露西亜文学(読み)ロシアブンガク

デジタル大辞泉 「露西亜文学」の意味・読み・例文・類語

ロシアぶんがく【露西亜文学】

日本のロシア文学専門雑誌。明治43年(1910)、東京外語学校に在籍していた中村白葉、米川正夫らが創刊。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「露西亜文学」の意味・わかりやすい解説

ロシア文学 (ロシアぶんがく)

ロシア史は激しい断絶の歴史である。ソビエト革命という一国家体制の全面的崩壊以前にも,キエフ・ロシアの滅亡,北西ロシアにおける諸共和国の崩壊,ロマノフ王朝成立前の17世紀における〈動乱〉,そしてピョートル大帝(1世)の改革という大激変をロシアは経験している。ロシアはそのたびに政治的骨組みを立て直し,精神の再教育をはからなければならなかった。

ロシア文学はロシア史のこのような激変に敏感に対応してきた。ロシアの文学ほどその時々の社会的・政治的問題を強烈に反映している文学はほかにない。ロシア史における最初の強烈な断絶として,さらに10世紀末の東方正教の国教化をあげることができる。このキリスト教への改宗の結実としてロシア文学は生まれたのであって,以後,キリスト教につちかわれた真摯なヒューマニズムが,上述のその時々の現実への強い関心と並んで,今日に至るまでロシア文学のユニークな伝統として生き続けているのである。なお本項では〈ロシア文学〉を〈ロシアおよびソビエト連邦において,ロシア語を用いて創作された文学〉とし,この基準にもとづいていわゆる〈古代〉ロシア文学から現代の作品までを概観する。旧ソ連邦内のロシア語以外の言語による文学については〈ソビエト文学〉の項を参照されたい。

ロシアは西欧諸国と比べると歴史の連続性を欠き,そのため安定した統一のとれた多層的な文化を生み出すことができなかったが,その代り豊かなフォークロア(口承文学)が民衆の間で代々伝承され,保持された。ロシアの民衆叙事詩ブイリーナ,おとぎ話,伝説,歌謡はヨーロッパで最も洗練された美しさをもち,ロシア文学の民衆的性格の形成に貢献し,ことにロマン派時代以後,ロシア詩に大きな影響を与えた。民衆文化はロシアの近代化・西欧化の大波の底で生き続け,L.トルストイやモダニズム時代の作家たち,さらには今日の農村派文学の作家たちに霊感を与え続けている。

ロシアはローマからではなく,東方のビザンティン帝国からキリスト教を取り入れ,それと同時にギリシア語の強い影響を受けた教会スラブ語古代教会スラブ語)を文語として受け入れた。このことはラテン語とカトリックで統一された,いわゆる〈ラテン的中世〉と異質の文化を生むもととなった。東方正教(東方正教会)の受容はこのように西欧との分裂の始まりであったが,これは古典ギリシアの観念,感覚でいろどられたキリスト教の受容にほかならず,善と美の一致というギリシア的イデーがロシアにもたらされることになる。道徳的美しさの理想というL.トルストイやドストエフスキーの文学の特徴はここに淵源をもつ。

東方正教の導入にもかかわらず,キエフ・ロシアと西欧との間には深い人的・文化的つながりがあったが,13世紀半ばからタタールの支配による〈鉄のカーテン〉が240年間も続いた(タタールのくびき)ため,西欧のルネサンス,宗教改革から切り離された。タタール支配から解放された後もモスクワ公国は文化的鎖国政策をとり続け,いわば中世文化をそのまま温存した形で18世紀を迎えることになる。この中世文化はきわめて農民文化・民衆文化の色彩が濃厚で,たとえばゴーゴリの作品の中にみごとに反映されている。この中世的要素こそしばしば西欧側からアジア的と誤認される要素なのである。ピョートル大帝による近代化・西欧化政策が激越にならざるをえなかった理由もここにある。ピョートルの改革以後,西欧文化はストレートにロシアに移入されるようになった。文学流派,文学思潮の継起,交替も西欧のたどった道程を追うことになった。

 西欧文学の中で,ロシア文学に最も大きな影響を与えたのはまずフランス文学であり,ドイツ文学がこれに次ぐ。古典主義時代には前者が,ロマン主義時代には後者が優越するという具合に,影響の度合は時代により,また作家により異なるが,対立し補完し合う二大要素としてロシア文学に大きな影響を与え続けた。ロシア文学は急速に発展して,1世紀足らずの間に,西欧の文学をもっぱら受容する側から,その富を西欧に返す側に回る。世界文化史的に見てもまれに見るこの劇的変貌はいわゆるペテルブルグ時代(ペテルブルグとそれが改称されたペトログラードが首都であった1712年から1918年まで)の所産である。

