円仁(読み)エンニン

デジタル大辞泉 「円仁」の意味・読み・例文・類語

えんにん〔ヱンニン〕【円仁】

[794~864]平安初期の天台宗の僧。下野しもつけの人。最澄さいちょうに師事。入唐し、多くの経書を請来しょうらいした。比叡山総持院常行三昧堂じょうぎょうさんまいどう建立、第3世天台座主ざすに任ぜられ、興隆の基礎を確立。著「入唐求法ぐほう巡礼行記」など。慈覚大師

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共同通信ニュース用語解説 「円仁」の解説

円仁

9世紀に活躍した天台宗の僧侶。下野国(栃木県)に生まれ、比叡山(滋賀県)で、天台宗の開祖の最澄に学んだ。838年に唐に渡り、長安で密教の胎蔵たいぞう金剛界蘇悉地そしつじの3法を伝授され、847年帰国。天台密教の基礎を築き、第3世天台座主となった。「入唐求法巡礼行記」は、唐での生活を克明に描いた日記。死後、慈覚じかく大師の名を贈られた。

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精選版 日本国語大辞典 「円仁」の意味・読み・例文・類語

えんにんヱンニン【円仁】

  1. 平安前期の僧。天台宗山門派の祖。諡(おくりな)は慈覚大師。最澄に師事。入唐して顕密(けんみつ)を修め、帰国後、延暦寺第三世座主として天台宗興隆の基礎を確立。著「金剛頂経疏」「入唐求法巡礼行記」など。延暦一三~貞観六年(七九四‐八六四

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「円仁」の意味・わかりやすい解説

円仁
えんにん
(794―864)

平安初期の天台宗の僧。俗姓は壬生(みぶ)氏。下野(しもつけ)国(栃木県)都賀(つが)郡の人。9歳で大慈寺(だいじじ)の広智(こうち)(生没年不詳)のもとで出家し、15歳のとき、比叡山(ひえいざん)に登り、伝教(でんぎょう)大師最澄(さいちょう)に師事した。816年(弘仁7)に具足戒(ぐそくかい)を受け、823年から12年間籠山(ろうざん)の清規(しんぎ)に従い、一行三昧(いちぎょうざんまい)(念仏行法)を修めた。828年(天長5)以後、法隆寺(ほうりゅうじ)、天王寺(てんのうじ)などで講説し、のち比叡山に帰って『法華経(ほけきょう)』を写して小塔に納め、四種三昧(ししゅざんまい)の行法を行ったが、これが根本如法堂(こんぽんにょほうどう)の濫觴(らんしょう)といわれる。838年(承和5)遣唐使の一行に加わって入唐(にっとう)、7月に揚州(江蘇(こうそ)省)海陵県に到着し、開元寺に入った。しかし霊跡巡礼のための許可を得られず帰国しようとしたが、二度も暴風にあって失敗した。その後、許可状を入手し、840年(開成5)3月、五台山に向かう途中、蕭慶中(しょうけいちゅう)から禅を学び、また念仏三昧(ねんぶつざんまい)の法を習い、志遠(しおん)(768―844)や玄鑑(げんかん)らから止観(しかん)を学んだ。8月には、長安の資聖寺(ししょうじ)に入り、長安では、大興善寺(だいこうぜんじ)の元政(げんせい)、青龍寺の義真(ぎしん)、玄法寺の法全(はっせん)(生没年不詳)らから金剛(こんごう)、胎蔵(たいぞう)両界の秘奥、儀軌(ぎき)を学んだ。そのほかにも宝月三蔵(ほうげつさんぞう)から悉曇(しったん)(梵語(ぼんご)学)を、醴泉寺(れいせんじ)の宗穎(しゅうえい)から天台を学び、大安国寺の良侃(りょうがん)や浄影寺(じょうようじ)の惟謹(いきん)からも秘法を受けたといわれる。845年たまたま会昌(かいしょう)の廃仏(仏教弾圧政策)にあい、道士の身に変えて長安を逃れ、847年(承和14)9月に大宰府(だざいふ)に到着した。854年(仁寿4)4月、延暦寺(えんりゃくじ)の第3世座主(ざす)となり、866年(貞観8)慈覚(じかく)大師の諡号(しごう)を受けた。円仁は、唐から天台、真言、禅、念仏、悉曇を伝え、589部802巻の典籍を請来したが、帰国後は、舎利会(しゃりえ)、天台大師供(く)、浄土院廟供(びょうく)、不断念仏会、法華懺法(ほっけせんぽう)などの仏事をはじめ、また円頓戒(えんどんかい)を顕揚し、密教の充実を図った。「およそ仏法の東流することは、なかばこれ大師の力なり」といわれるように、円仁は、義真、円澄(えんちょう)(772―837)、光定(こうじょう)らに次いで、名実ともに日本天台宗を大成した。著書には、『金剛頂経疏(こんごうちょうぎょうしょ)』7巻、『蘇悉地経疏(そしつじきょうしょ)』7巻、『顕揚大戒論(だいかいろん)』8巻、『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいぎょうき)』4巻などがある。

