源を有するパラナ川、ウルグアイ川とチャコおよびアンデス山脈北部に水源を有するピルコマヨ川、ベルメホ川、パラグアイ川があり、いずれもラ・プラタ川に合流する。またアンデス山脈中央部からはネグロ川などが、同南部からはチュブート川が、それぞれ大西洋に注ぐ。
 パンパは湿潤パンパと乾燥パンパに分かれる。湿潤パンパは夏は暑いが冬は温和であり、降水量もブエノス・アイレスで年平均975ミリメートルあり、西へ行くにしたがって減少するが、バイア・ブランカでも546ミリメートルある。これに対し乾燥パンパは降水量が少なく、とくに冬の降水が少ない。チャコ地方は乾期のある亜熱帯気候で、夏の降水量が多い。しかし排水が悪く、東部は雨期には広大な地域に河川が氾濫(はんらん)し、このため低湿地が多い。
 パラナ川とウルグアイ川に囲まれたメソポタミア地方は高温多雨で、乾期のない亜熱帯気候である。乾燥パンパの西側からアンデス山脈の山麓にかけては乾燥平原、山地気候で、降水は非常にわずかである。その南のパタゴニアは寒冷乾燥気候となり、この地域では降水は冬にみられる。寒冷ではあるが海洋が気温を和らげている。[細野昭雄]

地誌

アルゼンチンの人口と経済活動は圧倒的に首都ブエノス・アイレスとその後背地の湿潤パンパの地域に集中している。湿潤パンパはブエノス・アイレス州の全部、サンタ・フェ州の南部、コルドバ州の東部、ラ・パンパ州の北東部を含む起伏の少ない広大な草原であり、肥沃(ひよく)な土壌と温暖な気候に恵まれ、現在豊かな農業牧畜地帯となっている。しかし、その本格的開発は19世紀末のヨーロッパ移民の定住と、イギリス資本による鉄道、冷凍施設の建設をもって開始されたのであり、その開発の歴史は新しい。この国の小麦、トウモロコシなどの穀物生産の大部分がここで行われ、また、牧牛のおよそ3分の2、ヒツジの半数が乾燥パンパを含むパンパ地方に集中している。したがってこの地方には首都のほか、サンタ・フェ、ラ・プラタ、保養地のマル・デル・プラタ、港市のバイア・ブランカ、パンパ西部の盆地にあるコルドバなどの主要都市が位置している。
 サルタ、フフイ、トゥクマンなどの諸都市からなる北西部の地域は植民地時代の初期からの活発な経済活動の中心であり、アルト・ペルー(今日のボリビア)への農産物や皮革製品がこの地域から出荷された。現在は、サトウキビをはじめとする亜熱帯農産物の生産とその加工品、伝統的手工芸品の生産が行われている。
 新しい農業地帯であるメソポタミア地方は、パンパ地方よりやや遅れて、主としてヨーロッパ移民により開発が進められ、現在では、マテ茶、茶、タバコ、綿花、果実類をはじめとする、多様な亜熱帯農産物の重要な生産地となっている。チャコ地方でも水位低下期の湿地帯の季節的耕作、西部の灌漑(かんがい)農業などにより、綿花などの亜熱帯農産物の生産が行われている。またチャコ地方はタンニンを精製するためのケブラチョ樹の生産地としても重要であった。
 チャコとパンパの両平原およびアンデスの主脈に挟まれた地域は、一連の盆地群およびアンデス山麓のオアシス群からなる。前者はパンパ山地地方ともよばれ、カタマルカ、ラ・リオハ、サン・ルイスの3州の東部とコルドバ州西部が含まれ、灌漑水利施設の建設により、オリーブ、果実などの生産が行われる。この地域の西から南にかけてのサン・フアン、メンドサを中心とする地域はクヤナ地方ともよばれ山麓のオアシスにブドウをはじめ各種果物、野菜が生産される。その南の南部アンデス山麓およびパタゴニア地方はヒツジの飼育がおもな産業となるが、盆地や谷では果実などの栽培も行われる。[細野昭雄]

歴史

