K.マルクスがその著書《資本論》において基礎をつくった経済学。
マルクス自身記しているように,《資本論》の〈究極目的〉は資本主義社会の〈経済的運動法則〉を客観的に明らかにすることであった。したがって,そこで展開された法則や理論は,いかなる階層の人にも彼らのイデオロギーと無関係にその正しさが認められるようなものであった。換言すれば,《資本論》の目的は科学としての,資本主義経済の理論を樹立することにあった。
しかし他面で,マルクスは十分な論証を果たさないままに,資本主義社会の崩壊とそれに代わる社会主義社会の成立の必然性を主張しようともしていた。とりわけ,彼の存命中に急きょ〈ひとつの完結した全体〉として完成された《資本論》第1巻には,部分的にその傾向が含まれていた。というのは,とりわけその最終部分において,資本蓄積の進展がしだいに労働者階級の窮乏化をもたらし,労働者階級による革命の〈鐘が鳴る〉ことが強く主張されていたからである。しかし,この窮乏化と革命の展開は論理的には決して完全なものとはいえなかった。また,彼が経済学研究を志す以前の哲学研究においても,このようなイデオロギーとしての社会主義理念がかなりはっきりと貫かれていた。そこでマルクス以後,このような彼のイデオロギー的側面を含む全見解を基礎に社会主義の成立を説く経済学が一般的となった。そのためそれらは概して〈マルクス主義経済学〉と呼ばれるのが普通である。
これに対して,漸次,マルクスのイデオロギー的展開を排して,《資本論》を客観的理論体系として純化し,その科学的理論を根拠に社会主義の必然性とそのあり方を追究しようとする経済学が形成されてきた。このような経済学が一般に〈マルクス経済学〉と呼ばれるものである。このマルクス経済学においては,《資本論》の第1巻だけでなく,F.エンゲルスが未完成稿を編纂した第2・第3巻を含む全体系を再構成し,それをどのような時期のどのような国の資本主義経済にも一般的に妥当する理論として再構築すること,そのうえで,この理論を基礎に現実の資本主義経済を客観的に分析することが,まず第1の基本的課題となった。
しかし,このような客観的なマルクス経済学の方法ないし体系が形を整えるまでには,《資本論》全体についての詳細な研究と議論および現実の資本主義についての各種の分析と議論が不可欠であり,したがってそれには長い年月が必要であった。
マルクスが《資本論》第1巻を完成した後の1870年代ころから,世界資本主義の様相はしだいに変化しはじめた。景気循環の変容,株式会社の急速な発達,経済政策の基調変化(自由主義から帝国主義への移行)がその主要な特徴であったが,これらの事実を背景に,まず19世紀末から第1次大戦前までのドイツ社会民主党内部で,《資本論》をめぐって激しい議論が闘わされた。
口火を切ったのは,E.ベルンシュタインであった。彼は,現実の資本主義の発展動向は,マルクスのいうような資本家と労働者の対立激化の方向にではなく,株式会社形態の発達による財産の分散化,中小経営の存続,そして恐慌の相対的緩和の方向に進んでいる,したがって,《資本論》の理論は基本的な点で〈修正〉されるべきである,と主張した。
これに対して,K.カウツキーは,信用制度や経済恐慌の変化は資本主義の発展にとって二義的なものであり,少数の大資本による集中と増大する賃金労働者の窮乏化とは現実に進行中であること,この意味で,マルクス理論の核心は今なお一般的に貫かれつつあることを主張し,ベルンシュタインに反論した。
両者の議論は,ともに《資本論》第1巻における,特徴的であるがイデオロギー的なマルクスの主張を過大に評価し,その理論の修正ないし貫徹のいずれか一方のみを強引に迫るものであった。したがってそれらは,《資本論》の全体系を正当に評価したうえでの現実認識ではなかったことに留意しなければならない。
さらに,このようないわゆる〈修正主義論争〉をふまえて,R.ヒルファディングはその著書《金融資本論》(1910)でおよそ次のような新しい理論を展開した。近代の資本主義社会を支配している資本は,単なる産業資本ではなく,金融資本である。金融資本とは,独占的な銀行資本が固定資本貸付けと株式発行によって産業資本を事実上支配している資本のことである。金融資本が確立すると,信用制度の強化によって激しい恐慌形態は緩和され,また,国内に過剰な資本が発生し,それが外国に投下されるようになる。しかし,金融資本に集中された資本勢力と労働者階級の対立はいっそう激化する,と。
