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ルター Luther, Martin

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ルター
Luther, Martin

[生]1483.11.10. アイスレーベン
[没]1546.2.18. アイスレーベン
ドイツの宗教改革者。初めパウロの「神の義」の解釈をめぐって内面的葛藤に陥ったが,突然啓示を受け,これを神の贈り物としての「信仰による義」であると確信した。ローマ教会の贖宥状 (→免罪符 ) 発行を攻撃し,1517年 10月 31日九十五ヵ条の提題を発表,キリスト教の内面性を強調し,これがプロテスタント宗教改革さきがけとなった。ウォルムス国会により放逐されたがワルトブルク城に潜伏 (1521~22) ,その間ギリシア語新約聖書ドイツ語に訳した。ウィッテンベルク騒動 (1521~22) ,ドイツ農民戦争 (1524) ではしだいに急進派から離れ,またエラスムスとも論争した (1525) 。以後没年まで教会の組織化に努力した。彼は聖書を神学の基礎におき,万人祭司主義,「信仰のみ」の立場に立った。

ルター
Luther

イギリスの劇作家 J.オズボーン戯曲。3幕。 1961年6月ノッティンガムのシアター・ロイヤルで初演。 1506~30年のドイツとイタリア舞台に,宗教改革者 M.ルターを主人公とした作品。様式化された舞台,叙事演劇的構成,ナレーションの活用などに,B.ブレヒトの影響がみられる。

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デジタル大辞泉の解説

ルター(Martin Luther)

[1483~1546]ドイツの宗教改革者。1517年、教皇庁による免罪符発行を批判する「九五か条の意見書」によって教皇から破門されたが、これが宗教改革運動の発端となった。ザクセン選帝侯の保護下に完成したドイツ語訳聖書は、ドイツ語史上重要とされる。聖書に基づく信仰のみを説く福音主義に立ち、すべての信仰者は等しく祭司であるとする万人祭司思想を主張した。著「キリスト者の自由」など。ルッタールーテル

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百科事典マイペディアの解説

ルター

ドイツの宗教改革者。父ハンスは農民出身の鉱夫。アイスレーベンに生まれ,エルフルト大学で法学を学んだのちアウグスティヌス会士となった。1507年司祭,1512年ウィッテンベルク大学神学教授。
→関連項目ウィッテンベルク九柱戯教理問答クラーナハ[父]コペンハーゲン大学コラールジョスカン・デ・プレドイツ語フッテンフリードリヒ[3世]マールブルクメランヒトンライプチヒ討論ワルトブルク

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デジタル大辞泉プラスの解説

ルター

1961年初演のジョン・オズボーンによる戯曲。原題《Luther》。宗教改革の指導者マルティン・ルターの生涯を描いた作品。1964年に第18回トニー賞(演劇作品賞)を受賞。

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世界大百科事典 第2版の解説

ルター【Martin Luther】

1483‐1546
ドイツの宗教改革者。農民の出で鉱夫であったハンス・ルターHans Lutherの子として中部ドイツのアイスレーベンに生まれる。のちマンスフェルトに移住し,事業に成功を収めた父の期待を受けて,同地,さらにマクデブルクアイゼナハの学校を経て,1501年エルフルト大学に入学し,02年教養学士,05年修士となり,法学を学び始める。その年の7月2日シュトッテルンハイムで落雷に会い,そのおりの誓願に従ってアウグスティヌス隠修修道会に入る。

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大辞林 第三版の解説

ルター【Martin Luther】

1483~1546) ドイツの宗教改革者。1517年、ローマ教皇による免罪符販売に反対して、九十五箇条の論題を発表し、宗教改革運動の発端をつくった。破門されたがザクセン選帝侯の保護を得て聖書を独訳し、現代ドイツ語の基礎を築いた。信仰のみによって義とされること、教会ではなく聖書のみが規範であること、信仰者はすべて神の前に等しく祭司であることなどに代表されるその神学思想は、プロテスタント諸教会の原理として大きな影響を及ぼしてきた。ルッター。ルーテル。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ルター
るたー
Martin Luther
(1483―1546)