ロシアのアジア的性格ということが,アジア系遊牧民との絶えざる戦い,タタールによる支配という歴史的事実から類推されることがある。しかしキリスト教文化の東端のフロンティアにあって異教徒と戦ってきたロシアは,西欧にとっての西端であるアメリカ同様,きわめて戦闘的で徹底した護教意識を育ててきた。スペインと同じくロシアも,キリスト教世界の辺境として,辺境であるがゆえに非キリスト教的要素を強めたことも,非ヨーロッパ的になったこともない。ロシア建国にあたってノルマン系外来者の力が大きな力となったように,ロシア文学の発展期には外国系の人々の果たした役割は大きい。アフリカ系のプーシキン,トルコ系のジュコーフスキー,スコットランド系のレールモントフ,遠い先祖にドイツ系の血をもつL.トルストイ,およびエレンブルグ,バーベリ,パステルナークなどの20世紀のユダヤ系作家はそのよい例である。この点も異種の民族の混交よりなるアメリカと似た面をもっている。ヨーロッパの東西両端にある国は,新天地を求めるヨーロッパ人のフロンティアであり,吹きだまりだったのである。限りない大地の広がりをもつ両国は,西欧的な安定した秩序ある市民社会の伝統や多層的な文化の多様性を文学の基盤として有せず,その文学はいずれも観念的・理念的方向へ向かう傾向をもっている。

異民族タタールによる支配,イワン雷帝(4世)からピョートル大帝,そしてスターリンに至る専制,弾圧,粛清のもとであえぎ,社会の後進性,立ち遅れた制度,農奴制という近代における奴隷制,階級間の隔絶といった社会的矛盾に苦しむという歴史的状況とロシア文学の特色とは切り離して考えることはできない。またロシアでは議会のような社会的発言の演壇がなく,言論の自由も検閲によって制限されていて,社会評論・政治的発言の場がなかったから,文学が唯一の〈演壇〉であった。これがロシア文学が深い思想性・政治性をもたざるをえなくなった外的条件の一つである。文学は政治的・社会的意見をほとんど発表できないような反動的な時期でも人々に何らかの視野を提供してくれた。このような状況から,作家を実存の謎を解き明かしてくれるかもしれない賢人と見,つねに真実の探求にはげむ賢者と見なすロシア的伝統が生まれる。ロシア文学は伝統的にアンガージュマン(社会・政治参加)の文学であった。文学批評は文学作品を解説し,検閲の目をかすめて政治的・社会的発言をその中にしのびこませるという方法によって,社会評論の代役を果たすことになった。文学はかくしてロシア帝国の〈法〉と反体制との闘争の最も重要な果し合いの場となった。国家の側も文学の重要性,社会的役割を認識しており,指導・監視の目を怠たらなかった。検閲体制の厳しさ,作家と国家の緊張関係は,旧ロシア時代,ソビエト時代を通じてこの国の文学を特徴づけている。追放,流刑,処刑,亡命という運命がこの国の作家の上にはしばしばふりかかった。このような迫害によって,作家の側の求道者的・殉教者的態度もいっそうラディカルになってくる。

ロシアの作家は,〈人はいかに生くべきか〉〈なぜわれわれはここに存在するのか〉という根源的な問題,哲学・宗教・倫理の問題に深く心を奪われていた。ピョートル大帝の急激な近代化がもたらしたひずみ,西欧化したエリートと中世的農民文化の中にとどまる大多数の貧しい民衆(ナロード)との間の深い亀裂というロシア史上の決定的な問題(これは当時〈呪われた問題〉と呼ばれていた)がロシア作家の心に重くのしかかっていた。作家たちはあるいはロシアの民衆のもつたくましさや精神の美しさを認め,あるいは民衆の保持している純粋なキリスト教信仰を賛美し,その豊かさを文学の中で描こうと努めた。やがて民衆文化の中に民族精神の精髄を見いだそうとするドイツ・ロマン派のイデオロギーの影響がここに加わることになる。19世紀になって先進西欧諸国の文明の堕落が批判されるようになると,文明の悪に染まっていないロシアのナロードの存在がロシア作家のまえで輝きを増してくる。このナロードがみじめな状態におかれていることに対して,ロシアのエリートは良心の呵責(かしやく)に苦しんだ。いわゆる〈悔い改めた貴族〉が生まれる。その社会改革的使命感は求道者的作家L.トルストイによって最もよく体現されているが,インテリゲンチャの1870年代の〈ブ・ナロード(人民の中へ)〉という運動もやはりこの使命感の表現であった。

ロシア文学の名声を世界的に高めるきっかけとなったのは,ロシアの小説である。小説の黄金時代は,ちょうどアレクサンドル2世の治世期間(1855-81)と一致している。ツルゲーネフの《ルージン》(1856)に始まり,ドストエフスキーの《カラマーゾフの兄弟》(1879-80)で終わり,ツルゲーネフとドストエフスキーの死,トルストイの文学放棄宣言という劇的事件によってしめくくられる時代である。