[池田魯參 2017年5月19日]

『本多綱祐編著『慈覚大師伝』(1962・天台宗教学部)』『福井康順編『慈覚大師研究』(1964・天台学会)』

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百科事典マイペディア 「円仁」の意味・わかりやすい解説

円仁【えんにん】

平安時代の僧。慈覚(じかく)大師。俗称壬生(みぶ)氏。下野(しもつけ)の人。15歳で比叡(ひえい)山に入り最澄(さいちょう)に師事。838年入唐(にっとう),武宗(ぶそう)の会昌(かいしょう)年中の廃仏にあい,847年帰国。《入唐求法(ぐほう)巡礼行記》を著す。天台第3代座主(ざす)となり,天台密教の振興に尽力。念仏,戒律に新見解を示した。著書《金剛頂経疏(こんごうちょうきょうしょ)》。
→関連項目安然延暦寺恐山坩満寺錦織寺華厳寺(中国)黒石寺篦峯寺最澄三仏寺三昧堂山門派・寺門派寺門若松寺声明神野寺瑞巌寺大山寺台密中尊寺天台座主天台寺天台宗東塔横川立石寺滝泉寺霊山城

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改訂新版 世界大百科事典 「円仁」の意味・わかりやすい解説

円仁 (えんにん)
生没年:794-864(延暦13-貞観6)

平安時代の天台宗の僧。延暦寺3代座主,山門派の祖。慈覚大師という。下野国都賀郡に生まれる。俗姓は壬生(みぶ)氏。9歳で大慈寺の広智の門に入り,15歳のとき808年(大同3)比叡山に登って最澄の弟子となる。29歳で師の示寂にあうが,それから十数年の間,比叡山にこもり勉学を続けた。835年(承和2)入唐請益(につとうしようやく)僧に選ばれ,838年遣唐使の船に乗って入唐する。840年(唐の開成5)五台山の聖跡を礼拝,志遠より天台宗義を受け,長安に入って大興善寺の元政から金剛界を,青竜寺(しようりようじ)の義真から胎蔵界および蘇悉地(そしつじ)の大法を授かる。845年(唐の会昌5)武宗の仏教弾圧にあい,外国僧追放令のため長安を去り,847年帰国。持ちかえったものは経典559巻,曼荼羅(まんだら)・舎利・法具類21種に及ぶ。旅行記《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》は在唐10年間の詳細な行状を記し,唐末の社会史や歴史地理の研究に資するところが多い。

 そもそも密教の事相(修法の儀軌)は金剛界・胎蔵界・蘇悉地の3部を大法とする。真言宗の空海は金剛界・胎蔵界の両部をうけたが,蘇悉地は未受であった。ところが円仁は蘇悉地をも相承したのであるから,天台宗密教(台密)の真言宗に対する劣等感はまったくなくなった。円仁は上洛後,朝廷に奏して毎年国家鎮護のため灌頂(かんぢよう)を行うことを請い,849年(嘉祥2)これを初めて延暦寺で修し,内供奉(ないぐぶ)十禅師に任ぜられた。翌年,文徳天皇が即位すると宝祚(ほうそ)を祈る道場として比叡山に総持院を建て,また天台宗の年分度者2人の増加を請い,彼のもたらした金剛界・蘇悉地の法をそれぞれ修学させた。こうして円仁は天台宗の密教化を推進し,積極的に天皇や貴族らに密教の祈禱を施して天台宗の教勢伸張に努力するのである。851年(仁寿1)に五台山の念仏三昧(ざんまい)の法を諸弟子に伝授し,初めて常行三昧を修したという。これが不断念仏に変えられて民間にも普及し,浄土教の発展につながった。854年(斉衡1)延暦寺座主に任ぜられ,このころより天皇・皇族や貴族に灌頂や授戒を行うことがしげくなり,〈都下に於て灌頂を蒙り戒を受くる男女一千二百七十一人〉と伝える。864年71歳で示寂。866年慈覚大師の諡号(しごう)を贈られる。著書は《金剛頂経疏》《蘇悉地経疏》《顕揚大戒論》など。
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朝日日本歴史人物事典 「円仁」の解説