このような金融資本概念は,マルクス経済学の発展にとって画期的なものであった。それは,資本主義が新しい段階に入りつつあることを示唆するものであったからである。しかし,その理論は,主として《資本論》の第1巻第1編〈商品と貨幣〉と第3巻第5編〈利子生み資本〉のみをヒルファディングなりに整理したうえで,それらの直接的延長上に金融資本概念を展開し,またその階級闘争激化論をそのまま拡大するという点に,重大な限界を含んでいた。このため,次のような問題が生まれた。
第1に,金融資本の成立が資本主義の歴史的発展・変質に対応するのではなく,《資本論》のような一般的資本主義の論理から帰着するものとみなされた。したがって《資本論》全体の体系的意義やそれがもつ抽象的次元の意味等が,まだ十分には理解されないままに終わっていた。つまりヒルファディングにおいては,資本主義の段階的変化の認識が依然不十分であった。
第2に,金融資本が一般的理論の直接的延長線上に展開された結果,ドイツ金融資本の特徴のみが強調され,それがあたかもどの国の金融資本にも一般的にあてはまるかのように認識された。換言すれば,イギリスやアメリカの金融資本との相違は極端に軽視される傾向にあった。
そこで,ついでV.I.レーニンは《帝国主義論》(1917)を著し,ヒルファディングの金融資本ないし金融寡頭制の規定を前提としながらも,イギリス,ドイツ,アメリカ,フランス等の金融資本の違いをも総括しつつ,世界資本主義は新しい発展段階,すなわち帝国主義段階に到達した,と規定した。そしてこの段階の最大の特徴は,国の内外における資本独占である,と結論した。
レーニンはまだ《資本論》体系とこの段階認識との方法的関連を十分に整理し終えていたわけではなかったが,ここに,《資本論》の論理と現実分析とのあいだに,ひとつの歴史的段階認識が媒介されるべきことが明示されはじめたのである。
マルクス経済学が日本に本格的に輸入されはじめたのは,第1次大戦後の1920年代から30年代にかけてのことであった。当時,日本では経済恐慌(1920,27,29)や社会不安が拡大し,社会主義運動と一定の関連をもった労働組合運動や農民運動が著しく高揚したが,その思想的背景としてマルクスやレーニンの著作が紹介され(《資本論》,高畠素之訳,1920-24,《レーニン著作集》1926-27,《マルクス・エンゲルス全集》1928-35等),同時に各種の理論的研究と論争が活発化した。
そのなかで最も重要な論争は,いわゆる日本資本主義論争であった。
まず,野呂栄太郎,平野義太郎,山田盛太郎らによって編集された《日本資本主義発達史講座》(1932-33)に結集したマルクス経済学者は,一般に講座派と呼ばれたが,彼らは当時の日本資本主義の性格を次のように理解した。明治維新はまだブルジョア革命ではなく,封建的土地所有の単なる再編過程にすぎない。その結果,農村には封建的ないし半封建的土地所有や農奴制が存続し,それらが日本における資本主義の発展を束縛しつづけている。このため,〈鍵鑰(けんやく)産業(基軸産業)〉における労働力も〈印度以下的労働賃銀〉を与えられ,〈半封建的賃銀労働者〉にとどまっている。したがって日本では,社会主義革命の前に,まずブルジョア民主主義革命が,したがって絶対主義的天皇制の転覆こそが進められねばならない,と。これがいわゆる〈二段階革命説〉であったが,それが日本共産党のいわゆる〈32年テーゼ〉とぴったりと一致することは,周知のことがらであった。
これに対して,雑誌《労農》に結集した山川均,猪俣津南雄,向坂逸郎(1897-1985),大内兵衛,櫛田民蔵,土屋喬雄(1896-1988)らの学者は,総じて労農派と呼ばれたが,彼らはほぼ次のように主張した。明治維新は一種のブルジョア革命であり,したがってそれ以後,日本社会の構造は土地所有よりも資本の運動によって規制されるようになった。つまり,日本でも資本主義生産が定着しつつあり,資本による農民の両極分解の結果,農民は賃金労働者に転化しつつある。したがって,現在残存している封建的諸関係も,将来必ず分解され,消滅するであろう,と。