ドイツ宗教改革の指導的神学者。

生涯と活動

1483年11月10日アイスレーベンに生まれる。農民出身の父はマンスフェルトで鉱夫になり、のちに鉱山業を営む。ルターは単純厳格な両親によりカトリックの信仰を学び、マクデブルクとアイゼナハで学校教育を受ける。1505年エルフルト大学で文学得業士となり、さらに法学部に進学する。同年旅行中に雷雨に突然襲われ、死の恐怖のため修道士になる誓願をたて、2年後に父の意志に反して修道院に入る。オッカム主義の神学教育を受け、1508年、当時新設のウィッテンベルク大学で一般教養科目を、さらに1512年神学博士となってから聖書学を担当する。この間、彼は自己の善行をもってしても心に平和を得ることができずに、己の罪に絶望するが、ただ信仰によってのみ神から授与される「神の義」を発見する。これが宗教改革的認識とよばれる新しい神学の出発点となる。このような認識に基づいて聖書の講義を行い、罪の赦しのために制定された悔い改めの礼典に疑問を抱き、ドイツのザクセン地方に販売され始めていた教皇の免罪証書(免罪符)について学問上の討論を開く目的で、1517年10月31日、有名な「九十五か条の論題」を当時大学の掲示板でもあった城教会の扉に提示した。この論題はたちまち全ドイツに広まり、宗教改革運動の発端となった。
 改革運動の初期はルターの人格を中心にして展開した。重要な事件をあげると、彼が所属する修道会の総会が1518年にハイデルベルクで開かれ、討論がなされ、アウクスブルクで教皇の使節カエタヌスの審問を受け自説の撤回を求められたが拒否し、1519年にはライプツィヒで神学者エックと討論し、教皇も過ちを犯しうると認めたため、ローマ・カトリックと分裂し、1520年教皇から破門勅令を受けるも焼き捨てた。1521年ウォルムスの国会に召喚され、自説の撤回を拒否したため、帝国追放処分を受けた。しかしザクセン選帝侯によりワルトブルク城にかくまわれたが、急進的革命家の騒擾(そうじょう)を抑えて福音(ふくいん)主義教会の確立に努める。その間、ドイツ農民戦争(1524~1525)に巻き込まれ、ヒューマニストのエラスムスと自由意志論争をなし、さらにマールブルク会談では聖餐(せいさん)について一致が得られず、スイス宗教改革者ツウィングリとも決裂し、プロテスタント同盟の夢が破れた。1530年アウクスブルクの国会で宗教問題がふたたび討議され、メランヒトンが代行となり、「アウクスブルク信仰告白」を提出したが、皇帝との対立は激化した。ルターは最後まで説教、講義、勧告、著述に携わり、貴族たちの紛争和解のため郷里アイスレーベンに赴き、1546年2月18日同地で病を得て死去した。享年63歳であった。[金子晴勇]

著作と聖書講義

ルターの著作は空前絶後のもので、600ページ以上の大冊が100巻を超えている。そのなかで改革文書として重要なものをまずあげると、宗教改革の全プログラムを提示した『キリスト者の身分の改善についてドイツ国民のキリスト教貴族に』(1520)、カトリック教会の礼典について批判した『教会のバビロン捕囚』(1520)、および信仰と愛にたつ自由な人間の本質を論じた『キリスト者の自由』(1520)がある。またエラスムスとの論争で神の恩恵の絶対性を力説した『奴隷意志論』(1525)や、皇帝への抵抗権を説いた『愛するドイツ人への勧告』(1531)、教義を平明に説いた『大教理問答書』(1529)、信仰から生じる倫理を解明した『善いわざについて』(1520)などが優れている。
 次に、彼の本業である聖書講義は改革文書の母胎となっている重要なものであり、初期では「詩篇(しへん)」「ロマ書」「ガラテヤ書」「ヘブル書」と続き、完成期に入ると「ガラテヤ書」と「創世記」の講義がもっとも重要である。とくに「ロマ書」講義においては、宗教改革的認識にたつ思想がみごとに結実し、オッカム主義との対決のうちに信仰義認論が確立されている。[金子晴勇]