円仁

没年:貞観6.1.14(864.2.24)
生年:延暦13(794)
平安初期の僧。天台宗山門派の祖。延暦寺第3世座主。世界史上でも特筆すべき在唐10年間の旅行記『入唐求法巡礼行記』の著者。下野国(栃木県)都賀郡出身で俗姓は壬生氏。幼少のとき,都賀郡大慈寺の高僧広智の弟子となり,その後比叡山に登り最澄の弟子として止観業を学んだ。弘仁4(813)年官試に及第,同5年得度し,同7年東大寺で具足戒を受けた。翌年最澄の東国巡錫に同行し,師から伝法灌頂と円頓菩薩大戒を受けた。最澄没後,12年間の比叡山籠山を始めたが,山内僧侶からの布教要請を固辞しきれず,天長5(828)年に中途下山し,東北地方ほか各地に布教した。同10年から身体の不調により横川に籠もった。承和2(835)年42歳のとき,天台山に赴き教学の疑問を解決するため短期留学の入唐請益僧に選ばれた。逆風のため2度の失敗を経て漸く同5年渡海に成功し遣唐使と共に揚州に上陸した。 しかし唐から天台山旅行の許可が下りず帰国を命じられた。翌年本意を遂げるために従僧2人,従者1人と共に禁を犯して残留し,新羅商人張宝高を頼って登州赤山法華院に入った。唐の開成5(840)年五台山への巡礼を行い,大華厳寺で志遠から天台宗義を学び,その後長安に入った。841年大興善寺元政から金剛界,青竜寺義真から胎蔵界と空海が未受であった蘇悉地を受け密教の大法を全て学んだ。会昌2(842)年から始まった武宗の仏教弾圧にあい,同5年には一時還俗を強いられながらも帰国の途につき,漸く新羅人らの援助をえて商船で承和14年に大宰府に到着した。このとき経典559巻,両部曼荼羅,舎利,法具などを持ち帰った。嘉祥2(849)年延暦寺での灌頂を始修し,内供奉十禅師となる。斉衡1(854)年天台座主。同3年文徳,清和天皇など1000人以上の人々に灌頂を授けた。没後,貞観8(866)年に慈覚大師を追諡された。著書は前述の旅行記の他,『顕揚大戒論』『金剛頂経疏』『蘇悉地羯羅経略疏』など100編を超える。<参考文献>『慈覚大師伝』,小野勝年『入唐求法巡礼行記の研究』,佐伯有清『円仁』

(勝浦令子)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「円仁」の解説

円仁
えんにん

794~864.1.14

慈覚(じかく)大師とも。平安前期の天台宗僧。俗姓壬生(みぶ)氏。下野国都賀(つが)郡生れ。はじめ関東で広智(こうち)につき,ついで広智にともなわれ比叡山に上り最澄(さいちょう)に師事。受戒後,最澄と東国巡行。また如法経の行儀を確立し比叡山に横川(よかわ)(首楞厳(しゅりょうごん)院)を開いた。838年(承和5)入唐。天台教観を学び,また揚州開元寺の全雅(ぜんが),長安大興善寺の元政(げんせい),青竜寺の義真(ぎしん)らから密教を受法。五台山に巡礼し,常行三昧(じょうぎょうざんまい)の基となる法照流念仏を学んだ。武宗の会昌(かいしょう)の廃仏(845)をきりぬけて847年帰国。天台教学を密教の一翼に位置づけ,真言宗に遅れをとっていた密教法門を確立。比叡山のおもな行業の多くを整備し,854年(斉衡元)第3世天台座主となる。著書「金剛頂経疏(こんごうちょうきょうしょ)」「顕揚(けんよう)大戒論」「入唐求法(にっとうぐほう)巡礼行記」。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「円仁」の意味・わかりやすい解説