以上のような論争に共通していたことは,《資本論》の第1巻だけでなく第2巻の再生産表式論や第3巻の地代論等を含む,より広い分野がとりあげられて,それを理論的基礎とする分析が進められたことである。この意味では論争の水準は高められつつあった。しかし,《資本論》で示された資本主義像が依然としてあらゆる資本主義国の一般像として考えられていたことであった。このため,現実の日本資本主義がそのような一般像と大きく隔たっていた点を,講座派は,日本はまだ資本主義ではないと理解し,労農派は,将来日本はそのような一般的資本主義像に近づくであろうと理解したのであった。したがって,両派のあいだの激しい論争にもかかわらず,《資本論》の理解の仕方では両派はともに共通の立場に立っていたことが明らかである。換言すれば,この議論では,ドイツ社民党の修正主義論争と同様に,《資本論》の資本主義像が理論的に,とりわけ後進国の資本主義にとってどのような意味をもつのかという方法的問題が十分に検討されていなかっただけでなく,修正主義論争がすでに提起していた資本主義の歴史的段階認識の問題,すなわちすでに世界的に帝国主義段階に入った後に資本主義化されはじめた国における,資本主義の特殊性に関する問題が十分に理解されないままにとどまっていたのである。
しかし,これらの問題が真に解決されはじめたのは,マルクス経済学に対する政府の厳しい弾圧から解放されて自由な研究が開始された第2次大戦後のことであった。
戦後におけるマルクス経済学の発展には,講座派,労農派それぞれについて研究の進展がみられたが,しかしなんといっても最も重要な成果は,宇野弘蔵による新しいマルクス経済学の体系化(宇野理論)であった。
宇野は,戦前の日本資本主義論争を労農派に近い立場から両派を批判的に考察しつつ,日本社会に残存する封建的ないし非資本主義的諸関係は,資本の運動自身が必然的に生みだしているのではないか,すなわち資本主義が一定の段階に達すると,その運動様式は《資本論》に示された運動法則と異なってくる必然性があるのではないか,と考え,《資本論》と後進国における資本主義化との論理的関連を体系的に組み立てるよう追究した。その成果が《経済原論》(上下。1950,52),《経済政策論》(1954),《経済学方法論》(1962)等であった。その中でほぼ次のような経済学体系が構築されていった。
第1に,《資本論》は,当時のイギリス資本主義がもっていた純粋化傾向,すなわち周辺の非資本主義的諸関係が分解され,資本家,賃労働者,土地所有者の三大階級のみが形成されていく傾向にもとづく理論であり,したがって,《資本論》の全体を純粋資本主義の理論すなわち〈経済原論(原理論)〉として純化しなければならない。第2に,しかし現実の資本主義は,19世紀後半以降,その純粋化傾向を阻害されて変質していった。そこで,経済原論を基礎としながらも,その歴史的変化の必然性を解明する〈段階論〉が必要である。段階論では,まず,イギリスに資本主義が確立する以前の時期を重商主義段階とし,そこでの支配的資本,すなわち商人資本の蓄積傾向を展開する。ついで,イギリスに資本主義が確立した1820-30年代から,それが最も自立的に運動していた60年代ころまでを自由主義段階とし,この時期の支配的資本,すなわち産業資本の蓄積機構を解明する。さらに,1870年代から第1次大戦までの時期を帝国主義段階とし,そこでの支配的資本,すなわち金融資本の蓄積機構を,おくれて資本主義化したドイツを典型とし,イギリス,アメリカを類型として規定する。こうして段階論では,資本主義の歴史的発展動向と各国資本主義の変形が理論化される。したがって各国資本主義分析も,このような段階論を媒介として進められねばならない。第3に,第1次大戦以後の世界資本主義は,第1次大戦期以降社会主義の成立と拡大をみたのであるから,一種の移行期として分析されねばならない。それは,段階論を基礎としながらも,各種の経済政策や労働運動等を含んだ総括的な現実分析,すなわち〈現状分析〉として行われねばならない。およそ以上のような3段階論であった。
このようなマルクス経済学の体系化は,戦後の新しい研究に大きな影響を与えた。その後,このような方法にもとづく理論的および実証的研究がきわめて多数発表されてきた。とりわけ,宇野自身によっては十分に体系化されなかった現状分析について,大内力(1918-2009)の《国家独占資本主義》(1970)が著され,その内容が精密化され,方法論そのものについても一定の前進がみられた。しかし,最現代の資本主義分析(世界と日本の双方)については,必ずしもまだ十分な成果があげられていないのが現状である。現在では,その分析の方法をめぐって,宇野理論の内部でいわゆる純粋資本主義論と世界資本主義論とのあいだで論争が続けられているが,その結論は依然今後の課題として残されている。