思想

ルターの思想は、プロテスタントの三原理といわれているものに要約されている。それは「信仰によるのみ」「聖書のみ」「万人祭司性」であり、教皇主義者をさしていった「ローマ主義の三城壁」を攻撃するためにたてられたものである。そのなかでも「信仰によるのみ」の原理こそルターの信仰義認論を表明するもっとも重要なものである。彼はオッカム主義に従って義認のために諸々の準備をし、善いわざの功績を積んで救済に達しようと苦闘したが、「神の義」というのは、神が私たちに求める正しさではなく、信仰によって神が授与したまう正しさであることを知り、それがキリストの恩恵として与えられていることを理解した。こうして行為による義認に対決する、「信仰によるのみ」の義認が説かれた。したがって、もはや教会の授ける「免罪」はまったく不要であり、「悔い改め」も儀式ではなく、「心の転換」を意味すると主張された。この新しい神学は聖書を最高の権威とみなし、聖書に立ち返って宗教を改革してゆくもので、中世カトリック教会が定めた七つの礼典(洗礼、堅信(けんしん)、聖餐、悔い改め、終油(しゅうゆ)、叙任、結婚)も、洗礼と聖餐のほかは聖書的根拠を欠くものとして否定された。なお、ルターは、聖餐のパンとぶどう酒のなかに神の言と信仰によりキリストが現在すると説いたのに対し、スイスの宗教改革者ツウィングリは、聖餐はキリストの体を象徴しその受難を記念して行うと主張したため、その他の点では合意に達していたにもかかわらず、両者は分裂し、ヘッセン方伯フィリップによるプロテスタント同盟は成立しなかった。[金子晴勇]
『徳善義和他訳『ルター著作集』(第一集全12巻・1963~ /第二集全12巻・1985~・聖文舎・リトン) ▽石原謙訳『キリスト者の自由』(岩波文庫) ▽ベイントン著、青山四郎・岸千年訳『我ここに立つ――マルティン・ルターの生涯』(1945・聖文舎) ▽ピーマ著、石居正己訳『ルター神学概論』(1960・聖文舎) ▽金子晴勇著『ルターの宗教思想』(1981・日本基督教団出版局)』

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世界大百科事典内のルターの言及

【ウィッテンベルク】より

…1293年都市法が認められる。16世紀初めにルターが宗教改革運動を興した地として知られ,〈ルターシュタット(ルターの町)〉とも呼ばれる。ルターとメランヒトンはともに,1502年ザクセン選帝侯フリードリヒ賢侯により創設されたウィッテンベルク大学の教授であり,彼らを慕って多くの学生がこの町に集まった。…

【ウォルムス国会】より

…一方,諸侯の側は,スペイン王でもあるカールの権力増大をおそれ,援助の見返りに,皇帝不在の期間ドイツの政治を指導する帝国統治院の設置を認めさせた。続いて,前年ローマ教皇から異端として破門の宣告を受けた宗教改革者,ルターの喚問が行われた。この措置は,事情聴取なしに帝国としての有罪判決を下すべきでないとする,ザクセン選帝侯らの働きかけによるものである。…

【義認】より

…その場合,人間の側での条件や段階を表すために功績や恩寵の種類をあげることになる。ルターはそうした考え方を排除して,救いの無条件性を強調し,キリストへの告白と悔改めによる義認や,〈義人にして同時に罪人〉ということを語った。もっともプロテスタントの中でも,義認よりも聖化に重点をおく考えもあり,カルビニズムの聖職者重視や,敬虔主義における回心と聖潔の強調の中にそれが見られる。…

