シャンソン(英語表記)chanson

翻訳|chanson

精選版 日本国語大辞典 「シャンソン」の意味・読み・例文・類語

シャンソン

〘名〙 (chanson)
① 一三世紀末から一六世紀にかけてフランスで流行した世俗的な多声歌曲。
② 一九世紀末から二〇世紀初頭の「ベル‐エポック」に勃興した、フランスの代表的な大衆歌謡。歌詞を重視した個性的表現を特色とし、物語風の内容をもつものが多い。
※古川ロッパ日記‐昭和一三年(1938)一月三日「レヴィウとシャンソンについての論」

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デジタル大辞泉 「シャンソン」の意味・読み・例文・類語

シャンソン(〈フランス〉chanson)

中世吟遊詩人の歌謡以来の、フランス世俗歌曲の総称。
フランスのポピュラーソング。人生の哀歓などを歌ったものが多く、歌手の個性的な表現が特色。

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改訂新版 世界大百科事典 「シャンソン」の意味・わかりやすい解説

シャンソン
chanson

フランス語の世俗的な歌詞による歌曲の総称。その範囲は広く,中世のトルバドゥールトルベールをはじめ,14~16世紀に栄えた多声歌曲,19世紀以降のピアノ伴奏付き歌曲,さらには大衆歌謡としてのシャンソンや民謡chanson populaireまでを含む。しかし,西洋芸術音楽史の上で〈シャンソン〉という場合,特に中世後期からルネサンスまでの多声歌曲を指し,バロック以降の伴奏付き独唱歌曲は含まない。

12~13世紀に現れたトルバドゥールトルベールによって歌われた単声歌曲は,14世紀アルス・ノバの時代に入るとG.deマショーの手によって多声歌曲への大きな変貌を遂げた。13世紀にも初期多声楽曲として重要なモテットの最上声部にフランス語の世俗歌が引用される場合があったが,すべての声部が同一の抒情的歌詞を歌う多声楽曲は14世紀半ばまでごくまれであった。マショーは多声フランス歌曲を大量(約100曲)に残した最初の音楽家と見なされる。およそ1360年以降,マショーはバラード,ロンドー,ビルレーといった前代の歌曲定型forme fixeによりながら,そのうちビルレーに単声の例を残しつつも,もっぱら2,3,4声の多声部体で書いた。それらは基本的に最上声部が旋律的に最も重要で,歌詞はここにのみ記され,下声部はよりゆるやかな動き,ときに早い動きをもつ器楽的な音型をとる。この最上声が歌い支配する形は,以後200年間の世俗歌曲の方向をあらかた決定することになった。もっとも当時の演奏の実態はなお不明な部分が多く,時と場合に応じて人声と楽器がさまざまに組み合わされたようである。マショー以後,14世紀末から15世紀前半にかけての音楽家チコニアJohannes Ciconia(1335ころ-1441),マテウス・デ・ペルージオMatheus de Perugio(?-1418以前),コルディエBaude Cordierらの歌曲には,シンコペーションポリリズムを多用した複雑な様式からいっそう単純化した様式への推移が見られる。

 15世紀,G.デュファイ,G.バンショアに代表されるブルゴーニュ楽派の時代に入り,世俗歌曲の呼称としてようやく〈シャンソン〉の語が定着する。およそ70曲のデュファイのシャンソンはほとんどが3声で,最上声部優先の傾向は保持しつつ,下声部にも歌いやすい音型が与えられてほぼ全声部が対等に扱われ,抒情豊かな洗練された旋律が歌われるようになる。詞は題材の大部分を恋愛にとり,同時代の大押韻派Grands Rhétoriqueursの語呂合せや,詩行内の押韻,あるいは折句など技巧的な詩法によるものが多い。この時代にはなお歌曲定型が大勢を占めていたが,同時に近代的な有節形式やより自由な形式も徐々に現れはじめた。

 次いで15世紀末になると,全声部に模倣を徹底させるいわゆる〈通模倣様式〉を基礎とするJ.オケヘム,J.オブレヒトらフランドル楽派の時代をむかえる。ここに至り歌曲定型は完全に捨て去られ,ミサやモテットのような宗教曲と同様の対位法的彫琢がなされ,全声部が同じ歌詞を歌うようになる。ジョスカン・デ・プレら盛期フランドル楽派においてはさらに,全声部が同じリズムで進行するホモフォニックな部分が適宜挿入され,ポリフォニックな部分との対比づけや楽節区分の明確化を図る手法も目だってきた。