もちろん,宇野理論は他のマルクス経済学の分野にもさまざまな影響を及ぼした。かつての講座派にあたるマルクス経済学では,宇野理論の部分的吸収や反批判が進められているが,他方で,欧米のマルクス経済学においても,英訳《宇野・経済原論》(1980)をとおして,日本のマルクス経済学が紹介され,現在,両者のあいだで初めて本格的な学問的交渉が開始されたところである。
執筆者:侘美 光彦
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K・マルクスが主著『資本論』で集大成し、V・I・レーニンなどによって継承・発展させられた経済学体系をいう。
[海道勝稔]
マルクス経済学は、19世紀の人類の三大精神源流のうちイギリスの古典派経済学を批判的に継承したものである。古典派経済学――その経済学を体系化したのがA・スミスの『国富論』(1776)である――は、資本主義の生成期に生まれ、中世の神学の妖縛(ようばく)から哲学=方法を解放した自然法の立場にたって経済学を構成し、ブルジョア社会の内面的連係を追究したものである。その役割は、封建の支配から脱却して資本の権威を打ち立てることにあった。これに対して『資本論』(第1巻1867)は、資本主義の爛熟(らんじゅく)期に生まれ、批判の方法である弁証法をもって資本主義を分析する立場であり、資本の支配、資本の権威を否定する立場であって、資本主義の内面的連係を追究したブルジョア経済学の最良部分である古典派経済学を批判して得られた経済学批判――『資本論』の副題でもある――である。それは資本主義的生産の社会的、歴史的形態の究明、「近代社会の経済的運動法則を暴露すること」(『資本論』第1版序文)である。まことに「ある与えられた歴史的に規定された社会の生産関係をその発生、その生成および消滅において研究する」(レーニン)のがマルクス経済学である。
[海道勝稔]
マルクスの哲学、経済学、科学的社会主義などに関する諸見解が形成されたのは1844年ないし1845年以降である。それまで近代社会の矛盾を宗教的、政治的に人間の自己疎外としてみいだしたマルクスは、『独仏年誌』(1844)に発表されたF・エンゲルスの「国民経済学批判大綱」に刺激されてパリで経済学の研究に着手し(「経済学ノート」として1932年に公表)、その成果は、スミスの分析水準に拠(よ)りながら近代社会の人間の自己疎外の根本を「疎外された労働」と私的所有にみる『経済学・哲学手稿』(1844執筆、1932刊)となった。1845年マルクスはパリから追放されてブリュッセルに移ったが、同地でエンゲルスとともにドイツ古典哲学を根本的に批判した『ドイツ・イデオロギー』を執筆(1845~46)、そのなかで唯物史観の基本構想を打ち出し、経済学研究の前提を確立した。1847年にはD・リカードの分析基準に拠りながら『哲学の貧困』において徹底的にP・J・プルードンを批判し、同年末にブリュッセルで行った講演をもとに資本主義の基本関係を明らかにした『賃労働と資本』(1849刊)を著した。これらの集大成としてかの有名な『共産党宣言』(1848)がある。
マルクスは1848~49年の革命失敗後ロンドンに亡命し、1850年秋から1851年にかけて経済学研究を再開した。まず、1847年恐慌以後の資本主義の新たな発展段階のもとで、大英博物館の経済学文献を渉猟してリカード理論の克服を中心に18冊のノートを作成し、ついで1857年恐慌を契機として1857年10月から1858年5月に至る『経済学批判要綱』といわれる7冊のノートを完成した。マルクスの経済学体系プランの「資本一般」にあたるこのノートを準備として、1859年6月に『経済学批判』(第1分冊)が現れた。しかしこれは、「商品」と「貨幣あるいは簡単な流通」の2章からなるにすぎない。
