基本情報
正式名称=スーダン共和国al-Jumhūrīya al-Sūdānīya/Republic of the Sudan
面積=186万1484km2
人口(2010)=3342万人
首都=ハルトゥームal-Kharṭūm(日本との時差=-7時間)
主要言語=アラビア語,ディンカ語,ヌエル語ほか
通貨=スーダン・ポンドSudanese Pound
アフリカ北東部,ナイル川の上・中流域に広がる共和国。北東は紅海にのぞみ,北はエジプト,西はリビア,チャド,中央アフリカ共和国,南はコンゴ民主共和国,ウガンダ,ケニア,東はエチオピアに接するアフリカ最大の国である(2011年7月に南部の南スーダンが独立してからは,アルジェリア,コンゴ民主共和国に次いで3位)。同じくスーダンとよばれる,アフリカ大陸を東西に横切る大サバンナ地帯の東部地域にあたり,この意味では,東スーダンともよばれた。アフリカ大陸北部のハム系住民地帯と中部黒人住民地帯の中間に位置し,紅海を渡って来たセム系アラブを迎え入れてきたスーダンでは,国民は多様な人種や部族から成り立っており,住民の構成と分布はアフリカ全体の縮図といえよう。したがって,住民の言語もアラビア語が国語とされるが,ディンカ語,ヌエル語など多くの土着言語も用いられている。
北緯4°~22°の熱帯にまたがるスーダンは,北のサハラ砂漠乾燥地帯から南端の熱帯雨林にいたるまで多様な自然景観をもつ。国土の中央やや東寄りを,ウガンダのビクトリア湖に発し南部国境付近山岳地帯から流れる諸河川を集めた白ナイル川が北上し,エチオピア高原に発した青ナイル川と首都ハルツームで,アトバラ`Aṭbara川とはアトバラで,それぞれ合流し1本のナイル川となってエジプトへ抜ける。
ヌビア砂漠Ṣaḥrā’al-Nūbaとよばれる北部の砂漠地帯は,年間降雨量100mm以下で,岩はだの荒野が広がる。ナイル川の涸れ谷(ワジ,ワーディー)が刻まれ,東部は丘陵となって紅海沿岸山脈に至る。わずかにナイル川沿岸の細長い地域のみがナイル川の恵みに浴する。7~8月の雨季を迎えて青ナイル川の水位は7mも上昇し,北部農業は9~10月の収穫期に入る。砂漠に降る乏しい雨は,丘陵やワーディーに牧草を芽生えさせる。砂漠地帯はハルツームあたりでとぎれ,半砂漠のステップやサバンナが南下する。ここでも年間降雨量は200mmを割る。両ナイル川とアトバラ川に囲まれたジャジーラal-Jazīra,ブターナ両地域は灌漑がいきとどいたスーダン経済の中核である綿生産地域であり,最も人口が密集する地域である。白ナイル川の西側のコルドファンKurdfān,その奥の西部国境沿いのダルフールDārfūrの両地方は完全な砂地の荒野で,それぞれヌーバ山脈,マッラMarra山脈を抱き,丘陵・山岳地帯が多い。だがここは,雨季を迎えると絶好の牧草地や,アラビアゴムを採るアカシアなどの灌木林に変貌する。コルドファン南西部からナイル川流域マラカール以南にかけてはサバンナに代わって,湖や沼の多い湿地帯(サッド地方)が広がり,南端域は降雨量1500mmに達する熱帯雨林である。豊かな放牧地であると同時に,無限の農林水産資源の宝庫である。
現在のスーダンは,19世紀のエジプトによる単独占領,次いでイギリス・エジプト共同統治によるスーダン支配領域を継承している。同時にこの広大な領域の実現は,スーダンの植民地化の時代の幕開けとなった。古代諸王国時代以来東スーダンは,国際交易網を通じてアフリカ内陸諸地域と結びつき,アフリカの有機的一部分として維持されてきた。そうした大陸内諸関係を断ち切られ,植民地本国にのみ結びついた孤立的状態を強いられた植民地化のつめ跡は,現在のスーダン国家が抱える諸問題にさまざまな形で刻みこまれている。