先住民はインディオで、山岳地帯を中心に数種族が居住していた。スペイン人によって植民が始められたのは16世紀中ごろ以後である。1516年のファン・ディアス・デ・ソリスによるラ・プラタ川の「発見」、1520年のマジェラン(マゼラン)によるマゼラン海峡の「発見」などののち、1535年ペドロ・デ・メンドサの率いる大規模な探検隊が派遣され、ブエノス・アイレス市が建設された。しかし、先住民の攻撃などのためラ・プラタ地域の植民地の中心は、アスンシオンに移動し、ブエノス・アイレス市の再建は1580年にようやく行われた。アルゼンチンの植民地時代の活動は、アルト・ペルーの銀鉱業への生産物供給を担う形で、北西部を中心に行われた。ペルーから南下した人々により、トゥクマン(1565建設)、コルドバ(1573)、サルタ(1582)などの都市が建設された。ラ・プラタ地域にもアスンシオンから移動した人々によりサンタ・フェ(1573)、コリエンテス(1588)、既述のブエノス・アイレスなどが建設されたが、18世紀末に至るまでアルゼンチンの人口の多くは北西部に集中していた。
 アルゼンチンは、高い文明を有する先住民がおらず、その労働力としての動員も困難であったこと、高価な鉱産資源も発見されなかったことから、宗主国スペインにとって魅力ある地域ではなく、植民地時代を通じて、周辺のペルー、パラグアイ、チリからの人口の移動のほかは人口の増加も少なかった。ただし北西部の地域などでは先住民に対してエンコミエンダ(国王が植民者に征服地の統治を委託する制度)のような制度も実施され、スペイン人と先住民の混血も進んだ。他方、征服の行われないパンパをはじめとする地域では、先住民との戦闘が1883年まで続いた。
 アルゼンチンの政治、経済の中心は、18世紀前半までは、初めトゥクマン、ついでコルドバにあった。しかし、1776年ブエノス・アイレスを首都とするラ・プラタ副王領が設けられたこと、これより先、ペルーの銀生産の衰退が始まる一方、大西洋貿易の拠点としてのブエノス・アイレス港の重要性が増したことにより、政治、経済の中心は同市に移動した。とくに正式に同港を通じての貿易が認められるようになってから人口は急増し、1726年の2200人から1800年には4万5000人となった。またこの間、パンパにおける皮革、干し肉などの生産、輸出も増加した。
 アルゼンチンの独立は、他のスペイン領諸国と同様、直接には1808年のナポレオンのスペイン征服を契機とする。しかしアルゼンチンでは、これに先立つ1806~1807年にイギリスによるブエノス・アイレス侵攻があり、副王は逃亡したのに、アルゼンチン人はよく戦って撃退し、自由と独立の気運が高まっていたことも重要であった。ブエノス・アイレスのクリオーリョ(植民地生まれの白人)たちは、1810年副王を退位させて執政委員会(フンタ)を設立し、さらに1816年には、トゥクマンに各地方の代表が集まり、「リオ・デ・ラ・プラタ合衆国」として正式に独立を宣言した。ついでサン・マルティンの率いる軍は、チリに遠征して同国の独立を助け、さらにペルーに北上して、ベネズエラの独立運動指導者シモン・ボリーバルとともにスペイン軍に対抗した。しかし、ブエノス・アイレスと内陸の各地方、中央集権派と連邦主義派の争いなどの国内の対立は独立後も続き、1826年初代大統領にベルナルド・リバダビアを選出したものの、1829年独裁者ファン・マヌエル・ロサスの登場までは混乱が続いた。
 政情が安定に向かったのは、1868年ドミンゴ・サルミエントが大統領となってからであった。彼のもとでは経済的、文化的進歩がみられ、1880年には長年のブエノス・アイレス州と他の連邦諸州との抗争も終結し、ヨーロッパ移民と外国資本の導入によって温帯農産物輸出国として急速に発展する基礎が築かれた。この発展に伴い、都市化、工業化も進み、20世紀初めにはしだいに都市の労働者、中間層が勢力を強め、1916年イポリト・イリゴージェンの大統領選出で急進党政権が誕生した。20世紀初頭はアルゼンチンの黄金時代であり、第一次世界大戦時には中立を維持して多額の外貨を獲得し、世界有数の富裕国となった。
