百科事典マイペディア 「島津氏」の意味・わかりやすい解説
島津氏【しまづうじ】
→関連項目阿蘇氏|奄美大島|奄美諸島|伊作荘|伊集院[町]|上井覚兼日記|大隅国|沖永良部島|鹿児島藩|喜界島|九州征伐|国富荘|相良氏|薩摩国|佐土原[町]|島津国史|島津忠久|種子島時尭|中山世譜|徳之島|日置荘|日向国|耳川の戦|宮崎[県]|与論島|琉球|琉球使節|竜造寺氏
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鎌倉時代から江戸時代まで南九州を領有した有力な大名。惟宗姓。のち藤原姓から源姓を名のるに至る。系図では初代忠久を源頼朝庶子,惟宗広言養子とするが,近衛家家司惟宗氏の出で京都から鎌倉に移り頼朝より厚遇をうけたものであろう。1185年(文治1)島津荘下司となり,翌年地頭に補任され,97年(建久8)には薩摩・大隅両国の家人奉行人(守護)に任命された。日向国についても同様であったらしい。1203年(建仁3)比企氏の乱で三国の守護・地頭職を失ったが,薩摩分のみはまもなく回復した。初めその領国経営は酒匂(さかわ)・本田氏ら代官にゆだね,自身は鎌倉・京都にあって現地に下向することはほとんどなかったが,モンゴル襲来に伴い,75年(建治1)久経の箱崎駐在にはじまり,忠宗・貞久と任地に在住している。貞久代は鎌倉幕府の滅亡,南北朝の対立抗争の時代で,自身足利尊氏に属して上京,武功をたて,一時日向・大隅両国守護職も復したが,日向国は再び畠山・細川氏らの手に移っている。貞久ははじめ薩摩郡川内(せんだい)碇山(いかりやま)城に拠り,薩隅の南党勢力と戦い,やがて薩摩の経営を師久に,大隅の経営を氏久(鹿児島東福寺城による)にゆだねた。両者はそのまま総州家(上総介の官名による),奥州家(陸奥守の官名による)の祖となり,南北朝の争乱期には両家はおおむね共同行動をとっていたが,元久の代に伊久と不和になり,元久(鹿児島清水城による)は3国の守護職を併せるに至った。久豊の代には実力で総州家を圧服。以後歴代三州太守として琉球・朝鮮・中国の貿易にも関与,領国経営に当たった。
しかし国一揆や一族の反乱に苦しみ,忠昌代には碩学桂庵玄樹を招致するなど文運の隆盛をみたが,一方では肝付氏らの攻勢を押さえ切れず,忠昌は1508年(永正5)自殺するなど,国内の統治は意のごとく進まなかった。その子忠治・忠隆・勝久3代は戦国時代で一族の薩州家や相州(伊作)家が台頭,後者の忠良(日新)の活躍で,その子貴久は国外に退去した勝久の跡を継承,三州太守となった。50年(天文19)貴久は伊集院から移って鹿児島内城に居を定め,菱刈・相良氏を討つなど積極的に三州統一を推進し,その子義久・義弘代には進んで伊東・大友氏らを追って九州一円に勢力範囲を拡大した。しかし87年(天正15)豊臣秀吉の九州進攻の前に義久は屈服,薩摩・大隅・日向諸県郡などの領地を安堵された。義弘は朝鮮出兵にも武功をたて,その間義久は文禄年間(1592-96)の太閤検地を機に寺社領の整理,国内家臣団の領地の入換えなどを行って支配体制を確立した。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦で義弘のみ西軍に属したが,義久・家久は動かず巧みな外交交渉で領国を保全した。家久は鹿児島(鶴丸)城を築営,一族の統制を強化,外城制を整備して強固な封建支配体制を確立,以後明治維新に至るまで西南雄藩たる薩摩藩主として勢威を誇った。この時代,島津氏からは政治・文化史上,重豪・斉彬など著名な藩主を多く輩出している。維新後,公爵。
→薩摩藩
執筆者:五味 克夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
中世~近世南九州の大名家。本姓惟宗(これむね)氏。始祖忠久は近衛家の家司(けいし)出身で,源頼朝の御家人となり,島津荘惣地頭職に任じられた。のち薩摩・大隅・日向3国の守護。3代久経のとき,元寇に備え九州に下る。鎌倉幕府滅亡の際,少弐(しょうに)・大友両氏らと鎮西探題を討った。南北朝内乱期は武家方に属し,南朝方と戦う。室町時代は内紛が続いたが,戦国期に貴久が出てこれを鎮め,薩摩・大隅を統一して戦国大名となる。子義久は北九州に進出したが,1587年(天正15)豊臣秀吉に敗れ,弟義弘が家督として本領3国を安堵される。義弘は文禄・慶長の役に軍功をたてるが,関ケ原の戦では西軍に属し,敗戦後蟄居。子家久が鹿児島藩72万9000石余の初代藩主となる。分家も多い。維新後,宗家は公爵。「島津家文書」を伝える。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