しかし,その一時代前に詩の黄金時代があったことを忘れてはならない。ピョートル大帝の近代化とともに始まったロシア近代文学の歩みも,18世紀100年の長い徒弟期間を経て,文学の基礎となるべき文章語がようやくプーシキンの時代に確立期を迎える。そしてその文章語の花が最初に結実したのが詩の世界である。1783年生れのジュコーフスキーは別格として,92年生れのビャーゼムスキーから1809年生れのコリツォーフAleksei Vasil'evich Kol'tsovに至る約20年間の間,ほとんど毎年1人というような割合ですぐれた詩人が生まれ,これらの人々がロシア詩の黄金時代を担うのである。この時代の言語的実験の蓄積の上に小説の黄金時代が花を咲かせることになる。1880年以降の文学の一般的不振の中から,19世紀末にふたたび詩がよみがえってくる。ロシア詩の〈銀の時代〉といわれる時代である。文学史的には象徴主義,あるいはより広い定義でモダニズムと呼ばれる時代である。小説の黄金時代は前と後から〈詩の時代〉にはさまれているのである。

ロシア人はイタリア人と並んで最も身ぶりによる感情表現が豊かな民族とされている。ロシア演劇を考える時,すぐ思い浮かぶのはモチャーロフPavel Stepanovich Mochalov(1800-48),シチェプキン,それに国際的名声を得たエルモーロワのような俳優かスタニスラフスキーやメイエルホリドのような演出家である。ひとことでいってロシア演劇の名を高からしめたのは劇的表現力に富んだロシア民族の生んだ名優と名演出家であって,必ずしも演劇の基礎であり,〈文学的部分〉である戯曲ではない。劇作のみに専念した作家としてあげられるのは,A.N.オストロフスキーとスホボ・コブイリンの二人にすぎない。大劇作家という観点から見れば,A.N.オストロフスキーとA.P.チェーホフの二人につきる。この二人を除くと,文学史的にはロシアの劇作は,1作家1作品という形での作品群のつながりといってよいだろう。グリボエードフは《知恵の悲しみ》,レールモントフは《仮面舞踏会》,ゴーゴリは《検察官》,ツルゲーネフは《村のひと月》,L.トルストイは《闇の力》,ゴーリキーは《どん底》でそれぞれ記憶されている。これらの作家はみな他にも劇作品を書いてはいるが,演劇愛好者の目から見れば,それぞれ1作が記憶にとどまるだけであろう。

文学的に最もすぐれた自伝・回想録としてはゲルツェンの《過去と思索》(1852-68),ゴーリキーの《幼年時代》(1913-14),《人々の中で》(1915-16),《私の大学》(1923),《回想》(1924-31)の4編があげられるが,フィクションの形をとっていながら実は作者やその家族,祖先についての忠実な記録となっている作品がロシア文学には数多くある。《家族の記録》(1856)で知られるS.T.アクサーコフの作品や,ドストエフスキーの《死の家の記録》(1862)がそれである。L.トルストイの作品は自伝的三部作《幼年時代》(1852),《少年時代》(1854),《青年時代》(1857)だけではなく,《戦争と平和》のような作品でもきわめて自伝的である。

ロシア近代文学の他のジャンルがすべてそうであるように,ロシア文学批評もヨーロッパ批評史の欠くことのできない一部である。ロシア批評の父ともいうべきベリンスキーの生きていた時代は,ニコライ1世治下の社会的無感覚の体制下に生きていた青年が西欧からもたらされる思想を不条理なまでの熱意でくみとり,それを実行に移そうとし,またそれを極端な結論にまで発展させようと身構えていた時代である。消化吸収された最初のイデオロギーはドイツ・ロマン主義のイデアリズム(理想主義,観念論)であった。人間としても芸術家としても一貫して全面的に社会のために献身せねばならぬ,作家はまず第一に人間であり,自分に責任をもち,真理を語り,すぐれた作品を作らねばならぬというベリンスキーの理念は,まさにロマン主義哲学から生み出されたものである。人生と芸術の間にはっきりと線を引かないタイプのロシア的社会批評は,ベリンスキーの創始した方法である。彼の批評はツルゲーネフをはじめ作家たちによって真剣に受けとめられ,創作の面に大きな寄与をしたが,インテリゲンチャの進歩的人生観をつちかうという点で,より大きな社会的意味をもった。