 16世紀中葉に向かい,それまでフランドル楽派のいわば国際的様式の中にあったシャンソンは,C.ジャヌカンセルミジClaudin de Sermisy(1495ころ-1562),セルトンPierre Certon(?-1572)ら生粋のフランス人作曲家を中心とするパリ楽派の興隆とともに真にフランス的性格をもつものへと変容し,ここに多声部シャンソンの黄金期が築かれた。今日も広く愛唱されているセルミジの《花咲く齢にある限りTant que vivray》に見られるとおり,4声部で,歌詞の1音節に1音ずつをあてはめる音節作法を軸に,全体はフランス語の語感を生かした軽妙な音の運びが際だつ。有名なジャヌカンの《鳥の歌Le chant des oiseaux》や《戦争La guerre》など,擬音語を駆使した長編の描写的シャンソンも上述の特性を極端に推し進めた形といえよう。こうしたシャンソンの隆盛は1520年代から急速な発展を遂げた楽譜印刷業に負うところが大きく,作品は曲集として続々と刊行された。曲集の普及とともに,それまで宮廷風の〈雅(みやび)な愛amour courtois〉を歌う傾向にあったシャンソンは,きわどい恋の戯れ歌なども織り混ぜ,市民生活の情景をいきいきと映し出す鏡ともなっていった。

 またイタリア戦争を契機とする芸術的交流によって得られたイタリア・ルネサンスの精神が,シャンソンの発展に及ぼした影響の大きさも見落とせない。とりわけ16世紀後半に入って,ギリシア・ラテンの古典詩に範を求め,豊かなフランス語の新生を理想に掲げるプレイヤード(詩派)の台頭により,詩と音楽の緊密な結合が謳われるようになる。一派の領袖ロンサールは,本来,詩が歌われるべきものであることを繰り返し説き,自らの《恋愛詩集Les amours》(1552)巻末にジャヌカンらによる作曲の実例を添え,収録の全詩がその実例のいずれかに則して歌えることを示し,分類している。また,同派のJ.A.deバイフが1570年にシャルル9世の勅許を得て音楽家クールビルJoachim Thibault de Courville(?-1581)とともに創設した〈詩と音楽のアカデミーAcadémie de Poésie et de Musique〉では,古典詩法にならって音節の長短をそのまま長短の音符に移そうとする〈韻律音楽musique mesurée à l'antique〉の試みがなされた。16世紀後半の代表的音楽家としてはJ.アルカデルト,コストレGuillaume Costeley(1530か31-1606),O.deラッスス,ル・ジュヌClaude Le Jeune(1528ころ-1600),A.ベルトランらが挙げられるが,最上声部支配のホモフォニックな書法と並んでポリフォニックなものの復活,さらにイタリアのマドリガーレに由来する音画技法や半音階法などとも相まって,その様式は多様化している。パリのアテニャン等はシャンソン曲集の刊行と並行して,人気を集めた歌をリュート独奏用,鍵盤楽器用,合奏用,舞曲用などに編曲して出版した。これらはルネサンス期の器楽発展に少なからず貢献した。

 17世紀に入ると,イタリアのモノディ(通奏低音伴奏付き独唱歌曲)の影響を受けて多声部シャンソンは衰退し,代わってリュート伴奏の独唱歌曲エール・ド・クール,さらにはボードビルやベルジュレット,ブリュネットといったより大衆的で簡明な歌曲が主流となっていく。
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J.J.ルソーは《音楽辞典》(1768)の中で,シャンソンを愛の歌,酒の歌,風刺の歌に大別した。現代のシャンソンもおおむねこの3種に類別できるが,他国の歌に比べると風刺の歌が際だって多い。その矛先は国家,教会,大企業などに向けられており,こうした反骨・批判精神がシャンソンの性格的特徴をなしている。また,ベルジュレット--〈羊飼の娘〉の意で,抒情詩の形式をいい,後に〈娘〉をめぐる牧歌的・官能的な民謡調の歌をもさす--の流れをくむ愛の歌もつねに作られうたわれてきた。それに対して,一般にシャンソンの属性と見なされる感傷性,文学的高踏趣味等は,ごく一部の歌に見られるにすぎない。また,かつては歌の内容,表現法に応じて現実派シャンソンchanson réaliste,シャンソン・ファンテジストchanson fantaisiste,文学的シャンソンchanson littéraire等々,細かい分類が行われたが,シャンソンが類型を脱し多様化のすすんだ現在ではあまり意味がなくなっている。