これまでにわかっている限り,スーダン史はナイル川の中流,サハラの東縁に位置し,現在のエジプトとスーダンにまたがるヌビアにおいて始まる。そもそもアフリカ史自体が,前7000年ころ,砂漠化せずまだ湿潤期にあったサハラをひとつの源流として始まり,森林や草原がおおい,河川が走り湖沼ができたサハラには,多数の野獣が生息し,地中海沿岸や南部のアフリカからは採集狩猟民たちが移住してきた。前6000年ころサハラは,牧畜民の世界としての文化を生みだした。前3000年ころナイル川流域に成立した統一エジプト王朝はヌビア支配を開始し,第19王朝時代にはナイル川の第4急湍(たん)付近まで支配した。エジプトのヌビア支配の目的は,黄金とアフリカ内部からの香木,象牙,ダチョウの羽根および奴隷などの獲得であった。ヌビア人奴隷は家内奴隷,労働者や兵隊として世界的に歓迎され,奴隷はバクトという年貢としてエジプトへ送られ続けた。一方すでにこの頃,西アフリカ,地中海,紅海,インド洋をはさんで国際交易網が展開し,ヌビアはその中継点に位置していた。スーダンがここに述べた品目を産し,国際交易網の真ん中に位置しているための経済的重要性はその後も変わることはない。
このヌビアに,前2200年ころ,熱帯アフリカ奥地から黒人民族集団が移住してきて先住民を従属させ,クシュ王国時代(前1530-後350。クシュはナイル川第2急湍以南地域の総称)が始まる。前750年ころにエジプトをも占領,1世紀にわたり第25王朝を樹立したクシュ王国は,前6世紀半ば,第4急湍付近のメロエに首都を移し(以後メロエ王国と称す),エジプトの影響を脱して独自のブラック・アフリカ的文化の特性を強めた。この頃,すでに乾燥期に入って完全に砂漠化したサハラから,諸民族の牛の群れを伴った南への移動が始まり,彼らはサハラ南縁の半砂漠地帯からスーダン南部のナイル川流域大湿原にまで自然環境に順応して住みついていった。メロエ王国の住民は定住集落をつくり,ナイル川流域の広大なサバンナを舞台に牧畜を生業とし,農業においてはミレット(アワ類)を主作物にした。またメロエは当時世界有数の鉄生産地であり,鉄の輸出で厚味を加えた国際交易を経済基盤にメロエ文化が栄え,その影響はサハラ以南のアフリカにまで深く浸透した。
このメロエ王国は365年エチオピアのキリスト教王国アクスム王国に滅ぼされ,ヌビアはキリスト教王国時代に入る。7世紀半ばアラブに征服されたエジプトがイスラム時代に入ってからも,ヌビアは容易にはイスラム化せず,ヌビアのイスラム化が始まるのは,マムルーク朝(1250-1517)のヌビア征服(14世紀初め)以後である。その頃からヌビア住民は,ナイル川に沿ってエジプトから南下する,あるいは紅海を渡ってアラビア半島からやって来るアラブ・ムスリムと接触を深め,ジャアリーンJa`alīnおよびジュハイナJuhaynaと総称される,アラブの血を引いた諸部族の誕生をみた。これらアラブ系部族のイスラム首長国(マシュヤハMashyakha)が,キリスト教王国の衰退につれてナイル川流域にいくつも成立していき,オスマン帝国のエジプト支配(1517)と同じ頃,それら首長国を統合してフンジFunj王国(1515-1821)が成立,青ナイル川流域センナールSennārを中心にしてナイル川第3急湍以南両ナイル合流域にかけてイスラムにもとづく統治が始まった。このとき,ナイル川周辺の一部アラブ系部族が白ナイル川西岸のコルドファンに移動,アラブ系遊牧民(バッカーラBaqqāra,ベダイリーヤBedaylīya等)として定着した。一方,ダルフールのマッラ山脈周辺に,フール族がバッカーラ遊牧民などを服属させ,やはりイスラム王国を名のるダルフール王国(1596-1874)が成立,ダルフール,コルドファンからバフル・アルガザルに至る地域にかけて支配した。ダルフール王国は,牛,穀物,奴隷,象牙などを貢納として取り立て,象牙,奴隷などを各地に輸出して引換えに装身具,ビーズ,織物,武器などを輸入する交易立国であった。フンジについては不明の点が多いが,交易を重要な経済基盤とする国家であった。
フンジ,ダルフールの王国時代は,スーダンにイスラムが広く浸透する時期である(特に18世紀)。原始宗教を信ずる多くの住民のイスラムへの改宗には,イスラム神秘主義教団(タリーカ)の役割が大きかった。教団の布教活動は,民衆の呪術的願望をかなえてくれると信じられた聖者を通じて民衆の信仰を獲得し,民衆を教団員として包摂し,血縁集団との結びつきも広くみられた。これらの教団の修道場(ザーウィヤなど)が,隊商交易網に沿ってアフリカ内陸部に広がり,スーフィー教団の修道場は,アフリカ内外のいろいろな地方からやって来るムスリムたちが一堂に会し,教団を軸に人的交流や,商売,さまざまの情報交換を深める場所ともなった。イスラムの普及はまた,巡礼へ向けて人びとの移動を活発化させ,西アフリカや北アフリカとメッカを結んで移動する人びととスーダン住民の接触が深まった。