 ベリンスキーの弟子たちの時代になると,俗流唯物論,実証主義,イギリスに由来する功利主義などの影響を受け,より急進的な方向に向かい,ドストエフスキー,L.トルストイ,レスコフ,チェーホフなどと激しく対立することになる。ジャーナリズムの主流を占めた功利主義的批評派が文学的価値や技法を軽視し,芸術としての文学の視野をせばめたことの悪しき影響は,1870年代以降の文学的不毛という結果を生んだ。文学ジャンルとしての批評がよみがえるためには,20世紀初頭に開花したロシアの文化的ルネサンスの子として生まれたロシア・フォルマリズムを待たなければならない。革命後は,ベリンスキー以下の急進派の伝統がマルクス主義と結びついた形で,ソビエト批評の主流派が生まれたが,フォルマリズムはそれとせめぎ合い,融合し,西欧の新批評や,ヌーベル・クリティクと通ずる構造主義的批評を展開した。今日のソビエト記号学派はその所産の顕著な例である。

ロシア文学には社会問題や倫理的・道徳的問題についての意識が強いが,このような問題を的確にとらえる方法として常にリアリズムが優位を占めているという主張がある。他国と比較するとロシア文学においてはリアリズム的傾向が特に際だっているように見える。しかしこれは,ドイツ文学が本質的にはロマンティックであるとか,フランス文学の本質は古典主義的傾向にあるという特徴づけと同列の定義として理解されるべきである。ロシア文学においてはどんな時代でもリアリズムが主流で,それ以外のロマン主義や象徴主義などは逸脱であって,誤った道であると考えるのは学問的ではなく,反歴史的である。どんな文学にも主流と反主流があって,たがいに絡み合い,時には反主流が表に出て多彩な歴史を形づくっていく。ロシア文学の特徴として,率直・平明・簡潔で機能的な文体,風景・生活の詳細で事実に即した描写という定義づけがなされるが,これはプーシキンに始まってツルゲーネフ,L.トルストイ,チェーホフへと引き継がれるロシア文学の本流の特徴である。これに対して奇想,ユーモア,凝った文体,文学的実験という流れも,ゴーゴリからドストエフスキーに受け継がれ,さらに20世紀のモダニズムを経てソ連時代まで続いている。

他のスラブ諸国と同じく,ロシアにおいても貴族が文学の担い手であった時代には,ロシア語と変りなく自由に西欧諸語をあやつる作家は多かった。チャアダーエフの《哲学書簡》(1829-31)はフランス語で書かれた代表的な作品(ロシア語での発表は1836年)であるが,日常的な社交語としてフランス語が用いられた時代が長かったから,日記,書簡を文学ジャンルとしてみれば,外国語で書かれたロシア文学の量ははるかに多くなるであろう。詩の用語としてしばしばフランス語が用いられたことを考え合わせると,ちょうど日本における漢文と似た役割をフランス語が果たしていたと考えられる。ゲルツェン,バクーニン,クロポトキンなどの亡命者は国外で西欧諸語による多くの著作を残している。

スラブ圏文学全体の起源は,863年の東ローマ帝国の修道士キュリロス(ロシア名キリール)およびその兄メトディオス(ロシア名メフォーディ)の伝道活動と密接にかかわっている。ロシア文学はキエフ大公ウラジーミルによるキリスト教国教化(989)と前後して,教会スラブ語によるビザンティン教会文献の翻訳がもたらされた時に,はじめて成立の可能性を与えられた。教会スラブ語はブルガリア・マケドニア系の一方言を基礎とする文語で,ロシア語にきわめて近く,ロシアでは17世紀に至るまで広く用いられた。教会スラブ語にロシアの生きた口語の要素をまじえた文語,いわゆる〈古代ロシア語〉がこの時期の文学の用語であった。

聖書を中心とする翻訳活動に影響されて,11世紀からオリジナルなロシア文学の作品が現れるようになる。文献として現存する最古の翻訳作品は《オストロミール福音書》(1056-57)である。11世紀中ごろから17世紀末までの約650年間は慣例として〈古代ロシア文学〉と名づけられている。〈古代〉という用語は通例5世紀前後までを示す歴史的概念と混同されやすく,誤解を生む。これはDrevnerusskaya literatura(Old Russian literature)の翻訳であるが,時代の大部分は中世にあたるのであるから,Old Englishを〈古英語〉と訳す例にならうか,あるいは〈初期文学〉ないし〈中世文学〉として理解されるべきである。この時期の作品は宗教的ないし教訓的な色彩の強いものが中心をなしており,あるいはなんらかの実用的な目的をもつものが多い。これは文字によって定着される作品の書き手の大部分が聖職者であったことと,他の文化領域から判然と区別される領域としての〈文学〉という概念がなかったことに由来する。ロシア人の美的芸術的才能は,11世紀以前から存在していた世俗的な口承文学の面で発揮されていた。