1950年代末までのシャンソンの特徴として,(1)3拍子のリズム(ワルツ,ジャバ,バルス・ミュゼット),(2)クープレ(物語の進展を語る部分)とルフラン(聴衆が唱和するための繰返し句)からなる有節形式,(3)アコーディオン主体の伴奏が比較的多いことなどがあげられるが,音楽的に多様化した今日ではこのような特徴は薄れた。しかし,歌詞内容が強いメッセージ性をおび,作者が歌手を兼ねるシンガー・ソングライター--フランスでは19世紀から1930年代までのそれをシャンソニエchansonnier,第2次大戦後のそれをACI(アーセーイー)(auteur-compositeur-interprète)と呼ぶ--が多いこと,また歌手が独自の個性をたいせつにして他人のイメージの強い歌はうたいたがらない,等々の伝統は現代にも生きつづけている。

シャンソンが宮廷音楽の枠を破って民衆の生の声としてうたわれはじめるのは,印刷術の発達によって文盲教育がすすみ,庶民文化が脚光をあびる16世紀後半以降のことである。

 17世紀の初めにパリのセーヌ川にかけられた橋ポン・ヌフ上の市に自作の歌を聞かせるシャンソニエが集まった。ここでうたい広められたざれ歌,風刺文(〈ポン・ヌフpont-neuf〉と呼ばれた)は,以後200余年にわたってフランス王室,教会を攻撃し,揶揄(やゆ)しつづけた。その一種で,17世紀前半のフランス宮廷に権勢をふるったマザラン枢機卿を風刺する〈マザリナードmazarinade〉は約6000編にものぼった。1789年の大革命の際に,民衆は《サ・イラÇa ira》を口ずさみながらベルサイユ宮殿に向かった。一方,1731年には,文人,画家,音楽家,哲学者などの知識階級が集まり,会員の作ったシャンソンを晩餐の席で楽しむ同好クラブ〈カボーcaveau〉がつくられていた。社会情勢と会内部の分裂で幾度か中断と浮沈をくり返しながらも〈カボー〉は発展をつづけ,1813年にベランジェが登場して栄光の頂点に達する。このシャンソニエの才能と名声についてはシャトーブリアン,ユゴー,スタンダールらも賛嘆と羨望の言葉をのこしている。また〈ポン・ヌフ〉にせよ〈カボー〉にせよ次に述べる〈ゴゲット〉にせよ,シャンソンの初期にうたわれていたのはほとんどありあわせのメロディに新たな歌詞を加えたタンブル(替歌)であったが,このような風潮に抗し,曲の独創を初めて唱え実践したのもベランジェであった。〈カボー〉はその後,中産階級の因襲に毒されて衰退し,第2次大戦によって終息する。しかし,シャンソンの音楽・文学的水準をたいせつにした〈カボー〉の伝統はその後に少なからぬ影響を与え,20世紀の〈左岸派〉へ引き継がれていった。

 1804年,ブルジョアジーの〈カボー〉に対して,労働者たちは〈ゴゲットgoguette〉をつくった。職人,労働者を会員とするこの組織は,当時の空想的社会主義の影響の下に粗削りな語法で体制批判の詞を書きなぐった。これは,ナポレオンの凋落とともに姿を消した〈ポン・ヌフ〉の復活とみることができる。《インターナショナル》の原歌詞も〈ゴゲット〉から生まれた。〈カボー〉が文学的シャンソンの揺籃であるなら,〈ゴゲット〉はシャンソン・アンガジェ(文学界のアンガージュマンに呼応する社会参加のシャンソン)の源流と見なすことができる。当然,当局の目の敵となり,第二帝政(1852-70)下において撤退を余儀なくされた。

 門戸を閉ざした〈ゴゲット〉の客の吸収したのは,歌や寄席芸を呼びものにした大衆娯楽場カフェ・コンセール(〈カフ・コンスcaf'-conc'〉)であった。体制批判を封じられた民衆は,タバコの煙とアルコール気と人いきれにむせ返る狭い店内で,きわどいざれ歌に興じてエネルギーを発散した。シャンソンは庶民娯楽の王座を占め,19世紀後半には多くの人気歌手が現れる。中でも重要なのは,ロートレックのポスターで有名なイベット・ギルベールYvette Guilbert(1867-1944)である。彼女は明晰な発音と的確な表情づけによって歌の内容を演劇的に表現する唱法を確立し,現代シャンソンの礎を築く一人となった。ベル・エポックを迎えて〈カフ・コンス〉は,酒抜きで踊りや寸劇とともに歌を聞かせるミュージック・ホール(名称も形式もイギリスから輸入された)に発展し,ミスタンゲット,シュバリエらのスターを輩出しながら華やかなレビューのステージをくり広げてゆく。最盛期は1920年代であった。