 しかし、一次産品輸出に依存していたアルゼンチンの経済は、世界恐慌の影響を強く受け、その混乱のなかで1930年クーデターが起こった。翌1931年保守派のフスト政権が成立、3代の保守政権が続いたが、第二次世界大戦下では連合国支持をめぐり政変が続き、結局1944年のクーデターで登場したファレル政権は翌1945年3月まで日本とドイツに対する宣戦を引き延ばした。この間恐慌後の輸入制限などのもとで工業化が進み、都市労働者の数も増加していたが、ファレル政権のもとで労働大臣となったファン・ドミンゴ・ペロンは労働者の組織化を推進し、1946年にはその支持により大統領に就任した。妻エバ・ペロン(通称エビータ。1952年死去)とともに労働者の保護、社会保障の充実、鉄道など外国資本の国有化、国家主導での工業化の推進など、国家社会主義的政策を実施した。しかし、この政策のもとで不利となった資本家、保守派の反発、教会との対立が強まったうえ、経済状況も悪化して国民の支持を失い、1955年にロナルディ将軍のクーデターで失脚した。
 かわって就任したアランブルはペロンの政策の一掃と経済の回復に努めたのち、民政移管を行ったが、この選挙で急進党のフロンディシ政権が発足した。これに続く1962年の選挙では、ペロン派の勢力拡大を妨げるため、ふたたび軍が介入し、そのもとで国民の支持基盤の弱いイリア政権が発足した。しかし、ペロン派対策、経済政策などで軍の支持を失い、1966年クーデターにより強力なオンガニア政権が発足した。同政権は物価の安定、財政、対外収支の均衡などの経済政策を実施し、成果を得た。しかし軍との対立が強まり、軍は彼を退陣させ、レビングストンを大統領に選んだが、結局1971年陸軍司令官ラヌーセが政権についた。同政権は1973年の民政移管を約束するとともに、その際にペロン派を排除しないこととし、その結果カンポラが選出され、ついで亡命先から帰国したペロンとその夫人(通称イサベル)を正副大統領とする第二次ペロン政権が同年10月に発足した。同政権は穏健な社会主義的、民族主義的政策を実施したが、ペロン派内部の左右対立や極左のテロが強まるなかで1974年7月ペロンが死去し、ペロン夫人が大統領に就任した。しかし、経済情勢の著しい悪化も加わり、1976年3月のクーデターで失脚し、かわって軍のビデラ政権が発足した。
 ビデラ政権はペロン政権の政策を大きく転換して、貿易、外資導入の自由化、財政均衡などを行い、インフレの抑制、生産の回復に努めるとともに、テロ集団の徹底的弾圧に努めた。しかし自由化政策はかならずしも成功せず、1981年に発足したビオラ政権下では激しい為替(かわせ)切下げを余儀なくされた。同年12月に発足したガルティエリ政権は翌1982年4月フォークランド諸島を一時占領したが、イギリス軍に敗れて撤退し(フォークランド戦争。マルビナス戦争ともよぶ)、この戦争で経済状態はいっそう悪化し、同年7月ビニョネ政権が発足した。
 敗戦による権威の失墜および累積債務危機に直面した軍部は、1984年までに民政移管を行う旨を発表し、政治活動を解禁、政党基本法を公布した。1983年10月に大統領選挙が行われ、急進党のラウル・アルフォンシンが52%を獲得し、ペロン党に大差で(38%得票)勝利し、大統領に当選した。同年12月に発足したアルフォンシン政権は、民主主義体制の確立と軍政時代の人権問題の解決など、困難な政治的問題に取り組むとともに、ハイパー・インフレーション(超インフレ)や累積債務問題の解決に取り組んだ。