(1)ロシアの〈中世文学〉の最初の時代は,作品はキエフを中心とする南ロシア地方で書かれている。それゆえ11世紀から13世紀半ばに至る200年間は〈キエフ時代〉と呼ばれている。この時期の代表的作品は《原初年代記》(《過ぎし年月の物語》)と《イーゴリ軍記》(《イーゴリ遠征物語》)である。前者は11世紀半ばからキエフの修道士たちによって書きつがれ,12世紀の10年代に完成したもので,さまざまな資料や異教時代の伝説を取り入れ,文学的価値の高い部分が多い。後者はロシア中世文学最大の傑作であって,1185年南ロシアのイーゴリ公が東方のチュルク系遊牧民のポロベツに対して行い敗北に終わった遠征を題材に,複雑な詩的リズムと,高度な文体的技巧を駆使して書かれた作品である。作者は不詳であるがロシア吟遊詩人の伝統とビザンティン文献に通じた教養人であったらしい。

(2)キエフ時代の文学伝統は,1237年から1480年までの約240年間のタタール人支配の時代に絶え,もっぱら修辞的技巧を発達させた聖者伝が主流を占めるようになった。しかしこの時代に〈タタールのくびき〉に苦しむ人々の精神的支えとしてキリスト教が深く浸透し,ロシアは宗教的にも文化的にも一元化への方向に向かった。またロシア美術がアンドレイ・ルブリョフ(1370ころ-1430)によって,このころ最盛期を迎えていたことは記憶されておかねばならない。

(3)タタール支配から解放され,モスクワ大公国のもとで統一された,16~17世紀にまたがるモスクワ時代は,モスクワの世俗権力と教会との調和に基づいて貴族から農民に至るまで一元的な文化の枠組みの内で生きていた,いわゆる〈聖なるロシア〉の時代であった。しかし極端な鎖国政策がとられ,ロシアは西欧からも他のスラブ諸国からも完全に孤立した。神政国家の理念の代弁者であったモスクワ府主教マカーリー(1483ころ-1563)の《大聖者伝集成Velikie Chet'i-Minei》(1552)はロシアの民衆の宗教心を養う糧となり,民衆の信仰を通して19世紀ロシア文学にも大きな影響を与えた。16世紀には,〈政治的社会評論〉の傑作であるイワン雷帝と彼に敵対するクールプスキーAndrei Mikhailovich Kurbskii公(1528-83)との《往復書簡》(1564-1579),家父長主義のみごとな表現である《家政訓Domostroi》(16世紀初頭)など特異な作品が多い。モスクワ時代の一元性,孤立性は17世紀初頭の〈動乱〉,17世紀半ばの〈教会分裂(ラスコール)〉によって根底からゆるがされ,文学の中にも新しい要素が現れる。世紀後半の〈世俗物語〉と呼ばれる宗教的色彩の少ない作品群や,教会分裂の際の分離派教徒の指導者アバクムの《自伝》(1672-75)がその代表的作品である。後者は元来〈聖者の伝記〉を意味した〈ジチエーzhitie〉という名称を自作の表題にかかげつつ,自分自身の生涯を生きた口語的なロシア語で赤裸々に描いた力強い作品である。

モスクワ時代の孤立性にとどめをさしたのがピョートル大帝による近代化・西欧化政策を軸とする〈文化大革命〉である。これ以後200年間の〈ペテルブルグ時代〉を通して,ロシア文学はヨーロッパ文学の不可分の一部となった。この時期の時代区分をどのようにするかについては諸説があり,ソ連の文芸学者コージノフのように,国民文学としてのロシア近代文学の成立をナポレオン戦争時に置くという主張もあるが,ここでは西欧とのつながりを重視するという立場から様式史的に展望する。

(1)バロック ピョートル大帝の登場以前に,宮廷詩人ポロツクのシメオンSimeon Polotskii(1629-80)により,ポーランド=ウクライナのバロック文学がロシアに導き入れられた。彼は白ロシア出身で,キエフの神学校に学び,詩や劇の分野で数多くの作品を書いている。首都建設者ピョートルの好みは彼の愛したオランダのバロックにあったことも重要なポイントである。ドイツ出身のエカチェリナ2世の古典主義志向が,絵画,彫刻,建築,文学などの領域に広く影響を及ぼしたことに見られるように,18世紀の文化の揺籃時代には専制君主の意志は西欧の時代動向を強く反映しているがゆえに,ロシアの同時代の動向を左右するだけの力があった。モルダビア公国の君主の息子で風刺詩人のカンテミール,学者詩人トレジアコーフスキー,ロモノーソフがバロックの代表的作家である。科学者でもあったロモノーソフは,留学地ドイツのバロックの影響を強く受けているが,彼の頌詩(オード)には科学的発見と詩想を結合させた壮大なバロック的コスモゴニー(宇宙生成物語)が見られる。