円仁
えんにん

[生]延暦13(794).下野
[没]貞観6(864).1.14. 延暦寺
平安時代初期の僧。延暦寺第3世座主。天台宗山門派の祖。俗姓壬生氏。延暦 21 (802) 年大慈寺広智に入門。大同3 (808) 年比叡山に登り,最澄に止観を学ぶ。弘仁7 (816) 年東大寺で具足戒を受ける。承和5 (838) 年入唐,このとき遣唐使は藤原常嗣,同行者は円行,常暁らであった。中国各地で顕密両教を学び,経疏類 802巻などを得て同 14年帰国。『入唐求法巡礼行記』はその旅行記である。最澄の業績を発展させ,『顕揚大戒論』の著述,法華懺法の完成,常行三昧堂や法華総持院の建立,金剛頂,蘇悉地両業の制定などを行い,天台宗の密教化に影響を与えた。嘉祥1 (848) 年内供奉。仁寿4 (854) 年天台座主。死後,法印大和尚位を追贈。貞観8 (866) 年慈覚大師を追諡。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「円仁」の解説

円仁 えんにん

794-864 平安時代前期の僧。
延暦(えんりゃく)13年生まれ。天台宗山門派の祖。広智,のち最澄に師事。承和(じょうわ)5年45歳で唐(とう)(中国)にわたる。密教を中心にまなび,おおくの典籍をもって14年帰国。仁寿(にんじゅ)4年第3世天台座主(ざす)。根本道場として総持院をたて,天皇,貴族に灌頂・授戒をおこなうなど天台密教の確立につとめた。貞観(じょうがん)6年1月14日死去。71歳。下野(しもつけ)(栃木県)出身。俗姓は壬生(みぶ)。諡号(しごう)は慈覚大師。著作に「入唐求法(にっとうぐほう)巡礼行記」「顕揚大戒論」「金剛頂経疏」など。

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旺文社日本史事典 三訂版 「円仁」の解説

円仁
えんにん

794〜864
平安前期の天台僧。第3代天台座主 (ざす)
諡号 (しごう) は慈覚大師。下野 (しもつけ) (栃木県)の人。最澄 (さいちよう) に師事し,838年入唐。密教を学んで帰国し,台密を大成した。山門派の祖とされる。その著『入唐求法巡礼行記 (につとうぐほうじゆんれいこうき) 』は在唐中の日記。

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世界大百科事典(旧版)内の円仁の言及

【鶴林寺】より

…747年(天平19)の〈法隆寺伽藍縁起幷流記資財帳〉および761年(天平宝字5)の〈法隆寺縁起資財帳〉に当寺の創建に関連するとされる記述がある。その後,852年(仁寿2)円仁(えんにん)が諸堂を修理して,法相宗から天台宗に改宗,鳥羽天皇の勅願寺となって宸筆の〈鶴林寺〉の扁額(重文)を賜ったという。しかし,現存最古の堂である太子堂は,1112年(天永3)に法華堂として建立されており,当寺の創建は平安中期をさかのぼらないとする説が有力である。…

【三仏寺】より

…706年(慶雲3)役小角(えんのおづぬ)が白雲に乗って飛来し,神窟を開いてみずから建物を投げ入れたことが開基と伝える。849年(嘉祥2)慈覚大師円仁が再興して釈迦,阿弥陀,大日の3仏を安置し,〈浄土院美徳山三仏寺〉と号した。奥院(国宝)は山腹の岩窟内に建つ小規模な建築で,床下は長大な柱で支えられたいわゆる懸造をなしており,〈投入堂〉とも称される。…

【浄土教】より

…弥勒信仰は白鳳期を経て奈良時代前期にはかなり栄えたが,奈良時代後期には遅れて伝来した阿弥陀信仰の方が優勢を占めるようになる。つぎの平安時代初期に樹立された天台宗の教団内に阿弥陀信仰の浄土教がおこり,とくに円仁が入唐して五台山に巡礼し法照の五会念仏にもとづく念仏三昧法を移入し,ついで源信が《往生要集》を著して地獄と極楽の詳細を描き出してから,浄土教の全盛時代を迎えるにいたる。平安末期から鎌倉時代にかけて,ひとえに善導によると称した法然は,源信の教義をも受けて専修念仏を強調し,《選択本願念仏集》を著して浄土宗を開き,その弟子の親鸞は《教行信証》を著して絶対他力の信仰を鼓吹し,浄土真宗の祖となり,また一遍は全国を遊行して念仏をすすめ時宗の祖とされる。…