この続冊の第3章のためにふたたび1861年8月から1863年7月にかけて23冊のノートを作成し、そのなかの学説史部分の執筆中、第3章でなく独立の著作『資本論――経済学批判』とし、Ⅰ資本の生産過程、Ⅱ資本の流通過程、Ⅲ総過程の総姿容、Ⅳ学説史の4部構成を構想、1865年末までに前3部の理論的部分の草稿を書き上げ、1867年9月『資本論』第1部(資本の生産過程)を第1巻として刊行した。
その後、一方で第1部の第2版(1872~73)とフランス語版(1872~75)を刊行し、他方で第2部の草稿を何度もつくったが、完成をみず1883年にマルクスは死んだ。これらの未完の遺稿をエンゲルスが整理して第2部(1885)、第3部(1894)を刊行した。第4部は1905~1910年にK・J・カウツキーが『剰余価値学説史』全3巻として独立著作に編集したが、1956~1962年にソ連および東ドイツのマルクス‐レーニン主義研究所の編集により『資本論』第4部(全3冊)として刊行された。
マルクスは、この『資本論』において、ブルジョア社会内部の経済的関係の編制を、ブルジョア社会の矛盾としてもっとも簡単な経済的形態である商品の分析から始め、そのもっとも現実的、具体的概念の諸階級に終わるなかで明らかにする。そして社会的生産力の発展が資本主義社会では人間にとり疎遠なものになり、人間の諸関係が物的諸関係に転倒してしか現れないことを示している。
[海道勝稔]
マルクス、エンゲルス死後のマルクス経済学発展の契機となったのは、19世紀の70年代から準備され、20世紀への世紀転換期ごろから始まった資本主義の独占資本主義への転換、さらには帝国主義段階に至る新たな歴史的展開への理論的解明に関する問題である。E・ベルンシュタインは、19世紀末のこの変化から『資本論』の有効性を否定してマルクス主義の諸原理を批判したのに対し、カウツキー、A・ベーベルが擁護に回り、ここに修正主義論争が起こったが、この論争の中心点は結局、20世紀の帝国主義への変貌(へんぼう)の歴史的本質、段階把握をいかに帰着するかにあった。
この変貌をR・ヒルファーディングは『金融資本論』(1910)において、銀行と産業との関係が資本信用、株式発行、独占により密接化し、銀行による産業の従属化の状態を金融資本ととらえ、金融資本をもって帝国主義段階の支配的資本形態であるとして、帝国主義への変貌の経済的特徴を明らかにした。これに対してローザ・ルクセンブルクは『資本蓄積論』(1913)において、マルクスの再生産表式論・拡大再生産表式の検討の結果、蓄積さるべき剰余価値の実現のためには資本主義は非資本主義的環境へ侵出せざるをえないものであり、これが帝国主義への経済的基礎であるとして、反軍国主義の理論的根拠を引き出そうと試みた。またレーニンは『帝国主義論』(1917)によって、独占段階の資本主義の特徴は、(1)独占を生むほどの高度の生産と資本の集積、(2)独占的銀行資本と独占的産業資本との融合=金融資本、そこからの金融寡頭制の成立、(3)資本の輸出、(4)国際的資本家団体の形成による世界の分割、(5)資本主義的列強間の地球の領土的分割の完了であるとして、戦争の必然と帝国主義段階が資本主義の最後の段階であり、次のより高次な社会への過渡段階であることを明らかにした。
その後第一次世界大戦から第二次世界大戦後にかけては、資本主義の全般的危機論、国家独占資本主義への成長転化論、帝国主義世界支配体制と社会主義体制との対立の危機深化論、「第三世界」における従属論などが展開する。
1991年末マルクス主義を標榜(ひょうぼう)して成立していたソ連社会主義が崩壊したあと、その崩壊視覚からのマルクス経済学に対する批判が加わった。それに対しマルクス主義の擁護として「マルクス主義ルネッサンス」が起こり、そのなかでマルクス経済学に対する理論的・現実的発展がみられた。たとえば、これまでの資本把握が生産重視にあったものを、資本そのものは生産のみならず流通にも存在し、この後者の重視も必要であるといったものである。理論の発展はこれまで軽視しがちな諸点への反省と解明に向けられた。このようにして批判はかえってマルクス経済学の発展と新視点の掘り起こしにつながっており、これに加えて現実分析としての公害・環境問題、途上国問題等の根本的問題も本質的に究明されている。
[海道勝稔]