(2)古典主義 エカチェリナ2世(在位1762-96)の治世下,他の芸術分野と同じく文学においても,バロックの大げさなスタイルは後退し,古典主義的節度の時代が始まった。悲劇作家スマローコフ,叙事詩人ヘラスコフMikhail Matveevich Kheraskov(《ロシアーダ》1779),喜劇作家フォンビージン(《親がかり》1782)が代表的な作家である。18世紀最大の詩人デルジャービンは古典主義の規則を無視し,バロック的な荘重な文体を好む一方で,イギリス〈墓地派Churchyard school〉(T. グレー,ヤングなど)の影響下にロマン派に接近する。この時代の活発な文化活動は,啓蒙思想の運動に反映し,ラジーシチェフ(《ペテルブルグからモスクワへの旅》1790),ロシア・ジャーナリズムの創始者でフリーメーソンであったノビコフらを生むことになる。文学史的により重要なのは,西欧で通例プレ・ロマンティシズムと呼ばれている流派に対応するセンチメンタリズム(主情主義)という文学潮流である。ラジーシチェフは文学的にはこの派に属している。軽快典雅なフランス語法を取り入れ,古典主義に軽やかさをとりもどしたカラムジンが中心的作家であったために,この派はカラムジン派とも呼ばれている。

(3)ロマン主義 徒弟時代にもたとえられる18世紀ロシア文学からの脱皮は,ロマン主義の旗の下に行われ,古典主義の狭い文学規範からの脱出は19世紀初頭のナポレオン戦争の結果生まれた民族的覚醒によってはずみをつけられた。ロシアのみならずスラブ圏全体におけるロマン主義の重要性は,それが単に文学の領域にとどまらず,イデオロギー,世界観として文化全体,人の生き方にまで影響を与えたという点にある。1810年代,カラムジン派に属するジュコーフスキー,ビャーゼムスキーらがロマン主義への道を開き,プーシキン,ルイレーエフらが加わる形で1820年代にロマン主義は最初の高揚期を迎える。25年のデカブリスト反乱はむしろロマン主義的イデオロギーを強めることになり,これ以後のロマン主義はそれまでの文体論議中心の文学的現象から脱し,より思想的哲学的色彩を強めていく。西欧派対スラブ派の論議,チュッチェフ,レールモントフに代表される思索的哲学的傾向はその所産である。詩の黄金時代を開いたロマン主義は30年代には散文の時代を迎える。プーシキンに代わってロシア文学の中心となったのがゴーゴリである。40年代初頭ゴーゴリの影響下に〈自然派〉と呼ばれる文学グループが形成された。この流派は世界観的にはまだロマン主義に属しているとはいえ,文学的タブーをいっさい取り払って低級卑俗なものを含め,細部描写に関心を寄せる点でリアリズムへの架橋の役を果たした。リアリズム作家グリゴロービチ,N.A.ネクラーソフ,ドストエフスキーらもこの派から出発した。

(4)リアリズム 現実を無意味な非条理なものとしてとらえる〈自然派〉特有の誇張的表現やグロテスクが克服されて1840年代後半にリアリズムへの道が開かれ,19世紀後半のリアリズム小説の黄金時代が始まる。前述のアレクサンドル2世時代(1855-81)に発表された主要な作品はツルゲーネフの長編6作(《ルージン》1856,《貴族の巣》1859,《その前夜》1860,《父と子》1862,《煙》1867,《処女地》1877),ドストエフスキーの四大傑作(《罪と罰》1866,《白痴》1868-69,《悪霊》1871-72,《カラマーゾフの兄弟》1879-80),L.トルストイの最も重要な小説(《戦争と平和》1865-69,《アンナ・カレーニナ》1875-77),ゴンチャロフの《オブローモフ》(1859),レスコフの《僧院の人々》(1872),サルティコフ・シチェドリンの《ゴロブリョフ家の人々》(1876-80)などである。詩の世界でリアリズムを代表するのはN.A.ネクラーソフであり,戯曲では,モスクワの商人社会を中心に1840年代から80年代までロシア社会をリアルに描いたA.N.オストロフスキー(《雷雨》1859,《森林》1871など)である。リアリズムの残光を飾る短編作家,劇作家チェーホフは,次代のモダニズムへの移り行きをすでに感じさせ,ゴーリキー,ブーニンらも後にリアリズムに復帰するが,一時期モダニズム的手法に従った。

(5)モダニズム 1894年のブリューソフの詩集《ロシア象徴主義者》で口火を切られた象徴主義運動の時代は,ロシア詩の〈銀の時代〉を招来するが,これは文化領域全体にわたるロシア・ルネサンスの始まりであった。文学史的には象徴主義(ブローク,ベールイ,V. イワーノフら。盛期は1910年ころまで),新古典主義的なアクメイズム(グミリョーフ,マンデリシタム,アフマートワ。1912年より),未来派(ロフレーブニコフ,マヤコーフスキーら。1910年より),イマジニズムimazhinizm(エセーニンその他。1919年より)と次々と流派が継起するが,全体としてモダニズム的潮流が第1次大戦,革命をつきぬけて1920年代まで文壇の主流を占めた。ロシア・アバンギャルド,ロシア・フォルマリズムはこの時代の所産である。