こうしてイスラムの浸透は,スーダンのもっていた国際的性格を一段と強め,また同時にスーダンはイスラムのウンマ(信仰共同体)のなかに位置づけられることになった。フンジ,ダルフール両王国は,イスラムにもとづく集権的国家ではなく,諸部族・諸首長国の連合体であり,実際の政治あるいは社会生活の局面で,すでにイスラム法(シャリーア)が絶対的な規範となっていたとは考えられない。しかし,ムスリムとなった住民の間にはウンマの一員として,イスラムの理念にもとづいて考え,行動するという共通の基盤が,この時代に生みだされていたといえよう。
19世紀に入るとムハンマド・アリー朝のもとに強力な集権国家をめざすエジプトがスーダン征服に着手,1821年フンジ王国,74年ダルフール王国をそれぞれ滅ぼし,エジプトのスーダン直接統治が始まる。エジプトのスーダン経営のねらいは,奴隷や黄金などを調達しエジプト帝国建設に投入することであった。いわば資源開発のためのスーダン経営は,奴隷の乱獲,住民の苦しみを顧みない重税を必然化した。イスラム社会の奴隷は,少なくとも〈人間〉としての権利を認められていた。これに対し近代のエジプトのスーダン経営は奴隷を完全に〈物〉として扱った。それは,資本主義時代の原料獲得のための植民地経営の幕開けであった。
エジプト圧制下の住民の危機的状況のなかで,スーフィーのムハンマド・アフマドは,イスラムの危機がシャリーアの施行に責任を負うはずのオスマン帝国やエジプトの権力によって導入されていると受け止め,エジプト占領体制を打破してシャリーアを施行し,イスラムの革新を図ろうと考えた。81年,ムハンマド・アフマドのマフディー宣言とともに開始されたマフディー反乱を通じて,終末論的なジハードを目ざす教団国家を形成,85年エジプト占領を完全に駆逐した。反乱には身分・出身のいかんにかかわらず広範な住民が参加,13年間にわたりスーダン人民族意識に支えられたマフディー国家が続いた。マフディーの組織した教団,マフディー派の成員は自らをアンサールAnṣār(支持者)と称し,反乱の中核を占めた。マフディーはシャリーアの実現に向け絶対的平等を維持したが,ムハンマド・アフマドの死後(1885),反乱は内部矛盾が表面化し,98年イギリス・エジプト連合軍により鎮圧された。内部矛盾は,奴隷問題に典型的に現れていた。
反乱勢力の中には,エジプト占領当局の独占ついで禁止政策に対し,彼らの商売の死守をはかる奴隷商人がいたが,そこにおける奴隷交易は,すでに奴隷を〈物〉として処理する近代的なものに変質していた。すなわち,ムスリムの奴隷商人は,ムスリムとしての規範を失うことによって,同じウンマの一員である南部黒人へのスーダン人としての民族的アイデンティティをも断ち切ることとなった。ウンマのもっていた平等性は失われ,これにかわって,個人の出自や身分が重んじられるようになる。スーダンは諸部族,諸集団に分裂し,マフディー反乱の敗北とともに,再びイギリス・エジプトの支配下に組み入れられていく。
2011年7月南部が南スーダンとして独立した。
1898年マフディー反乱の最終的敗北は,多様な民族集団で形成されているスーダンの民族的統一の可能性を失わしめた。翌年,イギリス・エジプト二元管理協定が調印され,植民地スーダンの領土が画定された。新しいスーダン国境は,ヌビアを南北に分断する一方,カッサラ地方(1891年のイギリス・イタリア条約でエチオピア王国から分離されていた),南部エカトリア,ナイル南部諸州,バフル・アルガザル,紅海沿岸のスワーキンをスーダン領に併合した。植民地支配に対し,マフディー再来を信じる住民の小反乱や,マフディー反乱後復活したダルフール王国(1900-16)の抗戦などの抵抗はみられたが,植民地権力の軍事的・行政的支配を覆すのは困難であり,むしろ植民地権力による開発,一円的支配と分断が強まった。