 1920年代は,シャンソンが音楽的にかつてない変革をみた時期でもある。1925年,アメリカの黒人レビュー団〈ブラックバーズ〉がもたらしたジャズはフランス人に新鮮な衝撃を与え,歌詞と歌手の個性中心のシャンソンに器楽部分のリズムとサウンドの重要性を初めて認識させた。こうして登場した新しいタイプの歌手の一人がトレネCharles Trénet(1913-2001)である。彼はスイング・ジャズの手法を採り入れ,直観的な即興と,リズミカルな感覚をシャンソンに採り入れた。トレネの影響は戦後シャンソンのほとんど全域に及び,ベコー,デュテイユYves Duteil(1949- )らに直接的に継承されている。

19世紀末に〈カフ・コンス〉が庶民から上流階級までを惹きつけて人気歌手の芸に沸いていたころ,その後のシャンソン史を書き換える事件がセーヌ左岸でひっそりと起きていた。〈クラブ・デジドロパート〉の開店(1878)である。店内でうたわれる曲の質を厳選し,聴衆にも相応の知識鑑賞力を要求する芸術的キャバレーの誕生であった。このクラブは短命に終わるが,その精神は右岸モンマルトルのキャバレー〈シャ・ノアールChat Noir(黒猫)〉(1881開店)に引き継がれ,次いでコクトー,ミヨーらの肝煎りで開店した〈屋根の上の牡牛Bœuf sur le Toit〉を経て,第2次大戦後,左岸のサン・ジェルマン・デ・プレに戻ってくる。〈シャ・ノアール〉のステージで名を挙げたシャンソニエ,ブリュアンAristide Bruant(1851-1925)は娼婦ややくざ者などの哀歓をうたい,ダミアからピアフへと続く現実派シャンソンの系譜の始祖となった。

 学生街カルティエ・ラタンを擁するセーヌ左岸地区は,ブルジョアジーとビジネス街の右岸地区に比して,革新的で前衛精神に富む伝統を有していた。それゆえ,第2次大戦による破壊から,戦後文化が真っ先に芽吹いたのも左岸地区からであった。サン・ジェルマン・デ・プレ,サン・ミシェル界隈の小さなクラブ,ライブ・スポットから,サルトル,プレベール,ビアンら文学者,知識人の活動と歩調を合わせて,新時代の精神と理念に生きる歌手が続々と登場する。1950年代初頭にはブラッサンス,ブレルJacques Brel(1929-78)が現れ,先にデビューしていたフェレLéo Ferré(1916-93)と並んでここに三大ACIが出そろい,シャンソン界は史上空前の充実を見た。彼ら左岸派共通の特質は,自らの信条と芸術的良心に忠実で迎合と妥協を拒否する誇りにあった。そのため,多くは長い不遇期間を過ごさなければならなかったが,時を越え,国境を越えて普遍性を獲得した《枯葉》《パリ・カナイユ》などの名曲は,ほとんどが左岸派が作り,あるいは発見した作品である。これに対して右岸の表舞台で発表される商業的シャンソンは,一時的に高い人気を集めてもいずれは短命なヒット曲に終わった。第2次大戦後のシャンソンは,左岸派の歴史といっても過言ではない。サン・ジェルマン・デ・プレは左岸派最後の大物バルバラBarbara(1930-97)を送り出したのち60年代に入って地域的特色を失い,左岸派そのものも現代シャンソンの多種多様な様相の中に拡散してしまうが,その精神的遺産はルノーRenaud(1952- ),ラビリエBernard Lavilliers(1946- )らの中になお息づいている。

戦前の伝統を継ぐ最後の歌手ピアフの死(1963)と前後して,シャンソン界は昏迷の時代を迎える。アメリカに始まるロックンロールやツイストの圧倒的影響のもとにいわゆるイエ・イエ・ブームを生みだすが,次代の才能を育てる努力を怠り,70年代は不信をきわめる。しかし80年代に入り,大きな創作力と表現力をもったラランヌFrancis Lalanne(1959- )が出現し,ふたたび活気を取り戻しつつある。ただ,シャンソンが音楽面でロックに匹敵するような世界的影響力をもったことはこれまで一度もなく,現在も多分に外国産のリズムとスタイル,ときには外国人音楽家の演奏能力に頼っている実状である。詩的内容ばかりでなく,音楽上でもどれだけ独創性を出せるかが,今後の課題であろう。
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百科事典マイペディア 「シャンソン」の意味・わかりやすい解説