… 薩摩口は琉球国と交際する口であったが,琉球は国家公権を持つ独立国でありながら,近世国家の異域の位置にあった。明・清国への朝貢国であったが,石高制の貫徹,薩摩藩士の常駐,キリシタン禁制,薩摩藩への貢納義務などは,幕府と大名島津氏の支配を示す側面であった。北の松前口からは松前氏が蝦夷地のアイヌ人社会に対して産物や労働力を編成したが,その関係は異域に対するものであった。…
…島津荘は一円荘として深河院,財部院,多禰島があり,半不輸領(寄郡)として横河院,菱刈郡,串良院,鹿屋院,肝付郡,禰寝北俣,下大隅郡などがあった。地頭は島津荘が守護島津忠久,正八幡宮領は中原親能であったが,島津氏は1203年(建仁3)比企氏の乱の縁座で守護職とともに同職を失い,以後北条(名越)氏が鎌倉期を通じて所有した(守護職は一時千葉氏が所持)。正八幡宮領は領家の反対で地頭職が縮小され,やがてほとんど廃止された。…
…1587年(天正15)豊臣秀吉が薩摩島津氏の服属を主目的に九州統一をするため,みずから行った戦役。島津氏は1578年大友氏を下して以降,その勢力を肥後,肥前,筑後に及ぼし九州を手中にする勢力に拡大した。…
…しかし南北朝時代以降一族は逐次南俣禰寝氏の支配下に属す。(2)島津氏族。島津氏4代忠宗の3子忠光は父から佐多を分与されたとし,その子忠直が佐多に進出,城を構え佐多氏を称した。…
…その他大宰府領阿多郡にははじめ駿河国の鮫島氏が,のちその北方には相模国より二階堂氏が地頭に任命され下向土着した。島津氏も1203年(建仁3)比企氏の乱の縁坐で一時守護,地頭職を改易されたが,まもなく回復し,3代久経の代,75年(建治1)異国警固のため九州に下向して以来,忠宗,貞久と任国に土着して領内の経営に当たるようになった。かくして在来の在庁官人,郡司ら在国御家人との間で在地領主権をめぐり激しい対立を生じ,争論が頻発することになり(谷山郡山田村地頭と郡司との係争は著名),また一族内でも惣領・庶子間の争いが激化した。…
…1185年(文治1)より1755年(宝暦5)までの島津氏を中心にした薩摩・大隅・日向3国の編年史。漢文体。…
…探題の下には,裁判裁決の迅速・公正をはかるために裁判事務を行う評定衆,引付(ひきつけ)衆,引付奉行人などの職員が置かれ,その機構は1300年(正安2)7月ごろ急速に整備された。評定衆は北条氏一族,武藤氏,大友氏,島津氏のような守護級の御家人(ごけにん),渋谷氏,戸次(べつき)氏,安芸氏などそれに準ずる有力御家人,関東系の法律専門家によって構成され,その大部分が引付衆を兼任した。引付衆,引付奉行人は三番に分かれ,おのおの10人前後の職員がいた。…
…田部姓土持(つちもち)氏はその縁族として台頭し,中部から北部にかけて勢威を張った。
【中世】
[守護と在地武士]
鎌倉幕府は島津荘惣地頭島津忠久を日向国守護職に補任したが,島津氏は比企氏の乱により守護・地頭両職とも改易され,代わって北条氏が相伝した。1333年(元弘3)幕府滅亡時の惣地頭は執権守時であった。…
…江戸時代に琉球国王が襲封,将軍の代替りに際し,江戸に派遣した使節。1634年(寛永11)薩摩島津氏が琉球国王に徳川将軍の代替りを祝う慶賀使を派遣させたのに始まる。同年琉球が中国との朝貢・冊封関係を維持しつつ島津氏の知行に加増され,日本の幕藩体制への組入れが決定したのにともなう服属儀礼である。…
…1609年(慶長14)薩摩の島津氏が樺山久高を将とする3000余名の軍勢を派遣して琉球を侵略した事件。島津侵入事件ともいう。…
※「島津氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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