第1次大戦後の1924年はこのような支配体制の起点であり,イギリスは,アラブ民族運動の高揚のもとでのスーダン独立の要求に対し,エジプト軍行政官僚による間接支配にかえてイギリス単独支配を開始,同時に,民族運動の波及を防ぐために〈閉鎖地域令〉によって南部地方を北部から切り離し,以後独立まで南部住民はアラブ的要素をいっさい禁止され,キリスト教宣教師の保護に頼ることを余儀なくされた。また,24年以降,イギリス綿業の原料供給のために,ゲジーラ地域の綿作開発に取り組み,ナイル川中流域の綿作モノカルチャーに依存するスーダン経済の構造をつくりあげた。こうした開発は,一方で農村の部族長やマフディー派指導者の地主化,商人・官僚・知識人層の富裕化をもたらし,こうした土着勢力の指導する民族運動によって,56年1月スーダンの独立が達せられる。しかし,南部問題に典型的にみられるように,植民地支配のつくりだした分断の跡は大きく,独立後,こうした問題が国内統一の障壁として残されることとなった。独立後政権を握ったハトミーヤKhatmīya(親エジプト的有力スーフィー教団。ミールガニーMīrghanī派ともよばれる)およびマフディー派の流れをくむアンサールの二大土着勢力による政府は,こうした問題に取り組む能力を欠いていた。このことはまた軍部勢力の台頭,クーデタを招いた。
69年5月革命によって発足したヌメイリーNumeyrī(軍部出身)政権は85年のクーデタまで長期政権を続けたが,その秘密は諸政治勢力と広範に結びついているところにあった。72年3月ヌメイリーは,南部の反政府勢力アニャニャAnya Nyaとの間にアジス・アベバ協定を結んで,独立以来続いてきた内戦に終止符を打ち,南部自治政府を認めた。また74年には,イスラム諸勢力の結集した反政府国民戦線とも和解,ムスリム同胞団勢力をヌメイリー政府に入閣させた。83年9月,同胞団の主導でイスラム法(シャリーア)が導入された。また1982年10月にはスーダン・エジプト統合憲章に調印,〈ナイル河谷〉の統一をスローガンにエジプトとの政治的・経済的な共同歩調を強めた。ヌメイリー政権は外資導入による経済開発によって南北統一を推進し,併せて国際資本諸グループとの関係の緊密化も目ざした。だがヌメイリー政権の経済開発政策は,スーダン経済を危機に追い込み国民生活を破綻させた。このため70年代末から反ヌメイリーの運動は日増しに強まった。
執筆者:藤田 進 85年4月,ダハブ国防相が率いる軍事クーデタによりヌメイリー政権は倒れ,ダハブ暫定軍事政権が成立。国名をスーダン共和国に復し,86年4月の制憲議会選挙で民政に移管,翌5月第一党になったウンマ党党首マフディーṢādiq al-Mahdī(1936- )は第二党の民主統一党(DUP)と連立内閣を組閣した。89年6月,軍部のバシル准将Omar Hassan Ahmad al-Bashir(1944- )はクーデタを起こし,自ら国家元首,救国革命評議会議長,首相等の要職に就いた。
この間,南部での自治は破綻して,83年からふたたび内戦状態となった。83年以来の南部反政府勢力の中心組織スーダン人民解放軍(SPLA。指導者ガランJohn Garang)は,当時のエチオピアの社会主義政権の支援をうけ,南部の大部分を支配下に入れたが,長引く内戦のなかで内部分裂した。
バシルはイスラムの政治への導入を掲げる国民イスラム戦線(NIF。スーダンにおけるムスリム同胞団勢力)の支持のもと強権政治を続けた。90年代には,北部においても反政府活動が問題になっている。また内戦による混乱と経済停滞は国民生活を圧迫し,社会不安も生じた。テロ支援,国内の人権抑圧などを理由に,95年末に国連安保理でスーダン非難決議,96年1月には制裁決議が採択され,国際的孤立と経済の悪化が進んだ。
執筆者:編集部
経済の中心は農業で,国内総生産の約4割,輸出額の9割(綿,ラッカセイ,ゴマ,アラビアゴムの順),就業人口の7割を占める。農業で特に重要なのは綿花生産で,通常輸出の5~7割を稼ぐ国富の源泉である。次いで重要なのは牧畜業で国内総生産の1割を占め,工業の比重は1割に満たない。主要食糧のうち,トウモロコシ,ミレット(アワ類),食用油,肉,塩は国内自給されている。