【浄土教美術】より

…その後,奈良後期には唐代浄土教の影響を受けて浄土変の制作が盛んになり,代表的観経変である綴織(つづれおり)の《当麻曼荼羅》が作られた。平安時代の初め中国よりもたらされた天台教学の中には,阿弥陀如来をめぐって行道する〈常行三昧〉という行法があり,天台第三祖円仁はこれに曲調のある五台山念仏を加味したので,天台宗の中に浄土信仰の色彩の強い不断念仏が栄えた。10世紀には空也によって庶民の間に浄土信仰が醸成される一方,貴族の間には不断念仏と法華経信仰の併修が流行する。…

【声明】より

… 平安朝には空海と最澄が804年(延暦23)に入唐し,真言,天台両宗をそれぞれ伝え,声明の新たな発展期に入る。空海は梵語讃などを数多く請来し真言声明の祖とされるが,天台声明では838年(承和5)に入唐した円仁を事実上の祖とし,両声明はそれぞれ京都の東寺,延暦寺を中心として発展する。真言声明は寛朝(かんちよう)により大成するが,その後分派対立し,平安末には4流派に整理統合され,その中の1流派が南山進(なんざんしん)流として高野山を中心に今日まで伝承されている。…

【請来目録】より

…円行(838‐839年在唐)は空海の弟子で,長安青竜寺等に赴き聖教123巻,仏舎利,付嘱物,仏像,曼荼羅,法具を得ている。円仁(838‐847年在唐)は長安,五台山,揚州の各地で求得した聖教類802巻,曼荼羅,図像,高僧像などを列記した総目録と,2種の揚州の目録を作成している。恵運(842‐847年在唐)は温州,五台山,長安に赴き220巻の経典(そのうち76巻は新請来)をもたらしている。…

【新羅坊】より

…彼らが集団で居住した新羅坊は,東シナ海沿岸地方の楚州,徐州,登州などにあり,いずれも中国大陸と朝鮮半島とを結ぶ水路の要地にあたる。なかでも登州付近の文登県赤山村のものは,日本の天台僧,慈覚大師円仁が唐への旅の途上滞在し(839,845),その旅行記《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》の詳しい記録によって知られる。当時,9世紀前半には国内の飢饉のため唐に流亡する新羅人も多く,また張保皋(ちようほこう)が東シナ海の海上権をにぎり貿易を独占して,その唐側の拠点の一つとして赤山がとりわけ繁栄した。…

【中尊寺】より

…山号は関山。寺伝によれば,850年(嘉祥3)円仁の開創で,859年(貞観1)に清和天皇より中尊寺の号を賜ったと伝えるが,資料を欠く。平安末期に藤原清衡が平泉に移り住み,諸堂宇の建立に着手した。…

【唐】より

…しかし,845年(会昌5)に断行された武宗による会昌の廃仏と,955年(顕徳2)の五代後周の世宗による廃仏で迫害をうけ,禅宗と浄土教を残して,ほかは衰えていくのである(三武一宗の法難)。仏教 たまたま会昌の廃仏に際会して還俗させられた日本からの入唐僧円仁は,旅行記《入唐求法(につとうぐほう)巡礼行記》のなかで,廃仏の実態を記録している。会昌の廃仏は仏教教団自体の腐敗堕落と国家財政上とに起因するとともに,さらには武宗の道教信仰による,道教教団側の策動が功を奏したからであった。…

【入唐求法巡礼行記】より

…平安時代の僧円仁(慈覚大師)らが入唐して中国各地を巡礼した旅行記。円仁撰。…

【立石寺】より

…俗に山寺(やまでら)と称される。860年(貞観2)慈覚大師円仁の開山と伝え,東北屈指の慈覚大師信仰と庶民信仰の霊山である。慈覚大師入滅の地は比叡山とされるが,当寺でも山頂南面の絶崖にある岩窟が大師の入定(にゆうじよう)窟とされている。…

【留学】より

…留学生のなかには,長安でなく揚州のあたりで勉学するものも多かった。 遣唐使が派遣されている期間には,留学生は遣唐使に従って渡唐したが,838年(承和5),最後の渡唐となった遣唐使に随行した円仁の後は,唐人の商船によって入唐する僧がたくさんあらわれた。円珍もその一人である。…

※「円仁」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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