シャンソン

フランス語で〈歌謡〉の意。音楽史では,フランスで1400年ごろに始まった独唱と伴奏の形(おもな作曲者はデュファイバンショア),および1500年以降の無伴奏のポリフォニー合唱曲が重要。後者は対位法的書法,世俗的歌詞によっているが,同時代イタリアのマドリガルより構造が明確で擬音を使う点が特徴である。ジョスカン・デ・プレジャヌカンらがその代表的作曲家。現代のポピュラー音楽としてのシャンソンは,歌詞の物語性を重視したものが多く,物語部分のクープレと繰り返し部分のルフラン(リフレイン)からできている。なお,フォーレやドビュッシーに代表されるフランス近代の〈芸術歌曲〉には,ドイツ語のリートに相当する語としてメロディの呼称がある。→フランドル楽派リート
→関連項目アルカデルトオケヘムカンツォーネキャバレースウェーリンク巴里の屋根の下ピアフプレベールベコーモンタンラッスス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シャンソン」の意味・わかりやすい解説

シャンソン
chanson

フランス語による世俗的歌曲。通常,現代フランスのポピュラー・ソングを意味すると解されるが,その歴史は古く,範囲もきわめて広い。中世のトルバドゥール,トルベールによる単声歌曲,14~16世紀のジャヌカンらの多声歌曲,さらに 19世紀以後の G.フォーレらの作曲による芸術歌曲も含めて『シャンソン』と呼ばれる。いずれも世俗的内容の詩によるフランス人特有の知性と感情をそなえた歌である。大別して,シャンソン・ポピュレール (民謡) とシャンソン・サバン (芸術家によって作られた歌) に分けられる。現代のシャンソンは歌手自身の作詞作曲によるものも多く,人生の喜怒哀楽をそのまま語るように表現した歌といえる。

シャンソン
Chamson, André

[生]1900.6.6. ガール,ニーム
[没]1983.11.9. パリ
フランスの作家。地方色の濃い『無頼漢ルー』 Roux le bandit (1925) で文壇にデビューしたが,1930年代には人民戦線派の代表者として活躍,『ガレー船』 La Galère (39) ,『雪と花』 La Neige et la Fleur (51) などの社会性の強い小説を残した。アカデミー・フランセーズ会員 (56) 。

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世界大百科事典(旧版)内のシャンソンの言及

【歌曲】より

…比較的小規模で,抒情的にまとまった気分をもつ声楽曲の形式。ドイツ語でリートLied,フランス語でメロディmélodie(またはシャンソンchanson),英語でソングsong(またはエアayre∥air)と呼ばれるものが,それに当たる。歌曲は,歌詞のもつ文学的な気分が音楽的表現によって高められて〈うた〉となり,音楽的に完結した独自の小形式が形づくられるところに特色がある。…

【歌曲】より

…比較的小規模で,抒情的にまとまった気分をもつ声楽曲の形式。ドイツ語でリートLied,フランス語でメロディmélodie(またはシャンソンchanson),英語でソングsong(またはエアayre∥air)と呼ばれるものが,それに当たる。歌曲は,歌詞のもつ文学的な気分が音楽的表現によって高められて〈うた〉となり,音楽的に完結した独自の小形式が形づくられるところに特色がある。…

【定旋律】より

…聖歌定旋律はまた,16~17世紀の典礼用オルガン曲にも用いられた。定旋律の第2のタイプはそれぞれの時代に流行した俗謡あるいは多声シャンソンの一部で,デュファイのミサ曲《顔が青ざめているなら》(1450ころ)以来,15世紀後半から16世紀にかけて多数のミサ曲にその例を見ることができる。俗謡《ロム・アルメL’homme armé(戦士)》は特に好まれ,デュファイ,ジョスカン・デ・プレ,オケヘムなど,15~16世紀の30以上のミサ曲に定旋律として用いられた。…

【トルバドゥール】より

…基本的に男性尊重,女性蔑視の中世にあっては,きわめて異例の発想であり,後代への影響の深さを考えるとき,〈愛は12世紀の発明である〉(C.セニョボス)という評言は必ずしも誇張とはいえない。 この新しい愛を歌うのに,トルバドゥールの重用した詩型はカンソcanso(オイル語(北フランス)のシャンソン)であった。これは原則として8音綴の詩行8からなる詩節を5~7連ねた定型詩であって,最終詩節を短い反歌で締めくくる場合もある。…

※「シャンソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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