【九柱戯】より

…目標のピンが菱形状に9本並んでいることからナインピンズninepinsと呼ばれ,ヨーロッパでは現在も愛好者が多い。古代から中世のヨーロッパ諸国で流行した1~17本のピンを倒すローマ式ボウリングを,ドイツの宗教改革家ルターが9本のピンに統一したルールを作ってさらに普及した。従来の戸外にかわって屋内に板張りレーンを敷き,トックリ型のピンを並べ木製ボールをころがす。…

【キリスト教】より

…ローマ・カトリック教会からは,宗教改革によってプロテスタント教会が分かれ出た。これはルター派教会改革派教会,およびスコットランドの長老派教会をもっている。イングランドでは国民教会に変わったアングリカン・チャーチに対してさらにピューリタン革命があり,そのあと多くの教派が興るようになった。…

【キリスト教音楽】より

…ただし,他の宗教にも数多くの宗派宗旨があるように,キリスト教にも,カトリックとプロテスタントの二大教会の別があり,それぞれの内部に数多くの教派があって,音楽的伝統も一様ではない。芸術的に見た場合,それらの中でとくに重要なのは,パレストリーナやベートーベンのミサ曲によって代表されるローマ・カトリック教会,バッハのカンタータや受難曲によって代表されるルター派のドイツ福音主義教会,パーセルのアンセムやヘンデルのオラトリオによって代表される英国国教会,ボルトニャンスキーの教会コンチェルトによって代表されるロシア正教会などである。 イエス・キリストの生涯を書き記した新約聖書の福音書には,ただ1ヵ所だけ音楽に言及した個所がある。…

【キリスト者の自由】より

…宗教改革者ルターの主著の一つ。みずからの信仰が聖書に基づくものであって,教会の伝統にも反しないことを示すため1520年教皇レオ10世に献呈され,また民衆のためにも書かれた。…

【キリスト論】より

…(4)宗教改革者のキリスト論は,キリストの業を歴史と状況に即してとらえるカトリック教会の伝統の中で起こっている。ルターは説教を神のことばの遂行として重視し,これに聖礼典と等価の位置を与えて,その中で起こるキリストとわれわれとの一致を〈喜ばしい交換〉と呼んだ。それはキリストの義がわれわれに,われわれの罪がキリストに帰せられるということで,キリストの代理的な贖罪を説き,かつこれをキリストの祭司職の遂行と見たのである。…

【原罪】より

…しかし個々の罪に関しては意志の働きがあることを否定せず,そこで原罪とは〈意志の腐敗〉にほかならないとも言われた。ルターは原罪を神に対する人間の〈むさぼり〉に見た。これは性欲を原罪とみなす考え方よりもいっそう強く罪と死,罪と苦難の結合を語るもので,《創世記》3章の見方に近いと言える。…

【コラール】より

…ドイツ福音主義教会の会衆賛美の歌。宗教改革者ルターの,特別な音楽的素養をもたない一般会衆にも自国語で歌える礼拝の歌を与えようという意図を出発点として起こり,16世紀から18世紀にかけて,多数の曲が作られた。ドイツ語の抑揚を生かした素朴で力強い旋律と旋法的な性格の強い節回しが特徴で,楽曲形式は中世のミンネジンガー以来ドイツ歌曲にとって一つの基本形式となったAABのバール形式(バールBarという詩型が基本で,リズムと押韻が呼応しあう二つの前句AAと後句Bからなる)によるものが多い。…