 インフレは1985年のアウストラル・プラン実施によっていったん沈静化したが、その後ふたたび激化し、1989年には物価上昇率が年率5000%に加速した。このため1989年5月の大統領選挙では、ペロン党のカルロス・メネムが当選。アルフォンシンは任期満了の5か月前に辞任し、メネムが同年7月に大統領に就任した。メネム政権は、経済の規制緩和、貿易の自由化、民営化などを中心とする自由主義経済政策を実施し、また、1991年1月からはカバロ経済大臣の下で、法律によって為替レートを1ドル1ペソに固定する兌換(だかん)法(コンバートビリティ・プラン)を実施し、これによってハイパー・インフレーションは同年中に沈静化した。
 1991年11月ペロン党と急進党は、憲法改正に関する合意を行い、1994年4月制憲議会議員選挙が実施され、同年5月から8月にかけて制憲議会が開催された。同議会での審議により改正された憲法は、8月から発効した。
 1995年の大統領選挙でメネムは再選、民主主義の確立につとめるも、政府の汚職が批判を集めた。1999年の大統領選挙では野党連合「同盟」のフェルナンド・デラルアが当選。しかし、財政赤字解消のための政策がふるわず、3年以上にわたる景気後退や約1320億ドルに及ぶ公的債務を抱え、同国は経済危機に直面。2001年12月、生活物資を求める住民による暴動が広がり、主要閣僚が辞任、デラルアもまた辞任を余儀なくされた。同月23日、臨時大統領としてペロン党のアドルフォ・ロドリゲス・サアが選出され、25日デフォルト(債務不履行)を実施した。任期は次期大統領選挙が実施される2002年3月となっていたが、その経済政策が反発をかい、就任後8日で辞任に追い込まれた。その後、国内情勢が不安定のまま、副大統領エドゥアルド・ドゥアルデが大統領に就任した。2003年4月に行われた大統領選挙ではペロン党から元大統領メネム、ネストル・キルチネルら3人の候補が出るなど乱立し、5月キルチネルが当選、就任した。[細野昭雄]

政治

現行憲法は、1994年にそれまで有効であった憲法の大幅な改正を行って制定されたものである。アルゼンチンは連邦制をとり、1連邦市と23州からなる。立法府は二院制で下院は連邦市と23州からなる24の選挙区で、選挙区ごとに人口比を基本として定数が配分され選出される257名の下院議員により構成される。上院は連邦市と23州から3名ずつ選出される72名の議員によって構成される。下院議員の任期は4年で半数が2年ごとに改選される。上院議員の任期は6年で2年ごとに議員の3分の1が改選される。18歳以上の国民は選挙権を有し、また、被選挙権は下院25歳以上、上院30歳以上となっている。連邦制の下で各州が州憲法を有しており、任期4年の州知事の選出は直接選挙で行われる。州議会は州によって異なり、一院制または二院制をとっている。大統領は、国民の直接選挙により選出され、任期は4年、連続再選は一度だけ可能となっている。大統領府のほか、内務省、外務・貿易・宗務省、経済・生産省、司法省、厚生省、教育・文化省、労働・社会保障省、国防省、社会開発省および連邦計画公共投資省があり、閣僚は大統領によって任命される。司法権は最高裁判所および下級裁判所にあり、これらの判事は上院の同意を得て大統領により任命される。国の裁判所のほか、各州に高等裁判所および下級裁判所がある。大統領が軍の最高指揮官であり、国防省の下に陸海空の三軍が置かれている。民政移管後軍の規模は縮小され、陸軍4万1400人、海軍1万6000人、空軍1万2500人の兵力となっている(2002)。