スーダンは農業国ながら約8400万haある可耕地のうち実際耕地として利用されているのは8%にすぎず,灌漑面積も1980年代にやっと200万haに近づいた程度である。ヌメイリー政権のもと1976年着手されたスーダン開発十ヵ年計画は,ほとんど未開発の南部の干拓や,青ナイル川流域の灌漑事業によって,農・牧畜業の拡大と農畜産加工工業の発展を内容とした。この計画はまた,1970年代初めから注目された石油資源についても,80年代半ばの実用化に向けその本格的開発に取り組んだ。この計画には,開発によって南・北スーダンの統一を強化し,一方で,アラブ産油国の食糧需要に応える(いわゆるスーダンの〈アラブの穀倉化〉)といった政治的ねらいがこめられていた。これら開発計画の資金や計画の具体的取組みについてスーダンは,産油国・欧米諸国の資本・技術に依拠し,1970年代後半から目ざましい経済開発時代を迎えた。
だが,経済開発にもかかわらず,スーダンの国民総生産は年間1人当り300米ドル(1992)と依然最貧国水準どまりで,経済成長は微弱であった。加えて開発は,経済危機をかえって深刻化させる結果となった。大規模な外資依存による十ヵ年計画は,当時の石油ショックが誘発した債権国の高金利政策や,輸入する開発資材・石油のコストインフレに遭遇し,計画半ばの1982年9月にはスーダンの対外債務は78億ドルに達した。この膨大な債務返済の資金繰りに困難をきたすスーダンは,一段と債務を累積させ経済政策を国際債権団体に管理されるという悪循環に陥った。また,小麦,ラッカセイ,ゴマなどの食糧農産物重視の農政で,綿作が大幅減反され,綿花一辺倒の経済が是正された反面,農業自体は投機的性格を強め,都市化の進行とともに国内の食糧不足問題が深刻化した。1979年8月勃発した民衆暴動の底流には,開発のもたらした基本的生活物資の不足や物価高に国民が翻弄される現実があった。国民生活の窮乏化は,常時就業人口の1/7に近い100万人に海外出稼ぎを促し,国内経済のほうは逆に労働者(特に頭脳労働者)不足に見舞われ始めた。
石油を含むスーダンの経済資源は資源危機の進行する現在,国際金融の魅力的投資対象である。スーダンはまた,アフリカ大陸の戦略的重要拠点を占めるうえ,周辺紛争諸国からの難民を受け入れ(1983年に約64万人),国際政治のなかで独特の役割を果たした。対外債務の危機的状態にもかかわらず,スーダンはこの経済的・政治的重要性をてこに債権国の支援を得て,当面,国内開発を推進していくものと思われる。しかし83年に再発した内戦は国民生活および経済を荒廃させ,また南部には北部を基盤とする政府の統制は及ばず,国家運営そのものが危機的状況にある。
執筆者:藤田 進
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
ナイル川中・上流に位置する国。正式国名はスーダン共和国。住民はアラブ系と非アラブ系がほほ半々であるが,ムスリムは72%と多数派。ただし中世のアラビア語史料で「スーダンの国々」とは,サハラ砂漠の南縁地域全体をさした。古代エジプト時代からヌビア人の王国があったが,7世紀にアラブの影響下に入り,マムルーク朝に征服されてからイスラーム化とアラブ化が進行した。19世紀のエジプトによる征服,それに対するマフディーの乱,イギリスの植民地支配(1899~1955年)をへて1956年独立した。独立後,軍事クーデタが繰り返され,89年バシール中将が国民イスラーム戦線(NIS)と手を組んでイスラーム原理主義政権を樹立させた。以後,これに反発する非イスラーム勢力のスーダン人民解放軍(SPLA)との間で対立が続いている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…アフリカ大陸北東部,ウガンダとエチオピアの湖や山地から発して,スーダン,エジプトを貫流して地中海に注ぐ全長約6700kmの大河。アラビア語ではニールal‐Nīlと呼ばれる。…
※「スーダン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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