【自由】より

…中世身分制社会では,自由とは基本的には特権(たとえば貴族の自由,都市の自由など)を意味したのであり,このような身分的諸特権との闘争過程から,自由で平等で自律的な個人という観念が,理念的に形成されてきたのはそれほど古いことではない。宗教改革期にルターは〈キリスト者の自由〉として個人の自由を主張したが,それはあくまでも信仰の世界に限定されたものであり,しかも彼は〈奴隷意志〉論者であった。エラスムス,カステリオなどの人文主義系の〈自由意志〉論者には,個人の自由への萌芽がみられるが,それもまた,身分制社会の壁をのりこえるほど強力な主張ではありえなかったといえよう。…

【自由意志】より

… この考えはとくに,ゲルマン人の自由意識を尊重しつつ教会と国家の両立をはかった中世カトリック教会の所産であったとみなされる。ルターが《キリスト者の自由》(1520)の冒頭で,信仰の自由は支配者と奴隷のいずれの側でも成立すると宣言したのもここから来る。しかしその命題は,伝統的な教会や国家の拘束を排するルネサンス人の意識にあわず,エラスムスとの間に自由意志をめぐる論争をひき起こした。…

【宗教改革】より

…フランスのルフェーブル・デタープル,ネーデルラント出身のエラスムスらが掲げたこのキリスト教的ヒューマニズムの理念は,古典研究を通じての人間形成という立場から,やはり聖書を重んじ,キリスト信仰を原初の純粋な姿に立ち戻らせようとする志向において,宗教改革に大きな推進力を提供した。
[ルターの福音主義]
 ドイツ中東部の領邦,ザクセン選帝侯国の首都ウィッテンベルクで,アウグスティヌス会の修道士であり大学の神学教授であるマルティン・ルターが,1517年10月31日,贖宥の効力に関する〈九十五ヵ条提題〉を公にしたことが,宗教改革の口火となった。深い罪意識と鋭敏な良心から,律法の遵守や善き〈行い〉(功績)による救いの道を説くカトリシズムの教義に根本的な疑いをいだいた彼は,オッカム神学の研究や上司シュタウピッツを通じての神秘主義との接触,しかし何よりも〈神の言(ことば)〉としての聖書への沈潜の中で,救いの問題の新たな神学的理解へと到達した。…

【シュタウピッツ】より

…ドイツのアウグスティヌス隠修修道会士。宗教改革者ルターの師。ザクセンの貴族の出で,ケルンとライプチヒで学び,1490年ころミュンヘンで修道士となる。…

【神学】より

…神学と哲学,信仰と理性とが階層的調和にもたらされることによって,信仰の真理の学問的基礎づけとしての神学は完成され,ローマ・カトリック教会の神学の支柱となった。 ルターによる宗教改革はスコラ神学に対する神学方法上の革新でもあった。哲学的思弁から神学を解放して,ひたすら〈神の言〉に基礎づけるキリスト論的神学が主張された。…

【性】より

…カトリックでは聖職者(神父,尼僧)に対しては禁欲と独身を要求し,信者に対しては貞潔を求めている。しかし,宗教改革家ルターは,性に対する人間の欲望をきわめて自然で強いものとみ,独身主義をむしろ危険なものと考えた。一方カルバンは,夫婦の関係を神聖視し,その他の不倫な性行動を罪とみなした。…

【聖体論争】より

… 聖体論争は宗教改革において改革派のあいだの論争問題となった。ルターは,キリスト教の秘儀性を否定せず,聖餐における聖変化を認めたうえで,カトリック教会の〈全質変化〉の教義に反対し,パンとブドウ酒の形質は残存すると考えた。これを〈実体共存説〉という。…

【罪】より

…それゆえ,絶対に聖なるものに対してわたしは滅びるという自覚が,罪意識の原点である。《詩篇》22篇の〈われは虫にして人にあらず〉,《ヨブ記》16章・19章,ルターのいう〈震撼させられた良心〉,R.オットーのいう〈戦慄すべき神秘〉がこれにあたる。そのため,キリスト教の罪観念は一般的価値としての善悪の観念によっては測られないものがある。…