 アルゼンチンの外交政策上の特徴としては、かつてはイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国との結び付きが強く、また、米州内における指導的地位を占める一国として、ブラジルに対する対抗意識や、アメリカとは距離を置く政策などがみられた。しかし、1982年のフォークランド諸島(アルゼンチンではマルビナス諸島とよぶ)を巡る戦争(フォークランド戦争)以降、中南米諸国との連帯を強め、また、アメリカとの協調を重視する政策を強めている。とくに従来対抗意識の強かったブラジルとの関係が大きく変わり、1991年には同国およびパラグアイ、ウルグアイとの4か国で南米南部共同市場(MERCOSUR(メルコスール))設立条約を結び、1995年から同共同市場が発足した。チリとはビーグル海峡の3島の帰属を巡る対立が続いていたが、1991年に同国との間で合意が成立し、さらに1996年にはチリがMERCOSURに準加盟することとなった。また、中南米主要国とリオ・グループ(中南米18か国の政策協議機関)を結成し、これら諸国と外交面での協調体制をとっている。[細野昭雄]

経済・産業

1982年のフォークランド戦争と深刻な累積債務危機の影響を受けたアルゼンチン経済は、その後「失われた十年」を経験し、低成長とインフレに悩まされたが、1991年以降にいったん回復がみられた。1980年代(1980~1989年)に平均年率-0.3%と著しく低迷していた経済成長率は、1991年から1996年の平均で年4.7%と回復した。また、消費者物価上昇率は1980年代前半(1980~1984年)年平均180.8%、同後半(1985~1989年)年平均261.7%と激しいインフレが続き、さらに1990年には1343.9%と高い水準にあったが、1991年に導入された1ドル1ペソに固定する兌換(だかん)法の下で、同年84.0%に低下した。さらに、その後1993年には一桁(けた)台となり、1996年には0.4%に低下して、インフレの抑制に成功した。しかし、1999年のブラジルのレアル切下げや、アジア経済危機の影響もあり、固定相場制を維持するペソの国際競争力は失われていった。2001年には財政赤字拡大により対外債務の支払い停止を宣言、同時に預金引出しの制限措置等を行ったため、国民の反発を買い、各地で暴動が発生した。翌2002年に変動相場制へと移行、国際通貨基金(IMF)との交渉、民間債務の再編等を通じて経済再建を図っている。国内経済は回復基調にあるが、消費者物価上昇率は2003年の3.7%から2005年12.3%となり、インフレの懸念が高まっている。失業率は他国に比べ高く、都市失業率は1995年の18.8%から経済危機を迎えた直後の2002年には19.6%に上昇、その後15.6%(2003)と推移している。
 アルゼンチンの今日の社会経済構造の重要な部分は、1870年代以降のパンパにおける農牧業の急速な発展によって形成されたといっても過言ではない。それ以前100万人にも満たなかった人口は、農牧業を支えるためのヨーロッパからの移民の定住によって、1914年には800万人を超えた。この国が短期的に世界の穀倉の一つとなった基本的要因は、ほとんど未開発の状態であった広大で肥沃(ひよく)なパンパが、世界の温帯農畜産物(小麦、牛肉)需要の急増に対し、大量の資本と労働力の導入によって速やかに供給の条件を整えたこと、鉄鋼の大型船舶の利用や鉄道の発達などの輸送技術の進歩があったことによる。このような農牧業を中心とする発展は、1929年の世界恐慌まで続いた。その後は保護貿易下での輸入代替工業化が推進され、産業構造も多様化し、第二次世界大戦後は重化学工業化も進んだが、農産物輸出に外貨獲得を依存する構造は、基本的には変わっていない。
