フリードリヒ2世(大王)(読み)フリードリヒにせい[だいおう](英語表記)Friedrich II, der Grosse

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 の解説

フリードリヒ2世(大王)
フリードリヒにせい[だいおう]
Friedrich II, der Grosse

[生]1712.1.24. ベルリン
[没]1786.8.17. ポツダム,サンスーシ宮殿
プロシア王 (在位 1740~86) 。プロシア王フリードリヒ・ウィルヘルム1世の第3子。母ゾフィー・ドロテアはイギリス王ジョージ1世の娘であった。少年時代から詩文,音楽に親しみ,学芸を軽んじる父王としばしば衝突した。しかし長じては軍務政務にも経験を積み,かたわらボルテールらフランス啓蒙哲学者と文通して,『反マキアベリ論』L'Anti-Machiavel (40) などを著わした。 1733年オーストリアとの接近を望む父王の命に従い,神聖ローマ皇帝カルル6世の姪エリーザベト・クリスティナと結婚したが,この不幸な結婚により,子宝には恵まれなかった。 40年5月 31日,プロシア国王に即位,即位後まもなくオーストリアのマリア・テレジアが「国事詔書」に基づき全オーストリア領に君臨すると,この機をとらえてシュレジエン占領オーストリア継承戦争七年戦争を戦い抜くことにより,その領有を確保した。父から受継いだ有能な官僚行政機構と常備軍をますます強化,拡大し,あらゆる国務を独裁的に処理して,プロシア絶対王政の頂点を築いた。経済政策の面では,重商主義を推し進めて商工業を保護育成し,七年戦争後の再建期には開墾干拓,内地植民などの社会政策をも実施した。またヨーロッパ史上に比をみない教養人でもあった王は,新築したポツダムのサンスーシ宮で,政務の余暇にロココ風の典雅な社交や著述を楽しみ,また音楽にも長じ,フルートのソナタ協奏曲を作曲し,学術面でもベルリンの科学アカデミーを復興した。宗教的には寛容政策をとり,晩年には自然法理論に基づく『プロシア一般国法典』を編纂させたりしたので,「啓蒙専制君主」の典型と仰がれた。しかしその統治の本質は冷厳な警察国家体制であるとともに,軍国組織維持のため貴族を保護する政策をとり,封建的な農民支配に一指も触れようとはしなかった。「国家第一の僕」という彼の君主観は,確かに王権神授説や家父長的王権からの脱却を示しているが,それは父王から引継いだプロシア的「滅私奉公」主義の徹底であり,絶対主義支配をいささかも弱めるものではなかった。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 の解説

フリードリヒ2世(大王)(フリードリヒにせい(だいおう))
Friedrich Ⅱ. (der Große)

1712~86(在位1740~86)

プロイセン国王。「大王」として知られる。太子時代には詩文や音楽に親しみ,ヴォルテールに師事して『反マキァヴェッリ論』を著した。即位後は父王の残した強大な常備軍をもってハプスブルク家マリア・テレジアに対抗,オーストリア継承戦争および七年戦争を通じて,列強の圧迫を退けつつシュレージエンを獲得し,一躍プロイセンをヨーロッパ的強国に高めた。国内的には官僚組織を整備しつつ絶対主義を完成,重商主義的経済統制の人口政策を推進して富国強兵に努め,また司法改革や法典の編纂をも行わせた。「君主は国家第一の下僕(しもべ)」と自称した王は,その宗教的寛容や学術奨励などからも啓蒙専制君主の一典型といわれるが,その独裁的統治は王の没後プロイセン絶対主義の矛盾を激化させることとなった。

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