【ドイツ音楽】より

…ルネサンス時代には,ドイツ音楽はフランドルの高度の多声技法とイタリアの輝かしい音響効果の世界から多くのものを学び取った。他方この時代の宗教改革とルターの聖書のドイツ語訳が,ドイツの音楽と文化の上に及ぼした大きい影響を忘れることはできない。しかしその成果が現実に現れるのは次の時代のことである。…

【ドイツ語】より

…このような状況のもとで,ドイツ語による文学活動はそれまでもっぱら聖職者によって担われていたのに対し,この時代,騎士階級が文学活動の新しい担い手として登場し,ドイツ語による多くの作品を残すことになる。まず,ネーデルラント出身のフェルデケのハインリヒ(ハインリヒ・フォン・フェルデケ)をはじめとして,アウエのハルトマン(ハルトマン・フォン・アウエ),シュトラスブルクのゴットフリート(ゴットフリート・フォン・シュトラスブルク),エッシェンバハのウォルフラム(ウォルフラム・フォン・エッシェンバハ)のような宮廷叙事詩人,ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデのような恋愛歌詩人が現れるが,詩人たちは,各地方の間の文化的交流の中で,自己の作品ができる限り広い地域で読まれ,理解されるように,狭い地域に限られた方言的な要素を避けるようになる。その結果,12世紀後半から13世紀にかけ,ドイツ南部を中心に,超地方的で比較的均一な文学語が成立する。…

【ドイツ農民戦争】より

…ミュンツァーは1525年3月ミュールハウゼン市の市会を改組して〈永久市参事会〉を設立し,4月下旬ミュールハウゼン市民・農民合同団を成立させ,ほかにフルダ修道院領,ランゲンザルツァ,エルフルトなどに農民団が結成され,多くの修道院,城砦を焼き払った。 ルターは,南西ドイツの農民蜂起に対して《シュワーベン農民の十二ヵ条に対する平和勧告》を書いて同情的態度を示したが,チューリンゲン農民の背後に〈革命の神学者〉ミュンツァーがいると知るや,《農民の殺人・強盗団に抗して》を著して,断固弾圧すべしと説いた。この勧告にこたえて,ヘッセン方伯フィリップ,ザクセン諸公らは軍隊を総動員し,5月15日フランケンハウゼンの戦で農民団を撃破し,5月26日ミュールハウゼン市陥落,5月27日ミュンツァー斬首をもってチューリンゲンの一揆は終わった。…

【ドイツ文学】より


[抒情詩のモティーフ]
 抒情詩ではトルバドゥールの様式を受け継いだミンネザングが成立し,貴婦人への愛の奉仕を最高の理念とする歌が多く作られた。ラインマルReinmar von Hagenauを頂点とする盛時のミンネザングは,この愛を神への愛にまで結びつけようとしたが,一方ワルター・フォン・デル・フォーゲルワイデは身分の低い娘を登場させて世俗の愛をうたい,あるいは政治的発言を織り込んだ格言詩をつくり,ナイトハルト(ロイエンタールの)などにいたると,騎士と農民の間の力関係の混乱がパロディの形をとって農村を舞台にした詩に反映されることになる。他方宮廷詩とは別に,《カルミナ・ブラーナ》のように,遍歴学生や農民によって歌われていた巷間の歌がたくましく育っていた。…

【プロテスタンティズム】より

…しかしキリスト教の一群を総称する客観的概念として盛んに用いられるようになったのは,20世紀に入ってからである。 現在使われている意味でのプロテスタンティズムは,信仰,教義ないし思想,共同体の性格などの諸点において多様なキリスト教現象を含んでいるため厳密に規定することは難しいが,その起源と基本的性格とは,ドイツのルターによって開始され,スイスのツウィングリ,フランスのカルバンらによって強力に推進された宗教改革運動に発するものである。それゆえこの概念は特にローマ・カトリック教会との対比を強く含意している。…