 アルゼンチンは肥沃な農地のほか、石油、天然ガス、銅などのエネルギー・鉱物資源、水産資源などに恵まれている。また、最近はアンデス山脈に銅、金などの非鉄金属の開発が進み、アルンブレラ鉱山ほか多数のプロジェクトが進行している。石油の埋蔵量は3億9300万立方メートル、天然ガスの埋蔵量は5534億立方メートル(2004)に達し、エネルギー資源も豊富である。また、ヤシレタ発電所(パラグアイとの共同プロジェクト。1994年稼動開始)をはじめ、大型の水力発電所も建設されている。アルゼンチンは広大な大陸棚を有し、とくにパタゴニア沖には豊かな水産資源が存在している。
 農牧業は国内総生産に占める割合が11.1%、農産物輸出額が総輸出額の47%(2003)と、この国の経済にとっての重要性は高い。アルゼンチンは2003年時点で1億2875万ヘクタールに上る農牧畜面積を有し、約5000万ヘクタールの森林を有している。牛の飼育頭数は5077万頭と人口の1.4倍にも達し、また、1245万頭のヒツジが飼育されている(2005)。主要農産物はサトウキビ(2003年生産量1925万トン)、トウモロコシ(1504万トン)、小麦(1453万トン)などの穀物のほか、大豆、ヒマワリなどの搾油用作物の生産も盛んであり、とくに大豆の生産(3480万トン)の増加が顕著である。
 アルゼンチンの農牧業の特徴の一つは、エスアンシアとよばれる大農場からなる土地所有制で、農場数で全体の0.8%の大規模農場(平均面積8000ヘクタール)が農牧地全体の約40%を占める。このほか42万に上る中小規模の農場での生産も行われている。一般に、大農園では生産的投資はあまり行われず、また肥料もほとんど用いない粗放的経営が行われているため、長期的にはアルゼンチンの農牧畜生産は伸び悩んでいる。この影響で同国の輸出の世界市場に占める割合は低下してきている。パンパにおける穀物、牛肉生産のほか、北東部ではサトウキビ、米の生産が行われ、また、アンデス山麓(さんろく)では果実およびワイン用ブドウの栽培などが行われている。
 工業化は19世紀末から開始され、農畜産品の加工品、皮革製品、綿、羊毛の繊維品からしだいに多様化した。とくに1930年代以降は輸入制限が強まり、国内製造業が保護されたこと、ペロン政権下で国家主導の工業化が推進されたことにより、工業生産が拡大した。なかでも1970年代初めまでに鉄鋼、自動車、石油化学などの分野が発展し、重化学工業化が進み、国内総生産に占める製造業の割合は35%以上に達した。しかし、1970年代後半に入り、ビデラ政権が貿易自由化政策を開始したことや、インフレが加速したことなどから、工業は深刻な影響を受けた。1982年の累積債務危機でふたたび輸入制限は強化されたものの、メネム政権に至って本格的な自由化政策が実施され、製造業の国内総生産に占める割合は27%にまで低下した。しかし、この間鉄鋼、化学、石油化学などの資本集約型の基礎素材産業は競争力を強め、輸出を拡大した。また南米南部共同市場(MERCOSUR(メルコスール))の発足によりブラジルとの広域市場が実現し、自動車産業をはじめ製造業への新たな投資の拡大もみられる。
 総輸出額は2004年には345億ドルに達し、主要輸出品は農畜産物加工品、穀物、燃料、鉱石である。総輸入額は223億ドルで、主要輸入品は機械、化学製品、輸送用機器である。アルゼンチンの近年の貿易収支は1997~1999年に赤字となったが、2000年より黒字が続いている。
 アルゼンチンの貿易相手国としては、MERCOSUR域内貿易の拡大によって、とくにブラジルの重要性が高まってきている。2002年の輸出相手国としてはブラジルが輸出額の19%を占め、これにチリ(12%)、アメリカ(12%)が続き、スペイン、中国、オランダがそれぞれ4%を占めている。輸入もブラジルが最大の相手国で、輸入額の30%近くを占め、これにアメリカ(21%)、ドイツ(7%)が続き、中国、日本、イタリアもそれぞれ4%(2002)を占める。