日本におけるマルクス経済学の展開は、河上肇(はじめ)の『貧乏物語』(1916)、個人雑誌『社会問題研究』(1919創刊)などを嚆矢(こうし)とするが、第二次世界大戦前に顕著な形で展開されたのは、三大論争すなわち、資本蓄積=再生産論争(1921起点)、価値論論争(1922起点)、地代論論争(1928起点)であり、これを通じて経済学の各分野が確立し、戦前の日本資本主義論争が展開する。これは、日本資本主義に封建遺制を認めるか否かで、明治維新の変革の性格づけ、したがって、きたるべき革命のあり方をめぐって「労農派」(遺制否定)と「講座派」(遺制主張)との間で行われた論争である。この点は、戦後の農地改革によって遺制(寄生地主制)は払拭(ふっしょく)され、実質的に解決された。
第二次世界大戦後は、戦前の諸論争のうえに、価値論、再生産論、恐慌論とマルクス経済学のあらゆる論点から、戦後の日本資本主義の発展、通貨問題、世界経済および環境・アジア経済の問題に至る幅広い領域にわたって、戦前の対立に新たな様相をまとってマルクス経済学の展開がみられる。
[海道勝稔]
『島恭彦他編『新マルクス経済学講座』全6巻(1972~76・有斐閣)』▽『富塚良三他編『資本論体系』全10巻(1984~2001・有斐閣)』▽『K・マルクス著『資本論』(向坂逸郎訳・岩波文庫/岡崎次郎訳・大月書店・国民文庫)』▽『V・I・レーニン著、副島種典訳『帝国主義論』(大月書店・国民文庫)』▽『R・ヒルファディング著、岡崎次郎訳『金融資本論』上下(岩波文庫)』
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… 資本主義的生産方法をその歴史的な関連において明らかにし,剰余価値の概念を用いて,資本主義的生産の特徴を暴露するという二つの点にマルクスの主要な貢献があった。そしてそれは,マルクス経済学者が科学的社会主義と呼ぶ,資本主義のつぎに来るべき歴史的発展段階の形態をも明らかにしたものであった(〈資本論〉の項参照)。
【日本の経済学の2類型】
日本の経済学はマルクス経済学と近代経済学の二つの類型に分けられる。…
…しかし,マルクスが構想した経済学体系は,(1)資本(資本一般,競争,信用,株式資本),(2)土地所有,(3)賃労働,(4)国家,(5)外国貿易,(6)世界市場,からなるといわれ,《資本論》はその資本一般の部分に当たると考えてよいようである。要するに《資本論》は,マルクス経済学のごく原理的な部分であるといえる。さらに,《資本論》の第4巻に当たる《剰余価値学説史》は,古典派経済学にいたるまでのマルクス自身の批判的な経済学説史にほかならない。…
…いうまでもなく交渉力のみが賃金の唯一の決定要素ではありえないが,ゲームの理論が近年新しい展開を示しているのと並行して,この種の交渉理論への関心が再び高まりつつあるというのが現状である。【猪木 武徳】
[賃金の本質]
マルクス経済学では,労働者が資本家に賃金とひきかえに販売しているものは,〈労働〉ではなくて〈労働力〉であり,賃金とは〈労働力の価値または価格〉であるととらえる。ここにおいて〈労働力〉とは,〈一人の人間の肉体すなわち生きている人格のうちに存在していて,なんらかの使用価値を生産するときに,そのつど,運動させる肉体的および精神的諸能力の総体〉であり,この労働力の目的意識的な使用または消費が〈労働〉である。…
…その後ポーランドに帰って,ポーランド科学アカデミー会員,ワルシャワ大学政治経済学教授となり,社会主義経済の建設に貢献した。マルクス主義に立脚しつつ近代経済理論の研究を進め,論文《マルクス経済学と現代経済理論Marxian Economics and Modern Economic Theory》(1935)で,マルクス経済学と近代経済学を比較検討し,マルクス経済学は動態論において優れているが,マルクスの労働価値説は一般均衡論=静態論としては不完全であるという見解を示した。また,社会主義経済の運営不可能性を主張したハイエクやミーゼスに対し,論文《社会主義の経済理論On the Economic Theory of Socialism》(1936‐37)で,価格のパラメーター機能を利用することによって自由主義的な社会主義経済の運営が可能であることを論証した。…
※「マルクス経済学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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