ソビエト期に入ると,歴史的事件や共産党・政府の政策変更が作家や文学生活に直接影響を与えるようになるので,時代区分は明確にできる(〈ソビエト連邦の文学〉全体については,〈ソビエト文学〉の項を参照されたい)。

(1)十月革命と国内戦の時代(1917-21) 物資が欠乏し,紙もなく,出版できない戦時共産主義ともいわれる時代に,まず詩人たちが熱狂的な活動を開始した。ブローク叙事詩《12》(1918)を初めとし,マヤコーフスキー,エセーニンらに加えてプロレトクリト,次いでそれから分かれた〈鍛冶場派(クーズニッツァ)〉が登場する。

(2)新経済政策(ネップ)の時代(1921-28) 政治の側からの芸術への規制はゆるやかになり,さまざまな文学集団がしのぎをけずりあいつつ共存した。左翼にはプロレトクリト系の組織,すなわち鍛冶場派,〈十月〉グループなどや未来派系の〈芸術左翼戦線(LEF(レフ))〉,他方の極には学者,批評家のフォルマリスト・グループがあり,トロツキーによって〈同伴者〉と命名された,文学の自律性を主張する〈セラピオン兄弟〉グループなどの多彩な顔ぶれの作家群がいた(同伴者文学)。ソビエト文学の一貫した主題である国内戦,社会主義建設,社会主義的人間像の形成と新旧世代の相克というテーマはいち早くとりあげられた。国内戦をテーマにしたものはフールマノフ《チャパーエフ》(1923),フェージン《都市と歳月》(1924),バーベリ《騎兵隊》(1926),ファジェーエフ《壊滅》(1927)。社会主義建設をテーマにしたものはセラフィモービチ《鉄の流れ》(1924),グラトコフ《セメント》(1925),新旧世代の相克をテーマにしたものはA.N.トルストイの1920年に書き始められ,41年に完成した長編三部作《苦悩の中を行く》,オレーシャ《羨望》(1927)などが代表作である。このほかピリニャーク(《裸の年》1922),レオーノフ(《穴熊》1924,《泥棒》1927),エレンブルグ(《トラストD.E.》1923),風刺文学の傑作としてゾシチェンコ(《シネブリューホフ物語》1922),ザミャーチン(《われら》英語版1924,ロシア語版1927),カターエフ(《浪費家》1926),イリフ・ペトロフ(《12の椅子》1928など)の名をあげておく必要がある。

(3)第1次五ヵ年計画期(1928-1932) 社会主義建設が本格的に開始され,1929年には農業集団化が行われて社会生活のあらゆる領域で深刻な変化が起こった。同伴者作家たちも社会主義建設をテーマとし労働を賛美する作品を書き,プロレタリア系作家に接近していった(カターエフ《時よ,進め》1932,レオーノフ《ソーチ》1930,《スクタレフスキー》1932など)。この時代で最も注目すべき作家はショーロホフ(《静かなドン》1928-40,《開かれた処女地》1932-60)である。

(4)1932-1941年 作家同盟が成立し,社会主義リアリズムの時代が始まった。文学におけるスターリニズムの時代で,1937-38年にかけての大粛清でソルジェニーツィンによれば600人以上の作家が犠牲となった。にもかかわらず,この時代はショーロホフ,エレンブルグ,A.N.トルストイ,レオーノフらの作品が次々と発表され,活気のある時代であった。社会主義リアリズムの美学を最も端的に示す作品は,高いモラルをもった共産主義者の自画像を描いたN.A.オストロフスキーの《鋼鉄はいかに鍛えられたか》(1932-34)である。

(5)第2次大戦期(1941-45) 祖国愛で一致団結した時代であって,統制もゆるめられて多くの佳作を生んだ。トワルドーフスキーの叙事詩《ワシーリー・チョールキン》(1941-45),シーモノフの長編小説《昼となく夜となく》(1944)などがその例である。

(6)戦後(1945以降) 終戦直後のジダーノフ批判(1946-48)は文学をふたたび政治統制の枠にはめこんだ。スターリンの死(1953)の後,〈雪どけ〉の時代が始まり,粛清された作家たちの名誉が回復され,黙殺されていたツベターエワ,ブルガーコフ,プラトーノフなどのすぐれた詩人,作家たちの作品が日の目を見るようになり,文学の復興が始まった。エフトゥシェンコ,アクショーノフ,ソルジェニーツィンという新しい才能が次々と生まれるが,フルシチョフ失脚,ブレジネフ登場(1964)に始まる〈停滞の時代〉にソルジェニーツィンをはじめとする多くのすぐれた作家の追放,亡命が相次ぎ,亡命作家を視野に入れなければ現代ロシア文学の全体像を描くことができないという事態になった。その一方で斬新な手法を試みた〈都会派〉のトリーフォノフ,A.ビートフ,〈農村派散文〉の名で呼ばれ,ロシア的な土着的民族主義的文明批判の立場に立つアブラーモフ,アスターフィエフ,ベローフ,ラスプーチンらが活躍を始め,アイトマートフ,イスカンデールのような非ロシア作家,歴史小説に転じた〈吟遊詩人〉オクジャワのような異色作家が登場し,社会主義リアリズムを中核とするソビエト文学の準則は次第にその実体を失い,さまざまな流派やジャンルの共存,文学の多様化が実作的に可能になってきた。1985年政権についたゴルバチョフのペレストロイカ政策のもとで,この多様化の傾向は一気に加速された。政治が文学に大きく作用するというソビエト文学の伝統は,ペレストロイカのもとでプラス要因として働いており,新たな才能の開花が期待しうる状況となっている。