 アルゼンチンは小麦、牛肉の輸出に向けての国内各地からの貨物輸送のために、イギリス資本により鉄道が発達し、世界有数の鉄道国となった。しかし、ペロン政権時代に鉄道が国有化され、施設の老朽化が進んだことなどもあって、しだいに道路輸送が中心となり、今日ではバス、トラックによる輸送が高い比重を占めている。道路の総延長は21万5471キロメートルに達し、鉄道の総延長は3万3000キロメートルに達する。主要港湾としては、ブエノス・アイレス港をはじめとするラ・プラタ川などの河川の港湾や、バイア・ブランカ港などがある。国内航空網も発達し、最近民営化されたアルゼンチン航空ほか数社が運航している。[細野昭雄]

社会

アルゼンチンにおける人種構成は、先住民や黒人およびその白人との混血が多数を占める他の中南米諸国と異なり、混血がチリ、ボリビア、パラグアイとの国境周辺地域に多いほかは、白人が人口の大部分を占めている。これは1870年代以降の移民の定住によるもので、その数は1940年までに350万人に達したとされる。これら移民の出身地別ではイタリア人、スペイン人が多く、ほかにポーランド人、フランス人、ドイツ人などからなる。ユダヤ系住民も多く、またレバノン、シリア出身の住民も少なくない。主要言語はスペイン語であるが、その話し方にはイタリア語の強い影響がみられる。宗教の自由は認められているが、国民の約90%はカトリック教徒であり、ほかにプロテスタント、ユダヤ教徒などもいる。カトリック教は、この国の社会に強い影響を与えている。
 人口増加率は1.3%とラテンアメリカ諸国のなかでは低い(1992~2002)。総人口3626万人に対する都市人口の比率は89.3%に達する(2001)。とくにブエノス・アイレス都市圏への集中が著しく、同市の人口は1205万人(2001)に達し、総人口の約33%に達する。1人当り国民総所得(GNI)は3580ドルと近年低迷しているが、繁栄期の蓄積もあって一般に住宅、公共施設は整っており、それらは病院や上下水道の普及などにもみられる。伝染病もほとんどなく、幼児死亡率も低い(1000人当り16人、2001年)。また食糧輸出国であることもあって、カロリー、タンパク質摂取量が高い。労働者の賃金は、高い失業率を反映して低迷しており、経済・金融危機下にあった2001年を100とした民間企業労働者の賃金指数の水準は、2002年には83.3にまで落ち込んだ。現在は104.6(2005)の水準にまで復活している。アルゼンチンはペロン政権以来、労働者の組織が強いことで知られていたが、軍事政権下でその運動が厳しく制限されたことや、メネム政権の下での自由主義経済政策の実施により、労働組合の影響力はかなり低下した。
 教育の普及は、中南米諸国のなかでもっとも進んでおり、成人識字率は96.9%(2001)、初等教育の就学率は100%であり、中等教育の就学率は男子では1980年の52%から2001年の97%へ、女子では60%から100%へと上昇している。また、高等教育の就学率は80年の22%から2001年には56%に上昇した。義務教育である初等教育は5歳から15歳までの10年間で、無償である。大学はブエノス・アイレス大学、コルドバ大学をはじめとする33の国立大学と42の私立大学がある。なお、初等、中等教育における就学率は高まっているが、初等教育および中等教育中退者の比率が比較的高いなどの問題も指摘されている。[細野昭雄]

文化