【本】より

…これにはもちろん例外があり,エラスムスの《格言集》などは16世紀の最初の数十年間に,各版1000部を刷って34版を重ね,同じ著者の《対話集》は,存生中に2万4000部を印刷している。ルターの《ドイツ国民のキリスト教貴族に与う》は,発行後5日間に4000部を売りつくした。これらの数字は,1900‐30年までの30年間に,イギリス聖書協会が聖書2億3700万部を発行したのに比べるとものの数ではないが,活字印刷術が創始されてまだ100年にもなっていない事実を考え,さらにその前のながい手写本時代を顧みると,驚異的な記録といわなければならない。…

【メランヒトン】より

…その就任講演〈青年教育の改善〉はこの大学ばかりか他の大学の教育改革にとっても指標となった。その地で直ちに宗教改革者ルターの信仰と神学の影響下に入り,生涯その協力者となる。19年7月のライプチヒ討論のさいはルターを助け,夏からはローマ書の講義を始め,それに基づいて21年《神学総覧》初版を出版する。…

【免罪符】より

…贖宥(しよくゆう)状,贖宥符とも訳される。これがもたらす信仰上の弊害をルターが〈九十五ヵ条提題〉で攻撃したことが,宗教改革の口火となった。中世カトリック教会では,教皇は使徒ペテロの後継者,地上におけるキリストの代理者と考えられ,そこから,キリストの贖罪の業(わざ)は,人々の救霊をもたらす偉大な〈功績〉として,あり余るほどの〈財宝〉をローマ教会にゆだねたという信仰が生まれた。…

【ヨーロッパ】より

…キリスト教国家の理念というものがそれである。しかしながら16世紀には北ヨーロッパでルターに始まる宗教改革が進行し,互酬関係を教義のなかに取り込んだカトリック教会の救済理論を打ち破った。現世で善行を積めば来世での救いが保障されるという教義はルターによって大きな変更を加えられた。…

【ライプチヒ討論】より

…1519年7月,ザクセン公ゲオルクの手配で,宗教改革者ルターとその反対者エックとによりライプチヒで行われた神学討論。はじめルターの同僚カールシュタットが1週間にわたりエックと討論したあと,ルターが1週間エックと討論した。…

【離婚】より

…教会財政の紊乱(びんらん),聖職者の退廃を原因として教会の勢力が衰退しだし,これに代わって絶対王政が確立されはじめる。ルターやカルバンなどの宗教改革の指導者が,婚姻=サクラメント理論に対して批判を加え,離婚を認めるべきことを説き,婚姻事件につき教会裁判所には管轄権限がないことを主張した。 このように,教会婚姻法に対する批判が勢力を拡大するに伴い,婚姻事件についての教会裁判所の独占的管轄権に対しても世俗裁判所によって異論が唱えられ,教会裁判所と世俗裁判所との管轄権争いの事件が増加した。…

【ルター大小教理問答】より

…宗教改革者ルターによって,いずれも1529年に著された二つの教理問答。キリスト教会初期以来の信徒信仰教育の伝統を,聖書中心,神中心,信仰中心の宗教改革的立場により改めて生かして書かれた。…

【ルター訳聖書】より

…宗教改革者ルターは,キリスト教信仰が聖書のみによるべきことを主張したが,1521年5月から,ワルトブルク城に保護されていた9ヵ月間のうちの10週ほどをかけて,新約聖書を,ギリシア文を参照しつつ,当時一般的だったラテン語訳《ウルガタ》からドイツ語に翻訳した。これはやがて22年9月ウィッテンベルクで,当時としては多い部数である3000部が出版されたので,《9月聖書》と呼ばれる。…

【ワルトブルク】より

…その後マイセン辺境伯ウェッティン家Wettinerの領有に移り,15~18世紀はザクセン選帝侯領に属した。1521~22年,ルターがここにかくまわれ,新約聖書を独訳した。1714年以後,ザクセン・ワイマール領。…

※「ルター」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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