明治以来近代化の道を模索しつつあった日本人は,18世紀以降の急速な近代化に伴うさまざまな苦悩をヒューマニスティックに描いたロシア文学に,他の外国文学に対する以上の共感を示した。日露戦争を契機にロシア文学への関心がさらに高まり,戦争には勝ったが文学では負けたといわれたほどである。語学的なハンディキャップにもかかわらず,1908年には翻訳の点数で英文学を追い越した。ロシア文学の日本語訳は,朝鮮や中国におけるロシア文学移入のきっかけを作ったという意味で,国際文化史的に見ても重要である。日本人にとってのロシア文学の魅力は,二葉亭四迷がいち早く指摘しているように,〈真面目(しんめんもく)に人生問題の全般に亘って考究し〉〈日本文学者のやうに,文学一点張りで他方面の事は関せず焉で居たのではない〉(《露国文学の日本に及ぼしたる影響》)ところにあった。最も文学的で〈血も涙もある〉ツルゲーネフがまず最初に,奥深い人生・社会問題,思想,観念が文学であつかえる,しかも芸術的な形であつかえるということを日本人に教えてくれたのであって,L.トルストイもドストエフスキーもツルゲーネフの開いてくれたこの水路を通って日本に入ってきた。トルストイの死は1910年でちょうど明治の終りにあたるが,説教者・預言者として,世界の良心として大きな人格的影響力をもっていたトルストイがその家出によって人間的に劇的な生涯を閉じたということは,日本人の感性に特に迫るものをもっていた。芸術座による《復活》上演(1914)という大衆的レベルでの受容を含めて,日本におけるロシア文学受容の上でトルストイの演じた役割は巨大である。これ以後日本のロシア文学イメージ(人道主義的傾向,社会的関心,道徳的探求,心理分析の深刻さ,文学者の求道的使命感など)はトルストイと切り離し難い形で定着した。このようなイメージはドストエフスキーのみならず,きたるべきソビエト文学をも同じような色に染め上げることになる。概括的に見ると,ツルゲーネフが二葉亭四迷によって明治期に,トルストイが武者小路実篤らによって大正期に受容のピークを迎えたのに対し,ドストエフスキーが萩原朔太郎,小林秀雄らに見られるように本格的に受け入れられ理解されるようになったのは,昭和期に入ってからである。二葉亭四迷や有島武郎時代のゴーリキーの評価は高く,大正期にはアルツィバーシェフ,アンドレーエフのような自然主義的傾向の作家やモダニズム系の作家がよく読まれたが,明治末期から今日に至るまで変わることなく最も日本人に愛された作家はチェーホフである。大正末期から昭和10年前後のプロレタリア文学時代には,そのころ労農ロシアと呼ばれたソビエトの文学作品やマルクス主義文学理論が盛んに移入されたが,昭和10年代以降転向という試練に直面した日本の知識人は,いわゆるシェストフ体験を通じてドストエフスキーをより切実に理解するようになる。第2次大戦の終戦を契機として,ロシア文学の古典と並んでソビエト文学の最新の作品が数多く翻訳・出版されたが,スターリンの死とともに社会主義的ユートピアの夢が去ったのと軌を一にして,ソビエト文学受容の盛期は過ぎ去った。しかし日本文学の中にまかれたロシア文学の種子は深く根づき,昭和20年代までに世に出た作家や評論家でドストエフスキー,トルストイ,チェーホフから影響を受けなかった者はいないといっていい。これら古典作家は今後とも日本人の心の中に生き続けるだろうが,社会主義建設という大事業の中で政治と文学の間で苦闘する現代ロシア文学にも,人間と人間の運命について真剣に考えるという理想主義的態度は脈々として生きており,ロシア文学は,それがソ連国内の文学であれ亡命文学であれ,政治的偏見を越えて今後とも日本の読者の共感を得るであろう。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

マイナ保険証

マイナンバーカードを健康保険証として利用できるようにしたもの。マイナポータルなどで利用登録が必要。令和3年(2021)10月から本格運用開始。マイナンバー保険証。マイナンバーカード健康保険証。...

マイナ保険証の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android