アルゼンチンは移民の国であり、しかもその定住が本格的に進んでから100余年しか経ていないことから、その文化には、植民地期のスペインの文化と移民のイタリア、フランスなどの文化の影響が強い。コロン劇場が世界三大オペラ劇場の一つとして知られるように、またブエノス・アイレスが「南アメリカのパリ」とよばれるように、アルゼンチンはラテンアメリカにおいてもっともヨーロッパ的な文化の国である。しかし、パンパの近代的農牧業発展の前のガウチョ(牧童)の伝統や、音楽におけるタンゴのように、アルゼンチン独自の文化的要素もある。スポーツは盛んで、サッカーは国民的スポーツとなっており、ワールドカップでは過去2回優勝している。アルゼンチンの主要新聞としては、発行部数のもっとも多い『クラリン』紙をはじめ、『ラ・ナシオン』紙、『ラ・クロニカ』紙や経済紙の『アンビト・フィナンシエロ』紙などがある。テレビも普及しており、5局のテレビ局があるほか、ケーブルテレビの普及が進んでいる。[細野昭雄]

日本との関係

1898年(明治31)調印の修好通商条約以来、友好的関係が続き、日露戦争時には日本に軍艦(「日進」「春日(かすが)」)を譲渡したり、第二次世界大戦でも、対日宣戦布告は1945年(昭和20)3月まで行わなかった経緯がある。1952年復交した。日本からの移住も1907年(明治40)以来行われており、戦前には5400人が移住し、戦後も国際協力事業団を通じての移住や呼び寄せ移住が行われていた。日系人、在留邦人数は約3万人に達する。
 日本とアルゼンチンとの貿易は2001年の経済危機以来停滞しており、日本からの輸出額は1989年の1億8000万ドルから、1992年の7億1000万ドルに増加したが、2004年は4億3600万ドルとなっている。輸出の9割は重化学工業品であり、とくに電子機器や自動車などの機械機器が中心となっている。アルゼンチンからの輸入額は、1989年の4億2000万ドルから、1992年の5億2000万ドルへと増加したが、2004年は4億5500万ドルとなった。おもに、トウモロコシなどの飼料作物、エビ、イカなどの魚貝類などの食料品を輸入しているが、近年銅鉱石やアルミニウム合金の割合が増えている。日本企業のアルゼンチンへの直接投資は少ないが、ホテル建設への投資が行われたほか、自動車分野への投資が進められている。また、毎年「日本・アルゼンチン経済委員会」が開催されている。
 一方、国営石油公社(YPF)への融資など、日本からの各種の資金協力が行われてきているが、1993年にはアルゼンチンの債務削減のためのブレイディ・プラン(「新債務戦略」)適用のための資金協力も行われた。技術協力も多様な分野で行われてきており、1983~1986年には「アルゼンチン経済開発調査」が実施され、その報告は「大来(おおきた)リポート」とよばれ、アルゼンチンの経済社会開発に関する基本的な助言を与えた報告書として高く評価された。さらに、環境分野や漁業分野における協力も行われている。[細野昭雄]
『P・E・ジェームス著、山本正三・菅野峰明訳『ラテン・アメリカ』(1979・二宮書店) ▽S・E・モルフィーノ著、細野昭雄訳『全訳世界の地理教科書シリーズ 30 アルゼンチン――その国土と人々』(1980・帝国書院) ▽日本貿易振興会編『アルゼンチン』(1988・同会刊) ▽加賀美充洋・細野昭雄著『ラテンアメリカの産業政策』(1991・アジア経済研究所) ▽細野昭雄・畑恵子編『ラテンアメリカの国際関係』(1993・新評論) ▽日本アルゼンチン交流史編集委員会編『日本アルゼンチン交流史』(1998・日本アルゼンチン修好100周年記念事業組織委員会) ▽グレッチェン・ブラットフォルド著、大谷藤子訳『目で見る世界の国々58 アルゼンチン』(2001・国土社) ▽アルベルト松本著『アルゼンチンを知るための54章』(2005・明石書店)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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